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宿屋の窓に差していた月明かりは、ここエーヴェルバイン王宮の離宮ツィンドルフ城もまた、無言で包んでいる。
ツィンドルフ城は、エーヴェルバイン王宮のそばに広がる丘に建っており、さほど大きくない城である。
エーヴェルバイン王宮が造られるまで国王の居城として使われていた建物であるが、手狭であったために使われなくなり、エーヴェルバイン王宮完成後には離宮として改築された。
かつては王の愛妾が住まったこともある城だが、現在はフリートヘルムの姉カロリーネが住まっている。
馬をかければ十分もかからぬ場所にあるというのに、このところ二人の姉弟は互いに行き来していなかった。特にカロリーネが王宮に近寄らなくなったのだ。
代わりに両者をつなげているのは、アルノルトのかつての家庭教師ヒュッターである。
彼は、フリートヘルムに仕えつつ、頻繁にカロリーネに呼ばれては王宮の様子をツィンドルフ城まで報告しにいっていた。
「そう、ユスターに続いて、シャルムの使者が……」
三十四歳の王姉は、明るい赤毛と紺碧の瞳を持つ佳人である。
赤毛は、金髪と並んでローブルグ人に多い髪色であるが、カロリーネのそれは夕焼け色や薔薇の赤というよりは、朱色の硝子を思わせる透明感のある色彩だった。
豊かな髪を片方の肩から胸元に流した夜着姿で、カロリーネはヒュッターを迎えていた。
三十四歳とはいえ、未だ瑞々しい美しさをまとい、そして未婚であるのだから、男性のまえにそのような姿を晒すのはいかがなものであるかと思われるが、カロリーネはいたって気にしておらぬ様子である。
カロリーネは、そのような類の女性だった。
「フリートヘルムは、どのような対応を?」
「ユスターと同じく、ひとめも会わずに追い返したようです」
形のよい眉をひそめて、カロリーネは考えこむ。
「相手は、現国王の実子であるレオン第二王子だったのでしょう?」
「いまひとりは、ベルリオーズ家の嫡子だったとか」
小さく溜息をついて、カロリーネは窓のそとを見やった。
かつての王宮であったツィンドルフ城は丘のうえにあり、エーヴェルバイン王宮や街のあるほうを向いている。窓から王宮の方角を見やり、カロリーネは双眸を細めた。
「このままでは、北の脅威に対しローブルグは無防備です。ユスターか、シャルムか――どちらの大国と手を結ぶか決断しなければ、時が来たとき、我が国はエストラダに対抗できないでしょう。いえ、ローブルグだけではありません。大陸西方にあるすべての国が危機に晒されています」
ローブルグは大小含め七つの国と国境を接しているが、そのうち最も大きな三国がシャルム、ユスター、リヴァロであり、あとは皆小国である。
リヴァロはシャルムとの同盟国であり、シャルムと手を結ぶことになれば自ずとリヴァロとも同盟を組むことになる。
「姫君はどちらと手を携えるべきとお考えで?」
「あなたはどうなのです、ヒュッター?」
問い返されてヒュッターはしばし黙した。それから、言葉を選ぶように答える。
「シャルムは長きにわたる我らの敵。かつての大戦でシャルム軍に殺された我が国の兵士らのことを思えば、同盟を結ぶのはユスターと思われます」
「そうね」
「さらに、シャルムとリヴァロが同盟を組んでいる以上、有事の際には、両国は力をあわせてエストラダに対抗することでしょう。万が一、両国がエストラダに敗れれば、次なる戦場は我が国を含めた最西端の国々です。そのときには、ユスターと手を組んでいなければ、我々はいよいよ窮地に追い込まれます」
「つまり、あなたはユスターと手を組むべきと?」
「はあ、しかし……」
「なにか懸念があるのですね?」
「ユスターはシャルムと友好的な関係にあったはず。ここにきて突然、我が国と同盟を結び、シャルムを孤立させようとするという動きには、腑に落ちぬものがあります」
ヒュッターの意見を聞き終えると、カロリーネはうなずいた。
「あなたの言うことはよくわかります。わたしも同じことを考えました」
カロリーネはヒュッターに質問を重ねる。
「フリートヘルムは大陸の情勢と、我が国の行く末について、どう考えているのでしょう?」
「――陛下の頭にあるのは、ただひたすらアルノルト様のお子を見つけだすこと、それだけと思われます」
「困った子」
つぶやいてから、カロリーネは再び王宮のほうを見やった。
「あの子は未だに二十年前の事件のなかで生きているのですね」
「……アルノルト様は、フリートヘルム陛下を腕に抱きしめながら自害なされました。それも、陛下の短剣で」
「そう、フリートヘルムはかわいそうでした。まだ十歳という年で、引っ込み思案でおとなしく、ただアルノルトお兄様に憧れて育ってきた――それなのに、兄の死を目の当たりにしなければならなかったのだから。お兄様の最期のお顔と同じくらい、あの瞬間のフリートヘルムの表情を覚えているわ」
「ご自身には王たる資格がないと、そう考えておられるのですね」
「ですが、あの子はすでにこの国の王なのです。きちんと役目を果たしてもらわなければなりません。そのためにわたしは王宮を離れ、ここに暮らしているのですから」
カロリーネがかつて王宮にいたころは、政治に対してやる気の感じられないフリートヘルムに多くの者が愛想を尽かし、重要な相談を姉であるカロリーネに持ちかけるようになっていた。国民のあいだでさえ、玉座に相応しいのはカロリーネだという意見が飛び交うようになったのだ。
このままではフリートヘルムの権威と立場が揺らぐと判断し、カロリーネは自らツィンドルフ城へ移り、政治の場から離れた。
けれど、カロリーネが王宮から去ったからといって、フリートヘルムが政に関心を示すようになるということはなかった。
むしろ、カロリーネの不在とフリートヘルムの態度をよいことに、シュトライトが権力を増大させ、ついには自らの娘のうちのひとりをフリートヘルムの妃にまでしてしまったのだ。むろんカロリーネはこれに反対したが、すでにフリートヘルムが了承してしまっていたので婚姻は成立することとなった。
兄を追い詰めたシュトライトと、その分身のような野心家のマティルデと共に、カロリーネは王宮で暮らすなど真平御免である。
こうして、そのままカロリーネはツィンドルフ城に住み続けているわけだ。
「私めの意見は述べました。次は、姫君のご意見をお聞かせ願えますか」
促されて、カロリーネは口を開いた。
「先程のあなたの意見とさほど変わりありません。ですが、結論は少し違います」
そう前置きしてから、言葉を続ける。
「ユスターが西方諸国と手を結び、シャルムを敵に回そうとする理由――それについて、諜者からある報告を受けました」
大国においては、しばしば他国の情勢を探るために諜者を送りこむ。シャルムはむろんのこと、ここローブルグ王国も周辺諸国へ探りを入れていた。
「いかなる報告で?」
「エストラダは強国……北方諸国は猛烈な勢いで征服されています。そして彼の国は、いずれ必ずシャルムに攻め入るでしょう」
「シャルムの竜に喰らいつく、北方の鷹――ですね」
エストラダはすでにフエンリャーナとアカトフ、エルバスの都を落とし、現在はブルハノフの王都へ攻め入っている。もしブルハノフが攻略され、さらにはクラビゾンとネルヴァルが攻め落とされたならば、竜に喰らいつく巨大な鷹の領土図が完成する。
エストラダの侵略の様子からすると、どうも鷹の図を完成させようとしているかのように見受けられるのだ。
ならば、鷹の図が完成すれば、次に狙われるのはシャルムだ。
竜の形をしたシャルムに、鷹は喰らいつく形をしている。シャルムという大国を手中に収めたなら、エストラダにとっては東西に残る諸国の王都を焼きつくすことなど、難しいことではないに違いない。
「ユスターは、エストラダの侵攻をシャルムで終わらせようとしているようです」
「シャルムを盾にするということですか?」
「少し違います」
静かにカロリーネは首を横に振った。
「シャルムを生贄にするということです」
「といいますと?」
「ユスター、アルテアガ、ローブルグで手を組み、北の脅威に備えて動くことのできないシャルムを背後から攻め落とし、それから……」
「それから?」
「エストラダとは戦わずに、交渉に持ち込むのです」
「交渉、ですか」
「シャルムを差し出すことを条件に、エストラダと正面から戦うことを避け、かつこれ以上西には侵攻しないという約束をさせようということです」
「なるほど……」
想像を超えるユスターの狡猾さに、ヒュッターは言葉を失う。だがたしかにこの大陸に吹き荒れようとしている戦いの嵐から逃れるためには、賢明な選択なのかもしれない。
すさまじい勢いで侵略を続け、勢力を拡大するエストラダと正面から戦うよりは、むしろシャルムを周辺国で包囲して征服し、エストラダと対等な立場で交渉に臨んだほうが有利だ。
「シャルムはリヴァロと同盟国であり、かつ我が国と手を携えようということは、ユスターの動きを警戒するとともに、少なくともこの三国で力を合わせて北方に対抗しようというつもりでしょう。北との戦いを見据えるシャルムか、それとも一国を犠牲にすることによって自国を守ろうとするユスターか、どちらと手を組むべきか……」
カロリーネは、エーヴェルバインの夜空に輝く月を見上げた。
「それに、ヒュッター。我が国には外交以外にも懸念があります」
「フリートヘルム様のことをおっしゃっているのでしょうか?」
「あの子のこともそうですが、シュトライト公爵の動きに不穏な気配があるようです」
それはヒュッター自身も、深く懸念しているところである。政治の中枢にいる官僚らが、次々に失脚している背景にはシュトライト公爵の陰謀の影がちらつく。
だが、フリートヘルムの指示がない以上、対処のしようがないことだった。
「今わたしが話したことをフリートヘルムに伝えてください。そして決断をするように、説得してください」
「は……ですが、姫君。陛下はもはや私の助言など聞き入れてはくださいませぬ。どうかカロリーネ様御自ら、王宮にお越しになることはできませんでしょうか」
「わたしはフリートヘルムに真の王となってもらいたいのです――わたしが王宮へ赴き、あの子にわたしの意見を受け入れさせることになれば、政治はもはや王姉カロリーネが行っているとの噂が再び街に広がることになりかねません」
「それでも、姫君――この国を守るためには、選択の余地がないのです」
しばし黙りこんでから、カロリーネは小さく溜息をついた。
「フリートヘルムは昔からなにを考えているかわからないところもありますが、本当は聡明で、責任感の強い子です。わたくしは、フリートヘルムを信じています」
無言でヒュッターはうつむく。
月は無表情で、エーヴェルバインの街を照らし続けていた。
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巨大な影が、床を伝い壁にまで伸びている。不気味に揺らぐ影は、闇に巣食う魔物を思わせた。
光源は、たった一本の蝋燭。
外光の届かないこの場所で、この日も密談が行われていた。
「――居場所を突き止めた」
シュトライト公爵の低い声が石の壁に反響する。
向かいの席で男が息を詰めた。ユスターから派遣されている年配の使者だ。
「国王陛下よりも先に見つけ出されるとは……」
「こちらは命懸けだ。気儘な陛下とは探し方が違う。ベルリオーズ領で捕らえ損ねてから、ようやく見つけることができたのだ。今度こそ失敗はできない」
「いったいどこにおられるので?」
「それはまだ言えぬ」
「命を奪うおつもりですか?」
「むろん」
「いや、しかし……計画が露見すれば、大変なことになりますぞ。御身だけではなく、マティルデ王妃様もただではすまされないのでは」
事の大きさに躊躇う気配が、使者の声には滲みでいている。
窓がなく、風も入らないので、形を崩さぬ炎のもとで蝋燭は静かに涙を流していた。
「あの者が戻れば、陛下は王位をお譲りになるやもしれぬ。王姉殿下がそれを機に王宮に戻ってくればなおさら厄介だ。そうなるまえに片をつけねばなるまい。充分おわかりであろう、モーリッツ殿」
モーリッツと呼ばれたユスターの使節は、しばしの沈黙を置いてからうなずいた。
「遂行できるというたしかな自信がおありなら、我々はそれを信じましょう。アルノルト殿下のお子がいなくなれば、我々も貴国と手を組みやすくなります」
「ユスターの後ろ盾があれば、私も心強いところ」
満足げに顎髭に指先で触れてから、シュトライトは探る目つきをした。
「ところで、そちらの状況はどうなっている?」
問われてモーリッツは声を低める。
「こちらも探しあてました。シュトライト様のご助力の賜物です」
「やつらはどこに?」
通りの名前と、宿屋の名称をモーリッツは告げる。
「今はザシャが追っています。あとは、いかにして捕らえるかというところ」
「あと一歩だな。しかし、相手が相手だ。貴殿こそ一歩間違えば首が飛ぶどころではすまされまい。捕らえるときこそ充分に気を払わなければ」
「むろん王族に直接危害は加えません」
「どうやって捕らえるつもりだ」
「こちらも、いろいろと策を練っております」
思わせぶりな口調に、シュトライト公爵はわずかに目を細める。
「失敗すれば、私はそなたらを庇うことはできない。わかっているだろうな」
「むろん、承知しております。ザシャはユスター一の手錬――必ずやうまくやってみせます」
かすかに顎を上げながら、シュトライトはうなずいた。相手が納得したのを見てとると、モーリッツが重々しく口を開く。
「――つきましては、閣下とここでお会いするのは、今日で最後といたしたく存じます」
「なぜだ」
怪訝な面持ちになったシュトライトの耳に、他に聞く者もいないのに、モーリッツは顔を寄せて耳打ちする。表情を動かさずに、シュトライトはそれに聞き入った。
話が終わると、シュトライトは完璧に整えられた顎髭をさする。
「――なるほど、わかった」
部屋を照らす蝋燭は残りわずか。
長いこと話しこんでいた男たちは、扉を押し開いて部屋を出ていく。吹き消された炎のあとには、白く細い煙が揺らめきながら闇をさまよっていた。