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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第五部 ~敵国の都は、夏の雨にけぶる~
299/513

37







 長い、長い廊下をアベルはひとりで歩いている。

 等間隔に配置された燭台の明りが、アベルを廊下の奥へと導いているようだった。


 歌が聞こえる。

 廊下の先からだ。

 優しい、女性の声。


 そこへ行きたいと思いながらも、アベルのうちには躊躇いが生じる。

 燭台の炎に導かれて奥へと進みながら、アベルは恐怖を覚えていた。


 ――行ってはいけない。

 そう思うのに、足は止まらない。


 憑かれたようにアベルは歩む。そうして扉の前まで辿りつき、ついにアベルは取っ手を握った。


 開いた扉の奥――そこには、長い金糸の髪を背中に流した女性の後ろ姿。

 彼女はしゃがんで揺籠ゆりかごを揺らしながら、子守唄を口ずさんでいる。


 いや、これは子守唄なのか……。




  雛罌粟ひなげしがこの丘を埋めつくしたら、どうか……


  どうか あなた

  わたしを迎えにきてください


  甘い言葉を 花束に添えて

  どうか あなた

  わたしを迎えにきてください


  とても長いこと

  それは 気が遠のくほど 長いこと

  あなたを待ちつづけているのですから


  風に揺れる 紅の火影

  震える胸を焼きつくす 無限の花弁


  深い眠りから

  どうか あなた

  わたしを目覚めさせてください


  覚めない夢なら いっそこのまま

  どうか あなた

  あなたの その手で

  この胸を貫いてください


  わたしを この世界の果てへと

  雛罌粟の花も咲かぬ

  夢も 届かぬ

  遥か彼方へと

  どうか あなた

  連れていってください


  そして 夢の終焉

  どうか あなた

  永遠に絶ち切ってください 




 歌え終えると、子供のかすかな寝息が聞こえてきた。

 揺籠を覆う布は、白地に水色の刺繍が施されている。なかで眠っているのは、どうやら男の子のようだった。


「坊や……かわいいわたしの子」


 金糸の髪の女性は、愛おしそうに赤ん坊の頬を撫でると、不意になにかの気配に気づいたかのようにこちらを振り返った。


 振り返った女性の顔を見て、アベルは息が止まるような気がする。

 ――この人は……。


 だが、相手にアベルの姿は見えていないようで、かすかに哀しげな表情を浮かべて再び視線を揺籠に移した。


「ああ、もう会うことはできないのだわ」


 つぶやくと、顔を手で覆う。子供が目覚めぬよう、女性は声を押し殺して泣いた。

 アベルは胸を砕かれるような思いで、その人の泣く姿を見つめる。不思議とアベルの瞳からも涙が溢れ……。





 意識を取り戻したのは、鳩尾の痛みだけではなく、身体全体に感じられる倦怠感と、頬に触れる地面の冷たさゆえである。

 夢を見ていた気がするが、思い出すことができない。ただ、目の奥が熱く、瞼の裏側にはうっすらと涙の存在が感じられた。


 瞳を開けると、石が敷き詰められている床の様子だけが、かすかにぼやけて映りこむ。

 暗さに目が慣れていないせいか、それとも涙のせいか、周囲の様子がわからない。


 ここはどこなのか。


 夢の中身は忘れても、意識を失うまえの記憶はアベルのうちにはっきりと残っている。

 自分たちは、何者かに襲われた。


 あのとき、背後に不穏な気配を感じたのでアベルは後ろを振り返った。すると、レオンが鉄網のようなものに囚われ、周囲を男たちが取り囲むところだった。

 置いて逃げることなど、できるはずがない。


 レオンを救うために剣を抜き戦ったが、赤味がかった茶髪の男と剣を交えた末に、アベルもまた敵の手中に落ちた。


 ――レオンは無事なのか。


 動こうとするが、意思に反して身体はびくともしない。それもそのはず、アベルは縄できつく拘束されていたのだから。もがくほどに手足を縛りつける縄が食い込み、痛みを感じたとき、少し離れた場所から声が聞こえた。


「アベル、無理だ。動かないほうがいい」


 室内に反響するように聞こえるのは、レオンの声だった。


 はっとして視線を上げると、わずかな光が見える。意識の覚醒と同時に明瞭になる視界に映ったのは、部屋の中央に置かれた手燭の明かり。そして、そのすぐ隣に据えられた椅子には、レオンが座っているようだった。


「……レオン殿下?」


 声がかすれたのは、しばらく気を失っていたからだろうか。

 捕らわれてからどれくらい経つのだろう。陽や月の光の入らぬこの場所では、時間の経過を知る術はない。


「大丈夫か、アベル」


 無事を確かめてくるものの、レオンがこちらへ来る気配はない。どうやらレオンは椅子に縛りつけられているようだ。


「とにかく動いてはいけない。それと、相手はだれだかわからないが、刃向かわないほうがいい。わかったな?」

「…………」


 自分たちの置かれている状況は、レオンの言葉からすぐに察することができた。


「やっと目が覚めたか」


 聞き覚えのない男の声が、突如、この暗い空間に響く。

 はっとしてアベルが声のほうへ顔を向けると、レオンの背後にある扉から光が漏れ、そのなかから、ひとりの男が姿を現した。


 ――ベルトランやヴィートと並ぶほどの身長はあるだろう。レオンより身体が一回り大きくみえるのは、背丈だけではなく、盛り上がっている筋肉のせいか。赤みがたった茶色の髪が、肩まで伸びていた。


 無言でアベルは相手を睨みつける。

 この男には見覚えがあった。

 気を失う直前に剣を交えた相手だ。並々ならぬ腕の持ち主であり、レオンのひと声がなければ命を奪われていたかもしれない。


「どんな手練れかと思えば」


 床に転がるアベルのそばまで来ると、男は蔑むような眼差しで見下ろした。


「まだガキじゃないか」


 男は舌打ちしながらアベルの身体を軽く小突いて転がすと、長靴の底でアベルの頭を押さえつける。石の床と、硬い長靴のあいだに挟まれ、ぎりぎりと力を加えられる痛みにアベルは顔を歪めた。


「おまえのせいで大切な部下を何人も失った」


 忌々しげに吐き捨てる男に向けて、どこからか声が投げつけられる。


「おい、やめろ野蛮人!」


 声の主は、椅子に拘束されているレオンだ。


「抵抗できない子供の頭を踏みつけるとは何事だ」


 縛り付けられているものの、レオンの座る椅子は明らかに高級なもので、手足にも多少の余裕があるようだ。バタバタと暴れてレオンが男の行動に抗議すると、周囲に控えていた男たちが、レオンの手足を押さえつけた。


「抵抗できない子供だと?」


 男はアベルから足を外し、口端を引きつらせる。よくよく見れば上品な顔立ちの若者であるが、こちらへ向ける憎しみからか、それとも彼のうちにひそむ別の感情のせいか、その表情はひどく険悪であった。


「あれだけの腕を持っていて子供と侮れるか。あのとき殺さなかったのは、レオン王子の声が聞こえたから、ただそれだけだ。拾った命があとどれだけ永らえるかは知らないがな」


 これだけ暴力的な手段をとりながらも、敵はレオンに対しては丁重に接しているようである。つまり、レオンの立場をあらかじめ知ったうえでの行動だったということだ。

 どうもこの大男をはじめ、他の者たちの容姿を見ると、生粋のローブルグ人という感じがしない。


「あなたたちは何者ですか」


 思いきってアベルが尋ねてみると、しばしの沈黙を経て男の声が降ってくる。


「それを知ったところで、おまえの行き先は変わらない」

「…………」

「むろん、レオン王子には手を下さない。用が済んだら、殿下にはいったん自国にお戻りいただく。だが――」


 男は、アベルの服をつかみ上げた。


「――おまえのような雑魚は別だ。私の大切な配下を殺した恨みは、何倍にもして返してやる」


 言い終えぬうちに男はアベルを殴りつける。火花が散るような痛みが目の奥に散った次の瞬間には、意識が遠のいていた。


「おい! その子に手を出すな、非道漢め!」


 レオンが叫ぶ。


「叙勲も受けてないような相手を痛めつけて、それでもおまえらは騎士か!」


 わめきたてるレオンを、再び数人がかりで男たちが取り囲み、押さえつけた。どこからか白い布をとりだし、レオンの口を塞ぐように巻き付ける。黙らせるつもりらしい。

 一方、殴りつけられたアベルは床に倒れたまま、ピクリともしない。赤茶色の髪の男がアベルの髪をつかんで上向かせると、唇の端には血がにじんでいた。


「どうせ死ぬ運命だ」


 男はつぶやき捨てたが、アベルはすでに気を失っている。レオンの抵抗する物音が響くところへ、新たな足音と共に声が上がった。


「殺したのか、ザシャ」

「いいえ、モーリッツ殿。呼吸はしています」


 現れたのは、ザシャと呼ばれた男より年配の騎士である。

 ザシャの回答に返事はせず、モーリッツという年配の騎士は周囲の者になにやら指示を下した。すると配下の者たちがレオンのもとへ駆け寄り、巻き付けたばかりの布を手早く解く。

 ようやくレオンは暴れるのをやめた。


「貴様ら――」


 声を発せられるようになると、レオンは奥歯を噛みしめ呻いた。

 そのレオンに、モーリッツは優雅に一礼する。長いこと王族に仕えている者に特有の、こなれた仕種だった。


「王子殿下には不自由をおかけしますが、しばしご忍耐ください。貴方様をこの場で殺めたりなどは、けっしていたしませんのでご安心を。お命をいただくときは、いずれ戦場にて剣を交えたうえで頂戴いたします」

「それで騎士道に則っているつもりか? 私を殺さないのは、シャルム国民の怒りと、周辺国の非難を避けたいだけのことだろう。騎士なら子供に手を出さないものだ。目的が私の身柄なら、その子は解放しろ」

「……本来ならばそういたしたいのですが、我々もこの少年のせいで大切な配下を幾人も失っております」

「そちらが勝手に襲ってきたのだろう」

「大人しく囚われたなら、命だけは助けてさしあげたのですが」

「勝手な理屈だな。その子は私を助けようとしただけだ」

「私にとっては皆、大事な配下でした」

「……ユスターだな」


 レオンの指摘に、相手は押し黙る。


「おまえらはユスターの使節だろう」


 沈黙こそが、答えか。


「卑劣な真似をしやがって」

「いずれは貴方様も、王も王妃も、シャルムの国民も、皆、我が国の戦士たちの手によって支配され命を奪われる日がくるでしょう。この少年は、一足先に死ぬというだけのことです」

「私を捕らえたところで、ローブルグとの交渉がうまくいくとでも思っているのか」

「少なくとも、シャルムの使節をここから追い出すことはできるでしょう」

「地獄に堕ちろ、くそ野郎。そんなにうまくいくものか」


 常のレオンらしからぬ暴言を吐くと、レオンは眉をひそめてアベルを見やる。交渉の行方や、自らの置かれている状況もさることながら、この少年がすぐにでも殺されそうなことが心配だ。

 けれど、椅子に縛られたこの状態では、地面に転がされているアベルを助けることはできない。情けないことだが、一刻も早くリオネルらがこの事態に気がつき、なにかしらの行動に出てくれることを今は願うしかなかった。







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