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一方レオンは、宿を飛び出したアベルを必死に追いかけた。が、なかなか追いつかない。
「アベル、待て!」
レオンの足が遅いわけではない。アベルが速いのだ。速いうえに、今は投げやりになっているので、見ていて危なっかしいほどの走り方である。
「転ぶぞ、アベル! 少し速度を落とせ。前を見ろ。木にぶつかったら痛いぞ!」
あれこれ叫びながら、どれくらいアベルのあとを追いかけていただろうか。レオンはふと気がつく。
――街の中心から離れつつある。
全速力で走るアベルについていけば、すでにまわりに商店はなく、人気もなくなり、薄暗い木立のあいだの道に入っていた。
方向を間違えているぞ――そう叫びかけようとしたとき、レオンは突然目のまえになにかが降ってくるのを見た。
いや、それは目のまえだけではなく、レオンの頭上から降り注ぎ、すっぽりとレオンを覆った。
「な……!」
驚く以上に、一体全体なにが起こったのかわからない。レオンにとっては、まったく経験のない出来事だった。
視界が悪く、身動きすればするほどなにかに絡め取られていく。これはいったいなんだろう。知る物のうちで最も近いものは『網』――だろうか。
もがいているうちに、まるで森の熊のごとく罠にはめられたことを知った。
頭のなかまで真っ蒼になったそのとき、背後から声が響く。
「レオン第二王子殿下、お身柄をお預かりします」
後ろを振り返ろうとしたが、すぐにそれを断念したのは、前を走っていたはずのアベルが引き返してくる気配を感じたからだ。レオンに何事かが起こっていることに、アベルは気づいたようだ。
「レオン殿下!」
引き返してくるベルリオーズ家の従騎士に、レオンは咄嗟に「来るな!」と叫ぶ。
レオンは何者かに狙われた。おそらく相手の目的は王子である自分。――とすれば、アベルを巻き込んではならない。
「こっちへ来るな、アベル!」
叫ぶが、むろんベルリオーズ家の家臣には、自国の王子を見捨てて逃げる者などひとりとていない。銀色の網の目の隙間から、レオンはアベルが剣を鞘走らせるのを見た。
「やめろ、アベル。剣を抜くな!」
アベルが強いことはレオンも充分承知している。容易に負けるはずがない。だが、背後から響いた声は、ただの窃盗や人攫いのようには感じられなかった。
「相手は盗賊などの輩ではないかもしれない!」
レオンの背後でいっせいに剣を引きぬく音が反響する。その音は、軽く十人は超えているようだった。レオンの顔に焦りの色が浮かぶ。なんとか網のようなもののなかで背後を振り向くと、やはりひと目では数え切れぬほどの賊の姿。
アベルひとりに、大の男たちが斬りかかる姿をレオンは目の当たりにした。
だが、臆する様子もなくアベルは剣をひらめかせる。振り落とされる剣を刎ね返し、返す勢いで相手の胸元を切り裂き、直後には身をかがめて左右からの攻撃を避けると、隙のできた敵の腹に剣先を突き刺す。
さすがはベルトランの従騎士だ。神技のごとき剣裁きで、アベルはつぎつぎに賊を倒し、地面に血の海を作っていった。
けれど、多勢に無勢。助太刀に行かねば――いや、そもそも足を引っ張っているのは自分なのだ、ならばどうすればいいのだ、などとひとり焦りながらレオンは網のなかでもがくが、直後に手足を捕らえられて動きを封じられる。
奥歯を噛みしめて振り返れば、先程の声の主が他の仲間と共にレオンの手足に鉄の枷をはめようとするところだった。
相手は、赤味がかった癖のある茶髪と、血管が浮き出て見えるほど逞しい体躯の持ち主である。
「なにをする!」
むろんレオンは抵抗するが、網のなかでは思いどおりに動くことができない。
暴れるレオンに強引に枷をはめ動きを封じると、癖毛の男はずっしりと重みのある足取りで、乱闘が繰り広げられている渦中へ向かった。
「逃げろ、アベル! おれのことはいいから、リオネルのもとへ行くんだ!」
警告の声を発するが、男はすでにアベルのそば近くまで来ていた。そして次の声を発するまもなく、アベルの剣と男の剣が交わるのを、レオンは見た。そして悟る。
やはり男は筋骨隆々たる肉体だけではなく、抜群の腕を持っている。
刃を噛みあわせることになれば、不利だということにアベルは気づいているようだ。巧みに敵の攻撃を受け流し、相手の背後にまわろうとしている。
この男ひとりを相手にしていたならば、アベルにも勝ち目はあったかもしれない。だが、敵は無数にいる。
強敵の背後にまわろうとするアベルに、方々から別の剣先が向けられる。それらを鮮やかに打ち返す。絶望的とも思えるこの状況で、落ち着き払っている――あるいはそのように見えるのは、さすがはアベルだ。
それでも、勝敗は見えていた。
茶髪の男の剣が、アベルの胴を切り裂くように斜めに滑る。一切の迷いもなく相手の命を奪おうとする、容赦のない剣裁きだった。
ひやりとレオンの背中に嫌な汗が流れる。
「――殺すなッ!」
絶叫に近いレオンの叫び声が上がり、男の剣がわずかに勢いを失った。その瞬間、アベルは男の懐に飛び込む。敵の心臓を一突きにしようとしたアベルだが、けれど突如、跳ね返されて後方へ倒れていく。
アベルの鳩尾を、男が蹴り上げていたのだ。
飛ばされるようにして地面を滑ってから、アベルは砂の上で身動きしなくなった。
「アベル!」
声を上げた直後、レオンも自らの腹部に鈍痛を感じる。
――息が詰まり、視界が揺らぐ。
「くっ……。リオネル――」
従兄弟の名をつぶやきながら、レオンは意識を手放した。手には、銀色に光る網を握りしめながら。
+++
「そうか、ジュストは再びラクロワへ発ったか」
寝台に腰かけたまま、クレティアンは直臣に言葉をかける。
けっして常に寝ていなければならないほど病が重いわけではない。だが、食事が喉を通らないために、活発に動き回る体力はなく、日中であっても自室で休んでいることが多くなっていた。
主が衰弱していく様子を目の当たりにしている執事のオリヴィエは、面には出さぬものの、心労の色が瞳の奥にちらついている。
一方、武人であるクロードは、己の役目を懸命にこなすことによって、主を少しでも安心させ、病の治癒に貢献しようとしていた。
ジュストから受けた報告と、当面の調査方針を伝え終えると、クロードは主君であるベルリオーズ公爵クレティアンからの意見を待つ。ジュストに細かい指示は出したが、最終的な方向性を決定するのはクレティアンだからだ。
「クロード、そなたの下した判断で問題ない。従者ジャン・バトンと衛兵レオポルト・コシェの行方をつきとめぬことには、たしかな情報は得られないだろう」
「は」
「二人がナタンの行動と直接の関係があるか、現時点ではそれさえ定かではない。だとすれば、二人を探しださなければ今後の方向性もまた定まらないだろう」
病を患っていても、クレティアンの頭脳はなお明瞭として曇りがない。
「全力で捜索いたします」
頭を下げるクロードから視線を外して、クレティアンは言った。
「私は、レオポルト・コシェという兵士は知らないが、ジャン・バトンについては、ナタンのそばに仕えている姿を見たことがある」
「さようでございましたか」
「当時、私は彼の名を知らなかったが、真摯な者であるように見受けられた」
公爵の心境をどう判じてよいかわからず、クロードは黙して次の言葉を待つ。
「失踪の理由はまだわからない。現時点で憶測などして、よからぬ噂を広めぬようにしなさい。あるいは彼は――」
言いかけたものの、その先の言葉をつなぐことを、クレティアンは自ずと避けた。
「捜索に力を入れると同時に、他の角度からも事件を解明するための足掛かりを探りなさい。ひとつの方向だけに偏ると、真実を見誤る可能性がある」
「かしこまりました」
「それと」
最後にクレティアンはつけ足す。
「今回の事件は、ジェルヴェーズ殿下のお命を奪おうとしたという、重大なものだ。くれぐれも慎重に、そして、調査に当たる者たちの身の安全を確保するように」
暗に、この事件が姦計であった可能性を示唆し、ジュストをはじめ直接ラクロワにおいて調査を行う者に危険が及ばぬようというクレティアンの忠告だった。
「私もすぐに現地へ赴く予定です。家臣らの安全については、どうかご安心ください」
「頼んだぞ」
これ以上、ベルリオーズ家に仕える者たちの犠牲を増やしたくない――かようなクレティアンの心情が垣間見える。
話がひと段落すると、クレティアンは窓の外へ視線をやった。すると、どこからか子供の笑い声が聞こえてくる。
この館にいる幼い者といえば、アベルの弟……ということになっている二歳のイシャスしかいない。
青空をつきぬける笑い声は、この国が抱える懸念や、大人たちの不安とは無縁の世界にあった。
「楽しそうだな」
つぶやくクレティアンに、オリヴィエは気を利かせて「窓を閉めましょうか」と尋ねる。
だが、クレティアンは首を横に振った。
「いいではないか。この館に子供の声が響くのは久しぶりのことだ。リオネルが幼かったころを思い出す」
――あのころは、アンリエットもまだ健在で、玉座を譲らなければならなかったという苦い過去を差し置いても、クレティアンを彩る世界は輝いていた。
「今度、イシャスをこの部屋に連れてきなさい」
「イシャスをここへ――ですか?」
驚いた様子でオリヴィエが確認すると、クレティアンはふっと口元をゆるませる。
「孫の顔は、当分見ることができそうにないからな」
「……そのようなことはございません。きっと遠くない未来のことでございます」
「待つことしかできないというのは、もどかしいものだ」
その言葉に隠された真の意味を、クロードも、クレティアンのそばに控えるオリヴィエも理解している。主君の心情を察して、クロードは言った。
「どうか細細たることは我々に任じ、公爵様はお休みになられていてください」
「なにかやっていなければ、気持ちは落ち着かないものだ」
「公爵様のご息災こそが、我々ベルリオーズ家に仕えるすべての者の願いです」
瞳を閉じて、クロードの声と、イシャスの笑い声とを聞きながら、クレティアンは深く深呼吸する。そして、かすかに口元をゆるめた。
「このような体では、アンリエットに叱られるだろう。いや、厳しく叱ってくれる者がいれば、いっそ病も吹き飛ぶのかもしれないが」
「アンリエット様以外に、公爵様をお叱りになれる方などいらっしゃりません」
そう答えたのは、オリヴィエだった。
「――さようだな」
懐かしむようにクレティアンがつぶやくと、オリヴィエがクロードに目配せする。クレティアンの疲労を察し、退室を促したのだ。
クロードは深く一礼すると、若者らしい、また騎士隊長の名にふさわしいきびきびとした足取りで、部屋を辞した。
+++
ぽつり、ぽつりと雨が地面を叩く音が聞こえる。
リオネルと口論した末にアベルが部屋を出ていき、そのアベルをレオンが追いかけていってから礼拝堂の鐘が一度も鳴らないうちに雨は降りだした。
「これからどのようにして、ローブルグ王フリートヘルムとの交渉を進めていくつもりなんだ」
しばらく経ったころ、ベルトランはさりげなくリオネルに尋ねた。
疲労の色と、そしてかすかな感情の揺れが、リオネルの表情には滲んでいる。取りつくしまもなくアベルの案を退けたリオネルに、ベルトランは低い調子で告げる。
「ジークベルトに不信感を抱く気持ちはわかるが、謁見が叶う可能性があるなら、皆でジークベルトを説得しにいくというのも、ひとつの手段ではなかったのか」
リオネルは腕を組んだまま、窓の外を見つめている。
「おまえとジルを救えるなら、どんなに細い糸だって手繰り寄せたい。それはおれもアベルと同じ思いだ」
ややあって発せられたリオネルの意見は、ベルトランにとっては意外なものだった。すなわちリオネルは次のように答えたのだ。
「おれのために、アベルがジークベルトに頭を下げることは耐え難い。その思いはたしかだ――でも、それだけじゃない」
「というと?」
「ジークベルトの素性を、おれたちは知らない」
雨が地面を打つ乾いた音が、リオネルへ向けられたベルトランの眼差しを縁取る。
「とすれば、フリートヘルムが彼に対して好意的なのかどうかもわからない。なにかしらの関りがある以上、あるいは万が一友好的な関係ではなかった場合、事態は余計に厄介になる」
「なるほど」
たしかにそれは重大な点である。二人の関係は未知なのだ。つまり、まったくの部外者であるジークベルトを巻き込むことには、危険が伴うというリオネルの考えは当然のこと。
けれども、ベルトランは言いつのらずにはいれなかった。
「たしかに、ジークベルトとフリートヘルム王の間柄によって、我々も複雑な関係に絡めとられる。危険な橋は、おまえの言う通り避けたほうが無難だが、他の糸口を見つけなければ話は先にすすまない」
リオネルは窓の外をみやったまま。隠し切れない心配の色が、その瞳には宿っている。ベルトランに答える彼の口調も、どことなく心ここにあらずというふうだった。
「……王と話ができないなら、次に力のある者に働きかけるという手もある」
「国王の次に力のある者? シュトライト公爵とかいうやつか」
ベルトランに問われて、リオネルは窓から視線を外して目を伏せる。
「いや、彼は危険な匂いがする。狂信的な愛国者で、シャルムを憎んでいるという噂も聞く。話を持ちかけるのは避けたほうがいいだろう」
「ではだれなんだ?」
「フリートヘルムの姉君だ」
「カロリーネとかいう王姉か?」
「ああ、政治的な感覚に優れていると聞く」
「しかし、彼女は政治の表舞台から消えたんじゃないのか」
「表舞台からは消えたかもしれない――自らの意思によって。おそらくフリートヘルム王の立場と、政治の安定を思ってのことだろう。だからこそ、真に国の未来を考える者であるなら、我々の話に一度は耳を傾けてくれるだろう」
「なるほど」
ベルトランがうなずいたとき、宿の階段を上る音が響いた。リオネルの表情が動いたのは、言葉にはしないものの、部屋を出ていった仲間を案じていたからである。
けれど、扉が開き現れたのは、買い出しに出ていたディルクとマチアスだった。
「ああ、雨が降ってきたよ」
二人の髪には細かい水滴が付着している。エーヴェルバインでは雨に降られてばかりだと、ディルクは片手で濡れた髪をかき上げた。
「酒樽は下に置いてきた。あれを持って階段を上るのは大仕事だからね。あとで運ぶのを手伝ってくれよ、ベルトラン。ああ、アベルはここに残っていてかまわないよ。かなり重いから……」
そこまで言ってから、はたと気がつきディルクは周囲を見渡す。
「……あれ、アベルは?」
そして、もう一度ぐるりと室内を見回して、さらにあと一名足りないことを悟ったようだ。
「レオンもいないじゃないか」
リオネルが黙っているので、しかたがなくベルトランが答える。
「おそらくジークベルトのところへ向かったアベルを、連れ戻しているところだ」
「おそらく?」
意味がよくわからないという、ディルクの表情だった。
「なんでまたジークベルトのところへ行ったんだ? おそらくっていう曖昧さは、どこからくるんだ?」
リオネルが説明しそうにないので、ベルトランはわずかに肩をすくめる。
「今朝アベルは、ジークベルトを王宮へ連れてくれば、謁見を許可するとフリートヘルム王から言われたらしい」
「どういうことだ?」
怪訝な面持ちになるディルクに、ベルトランは首を横に振って見せた。
「詳しいことはわからない。アベルにもわからないようだった。ただ、指輪が関係しているようだと言っていた」
「それで、アベルはジークベルトを説得に行ったのか? レオンと二人で?」
低く唸ってから、ベルトランはこれまでの経緯を簡単に伝えた。
アベルがリオネルとの口論の末に部屋を飛び出し、レオンが追いかけていくに至ったいきさつ――それを、ディルクは眉を軽く寄せながら聞いていたが、すべて聞き終えるとリオネルへ視線を向けた。
「ふうん、なんとも言えないけど……やっぱり様子を見にいったほうがいいんじゃないか?」
リオネルはなおも沈黙している。ディルクは言葉を続けた。
「心配でたまらないって顔してるよ。意地張ってないでアベルのあとを追いかけていったらどうだ? ジークベルトのいる場所は知ってるんだろう?」
マチアスは気がかりげに二人のやりとりを見守っている。
無言のままリオネルは立ちあがった。
先程からずっとリオネルが押し黙っていることが恐ろしく、あれこれ言う自分に対して怒っているのかとディルクは一瞬身構えたが、リオネルはそのまま雨外套を掴んで、足早に扉口へと歩いて行く。
掴んだ雨外套は二着。一着はリオネルのもので、もう一着はアベルのものだった。
「雨が降ってきたから、外套を届けに行くだけだ」
去り際にそれだけつぶやくと、リオネルは部屋を出ていく。ベルトランが間髪を置かずそのあとを追った。
「素直じゃないなあ」
二人の後ろ姿を見送りながら、ディルクはつぶやく。
「こんなふうに自分の感情に振りまわされるリオネルなんて、滅多に見られるもんじゃないよ」
するとマチアスが主に言い放った。
「なにをぼんやりしているのです、ディルク様。我々も行きますよ」
マチアスに雨外套を押しつけられて、ディルクは戸惑いの声を発する。
「え、おれたちも?」
「遅れをとってはなりません」
「でも、ジークベルトのところへ行ったんだろう? べつに危険なことなんて……」
「ジークベルトというローブルグ人に、アベル殿を奪われたらどうするのです」
「…………」
どう答えてよいものかわからないという顔をしてから、けれどなんとなく納得したようなしないような表情で、「それもそうか?」とつぶやきながらディルクも雨外套を纏った。