35
エーヴェルバインの街が、銀色にけぶっている。
宿を出たころはまだ小降りだったが、居酒屋に近づくにつれ次第に大粒の雨に変わっていた。
リオネルは足元がずぶぬれになるのもかまわず、足早に――いや、駆けるようにしてジークベルトの滞在する居酒屋兼宿屋へ向かう。
複雑な気持ちだった。
ジークベルトを頼って、アベルは出ていったのだ。いくら今度の任務を遂行するためとはいえ、リオネルはけっしてそのようなことを望んではいない。
ジル・ビューレルの命や自らの身がかかっているのだから、リオネルにもこの状況を打破するためにそれなりの考えがある。
それなのに、ジークベルトを頼る方法しか選ばなかったアベル。彼女はリオネルを信じるより、ジークベルトを頼った。
追いかけてなんになるというのだろう。会えば再び口論になるかもしれない。
――けれど、案じる気持ちは抑えられなかった。
特に、雨が降り出したころからは、アベルのことが気になってしかたがない。
アベルが、嵐が苦手なことは承知している。彼女をラベンダーの咲く丘へ連れていったときに雷雨に見舞われたことがある。そのときアベルが露わにした恐怖心。
どのような気持ちでいるのかと想像すれば、ジークベルトに会いにいっていたとしても、迎えに行かずにはおれなかった。
強い雨はすでに足元からだけではなく、リオネルの全身をずぶ濡れにしている。昨日、単独行動をとったアベルを探して『美女と美酒には、金と時間を惜しむな』へ辿りついたときと同じ状況だ。
いや、雨外套を纏っているぶん、いくらかましか。
アベルの雨外套が濡れないよう、リオネルは注意を払う。アベルが寒い思いをしていないようにと、リオネルは願った。
目的の居酒屋が、銀色の雨の向こうに見えてきて、自ずとリオネルが足を早めたとき、店の扉が大きな音を立てて勢いよく開いた。
同時に店内から、客のものらしき悲鳴が漏れ聞こえる。
何事かと注意を向ければ、なかから飛び出してきたのはひとりの若者だった。
雨外套も羽織らず走って出てきたその若者は、金髪碧眼の騎士――ジークベルトである。
ただごとではないと感じさせるのは、ジークベルトの腕を濡らす血の色と、彼が握る長剣、そして彼を追うように店から出てきた黒ずくめの男たちの存在だった。彼らもまた、皆こぞって銀光りする得物を握りしめている。
咄嗟に足を止めたリオネルのまえへベルトランが立ちはだかり、剣の柄を握る。
むろんベルトランはリオネルを守ろうとしたのだが、今回、賊の目的はローブルグ人騎士のほうであり、リオネルではないようだった。
ジークベルトは怪我を負っているらしく、赤く染まった左腕を時折押さえ、反撃を繰り返しながら、雨のなかを走りぬけていく。けれど、黒ずくめの男たちはジークベルトを執拗に追いかけ、容赦ない攻撃を繰り出していた。
ジークベルトは優れた剣士のようで、巧みに攻撃をかわしてはいるが、なにしろ手負いのうえに、単身で十人を超える敵を相手にしている。
時折ぬかるんだ地面に足を取られ、ジークベルトはこの短時間のうちにも、リオネルらの目前で幾度も危うい状況に陥っていた。致命傷を負うのも時間の問題だ。
「助けよう」
短く告げてから、リオネルは剣を抜き放った。
ベルトランがやや険しい面持ちになったのは、リオネルの左腕がまだ動かせないからだ。
片腕のみという状況では、リオネルは充分な力を発揮することができない。
けれど、主人の命に従わぬわけにはいかないし、多勢に無勢で襲われている若者を助けないわけにはいかない。ジークベルトを救うというよりは、リオネルを守るためにベルトランは参戦した。
ベルトランが長剣を鞘走らせると、ディルクとマチアスも遅れずに続く。
突然参戦してきた四人の騎士の姿に、黒ずくめの男たちは驚きと、わずかな動揺を示し、ジークベルトもまた思わぬ事態に立ちつくした。
「きみたちは――」
この四人のなかで、ジークベルトが知るのはリオネルただひとりである。
「話はあとだ」
それだけ答えると、リオネルは迷いのない剣裁きで黒ずくめの男たちに立ち向かっていった。
黒ずくめの男たちは、単なる強盗の類とは一線を画していた。
明らかに人を殺傷するために剣の腕を鍛え上げた者たちで、リオネルのもとへ送られてくる刺客と同等と思われるほど手強い相手かもしれなかった。
なぜこのような者たちが、ジークベルトを襲うのか――。
だが、左腕が動かせぬというのに、リオネルは驚嘆すべき剣技を披露した。猛烈な攻撃を弾き返し、鮮やかに相手の急所を突く。剣がひらめくごとに敵は後退させられ、ついには命を奪われる。
銀色の雨のなかに、血しぶきが舞い、真紅の雨が降り注いだ。
ベルトラン、ディルク、そしてマチアスもまた、リオネルと並ぶ調子で男たちを倒していき、それにむろんジークベルトも加わっているので、敵はまたたくまに言葉を語らぬ肉の塊と化していく。最後の二人を、ベルトランとマチアスが剣の柄で気絶させて、すべての敵が片付いた。
リオネルが剣を鞘に収めると、ほぼ同時にあとの三人もそれに倣い、ジークベルトだけが長剣を握りしめたまま立ちすくんでいる。
「怪我は?」
リオネルに問われると、ジークベルトは自らの怪我を束の間忘れていたのかのように、はっとした表情で左腕を見やった。絶えず雨に晒されているというのに、ジークベルトの腕からは鮮やかな血の色が浮き出ている。
「血が止まっていないかもしれません。早く手当てをしたほうがいいでしょう」
すかさず自らの服の袖を千切り、ジークベルトの腕に巻き付けて止血したのは、マチアスだった。応急手当てを施したマチアスに礼を述べてから、ジークベルトは視線をリオネルへ向けた。
「どうしてぼくを助けたんだ?」
「この状況に遭遇したからだ」
「それは、ぼくを助けた理由にはならない」
「逆の立場だったら、同じことをしただろう」
「…………」
「アベルとレオンはここへは来ていないのか」
「アベル?」
ジークベルトは怪訝な表情になった。
「――来ていない」
状況を知った途端、リオネルの表情が曇る。
「レオンもか」
「ああ」
二人はここを一度も訪れてはいないとは……。
あらためてジークベルトの返答を得て、リオネルは浮かぬ面持ちで考えこんだ。アベルとレオンはいったいどこへ行ったのか。ジークベルトのもと以外に思い当たるところなどない。
ディルクとベルトランも顔を見合わせて、かすかに首を傾げた。けれどリオネルはすぐさま気持ちを切り替えた様子で、顔を上げる。先にやるべきことがあることを承知していたからだ。
「この男たちをどうしてほしい」
ほとんどの賊は絶命しているが、二名だけは気絶させた状態にしてある。
地面に伏して雨に打たれている黒ずくめの男たちを見下ろしてリオネルが尋ねると、ジークベルトは軽く両肩を上げた。
「どうとでも」
自らを襲った賊の正体に対し、ジークベルトはまったく関心がないか、あるいは調べるまでもないようだった。ジークベルトが関心を示さぬうえは、リオネルらもこれ以上関わる必要はない。
奇妙な名の宿屋を一瞥してから、リオネルはジークベルトに告げる。
「騒ぎのあった宿に戻るのは物騒だろう。我々の逗留場所へ来ればいい。そこで医者を呼ぼう」
「ぼくに対して思いのほか親切なんだね」
雨に頬を打たれながら、ジークベルトは皮肉めいた色と、意外な思いとが混じりあった複雑な眼差しで、リオネルを見つめた。
「顔も見たくないくらいに、嫌われているのかと思っていたけど」
リオネルは無言で視線を逸らしてから、ディルクとマチアスに眼差しを向ける。
「おれはこのままアベルを探しにいく。二人はジークベルトを宿に連れて戻り、医者を呼んでくれないか。命のある賊については、縛り上げて役人に渡しておいてほしい」
かまわないけど……と答えつつ、ディルクは気がかりげな面持ちになる。
「アベルとレオンの行き先に、心当たりはあるのか?」
「いや、ない」
「こんなひどい雨のなかを闇雲に探しても、おまえがずぶ濡れになるだけだぞ。アベルとレオンが一緒に行動してるならきっと大丈夫だ。雨が上がったら、ひょっこり戻ってくるかもしれない」
「この雨のなかだからこそ、探さなければならないんだ」
そう言って、リオネルはベルトランに目配せすると、ディルクの止める間もなく雨のなかを駆けだす。
次第に強まっていく雨は、すでに銀色というよりは、灰色の紗がかかっているようだった。
駆けていくリオネルとベルトランの後ろ姿は、その景色のなかですぐに見えなくなる。
残された三人のうちに束の間の沈黙が流れた。
マチアスが生き残った賊を縛りはじめると、ジークベルトが声を発する。
「ぼくにかまわなくていいよ」
ディルクとマチアスは共に初対面のローブルグ人を見やる。ジークベルトの金糸の髪が、雨に濡れて黄金の銅像のように輝いている。
どうやらリオネルとは馬の合わぬらしいこの若者へ視線を注ぎながら、二人は是とも非とも答えなかった。
「きみたちの宿へは連れて行ってもらわなくていい。ぼくは、自分で休む場所を見つけるから」
「いいえ」
きっぱりと答えたのは、手早く作業を終えたマチアスだった。
「私たちは、リオネル様から貴方を守るように命じられたのです。無事に宿にお連れし、医者に診せるまではそばを離れるわけにはいきません」
「そうだよ。それに、なんだかんだいって、きみ自身がアベルのことが心配で、探しに行きたいんだろう? そう顔に書いてあるよ。その怪我でうろうろさせるわけにはいかないからね」
ディルクに指摘され、ジークベルトは微妙な面持ちになる。
たしかにディルクの言うとおりではあったが、それを初対面の青年に見透かされるとは思ってもみなかったからだ。
「リオネルが、きみはおれにまったく似ていないと言った理由がよくわかったよ。ジークベルトという名前だったね? ジークベルトは、おれじゃなくて、リオネルによく似てる」
「ぼくが、リオネル・ベルリオーズに?」
予想だにしなかった言葉に、ジークベルトは不意打ちを食らった様子だ。
「どのあたりが似ているんだ?」
「印象だよ。もちろんおれはまだ、きみのことをよく知らないけどさ。なんとなくね」
わかるようでわからぬディルクの説明に、ジークベルトはやや考えこむような表情になった。
「雨が強まっています。話はあとにして、とにかく宿に戻りましょう」
ディルクとジークベルトを促すと、マチアスは、騒ぎを聞きつけて駆けつけた憲兵らに捕らえた賊を引き渡す。
三人は雨のなかを、逗留先である宿に向かって歩きだした。
すぐ前を歩むジークベルトの金糸の髪を見ながら、マチアスは思う。
縛り上げた際に、賊の黒衣が剥がれるのをマチアスは見た。彼らは容姿からは察するにローブルグ人のように見受けられた。
ジークベルトが、同じローブルグ人である刺客に狙われる理由はいったいなんなのか。
なぜジークベルトは自らを襲った敵の正体について、探ろうとしないのか――。
この時点でマチアスには想像もできなかったが、捕らえられたこの賊が、今後の行方を大きく左右することになった。
憲兵に引きたてられた賊は、意識を取りもどすと同時に自ら舌を噛み切って命を絶った。
非常によく訓練された手錬である。
――だが。
命を絶った男のうちのひとりの身元が判明した。むろん正体を明かすようなものはなにひとつ身につけていなかったが、役人のなかで、その風貌に見覚えがある者がいたのだ。
賊は、以前から行方が分からなくなっていたという、シュトライト公爵家に連なる貴族の子弟だった。
この事件はただちに極秘で上層部へ報告され、その日のうちにはフリートヘルムの耳に届くことになった。
憲兵の話では、異国人らしき若者が「狼藉を働いた者」であると言って引き渡したということ以外に、なんらの情報もない。これでは事件の全貌が見えてくるはずもないが、かような状況においてフリートヘルムは確信していた。
フリートヘルムの動きは速かった。