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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第五部 ~敵国の都は、夏の雨にけぶる~
301/513

39





 しとしとと雨粒が滴る宵――。


 大勢の者たちが雨のなかを捜索に当たっているころ、エーヴェルバインの町外れにある豪華な館の一室では、密かに人々が集っていた。


 館は、シュトライト公爵の邸宅である。

 もとは領地を持たぬ小さな伯爵家であったシュトライト家が、この土地に豪奢な屋敷を構えるまでになったのは、ひとえに手段を選ばぬ野心があったからこそである。


 シュトライト邸に集まっていたのは、ユスターの使節であるモーリッツ、ザシャ、そして、目深にヴェールを被った女性だった。


 場所を変えても、彼らが集まる空間は、かつての密談場所と同様に狭く、薄暗い。いざというときには身を潜めていられるように、隠し部屋において会談が持たれていたのである。


 狭い部屋の中央には手燭がひとつ。

 ユスター産の葡萄酒が、かすかな蝋燭の炎の光を透かして、濃い紫色に輝いていた。


 彼らにとって、想像もしていなかった展開――それも、最悪の方向に事態は転じている。

 黒いヴェールを被った女性を除き、皆それぞれの顔には、戸惑いと焦りの色が浮かんでいた。


「最悪だ――まさに、最悪の状況だ」


 忌々しげに言い放ったのは、シュトライト公爵である。


「アルノルト王子の遺児が、王宮へ戻ってきた。それも、シャルム使節団と共にだ。陛下が王位を譲るなどということになれば、この先どうなることか」

「とんでもないことになりましたな、シュトライト公爵様」


 責めるような口調は、モーリッツだった。


 ユスターの使者である彼が苛立つのも当然のことだ。自分たちより先に、シャルムの使者が王宮へ招かれたのだから。

 下手をすれば、先に同盟交渉を成立させてしまうかもしれない。

 ――それもこれも、シュトライト公爵が仕掛けた刺客が、ジークベルトの暗殺に失敗したせいである。


「シャルムの使節が、王子殿下を助けたというのは本当のことなのですか」


 モーリッツが尋ねると、苦い面持ちでシュトライト公爵がうなずく。


「事実らしい」

「なぜシャルム使節が」

「子細は知らぬが、どうやら以前から顔見知りだったようだ。私の立てた計画は完璧だった。あと一歩で命を奪うことができるはずだったが――邪魔をされた」

「使節のうち、レオン王子と年若い騎士はすでに捕らえています。残りの数名でシュトライト殿の刺客を討ったというならば、侮れぬ相手ということでしょう」


 眼差しを鋭くしたザシャに、シュトライト公爵はうなずきを返す。


「殺されたのは、皆、幼いころから鍛え上げた精鋭だった。相手はかなりの剣豪たちに違いない」

「わたくしの従兄弟もおりましたのに……」


 目元をぬぐったのは、黒いドレスとヴェールを纏う女である。親族の死に遭って、喪に服しているらしい。

 言うまでもなく、シュトライト公爵の娘であり、フリートヘルムの妃マティルデである。


「我々が捕らえたシャルム使節のひとりも、幼いながらなかなかの腕の持ち主。捕らえる際に配下を幾人も殺されております。この期に及んでは、是が非でも彼らには報いなければ気が済みません」


 拳を握りしめるザシャに、マティルデが手を重ねた。その様子を、シュトライト公爵も、モーリッツもちらと一瞥したが、あえて言葉は発しない。


 男色家の王に嫁がされた婦人と、猛々しいほど男らしいユスター貴族の若者。

 秘密と危険とを共有する二人のあいだに、ただの共謀者同士という以上の関係が生まれたとしても、なんら不思議ではない。シュトライト公爵もあえて咎めるつもりはないようだった。


「しかし、アルノルト王子の遺児とシャルム使節が顔見知りということならば、我々は圧倒的に不利だ」


 モーリッツがザシャに向けて忌々しげに言う。ザシャはしばし考え込んでからシュトライト公爵に尋ねた。


「シャルム使節は、すでにフリートヘルム陛下と謁見したのですか?」

「謁見という形ではないが、面会はしたようだ。内容まではわからないが、おそらく陛下は王子を助けたことへの謝意を示されたのだろう」


 腕を組んでザシャが唸る。苦々しげにシュトライト公爵がつけ足した。


「それにもしかしたら、王子を襲った一件で、陛下は私を疑いはじめているかもしれない」


 ザシャの手に重ねられた婦人の手が、動揺のためにかすかに震えた。それを握り返してザシャは言う。


「もはや我々に残された切り札は、我々の手のうちにあるレオン王子しかありません」

「どうするつもりだ」

「まずはシャルム使節を、この街から追い出すことです」

「だが、それだけではアルノルト王子の遺児は排除できない」


 ユスターの使節にとっては、ローブルグとの同盟が目的であり、それさえ達成できればアルノルトの遺児がいようがいまいが、関係ない。

 だが、ユスターを贔屓にしているのがシュトライト公爵である以上、その権力が弱まる――あるいは失墜することは痛手であった。


「まずはローブルグとユスターの関係を強化することです。そのうえで、我が国がシュトライト公爵様の後ろ盾となれば、王子殿下を襲った件で嫌疑をかけられたとしても、貴殿がたやすく捕らわれることはないでしょう」


 説明するモーリッツに、完全に納得した様子ではないながらも、ゆっくりシュトライト公爵はうなずく。


「そちらにできることはそれくらいかもしれぬ。あとは、我々のほうであの王子を排除する方法を考えよう」

「いっそ、フリートヘルム陛下も殺してしまえばよいのでは?」


 甘くささやくような声は、ザシャと手を重ねている黒いヴェールのマティルデである。


「――貴女のご夫君ではございませんか」


 驚き尋ねたのはモーリッツだった。


「陛下はわたくしのことなど、微塵も愛されてはおりませんから。わたくしも然り。あのような変わり者には興味ありませんわ」

「ご夫君を亡き者にして、貴女はどうなさるつもりで?」

「陛下とアルノルト王子の遺児がお亡くなりになったそのときに、わたしの身体には陛下のお子が宿っていると公表すればよいのですよ」

「ですが、陛下のご趣味は……」


 目を白黒させるモーリッツのまえで、ヴェールの女性はうっとりとザシャを見上げる。


「陛下は、好む相手が男であるといっても、子を成せぬ身体であるわけではございません。陛下の死後、わたしの身体に宿っているのは陛下の子なのだと宣言すれば、だれも反論はできないでしょう。そうして、ザシャ様との子を、ローブルグの玉座に据えるのです」


 女が考えることとは、恐ろしいものである。ザシャはともかく、モーリッツは圧倒されて無言になり、シュトライト公爵は軽く咳払いでその話を聞き流した。


 ジークベルトに加えてフリートヘルムまで殺めてしまっては、たとえその後、最高権力の座に就くことができたとしても、ローブルグ国民から憎しみの標的にされかねない。

 権力を得るためには手段を選ばぬといっても、行き過ぎれば命取りになる。それくらいのことは充分に心得ていた。


「捕らえたシャルムの使節とレオン王子は、どうしている」


 シュトライト公爵は質問をすることによって話題を逸らした。


「例の場所に閉じこめてあります。使節といっても、まだ子供のような者です。二人とも動けぬよう縛ってありますよ」

「殺すつもりか」

「さあ、生きるも死ぬも、リオネル・ベルリオーズの決断次第です」

「方法は任せる。一刻も早く、彼らを追い返せ」

「承知しております」


 湿った空気がどこからか室内へ入りこみ、四人がいる部屋の蝋燭の火影を、危うげに揺らした。






+++






 東の空では、雲の合間から天使の梯子が下りている。

 暁の透きとおった光の筋は、天使ではなく、むしろ神自らが舞い降りてくるのではないかと錯覚するほどに神々しく美しい。


 雨は夜中も降りつづけ、明け方になってようやく止んだ。

 晴れ間は徐々に広がり、世界は明るさを取り戻しつつある。だが、疲労を滲ませたリオネルの表情は晴れなかった。


 ――アベルとレオンが見つからない。


 夜を徹して、仲間やジークベルト、そして兵士らとともに手分けしてエーヴェルバインの街を探しまわった。森や林、川の周辺、宿という宿……食堂、居酒屋、商家や民家、農家の戸まで叩いてまわったが、二人の姿は見当たらない。


 降り続く雨のせいで、足取りさえ掴めなかった。仮にどちらかが負傷していたとしても、血の跡など洗い流されている。

 彼らの姿を見た者も、今のところ見つかってない。

 雨のなかでは皆、周囲に気を配る余裕などないのだ。


 雨に打たれ続ければ、雨外套を羽織っていっても足元から服は濡れていく。冷え切った身体で王宮に戻った一行は、途中、地上階の食堂付近の廊下において、ある人物とすれ違った。


 顎髭を、神経質なまで丁寧に整えたローブルグ貴族の男。

 背はさほど高くなく、初老と呼ぶべき年齢ではあるようだが、老いを感じさせない鋭さがその眼差しには宿っている。


 無言でリオネルらを冷ややかに一瞥してから、ローブルグ貴族の男はジークベルトへ視線を移した。


「これはこれは王子殿下。お戻りになったとは聞き及んでおりましたが、このような場所でお会いするとは――。殿下にはご健勝のことと存じあげます」


 わざとらしいほどうやうやしく一礼する男に、ジークベルトは双眸を細める。


「だれだったかな」

「私をお忘れですか、殿下」


 かつてリオネルらのまえで見せたこともないような眼差し――侮蔑と共に、深い憎悪を秘めた瞳で、ジークベルトはシュトライトを見やった。


「ああ、思い出したよ。我が母を矢で射殺し、父を自害に追いやって、権力を握った卑劣漢だったな。できれば貴様の顔など永遠に忘れていたかったが」

「殿下が私を恨んでおられることは承知しております。このシュトライト、前国王様からのご命令に逆らうことはできず、忠心ゆえに貴方様のお怒りを買い……」

「命令だと? 祖父上をそそのかした、の間違いだろう。おまえほど戯言が似合う男もいないな、シュトライト公爵」


 言い捨てて、ジークベルトは歩きだす。両者のやりとりを黙って見守っていたリオネルは、ジークベルトのあとに続きながら貴族の男を振り返った。

 この男が、噂に聞くシュトライト公爵らしい。


 かつて抱いたリオネルの直感は正しかったようだ。歩き去っていくジークベルトとシャルム使節を睨むシュトライトの目には、憎き敵を見るがごとき色が浮かんでいる。


「狸爺といった感じだな」


 つぶやいたのはベルトランだ。


「どこの国にも狸はいるらしい」

「我が国の狸は、国王エルネスト陛下というところかな?」


 ディルクの問いに、


「いや、ルスティーユ公爵も典型的な狸だぞ」


 とベルトランが返す。

 すると、


「じゃあ、大狸はブレーズ公爵あたりだね」


 ディルクの意見に、ベルトランが苦笑した。


「たしかにな――本当の黒幕は大狸の息子だったりするかもしれないが」

「大狸の息子といっても、子狸なんてかわいいもんじゃない」


 あれこれ話している二人をよそに、リオネルは寡黙だった。――これほどまで探したというのに、見つからないとは。


 ディルクはリオネルを元気づけようとして、捜索の場から引きあげる際に、次のように言った。


「とにかく二人が一緒にいて危険な目に遭うってことは考えにくいよ。よほど周到に計画を練って、待ちかまえて襲うっていうなら、まあ、ありうるかもしれないけど、いったいだれがなんの目的でそんなことをするっていうんだい?」


 けれどリオネルの反論にあえば、たちまち言葉に詰まる。


「では、どうして彼らは戻ってこないんだ?」

「……それはわからないけどさ」

「なぜ、街じゅうを探してもいない?」

「ぼくたちがまだ探していない場所があるのかもしれない」

「たとえば?」

「……わからないけどさ」


 ――といった具合だ。


「レオン殿下とアベル殿の両者を同時に襲う目的は、あえていえば強盗くらいしか思いつきませんが、それぞれ切り離せばより具体的に想像できます」


 リオネルの心情を察しているマチアスは、一刻も早い解決のために現実的な意見を述べた。


「目的がレオン殿下であった場合は、そのお立場を利用しようとしているか、逆にシャルム王家に恨みを持つ者の犯行かもしれません」


 シャルムに恨みを持つ者など、このローブルグにおいては数多いるだろう。充分にありうる話だった。


「目的がアベル殿であった場合、年若い者を狙った人攫いか、あるいはなにか面倒事に巻き込まれた可能性もあるでしょう」


 このような議論を交わしながら、いったん休息をとるためにリオネルらはエーヴェルバイン王宮へ戻ってきたのだった。

 それぞれの顔には、疲労の色が浮かんでいる。

 特にリオネルとジークベルトは言葉少なである。


 その後ろ姿を見つめて、ディルクは溜息をつく。

 寡黙なジークベルトとリオネルを先頭に、一同は与えられた部屋へと向かう。食堂を通り過ぎ、正式な通路である大階段ではなく、王族や、公にできぬ客などが私的に利用する階段へつづく廊下を、口数少なく歩いていた。


 ここまで来ると人気はほとんどない。

 シュトライト公爵と別れてしばらく経ったころ、ジークベルトが顔も向けずにリオネルに告げた。


「王宮を出たのは、ここにいればいずれあの男に殺されると思ったから――というのもあった」


 リオネルは隣を歩むジークベルトの横顔を見やった。


「もちろん、自由な生活に憧れていたというのもあるし、実際にそれを気に入ったのはたしかだけど」


 一呼吸置いて、ジークベルトはリオネルを見返す。


「――ぼくを襲った刺客は、シュトライト公爵が差し向けたものだ」

「それは……」


 目を細めたリオネルに、ジークベルトはうなずく。


「そう、自分の立場を揺るぎないものにするためだろう」


 鋭い眼差しを、リオネルは思い浮かべた。奥にぎらついていた野心を、リオネルはむろん見抜いている。


「おそらくあいつは、ぼくを助け配下を殺したきみたちのことを深く恨んでいる。気をつけたほうがいい」


 忠告の言葉をかけると、ジークベルトは先に叔父であるフリートヘルムに会いにいくと言って、リオネルらに別れを告げた。


 残ったのはリオネル、ディルク、ベルトラン、そしてマチアスの四人である。

 こうしてもとの仲間だけになると、レオンとアベルが欠けていることが余計に寂しく感じられる。不安は募る一方だ。


「ひと休みしたら、また探しにいこう」


 ディルクがそう言ったとき、背後に複数の気配を感じ一同は振り返った。

 ジークベルトと入れ替わるように――あるいは、ジークベルトがいなくなるのを見計らっていたかのように、こちらへ向けて歩いてきたのは五、六名の男たちだ。


「リオネル・ベルリオーズ殿ですな」


 硬く、威圧的な口調が投げかけられた。

 リオネルの目前で立ち止まったのは、身なりのよい男だ。シュトライト公爵と同じくらいの年齢だろうか、だが眼光鋭いシュトライト公爵よりも、実際の年齢を感じさせる落ち着いた佇まいだった。


「そうだが、そちらは?」


 リオネルが答えると、相手は表情を動かさずに告げる。


「我々はユスターからの使者で、私はモーリッツ・ヘルゲル」


 言われなければモーリッツ自身はローブルグ人か、ユスター人かわからない。

 ローブルグ人とユスター人は祖先を同じくしているため、よく似通っている。けれどよくよく観察すれば、たしかに目のまえにいる男たちはわずかに髪色が濃く、ローブルグ人とは容姿が異なるようだ。


 モーリッツは、自らのすぐ脇に立つ、筋骨逞しい男へ視線を向けた。


「この者はザシャ・ベルネット」


 名を呼ばれると、ザシャは口端を歪めてから、右手に持っていたなにかをシャルム使者の足もとに放った。ひらひらと舞いながら地面に落ちた物―――それは。


 ゆっくりとリオネルがそれを拾いあげる。

 皆の視線が、リオネルの手元に集まった。






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