29
アベルの返答に室内の空気が一変する。
「ジークベルトから預かったものの中身はわかりません。ですが、これを持っていけばフリートヘルム陛下はきっと話を聞いてくれると、ジークベルトから言われました」
室内は静かだ。
窓の外では、まだ激しい雨が降り続いていた。
「……本当かどうか、確証はありません。でも、わたしたちには他に足掛かりがないのですから、どんな小さな可能性にもかけてみたいと思っています」
静寂は続いた。
どれくらい雨音を聞いていただろうか、しばらくして「う~ん」とディルクが唸る。
「いったい、ジークベルトってやつは信用できるのか? そんな都合のいい話があるとはとても思えないけど。なにしろ、リオネルやレオンが行っても面会さえできなかったのに、なにやら謎めいた品を持って行ったら話を聞いてくれるなんて、都合がよすぎないか? それに一度忍び込むことに成功したからといって、再びうまくいくとはかぎらないぞ。今度こそ王宮で見つかれば、無事ではすまされないだろう」
「たしかに、失敗する可能性はあります。話も聞いてもらえない可能性のほうが高いでしょう。でも成功するかもしれません。なにもしなければ、失敗も成功もしない代わりに、リオネル様とジルさんを助けることもできません。ならば、成功するほうに賭けてみる価値はあるのではないでしょうか」
「まあ、それはそうだけど……」
アベルに説得されると不思議と弱いディルクである。言い返す言葉を失い、視線だけでレオンに助けを求めた。
視線を受けたレオンは、片眉を上げて応じる。
「おれも一度会っただけだが、ジークベルトが嘘つきだとか、悪人だとか、そういう類の者だとは思わなかった。だが、せめてジークベルトから預かったものの中身を確認してから、本当に王宮に赴くべきかどうか判断しても遅くはないのではないか? 一介のローブルグ人が、フリートヘルム王に会う足掛かりをつくることができるとは、到底思えないのだが」
ディルクはレオンの言葉に幾度も深くうなずいた。
一方、アベルは声の調子を落としつつも、次のように答える。
「……これを渡されたとき、中身を開けて見てはならないと言われました。約束を破ったときには効力を失うと」
「どこかの昔話か、迷信のようだな」
「見ないと約束したので、開けるつもりもありません」
「あいかわらず頑固だな」
つぶやいてから、やや険しい視線をアベルから受けた気がして、レオンは咳払いした。
「いや、約束を守ることはいいことだ」
よくわからないまとめ方をしたものの、結局レオンもアベルに論破されたようだ。
すでに二人攻略されたので、次に口を開いたのはマチアスである。
「ジークベルトという人物は、信用に足る者なのですか」
この場にいる者のなかで、ジークベルトと面識があるのは、アベル、リオネル、そしてニーシヒで仕立屋を紹介してもらったレオンだけだ。
ベルトランも先程『美女と美酒には、金と時間を惜しむな』で居合わせたが、成り行きを見守っていただけなので雰囲気以上のものはわからないだろう。
「印象としては、ディルクのような感じだな」
答えたのはレオンだ。
意外な答えだったようで、マチアスにしては珍しく、わずかに反応が遅れる。
「……ディルク様のような感じ、とは?」
「軽薄そうな、どこか人を食ったような印象だ」
「なるほど」
マチアスがうなずくと、
「なにが『なるほど』だ。それが“主人に似ている”という男の印象を聞く従者の態度か」
とディルクが抗議した。
――が、マチアスは素知らぬ顔で、レオンの話の続きを聞いている。
「しかし、馬鹿ではないだろうな。笑っていても、瞳の奥に真剣な色がちらつく」
そこがディルクと違うところかもしれない、と捕捉するレオンに、マチアスが「よくわかりました」と答えた。
「さっきから聞いていれば言いたい放題だな」
ディルクは文句を言いながら、アベルとリオネルを見やる。
「きみたちが抱いている印象も、そんな調子か?」
リオネルは無言だったが、アベルは思い返すような表情で答えた。
「たしかに、とても親切で、朗らかで話しやすいという意味では、ディルク様に似ているかもしれません」
「そう言ってくれるのはアベルだけだ」
感動したらしいディルクは、アベルの手を両手で握りしめる。かつての婚約者に手を握られ、途端にアベルは頬を染めた。
「ああ、たしかにこの光景には既視感がある」
ベルトランがつぶやく。同じような状況を見たことがあると思い返してみれば、つい先程アベルの手を握りしめていたのはジークベルトだ。
「話を聞いただけでは、信用できるかどうか判じかねますが――」
マチアスが言うと、ディルクがすかさず「どういう意味だ」と眉をひそめた。
「――リオネル様もお会いになったことがあるのでしたら、その印象から成るご判断に従うべきかと思います」
あれこれ論じても、最終的にはリオネルの決断に従うべきだということだ。
これまでリオネルは黙って話を聞いているだけだったが、マチアスに促され、ようやく言葉を発した。
「おれは、ジークベルトがディルクと似ているとは思わない」
長年ディルクとつきあってきたリオネルだからこそ、厚みのある言葉だった。
「ディルクのことは信頼しているが、ジークベルトに対してはけっしてそうじゃない」
「リオネル様」
抗議するようにアベルが声を発するが、リオネルは言葉を続けた。
「だが、アベルには『反対しない』と約束した。その約束は守るつもりだ」
「まさか、リオネル」
咄嗟にディルクは表情を険しくする。
「アベルを王宮へ行かせる気か?」
「アベルだけじゃない」
「は?」
「――おれも行く」
アベルは目を見開いた。リオネルも共に行くとは……。
「アベルをひとりで行かせるわけにはいかない」
「おまえが行くなら、おれも行くぞ」
すかさず名乗りを上げたのはベルトランだ。
「それならこの際、皆で行くというのはどうだ」
レオンの提案に、
「それも悪くありませんね」
とマチアスが言う。
「なんだかピクニックのようになってきたな」
微妙な面持ちでディルクがつぶやいた。
「どうやって侵入するかは、慎重に検討しよう。なにしろ、アベル以外の者は煙突には入れない」
「……ベルトランあたりは、絶対に無理だろうな」
レオンのかすかなつぶやきを聞きとったベルトランが、「なにか言ったか?」と真顔で尋ねる。慌てるレオンのそばで、地獄耳のディルクがにやにや笑っていた。
「レオンはね、ベルトランだけは絶対に煙突に入れ――」
答えるディルクの口を、レオンが塞ぐ。
もごもご言っているディルクと、なにやら奇妙な行動に出ているレオンを、ベルトランは不審げに一瞥したが、それ以上は関心を示さなかった。
レオンが大きく息を吐きながら、ディルクの口から手を離す。
「実行に移すのは明日だ。それまでに計画を練ろう」
リオネルが告げると、納得しきれぬ様子でディルクが眉をひそめる。
「それにしても大丈夫なのか? 本当にジークベルトってやつの話を信じるのか?」
ジークベルトと面識がないぶん、余計にディルクは気乗りしないようだ。親友の眼差しから視線を逸らして、リオネルは「今は、こうするしかない」と短く答える。
「他に打つ手もない。やってみる価値はあるのではないか」
言葉少なであるリオネルの代わりにレオンが意見を述べると、ディルクもそれ以上はなにも言わない。
「皆さん、まだお食事を召し上がっていないのではありませんか? 宿の主人に言って、なにか用意してもらいましょう」
気を効かせたのはマチアスだ。
「そうだな、腹を満たしてから、頭を働かせるとするか」
ベルトランが同意して、一同は遅い昼食をとることになった。
+++
敵国でリオネルらがフリートヘルム王に会うための策を練っているころ、シャルム王国の南西に位置するブレーズ領では、ジェルヴェーズの滞在によって普段とはやや異なる空気が流れていた。
左腕を負傷したジェルヴェーズだが、狩りと女が好きであるのはあいかわらずである。
そもそも軽傷であったこともあり、すでに昼間は狩猟に出かけるようになっていたし、夜には女を抱いていた。
この日も、午後にブレーズ公爵自らが参加する大規模な狩りが行われ、大鹿を仕留めて気をよくしたジェルヴェーズは、夜には上機嫌で酒をあおり、そのまま気に入った酌婦を寝台に連れこんだ。
一方、好き勝手に過ごしているジェルヴェーズとは異なり、フィデールにはやらねばならないことが少ながらずあった。
まず、ベルリオーズ領ラクロワから連れてきた虜囚のことである。
大切な切り札だ。万が一にでも、死なれては困る。
舌を噛み切らぬように猿轡を噛ませてあるが、それでは食事ができない。衰弱死させるわけにはいかないので、食事をさせるために、なんとか知恵を絞らなければならなかった。
ここで重要になのは、虜囚の心境である。
どうしても生きなければならないと思わせることが必要だ。
人の心を読む力にかけてはだれよりも信頼できる者が、フィデールのそばにはいた。最も信頼できる家臣――つまりエフセイに、フィデールはこの件を任せることにした。
夜も更けたころ。
狩りが行われていた日中や、宴会の最中はあれほど賑やかであったのに、今、ブレーズ邸は建物それ自体が寝静まっているかのようだ。
近くの部屋ではジェルヴェーズが女を抱いているのだろうが、その音も幸いなことに、厚い壁に遮られてここまで聞えてくることはなかった。
わずかに金具がこすれる音がして、ひとりの若者がフィデールの部屋に入室する。
一礼したのは、シャルム人には滅多に見かけぬほどの長身と、銀糸の髪、漆黒の瞳を持つ異国人――エフセイである。
「ジル・ビューレル様は、食事を召しあがりました」
もたらされた報告にフィデールは労いの言葉を述べてから、相手の表情を見やって、皮肉めいた笑みをこぼした。
「どうした? 人を脅すのは心が痛むか?」
「いえ……」
普段から表情に乏しいエフセイだからこそ、フィデールには些細な変化がわかる。
「心を痛める必要はない。家族もジルには生きていてほしいだろう。結果的には、互いに望む結果を導くことができるはずだ」
「……はい」
ジルに食事をさせるため、彼には偽りを伝えた。すなわち、ジルの妻もまた捕えられて別の場所に投獄されており、もしジルが自ら死を選べば、妻は処刑されることになると。
エフセイの心情を推し測るようにフィデールは言った。
「囚人は顔色を変えていただろう」
「はい」
エフセイは瞼を伏せた。
口数の少ない男である。そのうえ表情にも乏しいから、出会った当初はなにを考えているのかさっぱりわからなかったが、今はその性質こそがフィデールの気に入っているところだった。
「汚いことばかりやらされて、そろそろ嫌気がさしてきたか」
フィデールの問いに、エフセイは黙している。周囲や相手の「気」を読めるエフセイには、答えることができようはずもなかった。
「いつでも私のもとから去ってもかまわない――かつておまえにはそう告げたが、今でもその気持ちに変わりはない。嫌気がさしたら、いつでもここを去ればいい」
「お許しくださるかぎり、私は貴方様に仕える所存です」
エフセイの返答を耳にして、ふとフィデールは形のよい唇を笑ませる。
「物好きな男だな」
やはりエフセイは答えない。フィデールの言っていることがすべて本気だとわかっているからこそ、エフセイは言葉を探すことができないのだった。
――いつでも私のもとを去ってもかまわない。
それは、エフセイが家臣になることが決まったときに、フィデールが口にした言葉である。
いつだってフィデールはそのつもりでいる。
それがエフセイにはわかってしまうから、言葉を呑む。
エフセイ・ヴィノクロフという存在は、仕える主に必要とされていない――そう思うことが苦しいのではなかった。だれにも頼ろうとしないフィデールのしたたかな生き方の背後に、彼の心の闇が垣間見えるからこそ、エフセイはなんともいえぬ思いに駆られるのだ。
「ローブルグとの交渉を命じられ、さらにビューレル邸で怪我を負われて苛立っておられた殿下が、ブレーズ邸へ来てから機嫌を直された。リオネル・ベルリオーズ殿が戻ってくるまでは、このまま殿下には滞在していただこう」
「はい」
「この先、嫌なものを目にする機会はいくらでもある。それに耐えられるかどうか、考えておくのだな」
「はい」
主人の言葉をエフセイは素直に受け止める。むろん、そばを離れるつもりなどない。だが、フィデールが忠告していることの意味についてもエフセイは理解していた。
「もうすぐこの国は戦いの渦に呑みこまれることになるだろう」
フィデールが淡々と言葉を続ける。
「西方の情勢もさることながら、北方の勢いはとどまることを知らない」
西方とはユスターやローブルグの脅威、北方とは侵略戦争を繰り広げているエストラダのことだ。
「シャルムとエストラダが剣を交えることになれば、おまえは故国を敵に回すことになる」
「かまいません」
一切の迷いを感じさせない、だが、真意も読みとれぬエフセイの返事に、フィデールはしばし異国の家臣を見つめた。
フィデールとエフセイが出会ったのは五年前、ちょうど騎士叙勲を受けたフィデールが、王都サン・オーヴァンからブレーズ領ル・ルジェへ戻る途中のことだった。
エフセイは異国人であり、身元はまったく不確かであったのに、フィデールはエフセイの生い立ちや家族のこと、故国を出てシャルムまで来た理由など一切尋ねることなく、自らの家臣に取りたてた。そしてこの五年間、やはりフィデールはエフセイに過去を問うことはなかった。
今日もフィデールはなにも尋ねることなく、そのまま視線を書き物机のうえに落とす。
机に置かれているのは、今朝届いたばかりの手紙だ。
それを拾いあげ、フィデールはエフセイに手渡す。エフセイは無言で受け取ってから、フィデールの指示を待った。
「どうやら、あちらも二人の行方を探しはじめたらしい」
「さようですか」
「片方は死んでいるだろうが、いまひとりのほうはまだ確証がない。生きていたら面倒だ」
「…………」
「手紙は燃やしておけ」
エフセイは中身を読むことなく、近くにあった燭台に手紙を近づけると、炎に呑まれていくそれを暖炉に投じる。
「探し出し、生きていたら殺せ」
「かしこまりました」
灰と化した紙は、名残惜しそうに残り火をちらつかせていた。