26
ちょうどそのころ、エーヴェルバイン王宮の門前から続く坂道には、馬を疾駆させ駆け降りる二人の若き騎士の姿があった。
アベルの行方を探しているリオネルとベルトランだ。
二人は城門まで至ることなく、王宮への道を登っている途中で、再び引き返してきたのである。その理由は非常に単純なことで、王宮にはアベルがいないと判明したためだ。
――なぜそれが判明したのか。
それは、果樹園で作業をする二人の農夫から話を聞くことができたからである。
ローブルグ王との面会を願い出たのは今朝のことだ。再び王宮に足を踏み入れるには、かなりの覚悟が必要である。
むろんアベルを探しだすためであれば躊躇いはないが、門を叩くまえに、アベルの姿を見かけなかったかと道行く人たちに尋ねるのも、有効な方法であることはたしかだった。
そこで道すがら、幾人かに声をかけていたところ、二人の農夫と出会ったのだ。
農夫らは次のように語った。
「へえ、綺麗な顔をした十歳過ぎくらいの騎士見習いさんなら見かけましたよ」
ひとめで高貴とわかる異国の騎士に、農夫たちは半ば緊張しながら、半ば得意げに知っていることすべてを伝えたのだった。
「シュトライト公爵のご家臣だとか言ってました」
「そうそう、ひとりはぐれていたもんだから、おれが門番に話して城内へ入れてやったんです。帰りには、おれたちに声をかけて、礼を言ってくれました。え? そうです、もうすでにこの道を戻っていきましたよ。鐘が鳴るまえくらいですかね。シュトライト公爵様から、先にお屋敷に戻るように命じられたとか言って」
「あの坊やがどうかなさいましたか、異国の騎士様?」
リオネルとベルトランは顔を見合わせた。
どうやらアベルは、シュトライト公爵の家臣と称して王宮内へ入り、それから再び街へ戻っていったらしい。
「話を聞かせてくれて助かった。感謝する」
相手の疑問には答えず、礼だけを述べ、二人の騎士は来た道を引き返していく。
またたくまに消えていく二騎の後ろ姿を、農夫は無言で首を傾げたまま見送っていた。
「アベルは王宮に長居しなかったようだな」
馬上でベルトランがリオネルに話しかける。
「いったいなにをしにいったのだろう」
「フリートヘルム王と会おうとしたのか、あるいは面会のための足掛かりを得ようとしたのか……わからないが、とりあえずアベルがもう王宮にはいないということだけはわかった」
答えるリオネルの顔には、わずかに安堵の色が浮かんでいる。この様子なら無事でいる可能性は高い。王宮を離れているならば、すでに宿に戻っている可能性もある。
「とりあえず宿に向かおう。戻っていればいいが……もし戻っていなければ、我々も街を探しに行くしかない」
「このエーヴェルバインの街で探しだすのは至難の業だぞ。宿で待っていよう。そのうちに戻るだろう」
時間が経てばアベルは宿に戻ってくるはずだ。それは、アベルが自らの意思で単独行動に出たとわかった時点で、はっきりしていることである。目的を達成したら、宿で落ちあうつもりだろうからだ。
だが、戻ってくるまでのあいだになにかあったら――と心配が尽きないのが恋する者であり、リオネルの心情だった。
「どれほど困難だったとしても、アベルを探しだして連れ帰る。一刻も早くだ」
リオネルはきっぱりと言い切った。離れているあいだは、一瞬たりとも気持ちが落ち着かない。
「心配し過ぎればアベルを追い詰めることになるぞ」
「どういう意味だ?」
「おまえが、いつも安全な場所に閉じこめておこうとするから、アベルは勝手に行動するようになる。あくまで彼女は家臣だ。おまえに守られることより、おまえを守ることを優先するのは当然のことだからだ」
「…………」
「とりあえず、宿に戻ろう」
こうして二人は宿に戻ったが、密かに抱いていた期待は破られた。アベルは戻っていなかったのだ。けれど事態は思わぬ展開を見せた。
部屋にはレオンがひとりいて、退屈そうにしているかと思いきや、リオネルの顔を見るや否や駆け寄ってきたのだ。
「リオネル、気になることを思い出した」
これまでの経緯をリオネルはレオンに説明しようとしたが、口を開くまえにレオンのほうから話しだしたので、そのまま先を促す。
「なにを思い出したんだ?」
「『美女と美酒には、金と時間を惜しむな』――だ」
無言でレオンを見つめたまま、リオネルはわからないという顔をした。
いったいなんの標語だろうか。
真剣な様子で発せられたものの、まったくレオンらしくない言葉である。レオンが金と時間を惜しまないのは、哲学か、あるいは読書に関することだけではなかっただろうか。
リオネルの疑問を察したのか、レオンはやや複雑な表情になった。
「おれが考えた言葉ではない。よくわからないのだが……」
前置きしてから、レオンは説明を始める。
「例の、ニーシヒで偶然会ったローブルグ人らしき男――ジークベルトとかいう騎士が、仕立屋の隅でアベルにそう書かれた布を渡していたのを、見たのだ」
「『美女と美酒には、金と時間を惜しむな』と?」
ジークベルト、という名を耳にして、リオネルは表情を曇らせた。
「ジークベルトがアベルに?」
「なにを話しているのかは、わからなかった。ディルクのような地獄耳ではないからな。だが、たしかに『美女と美酒には、金と時間を惜しむな』と布に書きつけ、それをアベルに渡してジークベルトは仕立屋から去っていった。彼はエーヴェルバインに行くと言っていたから、もしかしたらなにか関係があるのかもしれないと思ったのだが」
「美女と美酒……」
眉を寄せてリオネルはつぶやく。
諺か格言のようにも聞こえるが、博識のリオネルも聞いたことのない文言だ。
そもそも言葉としては単純で、女好き酒好きの者ならだれしも豪語しそうなものである。
女好き、酒好きならだれしも――。
あることに思い至り、リオネルはベルトランを振り返る。
「なんだ、リオネル。なにかわかったのか?」
女と酒が好きであるということは、たいていの男に当てはまる。彼らが金と時間を惜しまずに過ごす場所といえば一ヶ所しかない。
「行こう、街へ。酒場だ。この名前の店を探そう」
返事を待たずに部屋を飛び出すリオネルに、ベルトランが遅れずに従った。
「おい」
またたくまに去りゆく従兄弟とその用心棒に、レオンは慌てて声をかけるが返事はない。と、すぐに宿のまえで馬が嘶き駆けていく音が、レオンのいる部屋まで聞えてきた。
「またおれは留守番か」
やはりだれもいない部屋でひとり過ごすのは、退屈だったようだ。レオンは粗末な寝台に横たわり、ふて寝を決めこんだ。
+++
騎士館にある厩舎において、ひとりの若者が馬の様子を見て回っている。
実際に馬の世話をするのは若手の騎士や従騎士の仕事であるが、世話が行き届いているか、具合の悪い馬がいないかなどを最終的に確認をするのは、騎士隊長の仕事だった。
悪友ベルトランには及ばぬものの背は高く、わずかに金糸の混じる淡い茶髪を持つ騎士隊長は、言わずと知れたクロードだ。
ベルリオーズ家の騎士隊長ならばどれほど屈強な男であるかと思えば、気のよさそうな面立ちの、どちらかといえばおっとりとした雰囲気の若者である。
傍から見れば意外かもしれないが、屈強な騎士たちを束ねるのが同じ種の者であると、意外にまとまらないものだ。
特有の飄々(ひょうひょう)とした雰囲気と、肝心な場面で見せる判断力、そして年上の騎士に対しても物怖じせぬ厳しさを兼ね備えているクロードだからこそ、この役が務まっているのである。
騎士たちからだけではなく公爵やリオネルからも全幅の信頼を得ている彼は、現在、重大な任務を負っていた。
すなわち、ラクロワにおいてナタン・ビューレルがジェルヴェーズに斬りかかり、返り討ちに遭った事件の真相をつきとめるよう、クレティアンから命じられているのだ。
そのベルリオーズ公爵クレティアンは、依然として体調がすぐれない。
ひどく悪いわけではないが、微熱が続き、食欲もなく、普段のような快活さに欠けている。目立った症状があるならば対処もできるのだが、高熱や腹痛、嘔吐などもないため、軽い解熱薬の投与と、栄養価の高い食事を少しずつとることくらいしか、今のところ治療法はなかった。
――ナタンは殺され、ジルは囚われの身。
リオネルは遥か敵国の王都へ赴き、クレティアンは病に。
ベルリオーズ家の頭上には、重苦しい暗雲が立ち込めていた。
そのような状態であるから、ナタンの一件に関する細かい指示はクロードが出して全体を取りまとめている。
巨大な厩舎は、中央が馬の鍛錬場になっており、その周囲に板で仕切られた区画がある。
区画のなかには、一頭ずつ馬が飼育されていた。領主やその側近らの厩舎に比べると個々の馬に与えられた区画は狭く、装飾も控えめであるが、それでも馬たちにとっては快適な造りである。
厩舎の入口にひとりの少年が現れる。
三十頭分ほどは離れた地点で馬の状態を確認しているクロードをみとめると、少年は足早に駆け寄ってきた。
少年――というより、すでに青年にさしかかっているだろうか。
この一、二年でぐんぐんと背を伸ばし、日に日に精悍な体つきになりつつあるのは、クロードの従騎士ジュストである。
だが、身体は伸びても、表情には幼さが残る。
「クロード様。いくつか判明したことがありますので、ご報告します」
クロードのいる場所まで辿り着いたジュストは、息を切らしながらも一礼して告げたのだった。
「ジュスト、戻ったのか。ご苦労だった」
馬から視線を外し、クロードはジュストを見やる。
ラクロワにあるビューレル邸における調査については、もともと現地にいる騎士らに命じるとともに、ジュストを行き来させて状況を報告させていた。
近々クロード自身もラクロワへ足を運ぶつもりである。
「それで判明したこととは?」
「ナタン・ビューレル殿が、事件の直前まで普段とまったく変わらない様子だったということは、依然ご報告しましたが――」
「ああ、聞いた」
「どうやら事件が起きるまえに、従者と二人で話をしていたようなのです」
「従者と? なんの話だ?」
「内容はわかっていません。ただ、ナタン殿の部屋に従者が駆け込んでいくのを目撃した者がおります。ひどく慌てた様子だったとか」
「なぜ話していた内容がわからないんだ? 従者から聞き出せばいいことだろう」
「それが、その従者が事件の数日後に姿を消したのです」
「姿を消した? どういうことだ」
「どこにも姿が見当たらないのです。荷物はそのままで、だれにも告げることなく突然いなくなったようです」
「数日後というと?」
「三日後です」
「……従者の名は」
「ジャン・バトン――歳は三十四で、ナタン殿の従者になって七年目です」
事件の直前にナタンの部屋に駆けこみ、事件後に失踪した従者ジャン・バトン。
彼の行動とナタンの行動とは、なにか関係があるかもしれない。
「ジャン・バトンという人物の評判は?」
考えこみながら、短くクロードは尋ねる。
「非常に真面目な性格で、ナタンにも真摯に仕えていたようです。ナタンだけではなく、ジルからも信用されていたらしく、だれからも悪い噂は聞きません」
クロードは沈黙し、考えに沈んだ。
事実だけを並べたうえで推測するならば、ジャンがナタンになにか吹きこみ、ジェルヴェーズに斬りかかるようけしかけたうえで、事件後に行方をくらませたとも考えられる。
――現時点ではそう考えるのが自然だ。
だが、真面目で皆に慕われるような人物が突然、主人を陥れようと企むものだろうか。
憶測どおりではないとすれば、いったいジャンはナタンになにを慌てて告げにいったのか。なぜ、行方をくらましたのか。
それとも、真面目な態度は偽りの姿だったのか。
「ジャンの家族は?」
もしかしたら、家族のもとに立ち寄ったかもしれない。
予測していた問いだったらしく、ジュストは整然と答えた。
「ラクロワ内の街プロティに母親と姉、それに兄一家がそれぞれ別々に住んでおります。幾人かを派遣して調べさせましたが、ジャンが訪れたような形跡はありませんでした」
「ビューレル邸においてジャンと親しかった人物はいないのか」
「ええ、幾人かいるようです」
「行方に心当たりがある者は?」
「ひととおり話を聞いてまわりましたが、皆、思い当たる行き先もないようで」
さすがは、かつてリオネルの従者を務めていただけあり、ジュストは必要な事項をすべて調べ上げたうえで、ラクロワからベルリオーズ邸へ戻ってきていた。
「……不可解だな」
クロードは眉を寄せる。
「どうぜ逃げるなら事件の直後にビューレル邸を去ればよかったものを、なぜ三日経ってから姿を消したのか」
「ジャン・バトンの行動は、今のところまったく謎に包まれています」
「ナタンの部屋に駆けこむまえの、ジャンの行動はわかっていないのか?」
「残念ながら」
申しわけございません――とジュストが頭を下げると、クロードは首を横に振った。
「きみのせいではない」
そう声をかけたうえで、クロードは次のように命じる。
「引き続き、事件前後のナタンとジャンの行動を調べるとともに、ジャンの行方を探しなさい。ジャンはなにか知っているかもしれない」
「かしこまりました……それともうひとつご報告が」
クロードが従騎士を見下ろすと、ジュストはわずかに戸惑ったような表情で師匠を見上げていた。
「もうひとり、行方が分からなくなっている者がいるようで」
「もうひとり?」
ビューレル邸は、いったいどうなっているのか。
「姿を消したのは、家臣のひとりでレオポルト・コシェという男です」
「どのような男だ?」
「三年ほど前に衛兵の鍛錬を終えて門番の役に就いた者で、年は二十七歳、以前は真面目に働いていましたが、最近は娼館に出入りしたり、賭け事をしたりする姿が見られたそうです。ですので、借金を返せなくなったために失踪したとか、娼婦と駆け落ちしたとかの噂がビューレル邸で広まっています」
「借金は多かったのか?」
「それなりにあったようです」
「レオポルトの失踪と同時にいなくなった娼婦はいるのか?」
「そのような人物については、今のところ見つかっていません」
ふぅむ、とクロードは唸る。
ナタンの凶行、ジャンの失踪、それにレオポルトの失踪は、なにか関係があるのだろうか。
「レオポルトが失踪したのはジャンよりも先か、後か?」
「どうもレオポルトのほうが一日ほど先のようで」
「一日、先か」
難しい顔つきでクロードは呟く。
「ナタンがジェルヴェーズ殿下に斬りかかり、二日後に門番のレオポルトが失踪、さらにその翌日に従者のジャンが失踪……三つの出来事は繋がっているのか、あるいはまったく関係のない出来事なのか。それを見極めるためには、もう少し判断材料が必要だ」
「はい」
「レオポルトとジャンの行方を徹底的に調べなさい。ビューレル邸の周辺だけではなく、プロティ――いや、ラクロワじゅうを探す必要がある。それ以外の場所については、私が各所へ連絡をして捜索をはじめよう、ラクロワ内の捜索についてはジュスト、きみがまとめてくれ。ベルリオーズ邸からも幾人か兵士らを行かせる。憲兵も動員しよう」
「かしこまりました」
「幾度も往復するのは大変だろうが、よろしく頼む。五日のうちには、私もラクロワへ赴くから」
指示を受け、きっちりと礼をして立ち去っていくジュストの姿を、馬たちが無言で見送っていた。