30
前夜。
アベルが、目を開けたのは、深い闇のなかだった。
長い間、夢も見ずに眠っていたような気がしたけれど、それがどれほどの期間だったのか、見当もつかない。けれどそれ以前の記憶は鮮明だった。
リオネルを怒らせた日の夜、館を去ろうと思っていたところ腹部が痛みだした。館を出ることなどとてもできなくなり、来る日も来る日も痛みに耐え、そして二週間ほど過ぎたとき、今まで味わったことがないような激しい腹痛に襲われた。それは腹を掻き裂かれるような痛みだった。
耐えがたい苦痛のなか、ドニとエレンの慌てたり、心配したりする顔を見たような気がする。ずっとアベルの手を握っていてくれたのは、たぶんエレンだ。
最後の記憶は、子供が産まれたとき。これでようやく痛みから解放される、そう思ったときには、すでに意識を失っていた。
目が覚めたアベルは、寝台から降りようとしたが、手足は蝋人形のように動かない。それでも感覚のない四肢にどうにか力を入れ、足を下ろすと、床の感触が伝わってくる。そこに体重を移そうとすると、膝から力が抜けていくようにへたりこんだ。
想像以上に身体が動かないことに唇を噛む。
寝台に手をついて無理やり足を立たせた。
人形を繰るようにアベルは自分の手足を動かす。
かたわらの椅子に置いてあった男性用の服を見つけ、それに着替える。
書き物机の引出しのなかから、紙と羽根ペン、そしてインクを取り出し、月明りをたよりに手紙を書いた。
リオネルが不在の館内は、警備が手薄なので、アベルはナイフ一本と、身ひとつでひっそりと館を抜け出した。
このとき、アベルははじめて館の全貌を前庭から見た。
荘厳な建物の最上部には、ベルリオーズ家の紋章が描かれた旗が、かすかな風にはためいている。数え切れないほどの窓からは、深夜にも関わらず橙色のあたたかい光がもれていた。自分はとてつもないところにいたのだと、アベルはあらためて思った。
月明かりに照らし出されたベルリオーズ家別邸は、夢の城のように美しい。
全ては夢だったのかもしれない。
長い、長い夢。
デュノアでの日々も、嵐の日も、子供を産んだことも、リオネルに出会ったことも――いや、アベルという人間が存在していることそれ自体、全て夢なのかもしれない。
見ることの叶わなかった梨の木の白い花も、きっと遠い夢のなかの話。
この夢が早く終わるように願い、アベルは館に背を向けた。
+++
アベルはサン・オーヴァンの街外れへ向かった。
時刻は未明。あたりに月明かり以外の光源はなく、しんと静まり返っている。
初春の澄んだ夜空に浮かぶ青い上弦の月は、ひどく冷たい顔をしていた。
鉛のように重く感じられる身体に鞭打ってここまで歩いてきたが、もうあと一歩も前に進むことができそうにない。一軒の農家を見つけ、その家畜小屋の藁のなかに倒れこむようにして気を失った。
しばらくして頬を撫でられるような感覚に、アベルがはっとして目を開ける。
夜は明け始めていた。
そんなに長い間、気を失っていたわけではない。
春になったとはいえ、明け方は身震いするような寒さだった。
アベルの頬を、豚が鼻先でつついている。
「……わたしは、餌じゃないから」
アベルは豚の顔を手で押し返した。
張りぼてのように感じられる身体を起き上がらせて、服についた藁や土を手で払った。
そうしていると、石造りの家のなかからひとりの農夫が出てきて、アベルの姿をみとめる。
「おまえは――」
はっとしてアベルは農夫を見た。農夫は怪訝な顔をしている。
「あ……あの、すいません……住む家と、働く場所を探しています。ここで働かせていただけないでしょうか?」
怪しいものではないと弁解するのもおかしいと思ったので、いささか唐突にアベルはそう尋ねた。
農夫は、髭に白髪が混じる痩せた男だった。土と藁で汚れた年端のいかぬ少年に、突然頭を下げられ、しばらく押し黙っていたものの、ようやく口を開いた。
「おまえのような細っこい子供にできる仕事なんざ、ここにはねえ。他のところをあたりな」
すげなく断られ、アベルは軽く頭を下げると、どうにかその場を去った。
この日の夜に泊まる場所さえない。できるだけ早く、住み込みで働ける場所を探さなければならなかった。
その後いくつかの農家をまわったが、線が細く色の白い少年を見て、本当に働けるのかどうかだれもが首を傾げる。そしてそれは至極当然な反応だった。
死の淵から戻ってきた、産後の少女に、実際、働く力など残っていないのだ。
それでもアベルは進まなければならなかった。
春の太陽が、靄のかかったサン・オーヴァンの街を黄金色に染めている。木々の隙間からこぼれる陽光が、幾筋もの光の糸になって足元に降り注いでいた。
踏みしめる地面は少し湿っている。
花の香りを乗せた風が吹きぬける街。
人々の明るい話し声と笑い声が飛び交う。
――そうだった。
デュノア邸を追い出され、川べりで目を覚ましたときも、そうだった。
あのとき、神秘的なほど美しい秋の日の朝に、アベルは歩きだしたのだ。真っ暗闇の未来へ。
アベルは今もあのときと同じところにいる。
楽になれる方法は、いつだって、ひとつだけ用意されている。
けれど柔らかい陽光と、春の甘い花の香りは、それを許さない。それはだれかの深い紫の瞳と同じ――真綿のような優しさがアベルをこの世界に繋ぎとめる。
いっそ、雨が降っていればよかったのに。
優しくされるより冷たくされるほうが、心は安らかでいられる。
だれかの優しさも、春のあたたかい空気も、アベルを生殺しにする。
いずれ失う日が来るのなら、優しさなんていらない。
けれど生きていくために必要な、お金に換えられるような私物も、行く宛てもなかった。なけなしの、人を信じる気持ちも失ったまま。
今アベルの細い指先で掴みとれるものは、なにもない。
空虚な身体を引きずるようにして街を歩き、仕事と住む場所を求め、店や家々の扉を叩いてまわった。
西の地平線に、真紅に燃える夕陽が、吸い込まれていく。
最後の一点の炎を吹き消して、サン・オーヴァンの街には暗闇が落ちた。
日が暮れても、アベルを受け入れてくれる場所はなかった。
農家でなくても、体力のない幼い子供を、人々は労働力として期待しない。店仕舞いした商店の扉を叩いたが、ほとんどの者は迷惑そうに顔を出し、最後まで話を聞いてもらえることさえ稀だった。
働く場所を求めて王都まで来たが、今まで旅の途中で通過してきた、小さな所領の街の商店や家々のほうが、よほど旅人であるアベルに親切だった。
話を聞いてくれたし、断るときも申し訳なさそうであった。都会というのは、同じ国民でも、どこか違う人種のように感じられた。
けれど断られたからといって、傷つくことはない。初めから期待していなければ、傷つくこともなかった。
夜の賑わいを見せはじめた大通りからはずれた、細い道に座り込んで、アベルは膝を抱える。弱った身体を奮い立たせて歩き続けたが、体中が悲鳴をあげていた。
しばらくなにも食べていない。
アベルはそっとお腹を押さえた。
産まれた子供の顔は見ていない。
これでよかったのだ。
リオネルなら、赤ん坊をひどい境遇には置かない。
赤ん坊は、アベルのもとにいるより、きっと幸せになれるはずだ。
そう信じられるから、置いてきた。
そして、ふとそう考える自分に気がついて、アベルは困惑する。
顔も見ていない我が子を思っている自分が、そこにいるから。そうでなければ、リオネルのもとに置いてきて、安心している自分がいることへの説明がつかない。
さらにアベルが困惑するのは、リオネルなら……と、心のどこかで思っていたことだ。
あの人なら大丈夫。そう思っていた。
――わたしは、あの人を信じている?
アベルは自分自身の心の在処がわからなくなりそうだった。
だれも信じないことで、精神の均衡を保っていたはずだから。
アベルがこの世で信じられるものなんて、もうひとつもないはずだったのに。ましてや人の優しさなんて、到底信じられないものだったはずで。
信じればガラガラと音を立てて、均衡が崩れていくだろう。それが怖い。
アベルは、目を閉じた。
「……やめよう」
小さな声でつぶやく。
「考えるのは、やめよう」
人を信じることは、アベルにとっては、死と隣合わせの行為だった。
眠るというよりは、意識を失っていたというほうが、近かったかもしれない。
突然、肩を揺さぶられ、アベルは目を開けた。
「おまえ、さっきうちの店に来たやつだろう?」
大通りからこぼれてくる光に、かすかに照らされていたのは、二十代半ばほどの若者。
「え……」
アベルは必死に記憶をたどったが、男に見覚えがなかった。
訪ねた店など何軒もあるので、どの店のことかもわからない。
「うち、あの店の奥で宿屋もやってるんだけど、今夜客が多くて忙しくてさ。仕事きついの耐えられるなら、手伝えよ」
アベルは、若者のいうことをぼんやりと聞いていた。
「手伝う……?」
「おれ、洗濯とか、水汲みとか、やりたくないんだよね。おまえが代わりにやってくれよ」
「…………」
「嫌なのか? さっきの肉屋だよ。おふくろに断られてたから、声かけてやったのに」
肉屋と言われて、アベルはようやく思い出した。
たしかに、夕暮れ時にまわった店のなかに、肉屋があった。
「……やります。働かせてください」
「本当? 賃金とかあんま払えないけど」
「寝る場所と、食べるものさえあれば……」
「よし。じゃあ、ついてきて」
アベルはなんだか呆気にとられたまま、若者のあとについていった。
肉屋がある通りは、人通りが少なく、小ぢんまりした界隈だ。
この店の奥で宿屋を営んでいるとはまったく気づかなかった。
「はい」
「え?」
今は閉まっている店先に着くや否や、若者は大きさの水桶を差し出す。
「これ、水汲んできて。アンテーズ川じゃないぜ、あの川は汚れてるから。街外れに、もうひとつ川が流れてるの知ってるだろ」
「…………」
「早く行ってこいよ。おれは、これから街に遊びにいくから。じゃあ、よろしく」
背を向けて歩き出す若者を、アベルは呼び止めた。
「あの……」
「なに? 急いでるんだけど。ああ、腹でも減ってるのか?」
アベルがなにか言うより先に若者は店の扉を開けてなかに入り、すぐに出てくる。それから無言でアベルに手を差し出した。
アベルが受け取ったのは、小さなパンだ。
「おれは、ヤニク。水汲んで戻ってきたら、両親におれの名前を言えば、入れてもらえるから」
ヤニクはそう言って片手を上げ、そそくさと去っていった。
アベルはキツネにつままれたような気分で佇む。それから手のなかにあるパンのかけらを眺め、そっと口に入れた。