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ゆっくりと、リオネルは長剣を構えなおす。そして、紫色の双眸を眇めてザシャを睨んだ。
リオネルは無言である。
無言だが、ザシャを見据える冷酷なほどの眼差しが、言葉以上のものを語っていた。
「早く自国に戻ればよかったものを。残念だが、おまえの命はここで終わりだ、リオネル・ベルリオーズ」
「やれるものなら、やってみればいい」
リオネルの返答を得て、ザシャが先んじて斬りかかる。両者の刀身がぶつかりあい、薄暗い部屋に眩い火花が散った。
すさまじい衝撃である。
剣が折れるか、もしくはそれを握る手や腕が折れないことが、不思議なくらいだ。
力ずくで互いに剣を押し返すと、二人は同時に後方へ退く。それから態勢を整え、再び剣を撃ち合わせた。
頭の奥にまで鳴り響くような音を立てて、二本の剣が幾度も撃ち交わされる。そのたびに生じる火花によって、室内には雷光が差し込んだかのように眩しくなった。
二人が激しい争いを繰り広げているそばでは、ベルトラン、ディルク、マチアス、レオン、そしてジークベルトが他の敵と対峙している。ザシャが抜きんでた強敵であることは明らかだが、他の者もけっして容易い敵ばかりではない。
光も入らぬ狭い部屋で、幾つもの剣が交わりあった。
片手にアベルを抱きながらも、ベルトランは容赦なく相手を倒していく。
仲間を攫われ傷つけられたディルクやマチアスの怒りも相当なもので、二人の冴えわたった剣はわずかな隙も見せずに敵の意識を奪い、ジークベルトもまた左腕を負傷しているとは思えぬ力を発揮した。
そのような状況だから、勝敗の行方が見えてくるまでに時間はかからない。絶えず生じる火花が、シャルム側の優勢と、ユスター側の劣勢を照らしはじめた。
シャルムの騎士らは、敵の命ではなく意識のみを奪い、さらに、レオンやアベルを拘束するために用意されていた縄で、倒した相手を縛り上げていく。その際、自死せぬよう口にも縄を咥えさせた。
彼らを死なせるわけにはいかない。
シャルムの使節に対して暴挙に出たのが、ユスターの使節であることを証明しなければならないからだ。そうでなければ、ローブルグ側に訴えることもできないし、ユスターに抗議することもできない。
さらにユスターの使節以外の者がここに混じっているとすれば、それはシュトライト公爵の配下であるかもしれない。となれば今回の一件に、シュトライト公爵が関わっているという事実も同時に明るみにすることができる。
敵のほとんどを捕らえ終えたとき、ようやくリオネルとザシャの戦いにも決着の兆しが見えてきた。いや、それに気づいていたのはベルトランだけだったかもしれない。
両者の技量は、一見まったく拮抗しているようだったからだ。
勝敗が見えぬ戦いに焦れたディルクが、リオネルを助けようと一歩足を踏み出すが、それをベルトランが引き止める。
ディルクは眉根を寄せてベルトランを見返した。
「リオネルは片腕だ。怪我でもしたら――」
「大丈夫だ。リオネルは自分の手で、アベルとレオンに危害を加えられた返礼をしなければ気がすまないだろう……戦わせてやってくれ」
ベルトランは片手に抱える少女をちらと見やる。
このような状態になっても、アベルは意識を手放さず、ベルトランの肩に頬を預けながら気がかりげに戦いの行方を見守っていた。
手に触れるアベルの肩が、薄い。
どのような扱いを受けていのか、もともと華奢な身体はさらに痩せ、少しでも力を加えたら折れてしまいそうなほど頼りない。
「おれが仇をとりたいくらいだが」
小さくつぶやいたベルトランの声に、ディルクはうなずいた。気持ちは充分以上に理解できる。
二人のそばに、敵兵を片付け終えたマチアスが駆け寄る。
「アベル殿をお預かりいたします」
そう言ってマチアスはベルトランの腕からアベルを引きとり、扉口近くの壁にもたれかけさせた。マチアスの目的はわかっている。
ベルトランとディルクはいざというときのためにリオネルの戦いを見守り、マチアスとジークベルト、そしてレオンはアベルのそばへ集まった。
「マチアスさん……ジークベルトも、どうして」
黄金色の髪のローブルグ騎士を見て、アベルは浅い息遣いのなかで尋ねる。
「ずっときみを心配していたんだ。どうしてこんなことに」
心からアベルを案じているらしいジークベルトの台詞を聞きながら、マチアスは手を休めずに布を千切り、アベルの怪我の止血にあたっている。
「すみません、多くの方に迷惑を……」
「迷惑なんかじゃない。ああ、二か所も負傷したのか」
身じろぎしたアベルを、マチアスがやんわりと押しとどめる。
「動かないでください。傷は深くありませんが、弱った身体では甘くみることはできません」
「悪かったな、おれが足手まといになったせいで」
眉を下げるレオンに、アベルはかすかに首を横に振ってみせてから、視線を部屋の中央へ向けた。そこでは、いつ終わるとも知れぬリオネルとザシャの戦いが続いている。
「大丈夫ですよ」
不安げなアベルの表情を見やって、マチアスが落ち着いた口調で言う。
「リオネル様が負けるはずがありません。貴女は、ご自分の身体のことだけを考えていてください」
ザシャの容赦ない攻撃が、リオネルを一歩、二歩と後退させる。
とてもではないが、落ち着いてなどいられない。
知らず震えるアベルの手を、いつのまにかジークベルトが握りしめていたが、そのことさえアベルは気づかなかった。むろんマチアスは気づいてジークベルトを一瞥する。
戦いは一見、ザシャの優位であるように思われた。
ザシャにとっては完全に敵に囲まれた状態でありながら、その攻勢は凄まじい。片腕しか動かせぬリオネルを激しく攻め立てていた。
止めとばかりに、リオネルの頭上に攻撃を仕掛けたとき、さすがにディルクは慌てて剣の柄に手をかける。けれど、やはりベルトランがその手を止めた。
抗議する視線に、「見ていろ」とベルトランが告げると、次の瞬間、リオネルがすっと身をかがめて相手の剣に空を斬らせ、その隙に自らの長剣をひらめかせた。
リオネルの剣が裂いたのは、相手の左脚――。
返す刀でザシャの右肩を裂く。
ザシャの口からうめき声が漏れるとともに、痙攣する右手から剣が滑り落ちた。
石の床に、剣のぶつかる金属音が響きわたる。
脚と腕を同時に傷つけられたザシャは、なおも抵抗しようと左手で剣を拾いあげようと動いたが、リオネルは相手の行動を見逃さず蹴りを見舞った。
鳩尾を蹴り上げられたザシャは歯を食いしばり、憎しみのこもった眼差しでリオネルを睨み上げる。が、言葉は発せられない。
「おまえを殺してやりたいところだが――」
リオネルは平らな声で告げた。最後までリオネルが台詞を言いきるまえに、ついにザシャの意識は途切れ、地面に倒れ伏す。
シャルムとユスターの長い攻防戦に、決着のついた瞬間だった。
「ああ、リオネル」
ディルクが大きく溜息をつく。安堵のため息だ。
親友に軽く視線を返してから、リオネルは長剣を鞘に収めるとすぐにアベルのもとへ走り寄った。
壁にもたれかかるアベルの傍らに膝をつく。ジークベルトがアベルの手を握っていることに気づいていたが、リオネルはなにも言わなかった。
深い紫色の瞳にのぞき込まれたアベルは、笑ってみせようとして、笑うことができない。
「リオネル様……」
代わりに小さな声でリオネルの名を呼んだ。
安堵が――言葉にできぬ思いが、胸を湿らせる。
囚われていたあいだは、あの状態から果たして抜けだせるのだろうかという底知れない恐怖があった。
けれど、暗く長い迷宮にも必ず出口がある。いつもその出口の扉で待っていてくれるのは、リオネルと、ここにいる仲間たちなのだ。
「怪我の具合は」
素早くリオネルはマチアスに尋ねる。マチアスは、アベルの傷がさほどひどいものではないことを伝えた。
小さく安堵の吐息をもらすと、リオネルはアベルの姿に目を細める。
喧嘩別れをしてから、何日経つのだろう。
「ごめんなさい……レオン殿下を危険な目に遭わせ……」
アベルはリオネルに謝罪した。謝罪すべきことは、ほかにもあったかもしれない。けれど、真っ先にアベルの頭に浮かんだのはレオンのことだった。
リオネルは軽く眉を寄せただけで無言である。
代わりに、レオンの消沈した声が響いた。
「詫びなければならないのは、おれのほうだ。おれがアベルを巻き込んだのだ。アベルはこのような目に遭っても、おれを守ろうとしてくれた」
リオネルはレオンをちらと見やってから、再びアベルへ視線を戻す。彼の右手がアベルへ伸びる。アベルの頬にそっと手のひらを添えて、リオネルは溜息をついた。
触れあう肌の温度が、互いの無事を伝えている。
苦難の末に再会できたというのに、想いは言葉にならなかった。
「こんな状態でレオンを守ろうとしたのか」
ようやく発せられたリオネルのひと言。
怒っているのだろうか、呆れているのだろうか、それとも心配してくれているのだろうか。
リオネルの声が、心地いい。
どんな言葉でもいいから、聞いていたかった。
けれどリオネルは手を離すと、ベルトランに目配せする。
すでにザシャを縛り終えていたベルトランは、主人の視線に答えてうなずき、リオネルと入れ替わるようにアベルのそばにしゃがみこむ。それから、アベルの背中と膝の下に手をまわし抱え上げた。
片腕の使えないリオネルに代わって、アベルを安全な場所へ運ぶのだ。
この時点で、ジークベルトとアベルの手は離れることになったが、ジークベルトは気にする様子もなく告げた。
「エーヴェルバインで一番腕のいい医者を呼ぼう。ぼくは先に行って準備を整えるから」
「私もお手伝いします」
ジークベルトと共に、先だって部屋を出たのはマチアスだ。
ベルトランに抱きかかえられたアベルはリオネルの姿を見失い、咄嗟に紫色の瞳を探す。けれど、慌てるまでもなくリオネルはベルトランのすぐ横にいた。
視線に気づき、見つめ返してくる眼差しが、強く、優しい。
――リオネルがいる。
二年前に出会ってから、今の一瞬まで変わらぬその眼差し。
ようやくここへ戻ることができた。
長い、長い夢を見ていたような気がする。リオネルに見守られている安堵のなかで、アベルは意識を手放した。