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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第五部 ~敵国の都は、夏の雨にけぶる~
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第二章 雨にけぶる街の罠 23







 日がな一日、本を手にとってはいるが、実のところフリートヘルムは「物語」というものを読むことは滅多にない。退屈を紛らわせてくれれば、本はなんだってかまわなかった。


 天文学、土木、立法、兵法、神学、哲学……内容はなんだってかまわない。

 けれど、物語性のあるものだけは、手に取らなかった。


 現し世においては、自らの人生を生きるだけで手いっぱいだ。どうして他人の人生などを――特にその悲哀を、わざわざ体験する必要があるだろうか。物語が終われば、そこには逃れられない己の現実が待ち受けている。


 物語を読むことは、フリートヘルムの目のまえに、他人のものにせよ、自らのものにせよ、だれかしらの人生をむざむざと突きつけられることに他ならなかった。そしてそれは、いつだって残酷なことだった。

 かといって、学問書がおもしろいかといえば、そうでもない。

 先にも述べたが、単に気持ちを紛らわせるものが必要なのだ。


 どの本を開いても、フリートヘルムの心を惹きつけるものはなく、なにをやっていても彼の心を満たすものはなかった。


 心のなかに空白を感じるとき、フリートヘルムが必ず思い出すのが、兄の最期である。


 あの日……あのとき、アルノルトはフリートヘルムを抱き寄せた。

 逞しく、あたたかい兄の腕を、感じていた。

 その直後だ。アルノルトがフリートヘルムの腰にかかっていた短剣で、自らの命を絶ったのは。


 ――フリートヘルム、赦してくれ。

 兄はそうつぶやいていた。


 ――この国を継ぐのはおまえだ。私を赦してくれ、フリートヘルム。


 頬にかかった血しぶきの生温かさ。

 この血の温かさが、今まで自分を包んでいた兄の温もりなのだと気づいたとき、フリートヘルムは人間という生き物の儚さを知った。


 あのときのアルノルトの顔。

 風が吹くようなほほえみは、いつもと変わらず優しげで、もうすぐ愛しい人に会えるという喜びに満ち、けれどそれなのに、それなのに――。


 兄の瞳に憂いを見出したのは、憧れつづけた兄――太陽のように眩しく、だれにとっても希望そのものであったアルノルトを、目のまえで失わねばならなかったフリートヘルムの心を映していたからだろうか。


 ――カロリーネ、フリートヘルム。おれの子を頼む。


 アルノルトの血で、フリートヘルムはまたたくまに濡れていった。

 なんて赤いのだろう。

 兄アルノルトの体内に流れていた血は、なんと赤かったことか。鮮烈な赤さが瞼に焼き付いて、瞳を開いていても、あるいは閉じていても、今も瞼から離れない。


 開け放たれた窓から入りこむ風の温かさに、ふとフリートヘルムは本から視線を離し、顔を上げた。


 窓の外に広がる景色は、あの日からなにも変わらない。

 美しいこの国。

 ルステ川が運ぶ優しい風と、穏やかな時間。


 けれど、農作業に勤しむ農夫も、街を賑わす商人も、駆けまわる子供らも、だれもこの国を統べる王の心のうちを知らない。


 ……すべては、輝かしい兄アルノルトのものだ。


「すべては……」


 それは心のつぶやきだったか、それともかすかに唇からこぼれた声だったか。

 言葉を止めたのは、ふと、かすかな気配に気づいたからだ。


 フリートヘルムは視線を窓から室内へ移した。

 壁のほうから、布がこすれるような乾いた音が聞こえてくるのは、気のせいだろうか。


 いや、壁ではない。

 ――暖炉だ。


 何者かの気配は、たしかに暖炉のなかから感じられる。

 慌てるでも、警戒するでもなく、また剣の柄に手を伸ばすでもなく、フリートヘルムはただじっと椅子に座ったまま、暖炉の様子をうかがっていた。


 音は次第にはっきりとして、ついにはなにかが暖炉のなかに姿を現す。

 それは黒い煤をまとっていた。


 黒い煤をまとったなにかには、二本の足らしきものがついていて、ごそごそと暖炉から歩き出てくる。ついでに、手のようなものもあり、よく見れば目と鼻と口もある。

 なんらかの生物であることはたしかだった。

 大きさは、成人男性……いや、大人の女性にも満たないようだ。


 相手は、フリートヘルムの姿をみとめると、自ら無断で侵入してきたというのに、逆に驚いたふうに一歩後ずさりした。けれど、背後は暖炉である。固い壁にぶつかって、後退を阻まれる。


 黙ってフリートヘルムはその光景を眺めていた。

 おもしろいものが迷いこんできた――。


 相手がなにか言葉を発するのを、フリートヘルムは待っている。まるで、黒い生物の反応を愉しんでいるかのようだった。


 フリートヘルムからの要求を肌で感じたのか、黒い人物は服の袖で顔を軽くぬぐい、それから、おずおずと声を発した。


「あなたは――」


 むろんその声は、言わずとしれたアベルである。


「――フリートヘルム国王陛下ですか」


 顔をぬぐったために、白い肌の色が垣間見え、当初よりは顔立ちがはっきりとしたが、なによりひたと見つめてくる強い眼差しの水色の瞳が、フリートヘルムの気を引いた。


 開いた本はそのままに、書き物机に片肘をつき、アベルを眺めながら、フリートヘルムはのんびりと言う。


「随分、かわいらしい声だ」

「…………」


 予想していなかった反応に、アベルは戸惑った。

 騒ぎたてられても困るが、それにしても驚く様子さえなく、むしろなにやら愉しそうなのだから、困惑するのは当然のことだ。


 アベルが黙っていると、フリートヘルムも口を閉ざす。

 沈黙が部屋に横たわり、アベルは言い知れぬ違和感を覚えた。居心地の悪さに、ついにアベルは再び声を発した。


「もしあなたがフリートヘルム様であるなら、お願いがあります」

「願い? へえ……」


 片肘ついた手に顎を乗せ、フリートヘルムは笑んだ。


「ここへは迷いこんだのではないのか?」

「陛下に会いにきました」

「おやつでもねだりにきたのか」


 茶化されているのに、そう聞こえないのが不思議だ。フリートヘルムが、本気でそれを言っていたからかもしれない。


 アベルは一歩前へ進み出て、絨毯を煤で汚さぬために、その手前の硬い木の床に片膝をつき、深々と頭を下げる。


「名乗るのが遅れて申しわけございません。わたしは、シャルム王国ベルリオーズ公爵家嫡男リオネル様に仕える従騎士、アベルと申します。不躾な入室をお赦しください」

「きみは――」


 なにかを測るようにフリートヘルムは目を細める。


「――きみは男の子か?」


 再び思わぬ質問を受け、むろんそれはアベルにとり重大な秘密だったために、内心でひやりとした。


「むろん、わたしは男です」


 すると、しばしフリートヘルムは無言でアベルを見つめ、それからゆっくりと立ち上がる。アベルの身体を緊張が走ったが、動こうとはしなかった。

 逃げる場所はない。

 アベルは交渉するためにここへきたのだ。逃げる必要もないはずだった。


 だが咄嗟に恐怖を覚えたのは、直感というべきだろう。

 徐々に近づいてくるフリートヘルムの足音が、ひざまずくアベルの直前で止まる。

 それから相手の腕が伸びてくるのが、アベルの視界に入った。


 なにをするのだと声を上げる間もなく、片手で顎を捕らえられ上向かされる。驚きに見開くアベルの瞳と、どこか冷めたフリートヘルムの蒼い瞳が間近で絡みあった。


「男でなかったことを幸いと思ったほうがいい。こんなに私を愉しませてくれる訪問者に、私が興味を抱かないはずがないのだから」


 どういう意味かと思うより先に、男ではないと即座に見抜かれたことのほうが、アベルにとっては重大なことだ。


「わたしは男です」


 むきなってしもしかたのないところだが、やはりこの点については、アベルはこだわった。男として生きることに決めたのだ。女であると認めるわけにはいかない。


「なるほど、きみが男だというなら、今すぐ私の相手になってもらおう」

「?」


 聞えてきた言葉を理解できず、アベルは頭のなかで混乱を鎮めようとした。

 ……が、それは失敗に終わり、しかたなく言葉にして確認する。


「ですから、わたしは男だと申しているのです」


 すると、フリートヘルムは小さく笑い、アベルを解放した。


「どうも強情な子らしい」


 アベルがフリートヘルムを睨むように見上げていたのは、困惑を隠すための虚勢だったかもしれない。けれど、その様子をフリートヘルムはおもしろそうに見下ろしていた。


「まあいい、あくまで男だと言い張るなら、そういうことにしておいてあげよう。私は、男でも女でも、美しいものが好きだ――むろん、外面だけではなく、内面からにじみ出るものを含めて」

「は?」


 かつて、だれだったか「綺麗ならどちらでもかまわない」などと言っていたような気がするが、すぐには思い出せないし、なんの話だかさっぱりわからない。


「けれど安心しなさい。そなたのような少女を相手にする趣味はない」

「ですから、女ではありません」

「なにか私に用があったのではないのか?」


 逆にフリートヘルムに促されて、アベルははっとした。

 そうだった。男だとか、女だとかにこだわっている場合ではない。フリートヘルムの例えがたい特異な雰囲気に呑まれて、アベルは本来の目的から遠ざかってしまうところだった。


「陛下にお願いがあって参りました」

「それはさっきも聞いた。菓子ならたくさんある。そなたのような子供がここまで忍び込んだ勇気をたたえて、欲しいだけ持って帰ればいい」

「子供扱いなさらないでください」


 きっぱりと答えるアベルの声は、やや怒りをはらんでいる。


「おや、これは失礼。かつて甥がいつも菓子を私にねだりにきたものだからね」

「……わたしはリオネル・ベルリオーズ様に仕える者です。主人はレオン第二王子殿下と共に、フリートヘルム陛下に謁見するためにここエーヴェルバインへ参りました。どうか我が主らにお会いくださいますよう、お願い申し上げます」


 整然とした物言いに、フリートヘルムは感心したような面持ちになる。


「きみはいったい幾つなんだ?」

「そのようなこと、今は関係のないことです。陛下にご了承いただけるまで、わたしはこの部屋から出ることはできません」

「なかなか手厳しいな」


 フリートヘルムは笑った。


「わざわざそのようなことのために、守衛の目を欺き、煙突を登り降りして私の部屋に忍び込んできたのか?」

「そのようなこと?」


 呆気に取られてアベルは問い返す。菓子欲しさに忍び込むより、よほど大事なことだと思われるのだが。


「我が国にとってはもちろんのこと、貴国にとっても同盟を組むかどうかの決断を下すことは、今後の運命を左右する一大事と考えられます」

「一大事ね」


 昼食の品書きを聞き流すかのような軽さで、フリートヘルムは答えた。


「それは大変そうだ」


 ローブルグの王がなにを考えているのか、アベルには見当もつかない。二人がいる場所は、あまりにも遠い。


「わたしは真剣に申しあげているのです」

「私だって真剣だ」

「ならば――」

「ところで、きみは本を読むのが好きか?」


 フリートヘルムの話は唐突だった。流れについていけぬアベルは、どう返答してよいかわからず、ただ眉をひそめる。


「私はよく本を読むが、物語というものが嫌いでね」

「…………」

「だが、せっかく子供がここまで遊びに来てくれたのだから、今日はひとつ、昔話を聞かせてやろう」


 アベルは沈黙していた。

 昔話を聞くためにこのような場所まで命懸けで忍び込んだわけではない。

 けれどフリートヘルムは本気のようだった。


「どこにでもある、つまらない昔話だが、聞くか」


 困惑せずにはおれない。この国の王は、まったく掴みどころがない。なにを考えているのか。


 返事をせずにいるアベルに、フリートヘルムは柔らかな笑みを向ける。

 ――そして物語ははじまる。


「かつて、美しい国に、美しい王子がいた。神に祝福され、王にも国民にも愛される輝かしい王子だった。……王子には年の離れた弟がいたが、弟のほうは兄に比べ万事において劣り、だれにも見向かれない存在だった。兄王子は健やかに育ち、やがてはだれもが慕い敬う善き王になるはずであったが、神は冷酷な運命を彼に与えた」


 言葉を紡ぐフリートヘルムは、子供に語り聞かせるというより、ただ独り言を連ねているようだ。


「王子は許されぬ相手と恋に落ち、子を成した。王子に期待していた父王は激怒し、二人を引き裂こうとした。二人は逃げたが、逃走の果てに娘は命を落とす。その死を知った王子もまた、自ら命を絶った。やがて王子を死に追いやった国王も世を去り、だれからも期待されていなかった――才覚のない、すべてにおいて兄王子に劣る弟が王位に就くこととなった」


 窓から吹きつける風が、フリートヘルムの長い金糸の髪を揺らす。きらきらと輝くその波は、陽光を転がすルステ川の流れのようにアベルの目には映った。


「王となった男は、その後どうなったと思う?」


 問われて、アベルはしばしフリートヘルムの瞳を見つめる。この人はいったいなにを求めているのだろう。わかることは、ただひとつ。


「それは、フリートヘルム王――あなたのことですね」

「そのとおりだよ。私はこの国の玉座に就くべき人間ではなかった」

「ですが、今はローブルグの国王陛下です」

「王位を預かっているだけのこと。真の王は、兄アルノルトが遺した子なのだから」


 フリートヘルムの言葉を聞いていて、アベルは思い出すものがあった。ここへ来る途中、農夫らが交わしていた会話。


 ――国王陛下はどうにも頼りない気がする。早くアルノルト様のお子が現れてほしいものだ。


 そういうことだったのか。フリートヘルム自身が、兄の遺児に玉座を譲りたいと願っているというわけだ。

 アベルは合点がいった。


「だが条件が合えば、会うだけは会ってもいい」


 はからずも相手から出された提案に、アベルは顔を輝かせる。


「教えてください、条件とは?」


 けれど、次の瞬間には、いったんは輝かせた顔をアベルは曇らせていた。


「ここへもリオネル・ベルリオーズ殿の噂は聞こえている。優秀で真面目な騎士であるうえに、たいそう整った容姿だとか」

「…………」


 優秀であることはともかく、容姿が交渉において重要なのだろうか。不審に思ったが、とりあえずアベルは正直に答えることにした。


「わたしには遠く及ばないほど文武共に優れていますし、真面目で、たしかに端正な顔立ちの方です」

「性格は?」

「責任感が強く、芯が通っていて、それでいて、とても優しい方です。リオネル様以上に仕えたいと思う相手を、わたしは他に知りません」

「そうか」


 アベルの回答に、フリートヘルムは心なしか表情を明るくした。


「ならば彼が一晩私とつきあうというなら、会おう」


 ……いまいち意味がわからない。


「つきあうとは、いったい……?」

「わからないのか?」


 無言でアベルは唇を引き結んだ。


「ちまたに流れている私の噂を知らないのか?」

「悪趣味とかいう……」


 なにも考えずに口にしてしまい、直後、はっとしてアベルは口元を両手で覆う。


 ディルクやベルトランが、「フリートヘルム王は悪趣味だ」と繰り返し言ってはいたが、まさか本人のまえで口にしてしまうとは。

 相手の真意は測りかねるが、大失態であることはたしかだ。時間を巻き戻せる魔法があるならば、アベルはその呪文を知りたいと心から願った。


 けれど慌てるアベルをよそに、フリートヘルムは静かに微笑する。


「そのとおりだ。私は美しい者――特に青年が好きでね。生涯を共にする相手は、心身ともに汚れない相手と決めている」


 アベルは沈黙した。思考は完全に停止している。

 今、フリートヘルムはなんと……?


 どういう意味に解釈すればいいのだろうなどと考えているうちに、フリートヘルムの唇がアベルの耳元に寄せられ、小声でささやかれる。


 直後に、あってはならぬ事件は起きた。

 言葉の途中で、高い音が鳴り響き、フリートヘルムは大きく顔を背けていた。


 その頬には小さな手の跡が、赤く、くっきりとついている。ローブルグ国王の頬に盛大な平手を見舞ったのは、他でもないアベルだった。


「大っ変態王!」


 言い捨てるや否や、アベルは暖炉に向かって駆けだす。

 頭のなかが錯乱して、うまく思考が機能しない。いったいこの王はなにを考えているのか。


 ――話にならない。


「失礼します!」


 なんともいえぬ脱力感と混乱を抱えながら――痛いほどフリートヘルムの視線を背中に感じながら、アベルは忍び込んだのと同じ道筋を逆に辿り王宮を脱出したのだった。










いつもありがとうございます。


もし、本日のお話のなかで地雷の部分があった方がいらっしゃいましたら、申し訳ございません。

投稿の有無自体を迷いましたが、とりあえず載せさせていただきました。

 

メインの粗筋とは関係ありませんが、苦手な方がいらっしゃいましたら、以降は本作をスルーしていただければ幸いですm(_ _)m





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