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ひり、とその場に緊張が走る。
「これをどこで手に入れた」
リオネルの語気はいつになく厳しい。ザシャが平らな声で答えた。
「捕らえた獲物の持ち物だ」
リオネルの動きは速かった。台詞が終わるより先に、相手の胸倉に掴みかかったのだ。
逃れようと思えば、逃れることはできたのかもしれない。だが、ザシャは服を掴まれるままにして、顔から笑みを消し去った。
「我々のうち、だれかひとりにでも手を出せば、この者の命はないぞ」
「レオンを連れ去ったのか」
自分よりも背の高い相手の胸倉を掴み上げながら、リオネルは声を低める。ザシャはベルトランほどに背が高い。
「もし王子を無事に返してほしければ、すぐにエーヴェルバインを去り、国に戻れ」
……ザシャの手のうちにあったのは、レオンが所持していたはずのハンカチだ。シャルム王家の象徴である菖蒲の紋章が施されていた。
「まさかアベルも――」
「金髪の少年のことか?」
いよいよリオネルは絶句した。
「あの子供には部下を斬られた借りがある。王子のほうはともかく、少年のほうは、さて、どうしてやろうか」
「なるほど、よくわかった」
胸倉を乱暴に押し返して、リオネルは腰の剣に手を伸ばす。
「おっと、ここで剣を交えるのがかまわないが、さっきも言ったとおり、我々の身になにかあれば二人の命は保証できない。とくに子供のほうはな」
「彼は無事なのか」
「まだ生きている。息をしているうちに返してほしければ、早々に引き上げることだ」
「二人の居場所を言わなければ斬る」
剣を引きぬこうとするリオネル。その背後で、ディルク、ベルトラン、マチアスもまた長剣の柄に手を添えている。
一瞬即発のなか、モーリッツが横合いからリオネルに言葉をかけた。
「貴方は賢い方と存じております。我々を害することによってもたらされる結果を、だれよりも貴方ご自身がおわかりのはず。むろん、フリートヘルム陛下やジークベルト殿下に伝えたならば、その瞬間にも、同じ結果がもたらされますのでご留意を」
リオネルは、ぎりと奥歯を噛みしめ、ユスターの使節を睨み据える。
ザシャという男は相当な手錬と見受けられるが、ユスターの使者たちを本気で殺めようと思えば、できるのかもしれない。
だが、万が一そのことによってレオンとアベルが残酷な目に遭わされるとしたら……。
――手出しできない。
「王子と部下を探したいのなら、どうぞご自由に我々の背後を尾行するなり、逗留先を調べるなりしていただいてけっこうです。ただし、あらかじめ教えてさしあげますが、彼らの居場所は絶対にわからないでしょう」
「そうか、ならばこの場でおまえら全員を痕跡なく片付けることとしよう。そうすれば、私たちがおまえたちに手を加えたことなど、だれもわかりはしないだろう」
半ば本気で、半ば脅しだったが、モーリッツは動じなかった。あるいは動じていないふりをしていた。
「そのあとで、ゆっくりとお仲間を探されるということですか? それも一案ですが、我々が解放しないかぎり、けっして貴方がたに居場所を突き止めることはできません。我々をひとり残らず殺せば、二人は永遠に見つけ出されないまま、飢えて死んでいくことになります」
「どうして言い切れる? 二人を守るためなら、おれはどんなことでもする」
今度はモーリッツではなく、ザシャが口端を歪めて言った。
「意気込みはけっこうだが、こうしているあいだにも、かわいい坊やのほうはあの世へ近づいていくぜ。助けたいなら、我々を殺すことではなく、自国に戻る日取りをきめるんだな」
リオネルが眉をひそめると、代わりにベルトランが剣の柄を握る。抜き放つ寸前の姿勢だ。
「はったりだ、リオネル。こいつらの言うことなど信じる必要はない。この場で縛り上げて、居場所を聞き出せばいい」
「――いいのか?」
ちらとベルトランの右手を見やりながら、ザシャは歪んだ笑みを浮かべる。
「もしおれを殴れば、金髪の少年のほうに十倍にして返されることになる。その次は、高貴な王子殿下の番だ。なにかすれば二人が死に近づくだけだぞ」
「おまえらを縛り上げれば、十倍にして返すこともできないだろう」
「我々には仲間がいる」
「ユスターの使節がさほど大人数だとは聞いていない」
「ならば、やってみるがいい。明日の朝には、見るも無残な遺体がルステ川に浮かぶだろう」
ザシャを睨み据えたまま、ベルトランは柄を握る手に力を込める。どうやらベルトランは本気のようだ。かちり、とユスターの使者のなかから、剣を鞘から外す音が響く。
一瞬触発の状況で、拳を握ったベルトランの腕を、やんわりと押さえたのはディルクだった。
「彼らは本気で二人を殺す気だ」
「だが、このままでは――」
ベルトランが表情を曇らせる。
リオネルはユスターの使節らを見やった。
「……わかった。条件を呑もう。そちらに危害は加えない。他言もしない。二人を無事に解放すると約束するなら、我々はシャルムに帰る」
真意を測るように、ザシャとモーリッツは双眸を細める。
「その言葉に偽りはないな?」
「そちらが二人を必ず生きて返すと誓うなら」
「むろん、貴殿らが国へ戻るなら二人を解放しましょう。ですが彼らを解放するのは、貴方がたが二度と戻らぬという証書をしたため、このエーヴェルバインの街を囲う城壁の門を出たときです」
念を押すモーリッツに、リオネルは言葉を選びながら次のように返す。
「だが、こちらも帰るに際して必要な調整もある。明日の夜までには、帰る日取りを決めて、そちらに伝えよう」
「――決めるのはこちらです。今日から二日以内に、ここから立ち去りください」
二日以内ということは、明後日の朝までにエーヴェルバインを去らなければならないということだ。
「今日から二日というのは急すぎる。せめて三日ほしい」
モーリッツとザシャが顔を見合わせる。それからモーリッツが答えた。
「では明後日の正午までです。過ぎたら二人の命はないと考えてください」
「わかった。だがそれまでは、けっして二人に手を出さないと誓ってほしい」
「お約束しましょう」
くどいほど二人の無事と、返還とを約束させて、リオネルはユスターの使節らの条件を受け入れたのだった。
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ユスター使節らが廊下を再び引き返していく。
ザシャはベルトランに対し、射抜くように憎しみの眼差しを向けていたが、ベルトランのほうは片眉を上げただけでその眼差しを受け流していた。
去っていくモーリッツやザシャの姿が視界から完全に失せると、ディルクが深い溜息をついた。
「……ちくしょう、あいつら卑怯な真似しやがって」
苦々しい声をもらしたのは、リオネルではなくディルクだ。
「シャルムに戻るのか?」
ディルクは視線を親友へ向けて尋ねる。
「まさか」
低くリオネルは答える。
「やつらの言うことなど信用できない。おれたちの手で二人を探し出す」
口にはしないが、皆が気づいていることだった。おそらくユスターの使者は、とりあえずレオンについては約束を守るつもりだろう。――だが、アベルはどうか。
配下を殺された恨みを彼らは口にしていた。
レオンを無事に返せば、外交的にはなんらの支障も生じない。従騎士ひとりを殺めたところで、シャルムの中枢においても、隣国においても、とやかくいう者はいないだろう。
それをいいことに、彼らは報復としてアベルを殺すつもりかもしれない。
「お二人がどのような状態であるかわかりません。急がなければ……」
マチアスが苦い口調で指摘すると、ベルトランがうなずいた。
「休んでなどいられないな。ユスターの使節が二人を閉じこめそうな場所を探そう」
「そうだね。でも、探せそうな場所はすべて見てきたはずだ。あと探すとすれば、どこだろう?」
「エーヴェルバインも広い。隠そうと思えば、民家の屋根裏でも、農家の納屋でも、商家の地下室でも、どこにだって隠すことはできる」
「ようするに、手当たり次第の捜索では埒が明かないってことか」
ベルトランとディルクの会話に、マチアスが再び口を挟む。
「我々はここの土地の者ではありません。エーヴェルバインやその周辺のことについては、やはりこの土地をよく知る者を頼るべきではないでしょうか」
「だが、他言すれば二人の命は保証しないと、やつらは言ってたぞ?」
「あちらの条件に従わないならば、どちらにせよお二人の命は保証されていないことになります」
「他言した場合、我々が二人を見つけ出すのが先か、もしくはあちらが勘付いて二人に手を下すのが先か――という危うい賭けになる」
「ですが我々に残されている時間はわずかです。手段を選んでいる場合ではありません」
「つまりは――」
口を閉ざしたままであるリオネルを、ベルトランが見やった。
「――最も信頼できそうなローブルグ人に、事情を打ち明けるべきということか」
ベルトランの視線を感じているのかいないのか、リオネルは考えこむ表情だ。
「リオネル、なにを考えている?」
水を向けられてもなおリオネルは黙していた。
廊下は王宮の奥にあるので、窓はなく、大きなアーチ形の天井から下がる吊り燭台の明かりだけが、仄明るく周囲を照らしている。
アベルとレオンがいなくなってから、丸一日が経とうとしていた。
今、二人はどこで、なにを思っているのか。
ザシャは、特にアベルの命は保証しないと言っていたが、二人はいったいどのような状態でいるのだろう。
「勝手にすればいい」とアベルに言ってしまったことが、今更ながらにリオネルの胸を苛む。
似たような失敗をリオネルは犯したことがある。アベルと出会ったばかりのころ、おとなしく養生しないアベルに、やはり勝手にすればいいといった言葉を向けた。その後アベルは危機的な状況に陥り、あのまま再び会って話すことが叶わなかったら、リオネルは生涯悔やみきれなかっただろう。
二度とあのような過ちは繰り返したくなかったというのに。
アベルがジークベルトを頼ろうとしたとき、どうして強く抱きしめて引き止めなかったのだろうか。
行かないでほしい、と。
あるいは、こう言えばよかったのかもしれない。
――いっしょに行こう、と。
どちらにせよ、アベルの手を放してしまった。
それも一方的に突き放す形で。
何度も繰り返してきた過ちを再び繰り返さぬよう気をつけていた。アベルがなにかを申し出た際には、その要望になるべく添いつつも、リオネルは自身の考えがそれに近い形になるよう努力してきた。
それでもアベルと衝突してしまったのは、ひとえにジークベルトの存在が絡んでいたからだ。
ディルクの言うとおりかもしれない。
知らず知らずのうちにジークベルトに対して抱いていた負の感情は、アベルのことだけではなく、互いにどこか似ている境遇であるからか、あるいはシャルムとローブルグの血統を受け継ぐ者として避けられぬ感情であったのかもしれない。
だが、今は――。
「ジークベルトに事情を話そう」
リオネルがそう告げると、驚きを称えた眼差しが一挙に集まる。
皆が驚いたのは、リオネルの口から、頼る相手としてジークベルトの名が出たこと。さらに、フリートヘルムやジークベルトに告げれば、虜囚の身にある二人の命はないと、はっきり告げられていたはずだからである。
前者は本人の気持ちの問題であるからともかく、後者のほうは、少なからぬ危険が伴うものだった。
「大丈夫か」
確認するベルトランに、リオネルは答える。
「現時点でおれが信頼できるローブルグ人は、彼しかいない」
かつてジークベルトを頼るといって部屋を飛び出したのは、アベルである。この期に及んでリオネルがアベルと同じように彼を頼ることになったというのは、皮肉なことだった。
あれほどまで避けていた相手を、今回リオネルが頼ろうと考えたのは、リオネルなりの考えがあったからだ。
すなわち、ジークベルトがアベルに対して抱く想いの強さを、リオネルは信じていた。
「よし、我らが指揮官の意向が定まれば、あとは行動するのみだな」
ディルクの言葉が合図だったかのように、皆はジークベルトのもとへ足を向かわせた。