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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第五部 ~敵国の都は、夏の雨にけぶる~
282/513

20







 翌朝。

 エーヴェルバインの上空は灰色の空に覆われ、小雨が降っていた。


 宿の地下にある食堂で朝食をとっていると、主の娘が飲物を運んでくる。

 この宿の看板娘は、ニーシヒの宿にいた看板娘よりもはるかに細身で、可愛らしい顔立ちだ。けれど、羊の乳が入った瓶を持った娘をひと目見て、レオンはわずかに身体を強張らせた。


 その様子を目にして、ディルクが冷やかす。


「羊の乳をかけられても、ここはエーヴェルバインだから、早朝から開いている仕立屋はたくさんあるんじゃないか? 安心してかけられたらいいよ」


 にやにや顔のディルクに、アベルは冷静に告げる。


「場所が違っていても、やはり朝早くから開いているところは少ないのではないでしょうか」

「そうかな?」

「もう羊乳をかけられるのは懲り懲りだ。ディルク、おまえ、わざとやるなよ」

「わざと? おれがそんなひどいことをすると思っているのか?」

「おまえなら、やりかねない」

「ひどいなあ」


 痴話喧嘩をしているところへ、娘がおずおずと口を挟む。


「どなたか、羊の乳のおかわりは……?」


 そのとき、アベルはふと娘の視線を感じた気がした。が、娘のほうを見やると、娘はさっと視線を外す。


「おれはいい」


 口に手をあてたのは、レオンだ。あの一件以来、羊の乳の匂いが苦手らしい。

 一方、堂々たる仕種でベルトランが杯を差し出す。


「もらおう」

「あ……はい」


 どこかぎこちない手つきで娘は杯に注ぎ入れた。

 ……視線を感じたのは気のせいだったのだろうか。


「わたしもいただきます」


 緊張しているらしい娘に、アベルは笑いかけた。途端に娘は頬を染める。言葉が出ないらしく、無言でアベルの杯に瓶を傾ける。その手は震えていた。


「わたしがやりましょうか?」

「い、いえ!」


 そう答えた娘の声は、場違いに大きい。驚いてアベルが娘を見ると、彼女はいっそう顔を朱に染めた。今度は聞きとれないほどの小声が、その唇からこぼれる。


「お、お客様にやっていただくわけにはいきませんので……」


 危なっかしい手つきのまま娘は羊の乳を注ぎ終えると、アベルの顔も見ようとせず、逃げるように踵を返して地上階への階段を駆け上っていった。

 彼女の後ろ姿を呆然と見送っていた六人のなかから、ぽつりと声がこぼれる。


「おれも飲みたかったんだけどなあ」


 残念そうな呟きはディルク。


「……あれは完全に惚れているな」


 ベルトランが朝食の腸詰めをつつきながら、低く言う。


「え? だれにですか?」


 驚いて尋ねるアベルに、ベルトランが真顔で問い返した。


「わからないのか?」


 呆れたような視線を受けて、アベルは周囲を見渡す。

 たしかに、ここには整った顔立ちの立派な騎士たちがそろっている。皆、美男といって差し支えないだろう。だが、彼女が惚れた相手などわかるはずがない。


「さあ、リオネル様でしょうか?」


 首を傾げるアベルに、「こりゃだめだ」とディルクが笑った。


「おれではないと思うよ」


 とリオネルが静かに告げる。


「皆さま、わかっているのですか?」


 アベルの問いに、残りの者は含み笑いで黙っている。皆の意味ありげな雰囲気を受けて、はたとアベルは思い至る。


「わ、わたし……?」


 するとディルクが、リオネルを見やってにやにや笑った。


「少しはアベルも成長したみたいだね。こうやって大人になっていくわけだ」


 微妙な面持ちのリオネルと視線が合って、アベルは顔をうつむける。

 男の格好をしているが、中身はいちおう女性なわけで……。複雑な気持ちと共に、なんだかアベルは無性に恥ずかしくなる。


「照れてるアベルもかわいいなあ」


 くだらない感想をもらすディルクの頭をレオンが小突く。


「いてっ、なんだよ」

「からかうな」

「正直な感想を言っただけだ」

「思ったことをそのまま口にする者を、世間一般では無神経というのだ」

「なんだと、レオン」

「さあさあ、早く食べないと冷めてしまいますよ」


 マチアスに促されて、不服げなディルクも、呆れ顔のレオンも、顔を赤くしたままのアベルも、複雑な面持ちのリオネルも……皆、食事の手を再開させたのだった。







 朝食が済むと、一行はすぐに宿を出て馬に跨った。


 街の中心を抜け、北西へ向かうと、徐々に商店の数が減って人気も少なくなる。代わりに閑静な住宅地が続き、やがて川沿いの通りに出た。


 視界が開けた途端、ルステ川を隔てて建つエーヴェルバイン王宮の姿が目に飛び込んでくる。


 エーヴェルバイン王宮は、街の傍らを流れるルステ川沿い――山の中腹に建っていた。

 そのため、街なかに居ても、屋上や大聖堂など高い場所からは王宮を眺めることができたし、逆に王宮からは街や川の景色を一望することができるだろう。


 ちなみにこのルステ川は、シャルム王国ロルム領の端へ続いており、シャルム王国とユスター王国との国境を隔てる境界線にもなっていた。


 王宮が建つ山の斜面には、果樹園が広がっている。

 シャルム宮殿のように、小さな街ひとつ内包するほどの広大な敷地や、洗練された華麗さはないが、エーヴェルバイン王宮は、落陽色の建物や天に高く伸びる尖塔、素朴で堅固な城壁が、ルステ川や果樹園など周囲の景色と溶け合い、それは優美な城であった。


「きれい……」


 感嘆の声をもらしたのはアベルである。


 雨の糸が降り注ぐルステ川沿い――なだらかな山麓に建つ城は、濡れてしっとりと佇んでいる。貴婦人が傘も外套もなく、しめやかに雨に打たれているかのごとく、その景色には見る者の心を打つものがある。


「初めて来たのに、なんだか懐かしく感じるのが不思議だな」


 つぶやいたのはレオンだ。このときディルクはいつものように茶化したりはせず、黙ってうなずいただけだった。


 皆、緊張のうちにいる。

 長きにわたりシャルムと敵対してきた国の拠点に近づきつつあるのだから、当然のことだ。これが戦争中なら、即刻捕らえられて牢獄に繋がれることだろう。


「懐かしいと感じるのは、こんな風景を記憶のどこかで知っているからかもしれないね」


 普段と変わらぬ口調でレオンに語りかけ、意図してか否か、場を和ませるのはリオネルだった。



 騎乗した六人は、ルステ川にかかる立派な橋を渡り、対岸へ渡る。

 石塔に挟まれた橋門をくぐれば、エーヴェルバイン王宮の建つ山麓周辺にも、民家や商店が見られた。


 山を登っていくとはいえ、王宮へ向かう道である。当然のことながら、広く、そして美しく舗装された道だ。馬車が行き来するのに都合がいいように細かい砂利が敷かれ、馬車同士が数台すれ違えるほどの余裕があった。


 その道を駆け上がりながら、一行は口数少なく王宮へと向かう。

 辿り着いた先――道の終着点には、高々とそびえ立つエーヴェルバイン王宮の城門。


 王宮の周囲に張り巡らされているのは鉄柵ではなく、煉瓦の城壁である。かつてシャルム宮殿やベルリオーズ邸もそうであったように、戦いに備えた頑丈な造りになっていた。


 シャルムにおいては長いあいだ、遠征による戦いに勝利を続け、国内まで侵攻してくる敵がなかったことから城壁がとりさらわれ、代わりに見た目にも洗練された鉄柵が王宮の周囲を囲っている。大陸においてはむしろそのほうが稀なことで、エーヴェルバイン王宮が未だに煉瓦の城壁に囲まれていることはけっして珍しいことではなかった。


 しかし、エーヴェルバイン王宮についていえば、その堅牢性に比して、どうやら守備の姿勢はいささか緊張感に欠けているように見受けられる。

 ここまでもだれにも呼び止められずに来ることができたが、さらに城の門番は長槍を片手に、こちらに気付く気配もなく談笑している。門前から見たところ、城門を守るこの二人以外に、衛兵らしき者の姿は見受けられなかった。


 大国ローブルグの城を守るにしては、なんともお粗末な守備体制である。


 リオネルたちが近づき、馬上から要件を述べたとき、ようやく門番は表情を引き締め――むしろ驚愕の面持ちになったというべきかもしれないが――、それから慌てて上官に取り次いだ。


 上からの返事があるまで城外で待たされるのかと思いきや、門番はあっさりと門を開き、六人を城内へ引き入れ、配下に命じて客人らの馬の世話をさせる。リオネルがシャルムからの使者であるということを疑ってもいなければ、敵国の使者に敵意を抱いている様子さえない。


 ――この緊張感のなさは、いったい。

 六人は無言で顔を見合わせる。


 あるいは、これは罠なのか。

 城内へ引き入れ、取り囲み、抵抗できぬようにする算段であろうかと、疑わなくもない。


 だが、どうもそのような計略が隠されているようにも思えぬ、のんびりとした空気が城内には流れていた。ローブルグ貴族であろう着飾った者たちが、広い前庭をゆったりと散策し、異国人らしきリオネルらの姿を認めると、男性は興味なさそうにそのまま歩み去り、女性は口元を扇で隠しながらひそひそと艶めいた声でささやきあっているのだった。


「平和ですね……」


 アベルがつぶやく。

 張りつめていた緊張感が、これでは一挙に崩れ去りそうだ。


 衛兵に案内され、一行は正面玄関から王宮内へ入り、客間へと通された。


 まずアベルが目を見張ったのは、外見の堅固さからは想像もできないほどの、繊細で華やかな内装である。

 天井は金色の額縁によって仕切られ、それぞれのなかに澄んだ水色の空と、天使の姿が描かれている。壁には金糸や銀糸で縫い取られた幾枚ものタペストリーが垂れさがり、室内を荘厳な雰囲気に包んでいた。

 なんと立派な客間だろう。

 華麗さはシャルム宮殿に引けをとらない。さすがは大国ローブルグを統べる王の住まいだ。


 ――しかし。


 次にアベルらが驚いたのは、相手の対応だった。

 十分も待たされぬうちに、どう見ても高位の官職に就いているとは思われぬ若い男が現れる。彼はしきりに恐縮した様子で、


「国王陛下は、お会いになられぬそうです」


 と告げてきた。


 断られることは、想定の範囲内である。会えぬ理由が知りたいのだ。

 しかし、何度理由を尋ねても相手は、


「私のような立場の者には、わかりかねます」


 の一点張りだった。

 入城もたやすかったが、城を追い出されるのも随分とあっけない。

 いったい相手は、シャルムから使者が訪れているということの重要性を、真剣に――真摯に受け止めているのだろうか。


「会っていただけないと言われることは想定していた。だが、どうしても私はフリートヘルム王に面会しなければならない。なぜ陛下が謁見をお許しくださらないのか、その理由を教えていただきたい」


 けれど、若い官吏は先程の言葉を繰り返すだけで、まったく埒が明かなかった。


 リオネルは浅く溜息をつきながら、意見を求めるようにベルトランを見やる。が、ベルトランもまた、渋い面持ちで肩をすくめるだけだった。


「今日のところは引き下がるしかないか」


 ぼそりとレオンがつぶやくと、


「諦めの早いやつだな」


 とディルクが唇を歪める。


「なら、どうするというのだ。会えないというなら、許可してもらえる方法を考えなおしてから、再び門戸を叩くしかないだろう」


 レオンが反論するや否や、遠慮がちに先程の官吏が口を挟んだ。


「あの……何度いらしてもお会いにはならないと、陛下は仰せのようでして……」


 一同のあいだには、重い沈黙が流れる。

 かつて交渉のために、フリートヘルム王への謁見を願い出たユスターの使者が、この城でどのようにあしらわれたか、しみじみと実感できるのだった。


「こうなったら、レオンの立場を明かすしかない」


 思い切ったようにディルクが言い放ったので、リオネルとレオンが無言で視線を交わし合う。果たして、相手の立場などでフリートヘルム王の心を動かせるのか。

 すると、再び若い官吏が頭を下げながら告げた。


「どのような立場の方が来られようとも、陛下には会うおつもりがないようでして」

「たとえば、このうちのひとりがシャルムの第二王子であったとしても?」


 ディルクのひと言に、官吏は呆気にとられた面持ちになった。それから、慌てて六人の顔を見回し、しかしだれが王子なのか分からなかったようで、全体に対して一礼する。


「王子殿下がおられるとは知らず、ご無礼を。もうしばらくお待ちいただけますか」


 そう述べて彼は駆け足で部屋を出て行ったが、戻ってくるのもやはり、また早かった。

 ありとあらゆる謝罪の言葉を述べながら、けれど、やはりフリートヘルム王には会えぬことを官吏は説明したのだ。


 こうなっては、もう打つ手はない。

 いったん宿に戻り、作戦を練り直すほかになかった。


 仲間を見回し、軽くうなずくリオネルのその仕種で、皆は退却の意を悟る。ディルクは頭をかき、ベルトランは浅く息を吐き、レオンは視線を伏せた。マチアスはリオネルの意に従い、部屋の出入り口へ向かって無言で扉を開く。


 アベルが心配そうにリオネルを見上げると、かすかな笑みを含んだ視線が、「どうにかなるから」と安心させるように見返した。


 アベルは軽く眉を寄せる。

 なぜこんなときにもリオネルは、相手を気遣い、笑っていられるのか。

 ……謁見が叶わなければ、同盟は成立しない。交渉に失敗したとなれば、ジルの命はもちろんのこと、リオネル自身でさえどうなるかわからないのだ。恐怖の塔ラ・トゥール・ドゥ・デスポワールに繋がれることになれば、そこには死よりも過酷な境遇が待ち受けている。


 行こう、と促すリオネルのあとにとぼとぼと従いながら、けれど、アベルは途中ではっと顔を上げた。

 その瞳に飛び込んできたのは……。


 途端に、アベルの脳裏にひらめく。

 これを使えば、リオネルとジルの窮地を救えるかもしれない。


 けれどアベルは逸る気持ちを押さえ、周囲に考えを読ませぬようにうつむいた。

 このことをリオネルに知られれば、反対されるだろう。阻まれてしまったら、リオネルやジルを救うことはできない。

 ――どうにかして彼らを救いたかった。








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