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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第五部 ~敵国の都は、夏の雨にけぶる~
290/513

28






「リオネル様――」


 無断で単独行動をしていたアベルは、慌てて言い訳の言葉――あるいは謝罪の言葉を頭のなかで探す。

 だが突然の登場に混乱して、気の効いた言葉たちは、たちまち遥か雨雲の彼方へと消え去っていく。


 リオネルはというと、そんなアベルを無言で見やってから、すぐにアベルの手を握るジークベルトへ視線を移した。


 二人のテーブルへ来たリオネルを見上げて、ジークベルトは口元に笑みをたたえる。


「久しぶりだね。シャサーヌの市場で会って以来かな」

「アベルのまわりでうろうろして、なにが目的だ?」


 鋭い視線を受けて、ジークベルトは肩をすくめた。


「あいかわらず怖いね――ぼくより年下とはとても思えない」


 ――リオネルの機嫌が悪い。

 アベルはすぐにそのことに気づき、必死でジークベルトの手から逃れようとするが、びくともしない。


「若いのに、きみも苦労が絶えないね。左腕に怪我を負ったと聞いたけど、大丈夫かい?」

「いつまでアベルの手を握っているつもりだ」


 ジークベルトの発言を完全に無視して、リオネルは相手の行動を咎めた。


「……念のために聞いておくけど、この子の手を握ってはいけない理由でもあるのか?」

「逆に聞くが、握らなければならない理由は?」

「この綺麗な手に触れていたいんだ。立派な理由だろう?」

「アベルが了承しているなら、これ以上口出ししない。おれは、このままここを去ろう」

「なるほどね。その理屈では、たしかにぼくは手を放さなければならないことになる」


 残念そうにジークベルトはアベルの手を解放した。内心でほっとしたのも束の間、リオネルの厳しい声がジークベルトに向けて発せられる。


「アベルを危険なことに巻き込んだら容赦はしない」


 ジークベルトは相手の攻撃をかわすように、言い返した。


「ぼくだって、この子を危ない目に遭わせたくなんてない」


 どこか人を食ったジークベルトの態度に、リオネルは無言になる。そして相手にしておれぬという様子で、やや硬い声音をアベルへ向けた。


「帰ろう、アベル」


 おろおろしていたアベルは、声をかけられて慌てて返事をする。


「は、はい」


 アベルの返事を確認すると、来たとき同様リオネルはつかつかと扉口へ向かっていった。


「ジークベルト……その――、ありがとうございました」


 去り際にアベルジークベルトに頭を下げる。話を聞かせてもらいにきたのはアベルのほうなのに、リオネルがジークベルトに対して冷ややかな態度であったことが、申しわけなく感じられてならなかった。


 けれどジークベルトはというと、気にしている様子もなく、にこやかである。


「会えて嬉しかったよ。また、いつでもおいで」


 最後にもう一度礼を述べてから、アベルは主人らの後を追いかけていく。慌てていたために、酒代を払うことはすっかり失念していた。









 店の外に出ると、雨が叩きつけるように降っていた。


 地面は跳ね返る雨粒で白くけぶっている。

 この雨のなかを、リオネルとベルトランは自分を探してここまで来てくれたのだと思うと、アベルはいたたまれぬ思いに駆られた。


 ――と、ベルトランからアベルはなにかを渡される。

 なんのことかと思って顔を上げると、「かぶっていけ」と短くベルトランが告げた。


 広げてみれば、深緑色の上着である。

 見たことのあるそれは、リオネルのものだ。


 ベルトランもリオネルもすでにびしょ濡れなのに、いったいこれをどこから出してきたのだろう。アベルの疑問を見透かしたかのようにベルトランが説明する。


「雨が降り出してすぐにリオネルがおれに渡してきた。渡されたときは、どういう意味かわからなかったが、今ならわかる」


 そう言ってベルトランは、アベルの手から上着を取りあげ、アベルの頭からかぶせた。


「おまえが見つかったときに使うから、濡らさずに持っておけということだったんだ。かぶっていけ」


 主人が雨に打たれているというのに、その主人の衣服を外套代わりにすることなどできるはずがない。

 咄嗟にアベルは呼びとめようとしたが、リオネルはすでに土砂降りの雨のなかを歩きだしているし、ベルトランもまたリオネルを追って軒下から出たところだった。


「待ってください!」


 アベルの上げた声は、雨音にかき消される。

 途端に眩暈を覚えてアベルは息を詰めた。大雨や嵐の日は苦手だ。過去の記憶にひとり置き去りにされてしまうような気がして、アベルは無我夢中で二人の後を追う。


 けれど走る必要もなく、リオネルは少し行ったところでアベルのことを待っていてくれた。


 ――雨の糸に遮られて彼の表情は見えない。

 だが、たしかにアベルのいるのを確認してから、再び大雨のなかを歩きだす。


 濡れたリオネルの髪は、普段よりも濃い色に変わり、彼の後ろ姿は灰色の景色のなかに溶けてしまうように見えた。






 宿に戻ったのは、すでに昼食の時間も過ぎたころだった。


 部屋に戻ると、寝台で寝ていたレオンがすぐに目を覚ました。昼寝とは呑気なことだが、人の気配で目を覚ますのは、さすがはシュザンのもとで修業した騎士である。


 目覚めてすぐにレオンは、ぐっしょり濡れたリオネルとベルトランの姿にぎょっとしてから、さらにリオネルの機嫌の悪そうな表情にたじろぐ。


「いったい……」


 つぶやいてから、二人のあとに入室したアベルに気づき、ほっとした顔つきになった。


「ああ、見つかったのだな」


 探す相手が見つかったというのに、リオネルの機嫌が悪そうなので、レオンは腑に落ちぬ面持ちになる。


「ありがとう、レオン。教えてくれた居酒屋にアベルはいた」


 濡れた髪を拭くより先に、リオネルはレオンに礼を述べた。


「あれは居酒屋の名前だったのか。『美女と美酒には、金と時間を惜しむな』などという言葉からよく推測したものだな」

「……たまたまわかっただけだよ。ディルクたちはまだか?」

「まだ戻ってない」

「そうか」


 ちらとリオネルは窓の外を見やった。重たい雨粒が、地面や建物の壁を打っている。ディルクとマチアスはこの雨のなかで、まだアベルを探しているのだ。

 そのことに気づいたアベルは、さっと顔色を変えた。


 迎えにいきたいが、どこにいるのか見当もつかないし、第一リオネルが許可するとは思えない。アベルの表情を見やって、リオネルがなにかを察したようだ。


「大丈夫だ、二人はもうすぐ戻る。おれたちはここで待とう」


 叱られると思っていたのに、リオネルの声音はとても穏やかだった。先程まではひどく機嫌が悪いように見えたけれど……。

 不思議に思ってアベルは顔を上げる。

 疲れたようなリオネルの表情がそこにはあった。


 その表情を目にして、胸に痛みが走る。リオネルのためにとった行動だが、結果として心配をかけたことはたしかだ。


「勝手に行動して、申しわけありませんでした」


 アベルは頭を下げた。

 返ってきたのは感情の読めぬ声音だ。


「……ジークベルトに会いにいっていたのか?」


 はじめから会いにいくつもりだったわけではない。けれどひと言で事情を説明するのは難しかった。結果的に、次のように答えることとなる。


「違います。皆様から離れたのは、別の目的があったからです」

「別の目的?」

「はい」


 アベルは言い淀む。本当のことを告げれば、リオネルから大目玉を食らうかもしれない。

 けれど、叱られることは織り込みずみで行動した。ここまで迷惑をかけたうえは、真実を告げないわけにはいかなかった。


 ひと呼吸置いてから、アベルは白状する。


「フリートヘルム陛下と謁見できる機会を作りたかったのです」

「……どうやって?」

「エーヴェルバイン王宮の煙突を――」


 答えかけたとき、立ちすくむアベルの背後で扉が開く。

 現れたのは、リオネルやベルトランに劣らず、濡れそぼった若者らだった。


「あ! アベル!」


 アベルの姿をみとめて、声を上げたのはディルクだ。彼の癖毛は、濡れてさらに癖を増し、毛先からは雨水が滴っていた。


「見つかったのか。よかった、よかった。宿に戻って、アベルがまだ見つかってなかったらどうしようかと思ってたんだ。濡れてもいないようだし、本当によかった。安心したよ」


 しかし、ディルクとマチアスの姿に安堵したのは、アベルのほうである。リオネルの言ったとおり二人が戻ってきて、どれほど肩を撫で下ろしたことか。


「すみませんでした」


 アベルは頭を下げると、ディルクは微妙な表情になった。


「リオネルたちのそばにアベルがいないと知ったときは、本当に血の気が引いたよ。でも、アベルのことだから、なにか事情があったのだろう? あとでゆっくり聞かせてくれよ」


 そう言いながら視線をリオネルとベルトランへ向けると、ディルクは首を傾げる。


「なんできみたちは服を着替えてないんだ? せめて髪を拭いたらどうだ、床がびしょびしょになってるぞ」


 リオネルとベルトランの衣服からは雨水が滴り、木の床に黒い染みを広げていた。


「リオネル、まずは着替えよう」


 ベルトランがリオネルを促す。しばしの沈黙が横たわったのち、リオネルがようやく声を発した。


「アベル、詳しいことはあとで聞く。すべて話してくれるね」

「……はい」


 あくまで落ち着いた――けっして怒りを含んでいない声音に、アベルは素直にうなずくほかない。

 あるいはリオネルは怒りを抑えているのだろうか。けれどそれにしてはリオネルの声や表情に含みはなく、むしろなにか別の気配のほうが濃く感じられた。その正体はわからないけれど。


「おれたちは隣の部屋で服を着替えてくる。そのあいだレオンとアベルはここで待っていてほしい」


 こうしてリオネル、ベルトラン、ディルク、そしてマチアスは、着替えのために部屋を出ていった。






 彼らが戻ってくるまでのあいだ、アベルとレオンはぽつりぽつりと話をした。

 事情はリオネルたちが来てから語ると約束しているので、話題は他愛のないもので、今度の雨はなかなか止まないだとか、ジークベルトは元気だったかとか……。


 そうしているうちに、リオネルたちが戻ってくる。

 真っ先に単独行動の理由を問われるかと思いきや、まずは情報収集した結果の報告会となった。


 それぞれが調べた事柄を持ち寄った結果、フリートヘルムが外交に限らず、政治全般において興味が薄いということ、その背景には兄アルノルトに関わる過去が影響していること、さらに現在、王宮で権力を握っているらしいのはフリートヘルム王の義父シュトライト公爵であることなどが浮き彫りになった。


 ひととおり話がまとまると、今度こそアベルが語る番である。単独行動をとった理由を問われて、アベルは重い口を開いた。


「さっき申しあげたとおり、フリートヘルム陛下と謁見できる機会を作ろうと考え、皆様から離れました」


 あらためて一同に対して頭を下げ、謝罪する。それから本題にかかった。


「わたしはエーヴェルバイン王宮の煙突を利用して、フリートヘルム陛下の居室に忍び込むことを思いつき、それを実行に移しました」


 室内に流れた沈黙は、驚きのためか、それともアベルの無鉄砲さに呆れ果てているからなのか。


 片手で頭を押さえたリオネルを、ベルトランが気遣わしそうに見やった。左腕が動かせていたら、両手で抱え込んでいたに違いない。


「王宮に忍び込むことは容易でした。陛下の居室で、直接会うことがかないました」

「すごいな……」


 驚嘆のつぶやきをディルクがもらす。


「フリートヘルム王に会ったのか」

「はい」

「どんな人物だった? なにを話したんだ?」


 問われてアベルは、今朝の出来事を正直に答える。――ただし、フリートヘルムから提示された条件を除いて。


 だいたいはリオネルらの調べ上げたとおりだった。それに加えて、フリートヘルムは掴みどころがない人物で、政治に対する興味は一切なく、また真の王はアルノルト王子の忘れ形見であると信じているので、自ら他国の使者に会うつもりはまったくないことなどが、新たな情報として加えられた。


 顎に手を添えて、ディルクはうなずく。


「なるほど、これでフリートヘルム王の心情がはっきりしたわけだ」

「同時に、我々の力だけでは、どうにもならないということもはっきりした」


 ベルトランがため息交じりに言う。


「成立しそうにもない交渉に、我々は挑まされたということか」

「そうはいっても、リオネルとジルの運命がかかっている以上、どうにかしなければね」


 相手国の事情はわかったが、リオネルらの状況はますます厳しい。成立しそうにもない交渉を、どうにかしなければならないとは……。


 重い雰囲気に包まれたが、ひとりディルクだけは、リオネルの家臣を見やって笑みを刻んだ。


「でも、アベルがフリートヘルム王に会わなければ、ひどく無駄骨を折るところだった。面会するためだけに何日も費やして、結果がこれだったら気が遠くなっただろうね。とりあえず早いうちに状況がわかってよかった」

「まかれたことは驚いたが、まあそうかもしれないな」


 レオンが同意する。それからディルクは、やや聞きづらそうにアベルに尋ねた。


「それにしても、フリートヘルム王に会いにいって、アベルはなにか変なことをされなかったか?」


 今ならアベルも、ディルクの言っていることの意味が理解できる。


「……わたしは・・・・、大丈夫でした」


 そう答えたのは、どうやら安全そうなのは自分だけらしいとわかったからだ。


 しかしなぜフリートヘルムはアベルの正体を見抜いたのだろうかと、今更ながらアベルは内心で首を傾げる。

 変わった趣味を持っている者は、それなりに鋭い感覚を備えているのだろうか。


「それで、交渉の余地がないということが判明して、どうしてそのあとジークベルトに会いにいったんだ?」


 中断していた話の続きを促したのはレオンだ。

 リオネルは先程から押し黙っている。


「彼に会いにいったのは、聞きたいことがあったからです」

「聞きたいこと?」

「フリートヘルム王が交渉に応じるつもりがないなら、アルノルト殿下の遺児を探しだし、話しあえないかと考えたのです。そうすればフリートヘルム王を説得できるのではないかと――。そのために、アルノルト殿下の遺児に関する情報を集めようとしました」

「それはおもしろい考えだが、なぜジークベルトなのだ?」

「他にローブルグ人の知り合いがいないので。彼なら面識もありますし、詳しく教えてくれると思ったのです」


 次いでアベルは、先程ジークベルトから聞いたばかりの話を皆に伝えた。すなわち、アルノルト王子の遺児の生い立ち、王宮に戻された経緯、十七歳での失踪……。


「なるほどね」


 すべて聞き終え、レオンがうなずく。

 これまでの話は筋が通っていたし、フリートヘルム王と交渉ができないならば、アルノルト王子の遺児を探し出すのも一案かもしれなかった。

 無謀かもしれないが、いよいよリオネルやジルに危機が迫っている今、手段を選んでいる場合ではない。


 だが、しかし。


「――アベル、教えてくれ」


 これまで沈黙を貫いていたリオネルが声を発する。皆の視線がリオネルに集まった。

 なんのことかとアベルが問うよりまえに、リオネルが言葉をつなぐ。


「これからなにをしようとしている?」

「え?」

「ジークベルトから、なにかを渡されただろう」


 白い小さな包みを受け取る現場を、リオネルは目撃していたようだ。


「正直に言ってくれ、なにをするつもりなんだ」


 アベルは沈黙する。


 ――答えずとも、この人はわかっている。

 不思議と、そう感じた。


「反対はしない。約束する。――だから、ひとりで危険なことをしないでくれ」


 まっすぐにリオネルはアベルを見つめている。魅入られるような深さの紫色から、アベルは視線を逸らすことができない。


「もう一度王宮へ忍び込むつもりです」


 真実を話さないわけにはいかなかった。








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