21
シャルムからの使節が去ったあとのエーヴェルバイン王宮。
使節らが去っていく様子さえ気にすることなく、窓際に据えられた書き物机に向かって、ひとりの男が本の頁をめくっている。
「よろしかったのですか」
「なんのことだ」
側近に問われて、顔も上げずに答えたのは、ローブルグ国王フリートヘルムだった。
「シャルムからの使節には、第二王子が加わっていたとか。先方を怒らせたらば、シャルムとの戦に発展しかねませんぞ」
側近といっても、歳のころはすでに六十歳近いだろう。父親ほどの年齢の家臣に、フリートヘルムはそっけなく告げる。
「そうなったら、シュトライト公爵あたりが適当に対処するだろう」
シュトライト公爵は、妃マティルデの実父であり、フリートヘルムにとっては義理の父にあたる人物だ。二十年前、第一王子とその恋人を死に追いやった張本人でもあるが、今は揺るぎない権力の座にあった。
「兵権をシュトライト公爵に委ねられるということですか」
やや声を低めて側近は言った。
相手の声から押し殺した憤りを感じたフリートヘルムは、しかたなさそうに本から顔を上げる。
兄の家庭教師でもあったこの老人を怒らせたら、すぐに困ることはないとはいえども、後々まで面倒なことになりかねない。年寄りはいったん機嫌を損ねると、なかなか直らないものだ。
「そう苛立つな、ヒュッター。公爵は、毎日私に会いにきてはユスターと手を組めとうるさい。シャルムと戦争になれば、シュトライト公爵が喜ぶのではないかと思ったたけだ」
「このままでは、王家はシュトライト殿とその一族に乗っ取られてしまいますぞ。どうか、ユスターかシャルムか、どちらと手を組むべきか、陛下ご自身のご判断を下していただきたい」
「王権が本来の持ち主に戻るまでは、何事においても決めることはない」
「陛下!」
声を荒げたヒュッターへ、フリートヘルムはひたと眼差しを向ける。蒼い瞳に宿るのは、遠い昔に喜怒哀楽を捨て去ってしまったかのような、冷めきった色だった。
「ヒュッター、そなたとて、私ではなく兄上がこの国を統べることを熱望していたのだろう?」
「それは――」
わずかにヒュッターは言いよどむ。たしかにアルノルトが存命のときは、生涯をかけて、才気あふれる輝かしき教え子に仕えようと思っていた。
――だが。
「そのような話は、もはや関係ございません。アルノルト殿下はお亡くなりになったのですから」
「だが、兄上には子がいる」
「どこにいるか、今はまったくわからないではありませんか」
「だから探しているのだ。彼を探し出したら、私は玉座を譲るつもりだ」
「またそのようなことを……」
「別に卑屈になっているわけではないぞ、ヒュッター。私がこの場所にいるのは、兄上の遺児を探し出すまでのあいだなのだ。その間に、国勢を左右するような決定を下すことはできない」
政治に対する冷めきった態度とは異なり、フリートヘルムが王権に対して抱いている思いは頑なだった。
「カロリーネ様も、殿下の態度にはもどかしくお感じになられているようです。何卒、ローブルグ王たるご英断を」
「姉上に会いに行ったのか?」
王の姉カロリーネは、エーヴェルバインからさほど離れておらぬツィンドルフの丘に建つ居城に住まっている。
カロリーネとフリートヘルムは仲が悪いわけではなく、むしろ良いほうであるが、フリートヘルムが玉座に就いてからは、カロリーネはツィンドルフの城に籠るようになった。
弟よりも自らのほうが国民から人気があることを承知のうえで、混乱を避けるためにエーヴェルバイン王宮から離れたのだ。
「先日、城へお招きくださいました」
「そうなのか。おまえを呼んでおいて、私には声をかけてくださらないとは、姉上も水臭い」
「カロリーネ様が陛下に託された思いも、どうか鑑みていただきたく存じます」
「心配ない。姉上も私と同じお気持ちだ」
「それはどういう……」
「今度、姉上に会ったら、国勢のことなどより、早くご自身の結婚のことでも考えるように、伝えておいてくれ」
「…………」
華やかな美貌の持ち主であるのに、カロリーネは三十四歳にして、未だにだれとも婚姻関係を結んでいない。求婚者は後を絶たないというのに、相手を定めぬ理由は謎である。
返す言葉を失い、ヒュッターは白い髭に覆われた口を重く閉ざした。
フリートヘルム王と妃マティルデのあいだに子は望めない。それは、はじめからわかりきったことだった。シュトライト公爵の狙いはただひとつ、マティルデの兄妹が産んだ自身の孫を二人の養子に据えて、揺るぎない権力を得ることである。
それを知ってか知らずしてか、フリートヘルムは政治に積極的な態度を示すことなく、呑気に読書に明け暮れている。加えて、彼の探している第一王子アルノルトの遺児は見つかりそうにもない。
ローブルグの未来を思うと、ヒュッターは暗澹たる思いに沈むのだった。
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「兄上が交渉に来なかったことは、不幸中の幸いかもしれない」
エーヴェルバイン王宮から宿に戻ると、寡黙な一同のなかでレオンが最初に言葉を発した。
「このような待遇を受けたら、怒り狂っただろう。シャルムに戻ってから、ローブルグに大軍を送りこむなどと言い出しかねない」
「シャルムとローブルグとの関係を思えば、よかったと言えるのか。だが……」
けっして明るいとは言えぬベルトランの語調である。仮にシャルムのためになったからといって、リオネルが『恐怖の塔』へ送られることになってしまったら、元も子もない。
「リオネルの立場からいえば、我々は窮地に立たされている」
「しかしね。ああも頑なに拒否されると、どうすればいいのか見当もつかない。ユスターにしろ、我々にしろ、なぜフリートヘルム王は各国の使節を拒絶するのだろう?」
ディルクの問いかけに、レオンが首を傾げる。
「外交に興味がないのだろうか」
「政治全般に興味がないのかもしれない」
ベルトランが考えこみながら答えた。
「これでは取っ掛かりもなにも掴めない」
「エーヴェルバイン王宮に漂う、あの気の抜けた雰囲気が、余計に掴みどころをなくさせるね。あからさまな敵意を見せられたほうが、むしろ突破口を見つけられそうなんだけど」
「リオネル、なにか策はあるのか?」
レオンに問われて、リオネルは深い紫色の瞳をひたと皆へ向けた。期待と不安をはらんだ緊張感が皆のあいだに走る。それから、リオネルはきっぱりと答えた。
「いや、ない」
途端に、全員が肩透かしを食らう。だれもが、リオネルなら妙案があると信じていたからだ。
「おい。ないのか」
ディルクが苦笑した。
「すまない」
「策がないのは皆同じだから、謝る必要はないけど……」
部屋に集まった全員の晴れぬ表情をざっと見まわしてから、ディルクはつぶやく。
「……さて、どうするか」
暗い雰囲気に呑まれていく室内に、リオネルの淡々とした声音が響いた。
「妙案はないが、これからどうするかは決めている」
え、と皆が驚き顔を上げると、リオネルは穏やかな笑みをたたえていた。
「いったいどうするんだ?」
「せっかくエーヴェルバインに来たんだ。特に打つ手がないなら、とりあえずこの街を散策しよう」
意表を突かれて、ディルクは目を丸くする。
「そ……そんな呑気に過ごしていて、いいのか?」
交渉成立は早ければ早いほどよい。ユスターやローブルグとの関係だけではなく、ジェルヴェーズとかわした約束やジルのこともある。だからこそ、エーヴェルバインへの旅を急いだのだ。
親友から確認されて、リオネルは困ったように肩をすくめた。
「この状態では、宿に何時間こもっていても妙案など浮かばない。かえって気が滅入るばかりだ。ならば、雨も上がってきたし、少し気分転換をしたほうが突破口が開けると思うのだが、どうかな?」
たしかに、先程まで降っていた小雨は止み、今は窓から薄日が差し込んでいる。どうもこのまま晴れてきそうだ。
「そうかもしれませんね」
真っ先に賛同したのはマチアスだった。
「街の雰囲気を見て回り、ついでにフリートヘルム王についての噂などを収集できれば、他国の使節に会おうとしない理由も判明するかもしれません」
「たしかにそのとおりだな。宿に籠っていてもはじまらない。――そとへ出よう」
ベルトランもまた、組んでいた腕をほどき、賛意を示した。
「アベルは?」
意見を促されて、アベルはややどぎまぎしながら答える。密かに計画していることを、悟らせてはならないと緊張していたからだ。
「交渉のことはとても気になりますが、フリートヘルム陛下が会ってくださらないかぎり、どうにもならないことです。それなら、リオネル様やマチアスさんの言うとおり、外へ出て、新鮮な空気を吸い、情報を集めながら次の策を練るのがいいと思います」
本心とは異なることを述べるからこそ、アベルの回答は完璧だった。ディルクが大きくうなずく。
「アベルもそう言ってることだし、街へ出るか」
「おまえはアベルの言うことなら賛成するのか」
呆れた声音を、レオンはディルクへ向ける。
「かわいい従騎士が言うことには納得できるものだろう?」
「おれでは不満だったか?」
近頃やけにアベルを褒めそやすディルクに、リオネルがやや棘を含んだ調子で尋ねた。
「妬いてるのか?」
珍しくリオネルが感情を露わにしたので、ディルクは驚きつつも、楽しげである。むろんリオネルは、アベルに甘い言葉をかけるディルクに対して苛立ちを覚えたのだが、ディルクはというと、なにか勘違いしているようだ。
「アベルと張り合ってもしょうがないじゃないか。リオネルはもちろん素晴らしい騎士だけど、アベルのような存在とは違うだろう」
リオネルが閉口する一方、話題の当人であるアベルは、例のごとく二人の会話をまったく聞いてはいなかった。これから実行しようとしている計画のことで頭はいっぱいだ。
「それで……皆様は、どちらへお出かけになりますか?」
計画の遂行のためにアベルが何食わぬ調子で尋ねると、ベルトランが答える。
「どこに行くにせよ、全員で行動すると目立つ。少人数に分かれて動くといいだろう」
「行く場所は、人が集まる場所がいいんじゃないか? 礼拝堂とか、裁判所とか、市場とか、食堂とか……。フリートヘルム王についての話を聞けるはずだ」
ディルクが回答を引き継ぐと、さらにマチアスが言った。
「では、リオネル様とベルトラン殿、ディルク様とレオン殿下、私とアベル殿という組み合わせで行くのはいかがでしょうか」
「なんで、おれがレオンといっしょで、おまえがアベルといっしょなんだ?」
「なにかご不満でも?」
冷静にマチアスが問い返すと、ディルクではなくレオンからも苦情が寄せられる。
「なぜおれが、この軽率な男と二人で行動しなければならないのだ」
アベルと組みにしたのは、マチアスが彼女の正体を知るがためだ。しかしレオンにまで反対されては、しかたがない。
「では、ベルトラン殿とアベル殿、リオネル様とディルク様、レオン殿下と私でいかがですか?」
リオネルとアベルをくっつけなかったのは、むろんリオネルの恋路を邪魔するためではなく、いざというときにリオネルの命を守るのは男性騎士であったほうがいいとマチアスは考えたからである。それに、ベルトランといっしょであれば、アベルのことも心配いらない。
けれどもここで意見を発したのは、ベルトランである。
「ここは敵国の王都だ。なるべくなら、おれはリオネルから離れたくない」
「じゃあ、ベルトランは当初のとおりリオネルと……」
ディルクが言いかけたところへ、アベルが発言した。
「いっそのこと、リオネル様とベルトランとマチアスさん、レオン殿下とディルク様とわたし……というように、三人ずつで行動するのはどうでしょうか?」
「なるほど、そういう考え方もあるな」
とレオンが納得する。
「組み合わせはどういう基準で決めたんだ?」
やや不自然にも思える組み合わせに、リオネルが鋭い質問を放つ。
アベルの心臓は跳ねたが、ここはリオネルを納得させられなければ計画が進まない。なんといっても、ディルクやレオンを誤魔化すことはできても、あとの三人――特にリオネルとマチアスに小細工は通用しないはずだ。
「ディルク様とレオン殿下が仲良くなるきっかけを作りたいからです」
一瞬の間を置いたのちに、ディルクとレオン以外の者の口元に笑みがひらめく。名前を出された二人は微妙な面持ちだった。
二人が実のところ非常に仲がいいということは、アベルも含めて皆よく知っている。気恥かしくて互いに素直になれないのだということも。
だからこそ、アベルの提案には面白みと洒落っ気があった。
「おれは、かまわないが」
ベルトランが賛同し、特に異議も出なかったために、アベルの意見が採用されることとなった。
一度やると決めたら、アベルは行動的だ。三人ずつ二組に分かれて宿を出ると、アベルは早速、次なる作戦に出た。
すなわち別行動になった途端、突如、ディルクとレオンに言い放ったのだ。
「そういえば!」
は? と二人の騎士は目を丸くする。
「どうしてもリオネル様にお伝えしなければならないことがあったのを、今、思い出しました!」
「なんのことだ、アベル?」
「追いかけなければ見失ってしまうので、すぐに行ってきます!」
質問に答えず、アベルは慌てたふうを装って走りだした。ディルクとレオンは困惑した様子で、離れていくアベルの背中へ問いかける。
「どこでおれたちと合流するんだ!?」
「わたしはそのままリオネル様たちと行動します。お二人で街を散策されてください! ――そして、仲良しになってください!」
最後のひと言に、二人は顔を見合わせる。はめられたのだと、ディルクとレオンは気づいたが、時すでに遅し。視線をもとに戻せば、アベルの姿はすでに人ごみのなかに消えている。
「やられたな」
レオンが低くつぶやいた。
「別に仲が悪いというわけじゃないんだけど……」
ディルクは口元を歪める。
レオンとディルクは、けっして互いのことを避けているわけでも、二人で行動するのを忌み嫌っているわけでもない。いつも皮肉を言いあっている二人であるから、実のところ深く思いやってはいても、二人きりになると気恥かしいのである。
「……しかたがない。アベルがリオネルたちと行動するなら心配いらない。こっちはこっちで街へ繰り出すとするか」
「そうだな」
微妙な距離を置いて歩むディルクとレオンの様子は、喧嘩中の子供か、あるいは初々しい恋人同士のようでさえある。だが、二人は知らない――アベルがけっしてリオネルたちのあとを、追いかけてなどいなかったということを。
アベルが向かった先は、城のあるルステ川の方角。
こうしてアベルの計画は着々と進められていくことになった。