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騎士館の最上階、豪壮な家具や調度品が整う、広々とした部屋で、リオネルは深々と頭を下げていた。
「リオネル……一体どうしたんだ?」
騎士館にある正騎士隊の執務室。重厚な書物机を隔てて、大きな肘掛椅子に腰かけているのは、この国の正騎士隊を束ねるシュザンである。彼の背後には、シャルム王国と宿敵ローブルグ王国との、かつての戦いの風景を描いた巨大な絵画が飾られていた。
「突然いなくなって、五日間も戻ってこないなんて」
リオネルが無断で騎士館から姿を消したことに、シュザンは少なからず驚いている様子だった。
「年が明けてから、頻繁にベルリオーズ家別邸に足を運んでいるのは知っていたが」
「申しわけございません」
リオネルはもう一度頭をさげた。
大きな窓から、黄昏時の陽が差し込んでいる。
リオネルが動くと同時に、床に落ちたその影も揺れた。
「リオネル、そんなに頭を下げなくていい。おれの居心地が悪くなるだろう」
シュザンは困ったような顔をしている。
「おまえのことだから、よほどの理由があるのだろう。レオンやディルクもしきりに気にしているようだったが、おれにも話せないような事情か?」
シュザンに聞かれて、リオネルは返答に窮した。
その様子を見たシュザンは、リオネルの背後にいるベルトランに視線を向けたが、彼もまた目を伏せるだけだ。
シュザンがため息をついたとき、リオネルが口を開いた。
「今、生死をさまよっている人が、館にいるのです」
「……だれだ?」
「それは、言えません」
シュザンはなにかを判じようとするように、リオネルの伏せられた睫毛を見つめる。
「その人のために館に戻っているのか?」
「それは……わかりません」
「わからない?」
不思議そうにシュザンは聞き返した。
「すみません。おそらく、そうなのだと思います」
リオネルは、どこか自嘲気味に言った。
「この五日間、その人のそばにいました」
濃茶色の睫毛の奥で、リオネルの瞳はどこか哀しげな色をたたえている。
暖炉に火はくべてなかったが、部屋には陽の光が満ち溢れ、心地よいあたたかさが感じられた。窓の外、すぐ近くで、なにかの鳥が鋭くひと声鳴く。
「姉上が」
シュザンがぽつりと発した言葉に、リオネルは視線を上げた。
「姉上が亡くなったときも、おまえはずっとそばにいたな」
「…………」
「どんなに、おれや義兄上が諭しても、頑として部屋の前から動かなかった」
「そうでしたか」
リオネルは、そのときのことを覚えていたが、曖昧に返事をした。
「変わらないな、リオネル」
再び視線を床に落としたリオネルに、シュザンはほほえんだ。
「大切な人なのか?」
「……はい」
リオネル自身にも、雪の街で助け、館に住まわせ、そして今、意識を取り戻さない少女が、自分にとってどのような存在なのか、わからないままだ。週に一度、館に戻っていたのも、彼女のためではあったはずだけれど、リオネルのなかには、はっきりしない、掴みどころのない思いがあった。
けっして死んでほしくない。生きて、そしていつか笑顔を見せてほしい。
心からそう願う。
だとすれば、おそらく、自分は少なくとも、彼女のことを大切に思っているはずだった。
「そうか、助かるといいな」
「はい」
励ましてくれた返礼として、リオネルはかすかにほほえんだ。
シュザンは机に両手をつき、椅子から立ち上がる。
「なにかあれば館に戻っても構わない。しかし、これからは事前におれに言うように」
叔父の寛大な計らいに、リオネルは再度頭を下げた。
リオネルの前まで来ると、シュザンはその茶色の髪の毛をくしゃくしゃと撫でる。
「心配していたが、元気そうでよかった」
「私は、元気ですよ」
リオネルは、微笑をたたえて答えた。
「このあいだは、少し冷や冷やしたが」
「このあいだ?」
「陛下がいらしたときだ」
「……そんなことが、ありましたね」
リオネルの声音が、ほとんど気づかれないほどに曇る。
「リオネル、気をつけたほうがいい」
シュザンが声をひそめて言った言葉に、ベルトランが眼差しをわずかに鋭くする。
「あの日、陛下が、従騎士の教練場まで来たのは、おまえが目的だろう。陛下の周囲で、なにやら騒がしいのではないかと思う」
「なにやらとは……」
「ジェルヴェーズ殿下や、ルスティーユ公爵あたりが、このところなにを考えているのか、おれにもわからない」
リオネルは、生真面目に答えた。
「レオンあたりは知っているかもしれませんね」
「問いつめてみるか?」
二人は、顔を見合わせて小さく笑った。
「ジェルヴェーズ殿下は、おまえだけではなく、おれのことも快く思っていない。あの方は国王派の連中と共に、おれたちをまとめて害す算段をしているかもしれないな」
「まさか、叔父上にまで手を出してくるでしょうか?」
リオネルは眉をひそめる。
「我がトゥールヴィーユ家は、おまえの血につながる、生粋の王弟派だ。おれが正騎士隊の隊長でいることのほうが不思議なくらいだからな」
叔父シュザンが四年前に、二十歳という若さで今の役職に就いた経緯を、リオネルは詳しく知らなかった。この王国内で指折りの勇将――ということしか、思い当たる節はない。
「最近も、刺客は現れるのか」
「王宮にいるあいだは逆に平穏です」
「そうだろうな。だがベルリオーズ家別邸へ頻繁に戻っていると知られたら、どうなるか……」
「私には頼もしい用心棒がついていますので」
リオネルは、叔父を安心させるためにそう言った。
「たしかに、そうだな」
シュザンは顔を上げて、ベルトランを見た。二人は無言で視線を交わす。
三歳しか年の変わらないこの二人は、王宮では一切会話を交わさないものの、かつてはベルリオーズ邸で頻繁に顔を合わせ、旧知の仲だった。むしろ、親しいといってもよいほどで、酒を酌み交わすこともあったし、剣を交えて互いに鍛錬をしたこともあった。この二人のうち、どちらの技量が上のなのか、リオネルにもわからない。
「おれは、陛下のご意向でこの立場にいるが、なにかあったときは、おまえの力になりたい。いつでも頼ってほしい」
「ありがとうございます。なにもないことを願っていますが」
リオネルは苦笑した。シュザンも小さく嘆息する。
「はたして、こちらの願いを相手が叶えてくれるかどうか」
「叔父上は、正騎士隊を統率される御身――くれぐれも、私のためにご無理をなさらないでください」
「おまえの身を守ると、姉上と約束している。その約束は、決して違えないつもりだ」
「母上と?」
「十年前、姉上は、おまえのことを、心から案じて亡くなられた」
リオネルはうなずいてから、傾く夕陽が室内の壁に映しだすわずかな日溜まりに目を向けた。
シュザンは、リオネルの母、アンリエットとは十三歳離れている。アンリエットがこの世を去ったとき、シュザンは十四歳だったはずだ。
アンリエットが死んでから、たしかにシュザンは、はるかシャルム王国の右翼に位置するトゥールヴィーユ公領から、左翼のベルリオーズ公領にいるリオネルのもとに、頻繁に訪れるようになった。アンリエットは、危険な立場に置かれている息子のことを案じ、弟のシュザンに頼んだのだろう。
リオネルは、母の優しさと、そして、母との約束を守ろうとしてくれる叔父の思いを、温かい気持ちで受けとった。
「そろそろ、部屋に戻りなさい。レオンとディルクの質問攻めが、待っているぞ」
暖かかった室内は、日が陰るとともに、いつのまにかひんやりとしていた。
二人が隊長室を辞し部屋に戻ると、シュザンが予言したとおり、友人二人からいつも以上にしつこい質問攻めに遭った。
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翌朝、春のやわらかな日差しが、王都サン・オーヴァンを包んだ。
ベルリオーズ家別邸の庭でも、花が一斉に開花し、甘い匂いが立ち込める。
まるで神々に祝福されたような、美しい朝。
長い冬が終わり、氷は溶け、暗い雲は去り、鳥はさえずり、花は咲き乱れ、大地には光が満ちあふれた。
そんななか、館のなかでは聞こえるはずのない赤ん坊の泣き声が、ときおり大階段の上から空耳のように聞こえ、使用人たちは首を傾げる。
エレンはいつものとおり赤ん坊に、知り合いの母親からもらってきた乳をやり、寝かしつけたあと、アベルの部屋に様子を見にいった。
けれど扉を開けて驚愕する。
意識がなかったはずのアベルの姿が、寝台から忽然と消えていたのだ。
丁寧に整えられた寝台には、一枚の手紙が置かれていた。
『皆さま、長い間お世話になりました。ここで過ごした日々のご恩は一生忘れません。皆さまにこのご恩をお返しできないこと、また、直接お礼を申し上げることなくここを去ること、そして赤ん坊を置いていくことを、どうか、どうか許してください。アベル』
エレンは、目の前の状況にあまりに仰天し、寝台に手をついて、へなへなとその場に座り込んだ。
「アベル……」
しばらくぼんやりしていたが、突然我に返って、すっくと立ち上がった。
「とんでもないことになったわ。リオネル様にすぐにお知らせしなければ――」