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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第五部 ~敵国の都は、夏の雨にけぶる~
307/513

45







 硬くて冷たい床――。

 地面に直接触れている個所が、痛みを訴えている。縛られ動かすことができないために、手足の関節は軋み、定期的に痺れに襲われた。


 ここに閉じこめられて、いったいどれくらい経つのだろう。

 まだ数時間くらいだろうか。それとも、すでに一週間くらい経ったのだろうか。

 過酷な状況のなかでは、一週間以上経っているようにも感じられる。外界の光のまったく入らないこの場所において、アベルは完全に時間の感覚を失っていた。


 そのあいだ、レオンからこっそりもらったパン以外には、食事も、水さえも口にしていない。空腹感はさほど感じなくなったが、喉の渇きがひどく、鳴り響くような頭痛がした。


 右手には、しっかりと肉の塊を握りしめている。

 歯も立たぬような、硬い肉だ。

 空腹ゆえに力の入らない指先を叱咤しながら、アベルは絶えず肉片を小刻みに動かしつづけていた。

 なにかをしていなければ、意識は遠のきそうになる。

 意識を手放せば、あの優しい主人や、その仲間たちと過ごす時間、エレンと遊ぶイシャスの姿、そして、かつてデュノア邸で過ごした幼いころなどの夢を見るのだ。普段は怖い夢を見ることが多いのに、不思議とこのような場所では幸せな夢を見る。


 そのことがアベルは怖かった。

 いつか、夢から覚めなくなるときがくるような気がする。

 だから必死で意識を保とうとしていた。


 気弱になりそうになるアベルにとり、最大の心の支えは、すぐそばにいるレオンの存在だ。

 レオンは食事もしっかりとっていて元気そうだ。定期的にアベルに声をかけては、「大丈夫だぞ」「ディルクのやつ、いったいなにをしているんだ」「リオネルはきっと必死で探しているからな」と励まし続けてくれる。


 けれどなによりアベルの意識を明瞭にしたのは、レオンの言葉それ自体ではなく、レオンをここから救い出さなければという強い責任感だった。

 シャルムの王子で、リオネルの従兄弟であるレオンを、ここから解放しなければ――。

 使命感が、アベルにとって強力な命綱になっていた。


 小刻みに動かしていた肉片が、ふと触れるものを失う。


 ――やった……!


 ついにこのときがきたことをアベルは悟った。

 あとは時機を見計らうのみ。

 息をひそめて、アベルはそのときが来るのを待つ。


 定期的に声をかけてアベルの安否を確かめるレオンの問いにも、アベルは答えなくなった。


「アベル、大丈夫か?」


 返事がないので、レオンの声が不安げに揺れる。


「苦しいのか?」


 アベルは目を閉ざしたまま、身動きしなかった。


「アベル?」


 レオンの声に焦燥感が滲みはじめる。


「アベル! アベル、アベル――」


 ついにレオンは大声を上げて監視者を呼んだ。


「おい、だれか! アベルの反応がない。早く来い! もしおまえら、アベルを死なせたら、シャルム正規軍とベルリオーズ家の騎士団を一挙に率いて、ユスターに攻め入り王都を征服してやるからな!」


 レオンの騒ぎ立てる声を聞いて、うるさそうに部屋の奥から二人の男が現れる。


「たかが子供ひとりのことだろう?」


 なにをそんなに騒ぎたてる必要があるのだと言いたげな監視者らに、「早くしろ」とレオンは命令した。本来なら命令できる立場ではないが、そこは腐っても鯛――拘束されていても王子である。

 仕方なさそうに、囚人の生死を確認するために、片方の男が足先でアベルの上体を軽く蹴りつけた。


「おい、もっと丁寧に接しろ!」


 小うるさいシャルムの王子を無視して、監視者はアベルの様子を観察する。

 蹴られたアベルの身体は軽々と転がり、再び地面に伏した。


「本当に死んだのか?」


 蹴りつけた男ではないほうが、首を傾げてアベルに近づく。それからアベルの口元に指をかざして、なにかを確かめようとする。レオンはその光景を、固唾を呑んで見守っていた。


「息をしていないぞ」


 監視者が低い声でつぶやく。


「嘘を言うな!」


 叫んだのはレオンだったが、答える声はない。


「ようやく死んだか」

「もとから痩せていたから、そろそろだと思っていたけどな」

「貴様ら、馬鹿なことを言うな! アベルが死ぬわけがない。早くその縄をほどいて、介抱しろ。さもないと、おまえらの皮を剥いで天日干しにしてやる!」


 わめくレオンを振り返りもせず、二人の監視者は話しあっていた。


「死んだとなれば、腐りはじめるまえに捨てないとならない」

「ああ、腐臭はたまらないからな」

「子供のほうは、ルステ川に流すようにとのおおせだ。収穫の献納を終えた荷台に乗せて、ここから出そう」

「だが、約束のときまでには、まだ一日ある」


 二人は苦い面持ちで顔を見合わせる。


「ザシャ様に報告して、鉄の箱にでも入れておくか」

「念のため脈をとってからにしよう」


 片方が頸動脈に触れようとして、アベルの首に手を近づけたときだった。


 ――シュッと鋭い音がして、白いものが闇を横切る。

 直後に男の喉から悲鳴が上がった。


 アベルの細い腕が動き、男の手になにかを突き刺したのだ。アベルの右手に握られていたのは小さな黒い塊。刃物のように硬くなった肉片だった。


「こいつ……!」


 もう一方の男が剣を抜き放つまでの間に、アベルは負傷させた男の懐から長剣を抜きとり、自らの足を縛る縄を断ち切る。自由になるや否やアベルは後方へ飛び退くが、振り下ろされた敵の剣はアベルの右脚の腿をわずかに裂く。

 片膝を床について、アベルは脚を押さえた。

 だが、些末な痛みなどにかかずらっている場合ではなかった。


「だれか来い! 子供が暴れている」


 仲間を呼びながら、男はアベルに攻撃を繰り出す。アベルは素早く立ちあがり、握る長剣で相手の攻撃を受け止めた。


「アベル、おれのことはいいから逃げろ!」


 レオンが叫ぶ。


「あんなに弱っていたのは演技だったのか、このやろうッ」


 男は忌々しげに吐き捨てる。

 アベルは無言で相手の攻撃を弾き返した。

 動けなかったのはけっして演技ではない。体力はすでに限界近くに達している。

 けれど、ここからレオンを助け出し、リオネルのもとへ戻るとアベルは決意した。その決意がアベルに最後の力を振るい立たせる。


 自分を置いて逃げろと叫ぶレオンのもとへアベルは駈け寄り、その腕を拘束する縄を長剣で断ち切る。さらにアベルが足の縄を切ろうとしたその瞬間、敵は背後から得物を振り下ろした。


「避けろ、アベル!」


 悲鳴にも近いレオンの声を聞いて、アベルは身を逸らす。が、わずかに間に合わない。

 敵の剣先は、アベルの脇腹を裂いていた。腹部を押さえたアベルの手に、じわりと温かい血液が付着する。

 けれど、痛みは不思議と感じなかった。怪我は軽い。むしろ、喉の渇きのほうが切実だ。空腹で意識が飛びそうになる。


 力が入らず震える手でなんとかレオンの足の縄を絶ち切り、剣を握りなおした。

 気を失えば最後だ。

 戦わなければ――。


「アベル、無茶だ。動くな」


 レオンが苦い声で忠告したそのとき、騒ぎを聞きつけた監視者が駆けつける。


「何事だ!」


 ようやく拘束から解かれたレオンは、いっせいに剣を鞘走らせる敵の姿に舌打ちした。

 それからレオンは、無謀にも丸腰のまま、アベルを傷つけた男の懐に飛び込み、渾身のひと蹴りを見舞う。たちまち気を失って倒れていく男の手から長剣を奪い、アベルを後ろ手にかばった。


「王子殿下、その者の命は救ってさしあげますので、どうか剣を足元へお捨てください」


 敵衆のひとりがゆっくりと近づきながら手を差し出す。

 アベルの命を救う代わりに、今すぐ降伏せよという要求だった。


「おまえらの言葉など信用するものか」


 長剣を構えてレオンは敵を睨みつける。


「私たちから剣をとり上げ、アベルを治すと言いながら二人とも殺す気だろう。この嘘つきの卑劣漢め」

「……では、力づくで剣を奪わせていただきましょう」


 低い声でつぶやいたのは、他の者から遅れて現れたザシャだった。

 ザシャを含め複数の男たちがレオンとアベルを取り囲む。

 この男こそが、二日前にアベルを倒した相手だ。レオンはぎりと奥歯を噛む。アベルはザシャの顔を認識して、レオンの前へ出ようとした。


「アベル、動くな」


 怪我を心配するレオンへ、アベルはかすれた声で答える。


「こんなの平気です」


 声がかすれているのは、喉が渇いているせいだ。怪我はたいしたことない。右脚も、脇腹も、こんなものはかすり傷だ。

 それなのに眩暈がするのは、衰弱しているせいだろう。


「やれ」


 ザシャの一言で、敵はいっせいに二人に襲いかかる。

 狭い部屋に金属音が響きわたった。

 とっくに限界を超えている身体に鞭打つように、アベルはもはや残された本能にも似た感覚だけで敵と剣を交える。レオンはというと、ザシャの強烈な一撃を全身の力をもって跳ね返した。


「なんて馬鹿力だ……!」


 腕を押さえながら、レオンが吐き捨てる。

 これだけの力で攻撃されたら、いくら鍛錬を積んだ剣士であっても、技量だけでは太刀打ちできない。


 間髪を置かずに、ザシャの攻撃がレオンを襲う。レオンは飛び退いて攻撃を避けた。この馬鹿力に正面から立ち向かっていては、いずれこちらが先に消耗しきってしまう。

 ちらとレオンが横を向くと、アベルはおぼつかない足取りながらも敵と戦いを繰り広げているところだった。


 レオンの視線に気づいたアベルだが、すでに限界を超えた状態であるから、見返す余裕もない。

 ――と。


「レオン殿下……!」


 アベルが驚きの声をあげたのは、突然レオンがアベルの身体を抱え上げたからである。


「逃げるぞ、アベル!」


 そう言い放つと、アベルの身体を抱えたままレオンは扉口へ向けて走り出した。


「こういうときは、逃げるが勝ちだ!」

「逃がすな!」


 ザシャが叫び、背後から追いすがって剣をひらめかせる。咄嗟に振り返って、レオンはそれを受け止めた。腕にしびれが走ったのか、レオンは顔を顰める。


 逃げ切ることは不可能だ。このままでは、二人とも助からない。

 ――ならば。


 アベルは、前にも後ろへも進めずにいるレオンの腕から離れ、自らの足で地面に降り立つ。執拗にレオンを捕らえようとするザシャに、アベルは立ち向かった。


 アベルはザシャに向けて剣を薙ぎ払う。この男を倒さないことには、けっしてここから逃れることはできない。

 せめてレオンだけでも――。


「レオン殿下、どうかお逃げください……っ」


 だがアベルの攻撃は跳ね返され、たちまちザシャは反撃に転じた。斬撃がアベルの頭上に襲いかかる。

 レオンが両者の間に身を滑りこませて、ザシャの攻撃を刀身で受けた。


 剣を握るレオンの両手が、細かく震える。相手の力に、どれだけレオンが耐えられるか。

 最後の力をふりしぼってアベルがザシャに斬りかかろうとしたその時、突然ザシャがレオンへの攻撃をやめて、身をひるがえす。


 次の瞬間、ザシャの足元に銀色の光が飛び来たった。

 抜き身の短剣である。

 ザシャは、何者かの攻撃を寸でのところで避けたのだ。


 攻撃を仕掛けたのは、むろんアベルでもレオンでもない。

 皆がいっせいに扉のほうへ視線を向けると、そこにはいくつかの影。


 目を細めれば明瞭になるその姿をまえに、アベルとレオンは声もなく双眸を見開き、ザシャは激しく舌打ちした。


 射るような深い紫色の瞳が、暗いなかでも見てとれた。


「……リオネル!」


 レオンが驚嘆の声を発する。

 扉口にいたのは、リオネルと腹心のベルトラン、ディルクとマチアス、そしてローブルグ人騎士ジークベルトだった。


「レオン、無事か」


 さっとレオンの身体を一瞥して怪我がないことを確認すると、次にリオネルは家臣である少女へ視線を移す。

 レオンのすぐそばで剣を握るアベルは、蒼白な顔でようやく立っている状態だ。けれど、リオネルの視線を受けて、緊張感のなかにも、かすかな安堵の色をたたえる。


 リオネルたちが来たからには、もう心配はいらない。レオンは助かるだろう。これでアベルの役目は終わったのだ。


 頼りなく立つアベルに、リオネルが駆け寄る。

 以前よりも細く軽くなった身体を一瞬のうちに右腕で抱擁し、リオネルはわずかに目を細めた。それから無言でアベルをベルトランへ預けると、リオネルは決意を秘めた眼差しで敵を見据える。


 アベルはベルトランの腕にしっかりと抱えられ、身体から力を抜いた。戦う力など残されていない。

 ベルトランの逞しい肩に体重を預け、アベルは大きく息を吐きだした。








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