第三章 交渉のゆくえと、めいめい恋のゆくえ 41
幾度か目を覚ましたものの、すぐに意識は遠のく。
その繰り返しが続いていた。
いったい幾度意識を失ったか、いったいどれくらいの時間が経ったのか、すでにまったくわからなくなっている。
縄で拘束され、硬い床に転がされながら、アベルは必死に現実感を手繰り寄せようとしていた。
この部屋で、最初にザシャに頬を張られて気を失い、再び目覚めたときには、ザシャの配下の者から小突きまわされた。だがレオンが椅子に縛られながら、「アベルに暴力を振るったら、未来永劫、三美神に祟られるぞ」とか、「これ以上やったら、シャルム王宮の門前に吊るして干物にしてやる」などと言って暴れるため、監視者らは困惑し、ついにはアベルにかまうのをやめた。
レオンの口にする言葉を、まさか信じたわけではないだろう。けれど、他国の王子とはいえ、王族に脅されれば、なにか真実味を感じてしまうのが凡々たる平民というものだ。
それになにより彼らが懸念したのは、レオンが暴れて彼自身が怪我を負うことだった。
モーリッツとザシャ、そして直属の主からは、レオン王子については傷つけてはならないと言い渡されている。アベルには何らかの報復を与えなければならないが、レオンには暴れられて、思わぬ怪我でもされたら大目玉を食らうことになる。
かくして、彼らは別の手段に出た。
暴行を加えずに、相手を弱らせ死に至らしめる方法――。
今、アベルの目前には、食事の乗った皿がほぼ手つかずのまま置かれていた。
彼らはアベルを餓死させようという気であるようだ。皿のなかには、とても人間の口では噛み切れない、石か刃物のごとく硬く乾燥した肉と、雑草ではないかとも思われるような、見たこともない草葉が乗っているのだった。
それでもアベルは空腹を満たすため、得体のしれない草葉を一度は口に運んだ。
植物特有の匂いがきつく、また、噛みしめるごとに苦みが増して、とても食べられたものではない。アベルは葉を吐きだし、それ以上食べることはなかった。
疲労と痛みと空腹から、アベルの意識は朦朧としている。目覚めてもしばらくは、自分がどこにいるのかさえ思い出せなかった。
けれど、極限の状態がある程度続けば、どうしても思い浮かぶ存在がある。
――仲間のことだった。
自分たちがいなくなったことで、リオネルらは心を砕いて探していることだろう。自分が至らなかったばかりに、レオンを守ることができなかった――アベルはそのことが無念でならない。
そもそもリオネルと喧嘩などしなければ……。
どこまで時間を遡ればいいのかわからない。
後悔はあとからあとから押しよせてくる。
今回のことでリオネルは怒っているだろうかと、アベルは深い紫色の瞳を思い浮かべる。
あのような形で宿を飛び出していったのだ。再会したとき、リオネルからは雷のような叱りをうけるだろうか、それとも怒りを通り越して呆れ返られるだろうか。
そもそも、再会するときは訪れるのだろうか……。
アベルはほぼ丸一日、なにも口にしていなかった。食事だけではなく、水分も与えられていない。きつく手足を拘束された身体が悲鳴を上げている。あと何日この状態に耐えることができるだろう。
そう思えば、喧嘩別れしたはずの主人のことが、ひどく懐かしく感じられた。
叱られてもいい。
呆れられてもかまわないから、ひと目会いたいと思う。
ああ、そうなのだ。
結局、自分はリオネルのことが大好きなのだと、アベルは思い至る。
このような状況に置かれてみれば、やはり最後にアベルの瞼を熱くするのはリオネルの存在だった。
いつだって思い出されるのは、リオネルの深い紫色の双眸だ。
アベルを見つめるときの、彼の瞳。
およそ二年前、絶望のどん底から拾いあげてくれたのは、強く優しいあの瞳と、そして、差し伸べられた彼の温かい手である。
彼がいたからこそ、今のアベルがある。イシャスも共に救ってくれた、その大きな両手。
そして、自らにひたひたと忍び寄る死を感じるとき、アベルはふと思う。
――あの人を、置いていってはいけない。
幾度もリオネルから、いなくならないでほしいと懇願された。狼に襲われたあと、高熱に浮かされながらもリオネルはアベルを引き止めた。
リオネルは仲間として自分を大切にしてくれ、失うことを恐れていてくれているのだと、アベルは感じている。
なにも持たぬ自分を、リオネルは大事に思っていてくれている。
そのような主人のことを思えば、アベルはけっしてこのような場所では死ねないと思う。
いや、それだけではない。
イシャス。
ベルリオーズ邸で待つ彼にもう二度と会えないなど、そんなことがあっていいはずがない。
生きなければならない理由は、まだある。
見開いたアベルの瞳に映ったのは、椅子に座らされているレオンの姿。
――この人を守らなければ。
レオンを救いだすことができるのは自分しかないのだと、レオンよりもひどい状況に置かれていることを差し置き、アベルは強く思う。
木の皿に乗った肉片を掴むためにアベルは手を動かす。
ただ時間が経つのを待ってなどいられない。
生きて、レオンを仲間のもとへ無事に返すのだ。リオネルに会うのだ。またイシャスを腕に抱くのだ。
それが自らの役目であると、アベルは胸に刻みながら、石のように硬くなった肉をアベルは強く握りしめた。
すると、アベルが手を動かしたことに、レオンは気がついたようだ。
「目が覚めたのか?」
はっきりと返事をしたつもりだったが、呼吸音しかアベルの喉からは出てこない。もう一度、腹に力を込めて言ってみると、ようやくそれは声になった。
「レオン、殿下……」
「――ああ、よかった」
それだけ言うと、レオンは肩を撫で下ろす。どうやらアベルがこのまま目覚めぬものと心配していたらしい。
かくいうレオンは元気そうである。アベルと違ってレオンは非常に丁重な扱いを受けており、食事も温かいものとまではいかずとも、きちんと食べることのできるものが運ばれていた。
「お腹が空いただろう?」
レオンに問われて、アベルは内心で首を傾げる。
神経を苛むようなこの不快感と苦しさは、空腹なのか、疲労なのか、拘束されている痛みなのか、あるいはそれらすべてが合わさった感覚なのかもわからない。
「あいつら、食べられないものをアベルに与えやがって」
腹立たしげに言いながら、レオンはなにやら椅子をガタガタと鳴らしている。なにをしているのかと思えば、どうやらアベルのほうへ近づこうとしているようだ。
だが、部屋の隅で居眠りをしていた監視者が、物音に気づいて声を上げる。
「王子殿下、なにをしておられるのですか」
「なにをしていてもおれの勝手だろう」
「どうか大人しくしていてください」
どうやらレオンが暴れだしたと見て、監視者は声をとがらせた。
「ユスター人をこれほど憎いと思ったことはないぞ」
レオンの台詞に、「我々はユスター人ではありません」という答えが返ってくる。
「なんだと?」
部屋にひとつしかない燭台の炎が、レオンの顰め面を映しだした。
「では、何者なんだ」
「そこまではお教えできかねますが」
舌打ちしてレオンは足で隣の机を蹴り倒す。上に置かれていた燭台が、甲高い音を立てて石の床に落下し、炎が消える。明かりを失った部屋には真の闇が落ちた。
「なにをする!」
怒っているというよりは、慌てた声が上がる。
と、すぐにアベルは手の甲になにかが当たるのを感じた。指の先で感触を確かめると、それは軽くて柔らかい。顔の近くへ寄せてみると、かすかな麦の香りがかした。
これは……。
――パンである。
部屋を暗くし、監視者の目を欺いた隙に、レオンはアベルに食糧を放ってよこしたのだ。おそらく与えられた食事をとっておいたものだろう。
アベルはさっとそれを口に運ぶ。監視者が落ちた燭台を闇のなかで探しているうちに、消費してしまったほうが安全だからだ。
けれど、一日なにも入れていなかった胃袋は、食物を容易には受けつけない。
喉もカラカラだ。
飲み込もうとして、吐き気をもよおす。素早くたいらげることは難しそうだ。
ローブルグ風の酸味の強いライ麦パンを、噛みしめるようにして食べていると、アベルは突然パンとは違う味覚を感じた。――この味は。
林檎だ。
パンのなかに林檎を隠して、レオンはアベルに渡したのだ。水分を欲していたアベルにとっては、思わず吐息をもらしたくなるほど嬉しいものだった。
食べ終わらぬうちに部屋に明かりが戻る。
残っている食べ物を、アベルは咄嗟に両手で隠した。
「もうこのような真似はお控えください」
苛立った声で監視者は言ったが、レオンは「何度でもやってやる」と返している。騒動を聞きつけ、数人の男が部屋へ入ってきた。
「なにを騒いでいる」
「レオン王子が少し……」
監視者が事情を説明している途中で、男のうちのひとりがアベルのほうを見やって怪訝な面持ちになる。手のうちにあるパンの存在を勘付かれたかと、アベルは一瞬冷やりとした。
「子供のほうが目を覚ましたのか」
「ああ……今しがた気づいたようだが」
監視者が言葉を濁したのは、うたた寝をしており、アベルがいつ目覚めたのかはっきりとは知らなかったからだ。
「ふん、このまま衰弱して死んでいくだろう」
幸いにもまだパンの存在には気づいていないようだ。
「死なせたら、おまえらは未来永劫、蟻地獄に落ちることになるぞ」
例によって例のごとくレオンの根拠のない脅しに、男らは微妙な面持ちで口を閉ざした。それにしても、なぜ蟻地獄なのか……。
「机を王子のいる場所から離そう。食事のときだけ戻せばいい」
そう言って男たちは部屋の配置換えをして出ていく。もとの監視者だけになると、レオンはアベルに告げた。
「大丈夫だ、アベル。すぐにリオネルたちが助けにくる」
レオンの励ましに、アベルはかすかに笑みを返す。
――リオネルの助けを、のんびりと待っているつもりなど、アベルにはなかった。