27
店は街の中心広場から何本か道を隔てた場所にあった。
今日はどうやら移ろいやすい天気らしい。
朝には上がったはずの空に、再び黒雲が覆いかぶさろうとしている。東の空からは、ぽつぽつと雨が降りはじめていた。
小柄な少年が、小走りで店の軒下に入る。金糸の髪には少しばかり雨粒がきらめいているが、ずぶ濡れになることは避けることができた。
アベルである。
ルステ川の支流で、煤のついた顔や手を洗い、きれいな上着を羽織ったので、すでにこざっぱりしている。だれもこの少年が先程まで煙突のなかにいたとは思わないだろう。
店の扉に刻まれた文言を確認して、アベルはほっと肩を撫で下ろした。雨が大降りになるまえに、なんとか店を探し出すことができたようだ。
扉には、刃先で刻みつけたかのような文字で、『美女と美酒には、金と時間を惜しむな』と書かれていた。
本当にこのような名の店があるとは……。自分の目で確認するまでは半信半疑だった。
扉のすぐ横には、「○」という札が掛けられており、ここが宿屋も兼ねていて、空き室があるということを示している。やはりジークベルトが滞在しているはずの酒場兼宿屋というのは、この店のことらしい。
――が、本当に彼はいるのだろうか。
不安を抱きながらも、アベルは扉を押し開けた。
降りはじめた雨の匂いのなかにいたせいだろうか、店内に漂う料理と酒の匂いをアベルは懐かしく感じる。
食事をしていた客たちの視線がアベルに集まったが、そのなかにアベルが探す相手はいない。
ジークベルトがここに宿泊しているかどうか、店主に尋ねてみるべきかと思ったとき、階段の軋む音がして、二階からだれかが下りてくる気配がある。もしかしたら――と思い、アベルは立ったまま相手が現れるのを待ったが、下りてきたのは髭を生やした中年の男だった。
小さく溜息をつく。
と、ほぼ同時に背後の扉が開く気配があった。
湿気を含んだ冷気が店に入りこみ、アベルが何気なく振り返ると、すぐ目の前には知った顔。
ジークベルト、と思わずアベルは相手の名を呼ぶ。むろん会いにきたのだが、本当に会えるかどうかはアベルも懐疑的だったのだ。
わずかに驚いた様子で相手もこちらを見つめていた。
「アベル? 本当に来てくれたのか」
「え……その」
やや戸惑ったのは、相手のために「来てあげた」のではなく、アベル自身のために話を聞かせてもらいにきたからだ。正直にアベルはその旨を伝えた。
「よかったです、会えて。探していたんです」
「本当に? 嬉しいなあ」
「実はお願いがあってきたのです」
「そうかそうか。まあ、まずは座るといい」
そのようなことはどちらでもよいという雰囲気で、ジークベルトはアベルを席に促す。
促されるままに、アベルは窓際の椅子に腰かけた。
「まさか本当に来るとは思ってなかったよ」
「わたしも会いにいくとは思っていませんでした」
ジークベルトは笑った。
「どうして来ないと思ったのですか?」
「きみがぼくを頼ることはないだろうと思っていたからね」
降りはじめた雨が吹きこみ、窓枠を濡らしはじめている。ジークベルトはすぐに席を立ち、窓を閉めた。
「そんなふうに考えていたのに、店の名前を伝えたのですか?」
「会えたら嬉しいと思って渡したんだ。きみの役に立てたらなによりだし」
どう受け止めればいいのか――どう返答したらいいのかわからず、アベルが沈黙していると、そのあいだにジークベルトは店主に麦酒を二杯注文した。
「頼んでしまったけど、麦酒でよかったかな?」
「え? あ、はい」
むろん好物は蜂蜜酒だが、麦酒も嫌いではない。返事をしてから、アベルはつけ足した。
「――支払いはわたしが」
「まさか、ありえないよ。おごらせてくれ」
「いいえ、わたしのほうからお願いがあってきたのですから」
そう言いながらアベルは銅貨を数枚取り出す。
すると笑顔でジークベルトはそれを押し返した。
「年下の子にお金を出させるつもりはないよ」
「年齢の問題ではありません」
「じゃあ、こうしよう。とりあえずきみの願いを聞いてから、どちらが支払うか決めるんだ。いいだろう?」
先延ばしにするだけのような気もするが、とりあえずこのままでは話が先に進まないのでアベルはジークベルトの案を受け入れた。
そうこうしているうちに麦酒が到着し、ジークベルトが後払いの旨を給仕に伝える。
給仕が去るとすぐにジークベルトは麦酒に口をつけ、心底満足そうな顔をした。
「ここの店が気にいっている最大の理由は、麦酒がおいしいことなんだ。多少、店や寝台が汚くても、ここに滞在する価値はあるね」
さして麦酒にこだわりのないアベルは、「そうですか」とだけ答える。
「買い物に出かけたんだけど、雨が降ってきたから、急いで戻ってきた。そうしたらきみがいたから驚いたよ。驚いたし、嬉しかった。なにしろ普段は、会いたくもないやつらばかりがおれに会おうとしにくるからね」
普段はアベルに質問を投げかけてばかりで、自らのことについてはほとんど語らぬジークベルトが、この日は多弁であることがアベルには不思議に感じられる。
「なにか困ったことが起きたのかい? おれにできることなら、なんでもやるよ」
促されて、アベルはようやく本題を切りだすきっかけを得た。一杯目の杯をあおろうとしているジークベルトに、アベルは単刀直入に告げる。
「亡きアルノルト王子の遺児を、探したいのです」
けれど言い終えるまえに、ジークベルトは麦酒を吹きだし、むせ返っていた。
げほげほっと激しく咳きこむジークベルトに、アベルは慌てて自らのハンカチを差し出す。
「大丈夫ですか?」
「ああ、げほっ……なんともない……」
手の仕草だけでアベルのハンカチを謝絶し、なんともないと答えつつも、ジークベルトは自らの服の袖でしばらく咳を続けた。
なんとか落ち着くと、ジークベルトはまだ気管支が痛むのか、微妙な面持ちでアベルに確認する。
「ええっと、それできみはだれを探してるんだって?」
「亡きローブルグ王国第一王子アルノルト様の、遺児です」
「……聞き間違えじゃなかったのか」
ぼそりとつぶやいたジークベルトの声を、アベルは聞きとることができなかった。
「え?」
「いや、その、なぜそんなやつを探しだしたいんだ?」
「……詳しいことはお話しできません。ただ、わたしはその方についてなにも知らないので、あなたから話を聞ければと思ってここへ来ました」
「アルノルト王子の遺児に関する情報を知りたいのか? ぼくから?」
「はい。どのような方なのか、いかなる経緯で行方不明になったか、どのあたりにいる可能性が高いのか……そういったことを知る手がかりがほしいのです。あなた以外にローブルグ人の知り合いがいないので、ここを訪ねました」
咳払いをしてから、ジークベルトは「わかった」と答えた。
「話してもいい。他の者よりは詳しい話ができると思う。だが、やはりぼくは、なぜ彼を探しているのかということを知りたい」
「…………」
アベルは瞬時に頭のなかで考えを巡らせる。
たしかに、話を聞きたいならば、事情を説明するのが筋である。
だが。
――ジークベルトを信用していいのか。
今回の一件について、どこからどこまでを秘密にしておかねばならないのか。
けれど、こうして相談にきた時点で、アベルはやはりジークベルトのことを信じ、頼っているのだ。ならばこの際、どうしても明かせぬこと以外は素直に話してみるのも手ではないか。
「わたしがベルリオーズ家に仕える者であることは、ご存じですね?」
アベルは思いきって打ち明けることにした。
「ああ、もちろん」
「我が主リオネル・ベルリオーズ様は、ローブルグ王フリートヘルム様と謁見し、交渉するようにというシャルム王の命を受け、ここエーヴェルバインまで来ました」
「なんの交渉だ?」
驚いた様子もないところからすると、だいたいは察していたようである。だがむろん、肝心な交渉内容をジークベルトは知らない。
「それに関することだけは、お伝えすることができません」
「そうか」
アベルの立場を考えれば、それも当然のことである。
「で、国王様には会えたのか?」
「いいえ、門前払いでした」
回答を聞いて、ジークベルトは笑いをこらえるような、だが呆れたような複雑な面持ちになった。
「それで、きみたちはどうしたんだ?」
「そのときは、そのまま引き下がりました。けれど後で、ローブルグ王宮の煙突から、陛下の居室へ忍び込みました」
「だれが?」
「わたしです」
瞳を大きく見開いてジークベルトはアベルを見つめる。
「嘘だろう?」
「嘘ではありません。今朝、わたしはフリートヘルム陛下にお会いしてきました」
「そんな危険なこと――よく主人が許したな」
「もちろんリオネル様には告げていません」
「…………」
「国王陛下に会うことはできました。けれど、まったく取りあってくださいませんでした」
知り得た情報を、アベルはかいつまんでジークベルトに聞かせた。
すなわち、「フリートヘルム王は過去の経緯から政治に対してやる気がなく、けれど男色家であるため、リオネルが条件を呑むなら、会うだけ会ってもいいと言っている」ということである。
ひととおり話を聞き終えると、ジークベルトはついに耐えきれなくなったように笑いだした。それも、爆笑だった。
「笑いごとではありません」
「……ああ、ごめん。そうだね」
「あんな変態だとは思っていませんでした」
「そうか、知らなかったなら驚いただろう」
「驚いたどころではありません。思わず平手で叩いてしまいました。次に会ったとき、わたしは王様へ非礼を働いたという理由で捕えられるかもしれません」
再びジークベルトは笑い転げる。
なにがそんなにおかしいのか。しかたなく相手が笑い終えるのをアベルは辛抱強く待つことにした。
「ごめんね。いや、そうか。大丈夫だよ、そんなことで国王様も腹を立てたりはしないだろう。それで、いったいどうしてアルノルト王子の遺児が関わってくるんだ?」
自らを落ち着かせようと、ジークベルトは二杯目の麦酒を手に取る。
「フリートヘルム陛下とではなく、アルノルト王子のお子と直接、交渉を成立させようと考えています」
アベルが真面目に答えると、麦酒を口に運んでいたジークベルトは再びむせ返った。
「大丈夫ですか?」
「は? いや、アルノルト王子の遺児と交渉って……」
「それしかないと思っています。フリートヘルム陛下との交渉がうまくいかない以上、他に方法はありません」
「ちょっと無謀なんじゃないか? 彼はどこにいるかわからないんだし……」
「ですから、そのところを詳しく聞きたいのです」
咳きこんだせいで乱れていた呼吸を落ち着かせ、ひと息ついたのち、ジークベルトはうなずいた。
「わかったよ。きみは、話せる範囲についてはすべて話してくれた。今度はぼくがアルノルト王子の遺児について話そう」
無言でアベルが視線を向けると、ジークベルトは語りはじめた。
「まずひとつ、話の大前提となるのは、アルノルト王子の遺児の名は公にされていないということだ。理由は、単純だ。前王でありアルノルト王子の父であったディートリヒが、その存在を認めなかったからだ。だから、遺された赤ん坊は『アルノルト王子の遺児』と呼ばれたり、あるいは父の愛称で呼ぶ者もある」
「アルノルト王子の愛称ですか?」
「『アル』だ」
「アル……」
「だからこれからは、ぼくらも彼のことをアルと呼ぶことにしよう。アルは両親を亡くしてすぐに、ラスドルフを統べる伯爵家に引きとられた」
ラスドルフといえば、ローブルグの西の国境――ちょうどデュノア領に隣接する領地である。奇しくも、ニーシヒの街で見知らぬ老人が自らの故郷だと言っていた場所だ。
「ラスドルフ伯爵には子がなかったからね、アルは養子にされた。けれど、彼が九歳のときにディートリヒ王が死ぬと、王宮に戻されることになる。新王に就いたフリートヘルム王の意向だったようだよ。きみが彼から聞いたとおり、アルが成年になったら玉座を譲るつもりだったみたいだ。……けれど、十七歳でアルは王宮から忽然といなくなる。暗殺されたとか、陰謀説も上がったようだけど、結局は書き置きが見つかって自ら出ていったのだと判明したんだけどね」
「書置きですか?」
「この国の王はフリートヘルム叔父上なのだから、自分に余計な荷を押しつけないでください――というようなことが書かれていたそうだよ」
どこの国でも玉座欲しさに肉親同士で争いを繰り広げているというのに、ローブルグにおいては譲り合いの精神が働いているようだ。いや、押しつけあいと言うべきか……。
どちらにせよ奇妙なものである。
「そのまま行方知れずさ」
「生い立ちが、とてもよくわかりました」
アベルが礼を述べるとジークベルトは笑った。
「それはよかった」
「詳しいんですね」
「他の人よりは知っていると言っただろう?」
「王宮を出てから、アルは一度も見つかっていないんですか?」
「さあ、いろんな人が追い回しているようだけど」
「フリートヘルム陛下だけではなく?」
「よくわからないけど……とにかく、アルを探すのは諦めたほうがいい。大勢で探しても見つかってないわけだし、『この国の王は叔父上だ』などと書いてあったということは、会えたところで交渉なんてできやしないだろう」
「……けれど、他に道がないんです」
フリートヘルムと交渉する道が残されているとは思えない。ならば、他に方法はないのだ。リオネルとジルを救いたかった。
思いつめたアベルの表情をじっと見つめてから、
「そんなこともない」
ちょっと待っていてくれ――と言って、ジークベルトは席を立った。
「どこへ?」
「ちょっと上へね。すぐに戻るから」
ジークベルトは、つい先程、髭を生やした中年の男が降りてきた階段を上っていく。そして約束したとおり、彼は麦酒の泡が消えぬ間に戻ってきた。
「これをきみにあげるよ」
小さな――銅貨より一回り小さいというくらいの羊皮紙の包みを、ジークベルトはアベルに差し出す。なかになにか硬い物が入っているような感触があった。
「なんですか?」
「実はぼくは魔法が使えてね。これをフリートヘルム王に渡せば、きっときみの願いを聞き入れてくれるという呪文をかけた。でも、この中身をきみが開けて見たり、ぼくから預かったということや、ぼくがここにいるということを陛下に告げたりしてはいけないよ。約束を破ったときには魔法が消える」
「…………」
冗談なのか、それとも、からかわれているのか……。
判じかねて、アベルは笑いも怒りもせずに無言でジークベルトを見つめた。視線を受けて、ジークベルトは真剣な眼差しをアベルへ返す。
「――魔法というのは冗談だけど、フリートヘルム王の心を動かすことができるというのは本当だ。約束を守ってくれればね。きみの瞳の美しさにかけて誓うよ」
「美しくなんてありません」
即座に否定されて、ジークベルトは苦笑する。
「ぼくは綺麗だと思うけど……そうか、なら、どうしよう。ぼくの敬愛する三美神のひとりリュドミーラにかけて誓うというのはどうかな?」
なにかにかけて誓ったからといって信じられるわけではない。
だが、これまで何度か会ってきたジークベルトに対し、アベルが抱く印象――そこから生ずる信頼から、アベルはジークベルトを信じてみてもいいのではないかとも思った。
それとも、無防備に信じるのは、お人好しなことだろうか。
他に頼るものがないアベルは、とりあえず手に握ったままだった紙の包みを、衣装にしまう。
わずかな望みでもいい。リオネルとジルを救うことができる可能性があるならば、なんでも試してみる価値はある。
「ありがとうございます……なんの関係もないのに、いつも真摯に助けてくださって感謝します」
「なんの関係もないなんて水臭いな。ぼくはすでにきみとは友達のつもりだ」
どさくさにまぎれてアベルの手をとり、ジークベルトは両手で握りしめた。
「すべては友達から発展するものだからね」
「発展ですか?」
片眉を上げ、アベルは怪訝な表情になる。
「きみの役に立てることは、ぼくの喜びだよ」
おおげさな……と内心で思ったときだった。
店の扉が開き、雨音が大きく店内に響く。いつのまにか外は大降りになっていた。
はっとアベルが視線を扉口へ向けたのは、直感だった。無言の気配といってもよかったかもしれない。
視線の先に立つ人物をみとめて、アベルは息が詰まるような感覚を覚えた。
すぐに椅子から立ちあがろうとしたが、手をジークベルトに握られているので、動くことができない。
――つかつかとこちらへ歩み寄ってきたのは、リオネルだった。
むろん赤毛の騎士ベルトランもいっしょである。二人とも、服のまま泳いできたかのように、ぐっしょりと濡れそぼっている。
ジークベルトとて、リオネルの登場に気づいていないはずがない。なぜなら二人の姿は、エーヴェルバインにおいては特に目立つうえに、雨に濡れてもなお二人が放つ存在感は無視できるはずがないからだ。
二人の存在に気づいていて、ジークベルトはアベルの手を離さなかった。