32
いったんは引き下がったはずのシャルム使節が、再びエーヴェルバイン王宮の門を叩いたのは、翌朝のことである。代表者たるリオネルの顔を覚えていた門番は、すぐに門をひらき一行を王宮内へ迎え入れた。
思いもかけぬ再訪に慌てた官吏たちであるが、
「もう一度、フリートヘルム王との面会の取り次ぎを願いたい。聞き入れてもらえるまでは帰らない」
そう主張したリオネルに、彼らは急いで上官に事の次第を伝えにいく。
豪奢な客間に通されたシャルムの使節たちは、兵士らがいなくなった直後に行動を起こした。すなわち、使節のうちのひとりが暖炉に入りこんだのである。
むろん、これから煙突を登るのはアベルだ。
「けっして危険な真似はしないように」
暖炉の様子を確認するアベルに、リオネルが声をかけた。
「はい」
「もし見つかって追われるようなことがあれば、どんな方法を使ってもいい、ここまで逃げてくるんだ。けっしてひとりでどうにかしようなんて思ってはいけないよ」
「わかっていますよ」
暖炉内で手をかける場所を見つけたアベルは、煙突を上る準備が整う。だが上りはじめないのは、リオネルがまだなにか言いたげだったからだ。
「あとフリートヘルム王がもし――」
「そのくらいでいいんじゃないか?」
リオネルの言葉を、ディルクが遮る。
「あんまり話していると、時間がなくなるよ」
「リオネル様は、ご心配なのでしょう」
マチアスのひと言に、「気持ちはわかるけど」とディルクは苦笑する。
「そのとおりだね」
親友の意見にリオネルは同意した。
「早く行ったほうがいい。成果が得られなかったとしてもかまわないから、すぐに戻っておいで。きみが戻るまで、おれたちは誓ってここから離れないから」
このように主人に言われ、アベルは笑顔でうなずいた。
どんな危険を冒しても、アベルには帰る場所がある。安心してアベルは前へ進むことができる。
「必ず戻ります」
そう言いおいて、ついにアベルは暖炉のなかへ姿を消した。
「なんて顔してるんだ」
アベルの姿が完全に見えなくなると、ディルクがリオネルの横顔を見て再び苦笑する。
「大丈夫。おれも心配だけど……おれたちは同じ王宮内にいる。なにかあればすぐに助けに行けるよ」
励まされ、リオネルは無言で視線を伏せた。
たしかにフリートヘルムは変わり者だが、残忍な人格ではないようだ。それは集めた情報から浮き彫りになった人物像である。
それに、フリートヘルムが興味を抱くのは特に男性に対してであり、女性ではない。だからこそリオネルはアベルをひとり彼のもとへ送りだしたのだが、それでも不安は尽きなかった。
「煙突で怪我でもしなければいいけど」
「たしかにそれは心配だね」
リオネルとディルクが話していると、レオンがぽろりとつぶやく。
「ジークベルトからもらった包みというのは、いったいなんなのだろうか」
フリートヘルムの心を動かすことができるかもしれないという、謎の包み紙――だれもが疑問にも、そして甚だしく胡散臭くも思うところである。
けれどアベルはジークベルトを信じているし、見ないと約束したらしいのでだれも開けてみることはできなかった。
しかし。
「……指輪だ」
ぼそっと答える声が、五人のなかにあった。
いっせいに視線が集まった先は――ベルトラン。
「見たのか」
レオンが驚き尋ねる。
「暗くて装飾などは、はっきりしなかったが、あれはたしかに指輪だった」
「いつ見たんだ?」
尋ねるディルクに、アベルが寝入ったあとだとベルトランは答えた。窓も閉め切った部屋では当然、暗くて指輪の装飾など見えないわけだ。
「あれだけ見てはいけないとアベルが言ってたのに?」
「…………」
黙りこんだベルトランの代わりに、リオネルが答えた。
「命じたのは、おれだ」
「リオネル? おまえが?」
意外そうにディルクが確認する。
「アベルを危険な目に遭わせるわけにはいかない。中身もわからないのに、ローブルグ王のもとへ持っていかせるわけにはいかない」
「……はあ、さすが」
片眉を上げたディルクの傍らで、レオンが不思議そうな面持ちになった。
「なぜおまえが自分で包みを開けなかったのだ、リオネル?」
「それは――」
リオネルは言い淀む。いくらアベルを守るためであれ、想いを寄せている相手が眠っているあいだに、その衣服のなかへ手を入れて、目的のものを探しあてるわけにはいかない。
この苦しい作業を、申しわけないと思いながらもリオネルはベルトランに頼むしかなかった。
一方ベルトランはというと、アベルのことを「異性」というよりは「妹」のように思っているので、あっさりとそれを実行に移した。
「指輪ねえ……」
ディルクが腕を組む。いったいどのような指輪だったら、フリートヘルムの心を動かすことができるのか。
「フリートヘルム王は貴金属収集の趣味があるのか?」
レオンが微妙な面持ちで首をひねると、ディルクは口を歪めた。
「変態王だから、他にどんな趣味があってもおれは驚かないけどね」
「心に思っても、ここでは口を慎んでください、ディルク様」
ここはローブルグ国内であるだけではなく、国王の住まうエーヴェルバイン王宮である。マチアスの叱責に、ディルクはしかたなさそうに肩をすくめる。
「フリートヘルムのそばに、だれかがいなければいいが」
二人のやりとりを横目にベルトランがつぶやく。
アベルが暖炉から出てきたときに、もしフリートヘルムの近くにだれかが――特にシュトライト公爵のような行動の読めぬ相手、もしくは近衛兵などがいたら、よからぬ事態に発展する可能性もある。
「王はあまり人を寄せ付けず、ひとりで過ごすことが多いと聞いている」
そう答えるリオネルだが、彼が安心しきっているはずがなかった。
「なにが起こっても、動ける準備だけはしておこう。あとは、神々がアベルを守ってくれることを信じるしかない」
アベルを待つ五人がいる部屋は、煌びやかで美しく、けれど異国人である彼らに対してはどことなく冷たく余所余所しい。
王宮の窓から見えるエーヴェルバインの街は、精巧な玩具を集めて作った街のようであり、その傍らを流れる川は、晴れ渡った空を映す鏡のようだった。
†
官吏のひとりが慌てた様子で部屋に入ってきたのは、朝食もとうにすみ、政務の山に囲まれながら、ひとつずつそれらに目を通していたころだった。
転がりこむように入室した官吏は、シャルム王国からの使者が再び王宮を訪れたことを告げた。
「へえ、それで?」
フリートヘルムが政務から顔を上げずに尋ねると、管理は目を白黒させる。
「ですから、ベルリオーズ家のリオネル様と、レオン第二王子殿下が、謁見が叶うまでお帰りにならないと……」
「ならば好きなだけ滞在させておけばいい。退屈に耐えきれなくなれば帰るだろう」
「ですが、滞在中のお部屋やお食事は――」
「勝手に居座ると言っているのだ、我々が提供する必要はない」
「おそれながら、相手は高貴な方々でございます」
「それがなにか問題か」
「問題……? いえ、問題といいますか、そこはやはり、それなりの対応をしなければ――」
当然、相手の立場を考えれば、ローブルグ宮殿滞在中に、硬い床に寝かせ、一切の食事を提供しないなどということになれば、大変な非礼に当たる。
だが、あらためて国王に「なにか問題なのか」と問われたら、あまりにも当たり前すぎることなので答えようがない。
「ユスターの使者もまだこのあたりをうろうろしているらしいではないか。各国の使節がエーヴェルバインに集まり賑やかなことだ」
あまりに呑気な口ぶりなので官吏は閉口した。と、ふと官吏はなにかに気づいたように、視線を部屋の周囲に巡らせる。
「今、なにか壁から聞えたような……?」
「そうか?」
平然とフリートヘルムは答え、そのまま嘆願書やら報告書やらをめくりつづけている。
官吏はそんな国王のかたわら、ゆっくりと前へ出た。彼が近づいていったのは、左手に位置する暖炉のほうである。が、すぐにフリートヘルムに呼びとめられた。
「ニクラス!」
「は、はい!」
突然、鋭い調子で名を呼ばれたので、ニクラスはびくりと肩を揺らす。普段のフリートヘルムからは想像できぬ、威厳のある声だ。
自ずとニクラスは動きを止めて、背筋を伸ばした。
「なにをしている。早く客間に戻って、私の言葉をシャルムの使節に伝えなさい」
「……暖炉のほうから、なにか音がしたような気がするのですが」
「気のせいだろう」
「え」
迷いのない国王の口ぶりに、ニクラスは己が耳を疑う。なぜそこまでの確信をもって言い切れるのか。たしかに煙突から気配が感じられるというのに。
「しかしながら陛下、もし何者かが隠れていれば、御身に危険が――」
「案ずるな。私を害して得する者など、今はいない。シュトライト公爵の孫を養子に迎えたらどうかわからないがな」
言葉を失くすニクラスにフリートヘルムは再び命じる。
「とにかく私はだれにも会わない。シャルム人であれユスター人であれ、我が国に害を加えぬかぎり好きなようにさせておけ」
「……は、はい」
怪訝な面持ちながらも、国王の勢いに押されてニクラスはぎこちなく一礼し、退室した。
室内に静寂が訪れる。
フリートヘルムが繰る紙の音だけが響く。そして、書き物机に視線を落としながら、フリートヘルムは言った。
「お転婆娘、出てきても大丈夫だ」
煙突のなかから返ってきたのは、沈黙だ。だが、それは声にはならない返答でもあった。
服がこすれる音がして、やがて煤にまみれた姿が暖炉に現れる。この日は顔を拭う手ぬぐいを用意してきたらしく、煤まみれの少女はすぐに自らの顔と手足を拭いて、床に跪いた。
書類から顔を上げたフリートヘルムは、その姿を見やって笑う。
「また来たのか? 私の頬を平手で殴っておいて、再びここへ来るとはなかなか度胸がある」
「その節は、失礼しました」
「失礼ね……いや、新鮮な体験だった」
「…………」
アベルは沈黙した。
「なかなか頬を張ってくれる相手などいないからな。それも『大変態王』などと叫びながら」
言葉にして突きつけられれば、やはりとんでもないことをアベルはしてしまったということを再認識させられる。しかたなしにアベルは謝罪した。
「……申しわけございませんでした」
あまり心がこもっているとは思えぬ声音だったが。
フリートヘルムは立ちあがり、跪くアベルのもとへ歩み寄る。アベルは内心でひやりとしたが、あくまで姿勢を崩さなかった。
「ここへ戻ってきたということは、私の要求を受け入れることにしたのか?」
「まさか!」
思わず怒ったように大きな声を上げてから、相手のからかうような眼差しに我に返り、アベルは咳払いをひとつした。いけない。フリートヘルム王の雰囲気に呑まれ、翻弄されないようにしなければ。
懐からアベルは小さな紙の包みを取り出し、フリートヘルムのまえに差しだす。
これはなにかと無言で尋ねてくる相手の気配を、アベルは感じた。
「友人から預かったものです。あなたがこれをご覧になれば、わたしの願いを聞き入れてくれるかもしれないと聞き、その言葉を信じてわたしは再びここへ参りました」
「そなたもおもしろいが、そなたの友人とやらもずいぶんと個性的だな」
笑いながらジークベルトはアベルの手のうちにある包みに視線を落とす。
「そのようなもののために、わざわざ再び私のもとへ来たのか」
「どのような些細な可能性にも、わたしは望みをかけます」
「そなたは、よほど主人の力になりたいようだな」
「リオネル・ベルリオーズ様は、わたしのすべてです」
「……それほどまでに忠心を尽くされたなら、リオネル殿も幸せだろう」
「どうか、ご確認を」
「中身はなんだ?」
「知りません」
アベルは正直に答える。
「知らない?」
さすがにフリートヘルムも怪訝な表情になった。
「中身を見てはならないと、友人からは言われました」
「――つくづくおもしろい娘だな」
男です、というアベルの返答を無視しながら、フリートヘルムはアベルの差し出す包みに手を伸ばした。
「私の心が動かせるものがあるとすれば、私も見てみたいものだが」
フリートヘルムはおもしろがるように包みを指先でつまみ、中身を開けぬまま窓にかざす。かざしてから、ふと真面目な顔つきになって、手のひらに包みを置き直し、器用に開きはじめた。
国王の一挙一動を、アベルは瞬きもせずにじっと見守る。なにが出てくるのか、アベルはまったく知らない。紙が解けていくたびに緊張は高まった。ジークベルトは、いったいアベルになにを託したのだろうか。
紙を開き終えたフリートヘルムは、窓辺へ寄り、包みのなかに入っていたものをゆっくりとつまみ上げた。つまみ上げたものに、それは長いことフリートヘルムは見入っていた。
窓からの光が眩しくて、フリートヘルムの表情は読み取れない。だが、彼の手にしているものの輪郭は、くっきりとした黒い影となって確認できた。
――指輪だ。
男性用のものだろうか、女性のものにしてはやや大きめのようである。
それからフリートヘルムは、指輪を包んでいた紙へ視線を落とし、走り書きがされているらしく、それに目を通していた。なんと書いてあるのか、アベルには見当もつかない。
「これをどこで手に入れた?」
先程とは別人のように真剣なフリートヘルムの声音が、アベルの耳に届いた。その声音から、たしかな手ごたえがあったことをアベルは感じとる。
「先程も申したとおり、友人から預かったのです」
「名は」
「言えません」
「なぜだ」
のんびりとした雰囲気の国王とは思えぬほど、鋭い声だった。けれどアベルが気圧されることはない。
「その人からもらったことを伝えないという約束で、これを預かりました。脅されようとも、たとえ拷問にかけられようとも約束は守ります」
「その者は今どこにいる」
「言えません」
きっぱりとアベルが答えると、フリートヘルムは蒼い瞳の双眸を細めた。
「そなたのような者だからこそ、ジークベルトはこれを預けたのだろうな」
――ジークベルトという名に、アベルははっとする。
その表情を確認して、フリートヘルムは確信に至る面持ちになった。
なにをされても口を開くつもりはないと顔に書いてあるようなアベルの険しい表情に、フリートヘルムはほんのわずかに口元を笑ませる。
「安心しろ、そなたのような娘を脅したり、力ずくで聞きだしたりはしない。これを包んでいた紙には、そなたの願いを聞き入れてほしいと綴ってある」
少なからずアベルは驚かざるをえない。相手はフリートヘルムだ。一市民の立場でジークベルトはよくそのようなことを書いたものだ。
けれど、ジークベルトには多少なりとも確信があったに違いない。フリートヘルムが受け入れるだろうという確信が。
「――わたしの主人と接見いただけるのですか」
アベルが尋ねると、フリートヘルムは暖炉のほうへ歩み寄り、そしてひざまずいたままのアベルの手を取った。アベルの小さな手のひらに、フリートヘルムは指輪を乗せる。
「これはジークベルトのものだ。返してきなさい。そして、そなたがジークベルトをここに来るように説得できれば、私はそなたの主人と会おう。約束する」
眉を寄せてアベルはフリートヘルムを見つめた。
いつもとぼけたことばかりをいっている王だが、今、間近で見るその人の瞳は真剣そのものである。
「そなたがジークベルトとの約束を守ったように、私もそなたとの約束を守る。必ずだ。ジークベルトをここへ連れてくれば、シャルムの使者と正式に対面しよう」
沈黙のうちに、アベルは考えを巡らせた。
ジークベルトがこの話に応じるかどうかはわからない。それに、アベルの脳裏によみがえる言葉があった。それは……。
――ジークベルトには、もう会わないでくれないか。
よみがえるのは、リオネルの声である。
『友人として話すことと、助けを求めることとは違う。情報をもらったり、フリートヘルム王との足掛かりを期待したりするのは、もう今回で最後にしてくれないか……』
アベルは唇を噛みしめる。
なぜ――。
どれくらい黙していただろうか、ついにアベルはぐっと顎を引きうなずいた。
交渉が進展する。捨てられるわけがない、この無二の機会を。
「わかりました。――やれるかぎりのことを、やってみます」
こうしてアベルとフリートヘルムの交渉は成立したのである。