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――神様、もしあなたが本当にこの世にいるのなら。
シャルム王国の夏は短い。
八月の夕方。先ほどまで晴天が広がっていた空は、急速に厚い雲に覆われ、あたりは夜のように暗くなった。突然降りだした雨は、デュノア伯爵邸を激しく打ちつけ、窓を揺らし、芝生を泥に沈め、庭の花を手折った。秋の気配を感じさせる冷やかな風が、完全に戸締りしてあるはずの館の中に、どこからともなく流れこんでくる。
館の一室、もともと客間であったが、デュノア家の姉弟の遊び場と化した「子供部屋」で、カミーユはソファに座り、温かい蜂蜜酒を飲んでいた。天井はカミーユの身長の三倍近く高く、空や雲、そこに舞う天使の絵が描かれている。
小さめの木製の円卓に杯を置いて、カミーユは再び窓のほうへ目を向けた。雨が窓ガラスの上を滝のように流れているだけで、外の景色は見えない。
そこへ扉をノックする音がして、カミーユは浅く腰かけていたソファから腰を浮かした。自ら扉を開けに行くが、水浸しになったトゥーサンただ一人しかいないのを見とめ、表情を曇らせた。
「姉さんは……」
「申し訳ございません。館内と庭は全て探しましたが、お姿がありません。カミーユ様、館の者をみな集めて館の周辺まで範囲を広げてお探しするのがよいかと存じます」
トゥーサンの言葉にカミーユはすぐに頷くことができなかった。
「旦那様には後から謝罪すればよいではありませんか。今はシャンティ様のご無事が第一です」
それでもカミーユは下唇を噛んで、ややうつむいただけだった。
デュノア家の当主であり、シャンティとカミーユの父である伯爵は、二人の子供を愛してはいたが、その性格は神経質で、潔癖、そして厳格な人間だった。幼いころから、彼の信念にもとづく多少理不尽とも思える説教や、それにともなう暴力は姉弟とも少なからず受けてきている。
「父上は、姉さんが外で遊びまわっているのが気に入らないんだ。知っているだろう、トゥーサン」
「…………」
「剣も、馬も、姉さんが上達すればするほど、父上の機嫌は悪くなる。昨日、父上に釘をさされたばっかりだったんだ。姉さんが、今日も館の敷地の外にまで出ていったなんて知ったらどんなことになるか……」
「なぜシャンティ様は、旦那様にお叱りを受けたばかりなのに外出を?」
「花を取りに行くと言っていた」
「シャンティ様が? 花を……」
シャンティは、花が決して嫌いではないが、そこらの少女ほど花を摘むことに熱心ではないはずだ。違和感を覚えないでもなかったが、今は、シャンティが外出した目的よりも、一刻も早く総勢で館の内外を探すことのほうが重要であった。
トゥーサンは、カミーユの気持ちが分かるだけに、強く言えないでいる。
「父上に知られたら、もう二度と剣も乗馬もさせてもらえなくなるかもしれない。もしかしたら、嫁ぐまで二度と館の外にも出してもらえなくなるかもしれない」
それは、眩しいほど楽しそうに外を駆けまわるシャンティの翼を、もぎ取ってしまうことのように思えた。カミーユは両手を強く握りしめる。しかし、嫌でも耳に入ってくる雨の音が、幼いカミーユの気持ちを焦らせ、苛立たせた。しばらくなにも答えなかったトゥーサンは、ようやく言葉を選ぶようにひかえめに口を開く。
「カミーユ様、シャンティ様のお命あってこその剣や乗馬です。無事であれば旦那様のお怒りもお二人で耐えればよいではありませんか」
カミーユは自分より七つ年上のトゥーサンをはっとしたように見上げた。
トゥーサンの言うとおりだった。病気がちな母とは話す機会も少なく、姉弟にとって厳格な父の怒りはなによりも恐ろしかった。しかし、シャンティとカミーユ、二人いっしょならばさみしくもなかったし、なんでも我慢し、耐え、頑張ることができた。
「その通りだね」
カミーユは小さく呟いた。その声を雨音の中から拾ったトゥーサンは、先ほどの自分の提案を是と受け取り、無言で再び敬礼すると足早に部屋から出ていった。
部屋には雨音だけが残る。
カミーユが目を窓にやったときだった。
トゥーサンが出ていったあとの扉が、かすかにきしむ音がした。
部屋の中なのに、冷たい空気と雨の匂いが流れてくる。
カミーユが嫌な予感とともに振り返ると、そこには……。
「姉……さん?」
――探していたはずの姉の姿があった。
しかし、その姿はいつもの様子とは違っている。
「姉さん……! 一体なにが……」
駆け寄ったカミーユの腕に崩れ落ちるようにして、十三歳の少女は倒れこんだ。
「トゥーサン! トゥーサン‼」
カミーユがただならぬ状況に動揺し、助けを求めるため、声の限りをふりしぼってトゥーサンを呼ぶ。
「やめて!」
その口を両手で塞いで、すがるように制止したのは水と泥にまみれた姉のシャンティだった。驚いてシャンティを見ると、大きく見開かれた深い水色の瞳がゆれていた。
「だれにも……だれにも知られたくないの……こんなの……」
カミーユは呆然として、腕のなかに倒れこんだままのシャンティを見つめる。
髪は解かれ、ドレスは乱れ、引き裂かれ、肩や胸元はところどころ露わになり、全身が雨水と泥で汚れている。細い肩は細かく、しかし激しく震えていた。
状況がうまく飲み込めないカミーユは、なにも言えず、ただずぶ濡れの冷たい身体を抱きとめる。まだ十一歳の彼だが、姉のその姿から彼女の身になにが起こったか、想像できないほど幼くはなかった。
現実のこととは思えない感覚が彼を支配する。
雨の音が耳鳴りのように聞こえた。
足音が近づいてくる。その音だけが妙に現実味を帯びている。足音が扉のまえで止まる。シャンティの肩が大きく震えた。
「トゥーサンです。お呼びでしょうか」
たしかにトゥーサンの声は聞こえていたが、どう反応したらよいかカミーユには分からなかった。返事がないのを不審に思ったのか、しばらくして再び扉の向こうから声がする。
「カミーユ様……?」
喉がつかえたような感じがして、カミーユはうまく声が出せなかった。
「……トゥーサン、すまない。姉さんが見つかった。今ここにいる……もう探さなくていい」
やっとのことで絞り出した声はかすれている。
「いらっしゃったのですか! それは……」
声に驚きを隠さないトゥーサンは事情を詳しく聞きたい様子だった。と同時に、見つかったというのに戸惑うようなカミーユの声音と、一向に扉が開く気配がないことが、この青年には少なからず不自然に思えているようだ。
「……入ってもよろしいでしょうか?」
ためらいつつもトゥーサンが問うと、部屋の中からは、きみはもう休んでくれてだいじょうぶだ、というカミーユの声だけがする。
「…………」
トゥーサンはますます不審に思うが、主人の言葉に背くわけにもいかない。そこで矛先を変えてみた。
「シャンティ様……いらっしゃるのですか?」
その問いに、カミーユの服をつかむシャンティの手に力が入る。
「わたしはここにいるわ。カミーユの言うことが聞こえた? もう休んでいいわ、行きなさい、トゥーサン」
シャンティの声はかすかに震えていたが、はっきりとした声だった。
トゥーサンはすっきりしないなにかを感じつつ、二人にそう言われては従うしかない。扉に向かって一礼し、しばしそのまま扉を見つめていたが、そのうち踵を返して廊下を歩いていった。
トゥーサンの足音が遠ざかっていくと、シャンティの肩は先ほどよりも細かく震えだす。
「姉さん……?」
不安になってカミーユが呼ぶと、腕の中から嗚咽が聞こえた。
シャンティは泣いていた。
「姉さん……」
カミーユは冷たい肩を力のかぎり抱きよせる。
何者かに襲われたであろう姉を助けられなかった。そして今は、抱きしめることしかできない。――非力な自分が、悔しかった。
自らの頬にも涙が伝っていることに、カミーユはしばらくして気がつく。
声を押し殺すようにして泣くシャンティに、カミーユが小さな声で問う。
「怪我……してない? どこか痛くない……?」
シャンティの涙がそのとき、一瞬、やんだ。
雨の音とともに雷光がひらめいて、姉弟の姿をほんの一瞬まばゆいほどに照らし出した。その寸秒後に雷鳴がとどろく。
「……なにも……」
シャンティは、鈴が揺れるように小さな声で言った。
「え?」
「なにも……なかったのよ」
「……姉さん?」
なにもない、と言うシャンティに、カミーユは戸惑う。
――なにもなかったわけがない。
「……なにも、なにもなかった。なにも……なにもなかった……なにも」
シャンティは呪文を唱えるようにただ、「なにもなかった」とだけ呟き続けた。
二度目の雷光がひらめくと、シャンティは呆然と顔をあげて窓を見あげた。
カミーユが恐る恐るその顔を覗き込むと――。
シャンティの濡れた宝石のような瞳からは、どのような感情も読みとれなかった。