38
雨のなかを、緊張感を漂わせた様子でローブルグ兵が行進している。
エーヴェルバインの街路、ルステ川にかかる橋、王宮へと続く坂道を進むその隊列を、市民は物珍しそうに見つめていた。
隊列の中心に、兵士とは違った様相の者が数名いる。彼らは皆雨外套を被っているが、かすかに垣間見える髪や瞳の色はローブルグ人らしくない。いや、一名だけ、鮮やかな金糸の若者がいるだろうか。
どうやら兵士の隊列は、彼らを守るようにして王宮へ向かっているようだった。
王宮の正門が、兵士の隊列のために開かれる。
玄関で雨外套を脱いだのは、シャルムの騎士であるリオネル、ベルトラン、ディルク、マチアス、そしてローブルグ人のジークベルトとヒュッターだった。
時はしばし遡る。
ジークベルトを迎えに来たヒュッターの一行は、シャルム使節であるリオネルらに対し、王宮へ来てくれないかと頭を下げた。それも、フリートヘルムからの招待であるという。
むろん、フリートヘルムに会うことができれば、交渉を進めるための重要な足掛かりとなる。
だがリオネルには、なによりも優先してやらなければならないことがあった。すなわち、レオンとアベルが未だに行方不明だ。彼らを探し出さなければならない。
リオネルは迷うことなく申し出を謝絶したが、ヒュッターのほうも引き下がらなかった。――自分は、ジークベルトを救ったシャルム使節を連れてくるように命じられている、というのだ。
仲間が行方不明であることを説明すると、ヒュッターは次のように提案した。
『そういった事情であれば、ご家臣を探すために我らの配下を動かすこともできます。エーヴェルバインで人探しをするならば、ローブルグ人である我らの兵士のほうが地の利がございますゆえ、お力になれるかもしれません』
しばし考え込んだのちに、リオネルはヒュッターの申し出を受け入れることにした。
なにしろ、レオンとアベルを探すための人手が、今は四名しかいない。ローブルグ兵をまとめて動員できるならば、はるかに効率よく二人を探せるはずだ。
一方ジークベルトについては、まるで逃がすまいとするように何人もの兵士らが彼の周囲を取り囲んでいた。
『ぼくは、王宮へ戻るつもりはないよ』
不服げにジークベルトはヒュッターを見やる。
『こんなふうに囲まれたって、逃げるのは簡単なことだ』
そのような態度のジークベルトに、ヒュッターが恭しく頭を下げた。
『どうかご観念いただき、王宮へお戻りください。フリートヘルム陛下がお待ちです』
『断ることはできないのか?』
『一度、陛下と話し合われたうえで、今後のことをお定めください。このままお逃げになれば、我々は再び貴方様を探してどこまでも追いかけてきますぞ。自由な生活を望まれるならば、どうか陛下と話し合いを』
思案するようにジークベルトはヒュッターの顔を見つめ、それから小さく溜息をつくと歩きだした。
その場から逃げるかと思いきや、相手の意向に従う様子である。
こうしてリオネル、ベルトラン、ディルク、そしてマチアスは、ジークベルトと共に、エーヴェルバイン王宮へ赴くことになったのだった。
王宮の玄関をくぐると、今度は以前のように客間に通されることなく、一同は廊下を奥へ進むように案内される。王宮の上層階へ続く階段へ。
広々とした階段を上りきり、向かった先は謁見の間ではなく、賓客室だった。
公的な謁見でなく、私的な面会という位置づけらしい。
賓客室に案内されると、ヒュッターはいったん退室し、ジークベルトを含む五人が残された。
広々とした部屋である。扉や、梁、壁画の周りを囲う縁など、あちこちに見られる文様は、主に矢車菊を象っている。金と水色で統一された色彩は上品かつ優雅で、大国ローブルグの王が住まう居城の賓客室に相応しいものだ。
家具の類はほとんど置かれておらず、壁際に小さな飾り棚がひとつ、中央に小卓、そしてそのまわりに繊細な文様の施された長椅子が二脚向き合って据えられていた。
案内の者が去って五人だけになると、ディルクがジークベルトに皮肉めいた眼差しを向ける。
「きみが噂の――アルノルト王子の遺児だったのか」
長椅子のそばに立つジークベルトは、表情を動かさずに窓の外を見やった。
「ぼくは、田舎町を治める伯爵家の出身だよ。そんな大それたやつじゃない」
「田舎町っていうのは、シャルム国境にあるラスドルフ領のことか?」
「…………」
ラスドルフ領は、アルノルト王子の遺児が九歳まで過ごした場所だ。出身がラスドルフであると認めることは、すなわち自らの立場を認めることになる。
ジークベルトは窓の外を眺めたまま押し黙っていた。
「どうりでリオネルと似ているわけだ」
「どういう意味だ?」
ディルクのつぶやきに対して、すかさず尋ねたのはジークベルトだったが、リオネルもまた視線を上げてディルクを見やった。
「二人とも、本来は国を統べる立場にいる者同士だ。普通の人と同じように育ってきていても、背負っているものの大きさが周りとは違う」
沈黙の後に、ようやくジークベルトは言葉を発する。
「……ぼくはなにも背負うつもりはないよ」
「ふうん」
うなずいたものの、真剣にはとりあっておらぬディルクの様子だ。
「きみたちの馬が合わない理由もわかったよ。長年の敵国であるシャルムとローブルグの、それぞれ正統な王位後継者どうし、反発するところがあるんだろうね」
「勝手に話を進めないでくれ」
苦笑したのはリオネルである。現在、アベルとレオンのことで頭がいっぱいのリオネルにおいては、久しぶりの発言だった。
「おや、それともなにか別の理由があるのか?」
問われてリオネルは困り顔になる。まさか、アベルを巡って二人のあいだにわだかまりが生じているとは言えない。
「そうか、馬が合わないと見せかけておいて、実は仲がいいのか。ジークベルトを助けると言いだしたのもリオネルだしな。ジークベルトもリオネルを信用しておれたちと宿まで来たし」
ディルクの発言に対し二人がなにかを答えるまえに、マチアスがひとこと放る。
「ディルク様、――リオネル様もジークベルト様も、貴方よりも遥かに身分の高い方々ですよ」
堅苦しいやつだな、とディルクは言い返したが、マチアスの忠告に従ったのか、それ以上は口をつぐむ。すると、リオネルがマチアスに言った。
「おれとディルクは幼馴染みだ。なんでも言ってくれる友人がいてくれて、ありがたいと思っているよ」
恐縮したようにマチアスは視線を伏せる。
「そう言っていただければ幸いです」
「おまえはおれの保護者か」
顔を引きつらせてディルクがマチアスを見ると、ジークベルトが小さく笑った。シャルム使節の雰囲気に、ジークベルトも少しは馴染んできたのかもしれない。
だが、やはりだれもが浮かぬ表情でいるのは、仲間が二人欠けているからだ。
宿にはヒュッターの配下を数人残してきてある。レオンとアベルが戻ってくる可能性を考慮してのことだ。
けれど、時が経つにつれてリオネルらの不安は増している。
陽はすでに西の彼方へ沈み、あたりは闇に染まろうとしていた。
もし二人が無事であったのなら、日が暮れるまえに宿に戻ってくるに違いない。
「いったい、どこでなにをしているんだ」
闇に染まろうとするエーヴェルバインの街を見下ろし、ベルトランが独り言のようにつぶやく。リオネルは無言で視線を床に落とした。
と、扉を叩く音が鳴り響く。
ジークベルトが返事をすると、「フリートヘルム陛下のお越しです」と告げる声があった。
リオネルはじめ皆が床にひざまずく。私的な面会であれ、一国の王のまえで膝をつくのは当然の儀礼だ。
頭を下げた一同の耳に、数人が入室する足音の後、扉を閉める音が飛び込んでくる。
続いて、顔を上げるようにというヒュッターの指示があった。
皆がいっせいに視線を上げると、その先にはヒュッターと、かつて伝令役をしていた官吏ニクラス、そしていまひとり、長身の男が立っていた。
長い金色の髪に、切れ長の双眸。貴公子然としたその容姿は、どことなくジークベルトと似通っている。
「ジークベルト」
親しみを込めた声で金髪碧眼の騎士の名を呼んだのが、ローブルグ王フリートヘルムの第一声だった。
「叔父上」
返事をするジークベルトの声は、やや気まずげにも聞こえる。けれど、相手は迷いのない足取りでジークベルトのもとまで歩み寄った。
「久しぶりだ。何年ぶりかな」
そう言って、フリートヘルムはジークベルトの肩に手を添える。
「……三年です。叔父上におかれては、お変わりなく」
「そなたはますます兄上に似てきたな。無事でよかった。いや、左腕を怪我しているのか」
ジークベルトの腕に巻かれた包帯を見やって、フリートヘルムは眉をひそめた。
「蜂に刺されたのです」
「首謀者はわかっている」
「私はローブルグ王になるつもりなど、ありません」
先手を打つごとく牽制するジークベルトに、フリートヘルムは困ったような面持ちになり、「その話はあとで」と言葉を濁す。それから、フリートヘルムは視線をリオネルらへ向けた。
「シャルムの使節とは、きみたちのことか」
リオネルは再び頭を下げる。
「シャルム国王の命を受け、フリートヘルム陛下にお目にかかるため参りました、リオネル・ベルリオーズ、並びにディルク・アベラール、その従者マチアス・クレール、そしてベルトラン・ルブローにございます。この度は、謁見をお許しいただき、深謝いたします」
丁寧かつ毅然としたリオネルの挨拶に、けれどフリートヘルムは一国の王たる重々しさを感じさせぬ、のんびりとした語調で言った。
「きみがリオネル・ベルリオーズか、聞きしに勝る器量の持ち主だな」
リオネルが黙していると、フリートヘルムはかまわずに続ける。
「そして、聞きしに勝る腕の持ち主と見える。そなたらが、ジークベルトを救ったのだろう?」
「我々はたまたま現場に居合わせただけです」
「ジークベルトが襲われたときの状況は、酒場の者が証言している。恐ろしく強い賊に、だれもが逃げ惑うなか、異国人らしき四人が助太刀してローブルグ人の若き騎士を救ったと」
「恐れ入ります」
フリートヘルムはシャルム使節の面々を見回してから、ゆっくりと長椅子に腰かけた。
「報告によると、シャルム使節団にはレオン王子も同行しているとか。どうもここにはいないようだが?」
「今、レオン王子の行方は知れません」
「行方が知れない? それはいったいどういった事情で?」
「私たちにも、わかりかねております」
「わからないとは」
「私の家臣と共に宿を出てから、戻らないのです」
「ということは、いつも煙突から現れる、水色の瞳の天使の姿が見えないが、もしや……」
――煙突から現れる水色の瞳の天使。
ここにいるだれもが、それがだれのことを指しているのかわかっている。怪訝な面持ちになったヒュッターとニクラスを除いては。
「……そのとおりです。二人は共に出て行ったまま、行方が知れません」
こうしているあいだにも、彼らの身が案じられる。
「二人で、散歩でもしているのではないのかな?」
呑気なフリートヘルムの問いを、リオネルはあえて聞き流した。相手に悪気はないのかもしれないが、とても返答する気にはなれない。
すると、フリートヘルムが真面目な口調で言う。
「そなたらがいなければ、我が甥ジークベルトの命はなかったかもしれない。礼として、ひとつだけ願いを聞き入れよう。望みのものを言いなさい」
願ってもみなかったフリートヘルムからの申し出である。
今、同盟交渉の成立を願えば、それは聞き入れられるはずだった。
――しかし。
「では、シャルム第二王子レオン殿下と、我が家臣アベルを探すことに、ご協力いただけないでしょうか」
リオネルの口調に迷いはない。
「シャルム王から委任された交渉の成立ではなく?」
それは、フリートヘルムにとっても意外な回答だったようだ。
シャルム使節としてローブルグへ赴いたからには、願い出ることは交渉に関わること以外にないと考えるのは当然のことである。そして、フリートヘルムの言い方から察するに、それを受け入れる覚悟もあったのかもしれない。
けれど、断固とした調子でリオネルは答える。
「彼らの行方がわからないのに、交渉などしていられません。たとえこの場で交渉が成立したとしても、皆がそろっていなければ私はけっしてそれを喜ぶことはできないのですから」
しばし沈黙してから、フリートヘルムは口元に笑みをひらめかせた。
「シャルム人はおもしろい。家臣が家臣なら、主も主だ」
どういう意味かとリオネルが軽く首を傾げるところへ、
「叔父上、私からもお願いいたします」
声を発したのはジークベルトだった。
「アベルは私の大切な友人です。あの子の無事を確かめるまでは、今後の話はできません」
ジークベルトの発言は、さらにフリートヘルムにとっては思いもかけないものだったようで、しばらく甥の顔を見つめる。それからフリートヘルムはうなずいた。
「わかった。レオン王子と、アベルという家臣の捜索に手を貸そう」
言うや否や、ただちにヒュッターに二人の捜索を命じる。
「憲兵も動員して、エーヴェルバインの街じゅうをくまなく探せ。一刻も早く二人を見つけ出すように」
指示を受けたヒュッターは、ただちに部屋を退出した。
「シャルムの使節殿、二人が見つかるまで我が王宮に滞在するといい。部屋を用意しよう」
「感謝いたします」
頭を下げてから、リオネルは続けて願い出る。
「ですが、私は貴国の兵士とともに、二人を探しに行こうと考えておりますので、どうか今夜は、私を除いた三名のための部屋のみをご用意いただきたく存じます」
「今夜? これから探しに行くのか?」
驚くフリートヘルムにリオネルが首肯すると、すぐに反意を示したのはディルクだった。
「無茶だ。ずっと探し通しじゃないか。少しは休めよ」
「休んでなどいられない」
「捜索はおれが行くって言っただろう。リオネルは明日また行けばいい」
「すまないが、ディルク。どれだけ説得されても、おれは行く」
頑固な相手に頭を抱えたとき、ジークベルトとなにやら話をしていたフリートヘルムが会話に入ってくる。
「ならば、リオネル殿」
リオネルはフリートヘルムへ視線を向けた。
「夕食をこの王宮で済ませてから行くなら、許可を出そう。貴殿の部屋も用意しておくので、探しに行くなり、戻ってくるなり、好きにすればいい」
「……ありがとうございます」
謝意を述べてから、リオネルはちらとジークベルトを見やる。ジークベルトがフリートヘルムに話をつけたことを察していたからだ。
フリートヘルムとの面会は無事に終わり、そして深い夜が訪れる。
雨足は弱まったが、止むことはなかった。
その夜、兵士らと共にレオンらの捜索に当たったのは、リオネル、ディルク、ベルトラン、マチアス、そしてジークベルト――つまり全員だった。