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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第五部 ~敵国の都は、夏の雨にけぶる~
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第三章 交渉のゆくえと、めいめい恋のゆくえ  41






 幾度か目を覚ましたものの、すぐに意識は遠のく。

 その繰り返しが続いていた。


 いったい幾度意識を失ったか、いったいどれくらいの時間が経ったのか、すでにまったくわからなくなっている。

 縄で拘束され、硬い床に転がされながら、アベルは必死に現実感を手繰り寄せようとしていた。


 この部屋で、最初にザシャに頬を張られて気を失い、再び目覚めたときには、ザシャの配下の者から小突きまわされた。だがレオンが椅子に縛られながら、「アベルに暴力を振るったら、未来永劫、三美神に祟られるぞ」とか、「これ以上やったら、シャルム王宮の門前に吊るして干物にしてやる」などと言って暴れるため、監視者らは困惑し、ついにはアベルにかまうのをやめた。


 レオンの口にする言葉を、まさか信じたわけではないだろう。けれど、他国の王子とはいえ、王族に脅されれば、なにか真実味を感じてしまうのが凡々たる平民というものだ。


 それになにより彼らが懸念したのは、レオンが暴れて彼自身が怪我を負うことだった。

 モーリッツとザシャ、そして直属の主からは、レオン王子については傷つけてはならないと言い渡されている。アベルには何らかの報復を与えなければならないが、レオンには暴れられて、思わぬ怪我でもされたら大目玉を食らうことになる。


 かくして、彼らは別の手段に出た。

 暴行を加えずに、相手を弱らせ死に至らしめる方法――。


 今、アベルの目前には、食事の乗った皿がほぼ手つかずのまま置かれていた。

 彼らはアベルを餓死させようという気であるようだ。皿のなかには、とても人間の口では噛み切れない、石か刃物のごとく硬く乾燥した肉と、雑草ではないかとも思われるような、見たこともない草葉が乗っているのだった。


 それでもアベルは空腹を満たすため、得体のしれない草葉を一度は口に運んだ。

 植物特有の匂いがきつく、また、噛みしめるごとに苦みが増して、とても食べられたものではない。アベルは葉を吐きだし、それ以上食べることはなかった。


 疲労と痛みと空腹から、アベルの意識は朦朧としている。目覚めてもしばらくは、自分がどこにいるのかさえ思い出せなかった。

 けれど、極限の状態がある程度続けば、どうしても思い浮かぶ存在がある。

 ――仲間のことだった。


 自分たちがいなくなったことで、リオネルらは心を砕いて探していることだろう。自分が至らなかったばかりに、レオンを守ることができなかった――アベルはそのことが無念でならない。

 そもそもリオネルと喧嘩などしなければ……。

 どこまで時間を遡ればいいのかわからない。

 後悔はあとからあとから押しよせてくる。


 今回のことでリオネルは怒っているだろうかと、アベルは深い紫色の瞳を思い浮かべる。

 あのような形で宿を飛び出していったのだ。再会したとき、リオネルからは雷のような叱りをうけるだろうか、それとも怒りを通り越して呆れ返られるだろうか。


 そもそも、再会するときは訪れるのだろうか……。


 アベルはほぼ丸一日、なにも口にしていなかった。食事だけではなく、水分も与えられていない。きつく手足を拘束された身体が悲鳴を上げている。あと何日この状態に耐えることができるだろう。

 そう思えば、喧嘩別れしたはずの主人のことが、ひどく懐かしく感じられた。

 叱られてもいい。

 呆れられてもかまわないから、ひと目会いたいと思う。


 ああ、そうなのだ。

 結局、自分はリオネルのことが大好きなのだと、アベルは思い至る。


 このような状況に置かれてみれば、やはり最後にアベルの瞼を熱くするのはリオネルの存在だった。

 いつだって思い出されるのは、リオネルの深い紫色の双眸だ。

 アベルを見つめるときの、彼の瞳。

 およそ二年前、絶望のどん底から拾いあげてくれたのは、強く優しいあの瞳と、そして、差し伸べられた彼の温かい手である。

 彼がいたからこそ、今のアベルがある。イシャスも共に救ってくれた、その大きな両手。


 そして、自らにひたひたと忍び寄る死を感じるとき、アベルはふと思う。

 ――あの人を、置いていってはいけない。


 幾度もリオネルから、いなくならないでほしいと懇願された。狼に襲われたあと、高熱に浮かされながらもリオネルはアベルを引き止めた。

 リオネルは仲間として自分を大切にしてくれ、失うことを恐れていてくれているのだと、アベルは感じている。

 なにも持たぬ自分を、リオネルは大事に思っていてくれている。

 そのような主人のことを思えば、アベルはけっしてこのような場所では死ねないと思う。


 いや、それだけではない。

 イシャス。

 ベルリオーズ邸で待つ彼にもう二度と会えないなど、そんなことがあっていいはずがない。


 生きなければならない理由は、まだある。

 見開いたアベルの瞳に映ったのは、椅子に座らされているレオンの姿。

 ――この人を守らなければ。

 レオンを救いだすことができるのは自分しかないのだと、レオンよりもひどい状況に置かれていることを差し置き、アベルは強く思う。


 木の皿に乗った肉片を掴むためにアベルは手を動かす。

 ただ時間が経つのを待ってなどいられない。


 生きて、レオンを仲間のもとへ無事に返すのだ。リオネルに会うのだ。またイシャスを腕に抱くのだ。


 それが自らの役目であると、アベルは胸に刻みながら、石のように硬くなった肉をアベルは強く握りしめた。

 すると、アベルが手を動かしたことに、レオンは気がついたようだ。


「目が覚めたのか?」


 はっきりと返事をしたつもりだったが、呼吸音しかアベルの喉からは出てこない。もう一度、腹に力を込めて言ってみると、ようやくそれは声になった。


「レオン、殿下……」

「――ああ、よかった」


 それだけ言うと、レオンは肩を撫で下ろす。どうやらアベルがこのまま目覚めぬものと心配していたらしい。

 かくいうレオンは元気そうである。アベルと違ってレオンは非常に丁重な扱いを受けており、食事も温かいものとまではいかずとも、きちんと食べることのできるものが運ばれていた。


「お腹が空いただろう?」


 レオンに問われて、アベルは内心で首を傾げる。

 神経を苛むようなこの不快感と苦しさは、空腹なのか、疲労なのか、拘束されている痛みなのか、あるいはそれらすべてが合わさった感覚なのかもわからない。


「あいつら、食べられないものをアベルに与えやがって」


 腹立たしげに言いながら、レオンはなにやら椅子をガタガタと鳴らしている。なにをしているのかと思えば、どうやらアベルのほうへ近づこうとしているようだ。

 だが、部屋の隅で居眠りをしていた監視者が、物音に気づいて声を上げる。


「王子殿下、なにをしておられるのですか」

「なにをしていてもおれの勝手だろう」

「どうか大人しくしていてください」


 どうやらレオンが暴れだしたと見て、監視者は声をとがらせた。


「ユスター人をこれほど憎いと思ったことはないぞ」


 レオンの台詞に、「我々はユスター人ではありません」という答えが返ってくる。


「なんだと?」


 部屋にひとつしかない燭台の炎が、レオンの顰め面を映しだした。


「では、何者なんだ」

「そこまではお教えできかねますが」


 舌打ちしてレオンは足で隣の机を蹴り倒す。上に置かれていた燭台が、甲高い音を立てて石の床に落下し、炎が消える。明かりを失った部屋には真の闇が落ちた。


「なにをする!」


 怒っているというよりは、慌てた声が上がる。

 と、すぐにアベルは手の甲になにかが当たるのを感じた。指の先で感触を確かめると、それは軽くて柔らかい。顔の近くへ寄せてみると、かすかな麦の香りがかした。

 これは……。

 ――パンである。


 部屋を暗くし、監視者の目を欺いた隙に、レオンはアベルに食糧を放ってよこしたのだ。おそらく与えられた食事をとっておいたものだろう。


 アベルはさっとそれを口に運ぶ。監視者が落ちた燭台を闇のなかで探しているうちに、消費してしまったほうが安全だからだ。

 けれど、一日なにも入れていなかった胃袋は、食物を容易には受けつけない。

 喉もカラカラだ。

 飲み込もうとして、吐き気をもよおす。素早くたいらげることは難しそうだ。


 ローブルグ風の酸味の強いライ麦パンを、噛みしめるようにして食べていると、アベルは突然パンとは違う味覚を感じた。――この味は。

 林檎だ。

 パンのなかに林檎を隠して、レオンはアベルに渡したのだ。水分を欲していたアベルにとっては、思わず吐息をもらしたくなるほど嬉しいものだった。


 食べ終わらぬうちに部屋に明かりが戻る。

 残っている食べ物を、アベルは咄嗟に両手で隠した。


「もうこのような真似はお控えください」


 苛立った声で監視者は言ったが、レオンは「何度でもやってやる」と返している。騒動を聞きつけ、数人の男が部屋へ入ってきた。


「なにを騒いでいる」

「レオン王子が少し……」


 監視者が事情を説明している途中で、男のうちのひとりがアベルのほうを見やって怪訝な面持ちになる。手のうちにあるパンの存在を勘付かれたかと、アベルは一瞬冷やりとした。


「子供のほうが目を覚ましたのか」

「ああ……今しがた気づいたようだが」


 監視者が言葉を濁したのは、うたた寝をしており、アベルがいつ目覚めたのかはっきりとは知らなかったからだ。


「ふん、このまま衰弱して死んでいくだろう」


 幸いにもまだパンの存在には気づいていないようだ。


「死なせたら、おまえらは未来永劫、アリ地獄に落ちることになるぞ」


 例によって例のごとくレオンの根拠のない脅しに、男らは微妙な面持ちで口を閉ざした。それにしても、なぜ蟻地獄なのか……。


「机を王子のいる場所から離そう。食事のときだけ戻せばいい」


 そう言って男たちは部屋の配置換えをして出ていく。もとの監視者だけになると、レオンはアベルに告げた。


「大丈夫だ、アベル。すぐにリオネルたちが助けにくる」


 レオンの励ましに、アベルはかすかに笑みを返す。

 ――リオネルの助けを、のんびりと待っているつもりなど、アベルにはなかった。








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