24
侵入者が去ったあとの、王の居室。
男装の少女が現れ、そして消えていった煙突を、フリートヘルムはぼんやりと眺めていた。
いつもと変わらぬ部屋の景色。
こうしてみると、今しがた起こったことはまるで幻だったかのようだ。
けれど、頬の痛みは現実のものだったし、木の床にわずかに残る煤の跡も、これまでの出来事が夢ではなかったことを伝えている。
ゆっくりと煙突のほうへ歩み寄ろうとしたとき、扉を叩く者があった。
開かれた扉をくぐってきたのは、ローブルグの平均よりもやや背の低い男である。年は六十歳になる手前ほどで、完璧に整えられた顎髭と、切れ長の瞳に宿る眼光の鋭さが印象的だ。
「シュトライト公爵か」
感情のこもらぬ声音でフリートヘルムは相手の名を呼んだ。義父ではあるが、滅多に「父」と呼ぶことはない。
シュトライト公爵は一礼すると、早速、来訪の用件を伝えた。
「先程、我が家臣の名を騙り、陛下のお部屋に近づこうとした曲者があったようで、御身の無事を確かめるために参じました」
「私の部屋に? だれも来ていないが」
張られたほうの頬を、シュトライトに悟られぬようフリートヘルムは窓のほうへ向けた。
「さようでございますか。女中が陛下の居室への道を聞かれたようでして。お命を狙う刺客ではないかと」
「なにかの間違いだろう。騒がなくていい」
「…………」
納得しているようには見受けられなかったものの、ひとまずこの件についてはシュトライト公爵を黙らせる。けれど、彼がすぐに退室する気配はない。まだなにか言いたいことがあるようだった。
この男が来訪した目的は実のところ別のところにあり、曲者がどうのこうのというのは、ついでのようなものだということをフリートヘルムは知っていた。
というのも、このところシュトライト公爵は毎日のようにフリートヘルムの部屋を訪れ、しつこく説得にあたっていたのだ。
シュトライト公爵がフリートヘルムに持ちかける相談は、主に二件あった。
「ところで陛下、先日私が申しあげたことについて、お考えくださいましたか」
やはりか、と密かにフリートヘルムは内心で溜息をつく。
二十年前、城から逃げる兄とその恋人を、王と共謀して追い詰めたのは、目のまえにいるこの義父である。
シュトライト公爵は配下に命じて、アルノルトの恋人に矢を向けさせた。
娘は死に、そのあとを追って、アルノルトも死んだ……。
ぼんやりとそのことを考えながら、フリートヘルムは虚ろな調子で答える。
「考えたとも」
「さようでございますか」
シュトライト公爵の声が、期待をはらんでわずかに震えた。
「ならば、ユスターと同盟を組むことについて承知いただけるのですな」
「考えに考えたが、まだ考えている途中だ」
とぼけた回答に、シュトライトは虚を突かれた面持ちになったのち、声を低める。
「いつになったらお返事をいただけるのですか」
「そのようなことは、私にもわからない」
「返事をいただけないままでは、本当にユスターの使者は、陛下にお会いにならぬまま帰ってしまうかもしれませんぞ」
「ユスターの使者は、まだエーヴェルバインにいるのか?」
皮肉めいた口調でフリートヘルムは尋ねた。
「帰ってもらっては困ります。接見くださるまで、私は陛下を説得しつづけますぞ。ユスターと同盟を結ばねば、北の軍勢が攻め入ってきたときに、我が国は単独で戦わねばならなくなります」
「シャルムからの使節も来ているようだが?」
「ユスターの動きを嗅ぎつけて、我が国と同盟を組もうと考えておるのでしょう。シャルムの使節など、早くこの街からつまみださねばなりませんな」
「公爵は、ユスターの使節とは会ったのだろう? ならば、シャルムの使節とも面会してみたらどうだ。そのほうが公平ではないのか」
「なにを仰せか。シャルムは我らが宿敵。あの国を完膚なきまでに叩きのめしてこそ、積年の恨みを晴らし、ローブルグ王国の威厳を保つことができます」
「ずいぶんとシャルムを嫌悪しているようだな」
「ローブルグ人として、当然のことです。国王たるフリートヘルム陛下も、私と同じ思いでおられると認識しておりますが」
鋭い眼差しがフリートヘルムを射抜く。だが、その眼差しを流して、フリートヘルムはのんびりと言った。
「私にとっては、ユスターもシャルムも同じだ。兄上にとっては少しくらい違ったかもしれないが」
後半の台詞は兄を追い詰めたシュトライトに対する皮肉であるが、のんびりとした口調にその毒は隠されていた。
「陛下がそのような態度では、ユスターの使者はいずれ国に戻ってしまうでしょう」
「なにか問題でも?」
簡単に言ってのけるフリートヘルムに、シュトライト公爵は眉を寄せる。
「大陸の危機ですぞ」
「わかっている」
「ならば早く結論を――」
「だから、考えていると言っているではないか」
「…………」
ついにシュトライトを黙らせると、フリートヘルムは涼しげな表情で窓の外を見やった。
そろそろ部屋を出ていくだろうかと思いきや、重い口調でシュトライト公爵は再び口を開く。
「では、いまひとつの件については?」
――いまひとつの件。
感情を表に出すことなく、フリートヘルムは問い返した。
「いまひとつの件というと?」
「おわかりでしょう。我が孫を陛下の養子にする話です」
それこそが、シュトライト公爵が求めている二つの事由のうちのもう一方である。すなわち、シュトライト公爵は己の孫に当たる八歳の少年を、子のないフリートヘルムとマティルデの養子に据えようと画策していた。
「その件についても寝る間を惜しんで考えたが、答えは出ていない」
「マティルデとは話しあってくださったのですか」
「どうだったかな……」
「陛下、これは他でもないローブルグの平安のためです。世継ぎがないままでは、国は不安定になります。一刻も早いご決断を」
「公爵の言うとおりだな。さらに真剣に考えておくことにしよう」
再びシュトライト公爵は沈黙した。
シュトライトはこれまで、前王であるディートリヒに取り入って出世し、さらには聡明なアルノルトを排除して、無能といわれるフリートヘルムを王位に就けた。
そのフリートヘルムに娘を嫁がせることによって外戚たる地位を得た今、あとは孫をフリートヘルムの養子として認めさせれば、シュトライトの地位は確固たるものになる。
さらに、ユスターと手を組み敵国シャルムを叩きつぶせば、ローブルグにとって――引いてはシュトライトにとり、恐れるものなどなにもなくなるというのに。
なにもかもがうまくいっている。
あと一歩だ。
それなのに、最終幕だけがうまくいかない。無能であるはずのフリートヘルムが、シュトライトにとり、これまでで最も御せぬ相手だった。
「寝る間を惜しんで考えていたから、私は眠い。シュトライト公爵には退出願えるか」
「陛下、寝ている場合ではございません。まだなにひとつ答えが出ていないではありませんか。せめてユスターとの同盟だけは結論を――」
シュトライトがわめきたてたとき、再び何者かが扉を叩いた。
了承を得て入室したのは、いまひとりの側近であるヒュッターである。自害したアルノルトの家庭教師であったヒュッターをみとめると、シュトライトは苦い面持ちになって踵を返した。
「また後程うかがいます、陛下」
「お待ちいただきたい、シュトライト公爵」
退室しようとするシュトライトの背中に、ヒュッターは逃すまいとするように声をかける。
「貴公におかれては、私がいるところではできない話を、陛下に持ちかけておられたのか」
扉へ向かう足を止めて、シュトライトはヒュッターを振り返った。
「口を慎んだほうが賢明ですぞ、ヒュッター殿。陛下に助言をするのは、直臣であり、義父にもあたる私の役目。差し出がましいことを申されるな」
「それが本当に助言であれば、けっこうですが」
「貴殿こそ、陛下のお心を迷わせるようなことを、ささやかれてなければよいものだが」
ヒュッターへ睨みをくれて、シュトライトはフリートヘルムの居室を立ち去る。ヒュッターもまた、去っていくシュトライトの背中を忌々しげに見つめていた。
二人の様子を眺めていたフリートヘルムは、
「おまえたちは相変わらず仲が悪いな」
と笑う。
「ユスターだとかシャルムだとかいうまえに、ローブルグ人同士――それも同世代の閣僚同士で、絆を深めあったほうがいいのではないか?」
するとヒュッターが顔を顰めてフリートヘルムへ視線を移した。
「なにを呑気なことを仰せでおられるのですか。このところ閣僚たちがシュトライト殿によってあらぬ嫌疑をかけられ、失脚しております。それに、陛下はお忘れでしょうか。二十年前に国王に諌言し、アルノルト様を死に追いやったのは――」
「やめておけ」
相手の台詞を遮って、フリートヘルムは言った。
「言葉にしたら、それまでだ。今がまだそのときでないならば、このまま好きなようにやらせておくのだな」
「それにしても……陛下はすべておわかりのはず。娘であるマティルデ様を王妃の座に据えたことで、あの者はさらに権力を振りかざすようになりましたぞ。私には陛下のお心がわかりませぬ。なにを考えておられるのか」
「そのような昔の話を、今更持ちだすのか?」
おかしそうにフリートヘルムは笑う。
「私との婚姻を望む者など、他にあるまい。対外的にはこれで形が整ったわけだから、むしろ感謝するべきなのではないか」
「ですが、このままではシュトライト殿は必ずやあの方に危害を……」
「そのまえに探し出す」
「陛下がそのような姿勢では、探し出すまえにこの国は崩壊いたします」
きっぱりと言い切った声は、けれどわずかに震えていた。ヒュッターとしては、意を決した発言だったに違いない。
それでもフリートヘルムは相変わらずの調子だった。
「崩壊するまえに、あの子は必ず見つかる」
「陛下……」
肩を落として項垂れてから、力なく顔を上げたヒュッターは、ふとフリートヘルムの頬に視線を止めた。
「陛下、その頬の傷は」
「傷?」
「赤くなっております――ちょうど手の形に」
「ああ、これか」
シュトライトには警戒して見せなかった左の頬を、ヒュッターのまえではつい気を許しているせいか晒してしまっていた。
指摘されて、忘れていたはずの痛みがよみがえる。
傷はひりひりと疼いていた。
あのような細い腕で張られたわりに、これだけの痛みを生じさせるのだ。あの少女は渾身の力を込めたに違いない。そう思えば、フリートヘルムは微笑せずにはおれなくなる。
「頬を張られたのは、生まれてはじめてだ」
左頬に手を触れながら、フリートヘルムはつぶやいた。
「……だれがそのような非礼を」
小さな手形は、男性のものとは思われない。女性にしてもやや小ぶりのようだが、フリートヘルムの周囲に女気があるはずがなかった。だとすれば、王妃マティルデのものか……。
「空色の瞳をした天使だ」
フリートヘルムの返答に、無言になったヒュッターは、すばやく視線を室内の各所へ走らせる。それからすぐに、木の床に残る煤に気づいてフリートヘルムを見やったが、素知らぬ顔の横顔に、それ以上の追及を諦めたのだった。