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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第五部 ~敵国の都は、夏の雨にけぶる~
280/513

18





 光には、音がある。とてもかすかな、けれど凛として涼やかな。


 カーテンの隙間から差し込む光は、金剛石ダイヤモンドの粒子が集まっているかのようだ。美しい音色を奏でながら光は部屋の空気を震わし、そして床に落ちて真白な日溜まりを作っていた。


 カーテンを閉ざし、暗闇のなかでひとり祈るのが、エマの日課である。

 光に溢れた場所にいることなど、エマは自分自身に対してけっして許さなかった。その様子は、自らを罰しているようでもあり、正気と狂気の狭間にいるようでもある。


 けれど。

 ……この日は、カーテンの隙間から光が漏れていた。


 いつもならきっちりと閉めなおすそれに、なぜなのかエマは触れようとしない。

 小さく歌を口ずさんでいる。光の奏でる音色に合わせるように、ぼんやりと口ずさんでいるのは、幼子をあやす子守唄だった。


 ふと歌がやむ。

 なにかにとりつかれたように、エマは部屋の一点を凝視していた。


「シャンティ様……?」


 エマが見つめていたのは、ちょうど日溜まりができている場所のあたり。そこにいるのがシャンティではないと気づくと、エマは大きく双眸を開いて驚愕の表情を浮かべた。


「あなたは……!」


 ――エマ。


 光のなかから、かすかな声が響く。エマは、喜びとも驚きともしれぬ声を上げて相手のドレスにすがりつき、繰り返しその名を呼んだ。


「ご無事だったのですね。よかった――ああ、よかった。でも、どうしてここに? どうやって……」


 相手の返事を待たずに、エマは問いつづけた。それは、身を切るように苦しげな問いかけだった。


「……どうやってお戻りになったのです? これまでどこにいらしたのですか? わたしめを罰するためにここへ来られたのですか? ならば、どのような罰でもお受けします。いいえ、いっそその美しいお手でわたしを殺めてください。赦していただきたいとは、申しません。そのようなことを言える立場にわたしはいないのですから。どうかわたしが犯した罪を、今こそ償わせてください」


 涙で目元を濡らすエマに向けて、光のなかから再び声がする。


 ――なにを言ってるの、エマ。


 遠い日と変わらぬ、明るい口調だった。


 ――具合が悪いと聞いたから、薬を持ってきたのよ。


 思わずエマは涙を止めて、煌めく光の流れを見つめる。


「……薬……?」


 ――そんなふうに驚くことないでしょ。わたしはこう見えても――なのだから。


 その声と同時に、光のなかからひときわ明るく輝く小さな塊が現れ、エマのほうへゆっくりと移動した。


「ああ、神様。私は夢を見ているのでしょうか」


 震える手でエマは光の塊を受けとった。光の塊は、水晶のようでもあり、川面の水のようでもある。けれど、エマの目には別のものに映っているようだった。


「この中身が毒であれば、どんなにかわたしは幸せでしょう」


 ――なにを言うの、エマ。


 心底怒っているような、相手の声だった。手にした物の眩しさに耐えられなくなったように、エマは暗い地面に伏して声を上げる。


「お赦しください、どうかお赦しください――」


 エマは大きな声で赦しを請い、涙を流した。その声を聞きつけた侍女が、エマの部屋へ駆けつける。


「エマ様、どうなさいましたか?」

「そこに――そこにコルネリア様がいらっしゃる……」

「それはどなたですか?」


 侍女は不審そうに、エマの指差したほうを見やる。そこには、あたたかな日溜まりが落ちているだけだった。


「だれもいませんよ」


 呼吸を落ち着かせ、エマが顔を上げて先程と同じ場所を見つめる。


「…………」


 侍女が言ったとおり、そこにはだれもいなかった。たしかに先程まで存在していたはずの気配は、消えている。


「なんてこと……」


 虚ろな声でエマは呟いた。


「薬……薬は…………」


 慌ててエマは手のなかを確認する。先程受けとったはずのものは、エマの小さな手のひらから消え去っていた。

 かわりに一枚。

 なんの花であろうか。

 ――水色の花弁だけが残っていた。


「シャンティ様のお部屋に飾った花ですか?」


 花弁を覗き込んだ侍女が、声の調子を落として尋ねる。


「それともどこからか舞ってきたのでしょうか?」


 相手からの返事がないので、窓が開いているのかとカーテンの隙間へ侍女は視線を移した。

 はっきりとは確認できないが、わずかにカーテンが揺れているようでもある。花弁はやはり窓から舞い込んだのだろうか。


 放心したように地面に座りこむエマへ再び視線を戻し、侍女はなんとも哀しげな面持ちになった。


「エマ様は、毎日シャンティ様のお部屋に飾っていらっしゃいますものね。きっとお嬢様も喜ばれていますよ」


 けれどエマは黙っていた。

 じっと花弁を見つめ、そして呆然と涙を零した。





+++






 強い日差しが照りつけている。


 荘厳な門を、趣を異にする二台の馬車通り過ぎると、たちまち館の庭は出迎えの者たちで溢れた。

 小石の敷かれた前庭にずらりと並ぶのは、ブレーズ家に仕える屈強な兵士たち。正面玄関のまえで整列しているのは使用人である。


 大都市ル・ルジェの中心部からわずかに外れた丘のうえに建つブレーズ邸。


 この日、八月の太陽が中天に差しかかるころ、ベルリオーズ家の騎士ジル・ビューレルを収監した馬車と共に、ジェルヴェーズとフィデールはブレーズ邸に到着した。


 玄関からさらに砂利の敷かれた庭へ降り、自ら出迎えたのはブレーズ公爵である。

 煌びやかな馬車から下り立ったジェルヴェーズのもとへ真っ先に歩み寄り、ブレーズ公爵は丁寧に挨拶をした。彼がなによりも先に伝えたのは、長旅へのねぎらいと、見舞いの言葉である。


「お怪我をされたと聞き、案じながら殿下のご到着を待っておりました」


 大変に丁寧な出迎えだったが、一方、出迎えられたジェルヴェーズはどこか落ち着かぬ様子だった。なにしろ、ジェルヴェーズはブレーズ公爵のことが得意ではない。

 母グレースや父王に対してはなるべく短気を抑える以外では、ジェルヴェーズが苦手とする唯一の人物である。


 この日は、ブレーズ公爵の顔に張り付いている笑顔の鉄面皮が、同情の鉄面皮に変わっている。それはそれでジェルヴェーズは居心地悪いのだった。


 真上から照りつける太陽光の強さに、背中を汗が伝う。八月にしては珍しい暑さだ。

 怪我の痛みとあいまって大変に不快だったが、ブレーズ公爵の出迎えを受けたために、ジェルヴェーズは苛立ちをぶちまけることができなかった。


「久しぶりだな、公爵。変わりない様子でなによりだ」


 変わりない――いや、王宮にいたころよりも、心持ち血色がよいような印象さえある。

 王宮においてブレーズ公爵が負っていた任は、それだけ重いものだったということだろうか。


「王宮を長く不在にして、大変申し訳ございません」

「ああ、父上がそなたの戻るのを待っている」


 ジェルヴェーズが落ち着かぬ様子でいることに気づき、フィデールは父公爵を促した。


「父上、殿下を医師に」


 久々に交わされる父子の会話は事務的で、再会の喜びを感じさせない。


「むろん、すでに呼んである。殿下、どうぞ館内へ」


 執事に案内され、ジェルヴェーズが先に玄関へ向かう。館内に入るのを見届けた直後のこと、ブレーズ公爵が息子を振り返り、そして相手にだけ聞えるほどの小声で、けれど厳しい口調で言う。


「おまえというものがそばにいて、どうして殿下をご負傷させた」

「申しわけございません」


 素直に謝罪する息子を見つめて、ブレーズ公爵は目を細めた。


「リオネル殿を交渉に向かわせることは、国王陛下の御心ではない」

「存じております」

「なぜはかった」

「私はなにも」

「…………」


 すでに息子は父親を信頼していない。それはブレーズ公爵もよくわかっていることだった。フィデールがなにを考えているのか、もはや公爵にもまったくわからない。

 その事実は、己が子ながらひどく遠い存在であるような感覚を抱かせる。


 けれど、ブレーズ公爵にとり、フィデールは頼みの綱でもある。

 自分とエルネストが亡きあと、玉座についたジェルヴェーズと――ひいてはこの国を支えることができるのは、あらゆる意味でフィデールしかいないのだ。その存在がなければ、ジェルヴェーズの暴走と、大国シャルムの迷走は火を見るより明らかなのだから。


「なにを考えているかは知らないが、つまらぬ計略を立てて、陛下の御心に反することをするな」

「計略など立ててはおりませんが」


 いったん言葉を切ってから、感情のこもらぬ眼差しでフィデールは父親を見やる。


「陛下の御心とおっしゃいますが、それを父上は本当にご存じなのですか?」

「なにが言いたいのだ」

「人の本心など、所詮わからないということです、父上」

「そうかもしれぬ。だが、私にはおまえの心がわかる」

「本当ですか?」


 わざとらしほど驚いた顔をフィデールはしてみせた。


「ならば教えていただきましょうか。私自身にもわからない、私の本心とやらを」


 妹ベアトリスとよく似た青灰色をひたと向けられ、ブレーズ公爵は眉をひそめる。


「リオネル殿を破滅させることだけが、すべてではない」

「そうお考えになるのは、陛下のご本心をくみ取ってのことですか?」

「フィデール」


 苛立ったようにブレーズ公爵は声を低めた。笑顔の鉄面皮が得意の公爵にしては珍しいことである。


「余計なことを口にすると、そなたといえども痛い目に遭うぞ」


 ふっと口元に冷ややかな笑みをひらめかせると、フィデールは軽蔑するような眼差しを父親へ向けた。


「グレース王妃殿下が気づいておられぬとでも?」

「……フィデール」


 押し殺したようなブレーズ公爵の声だった。


「それ以上言うと、舌を引き抜くぞ」


 苦笑しながらフィデールは答える。


「舌を抜かれては困ります」


 そう言いつつ、「では本題に戻しましょう」と続ける。


「ひとつ、はっきり申しあげます。今回の役目、ジェルヴェーズ殿下には不適当です」

「どういうことだ」

「殿下の能力について言っているのではありません。適性を申しあげているのです。ジェルヴェーズ殿下は文武共に大変秀でておられますが、直接交渉に当たるには不向きです。陛下は、そこを見誤られた。陛下のご決断を受け入れ、殿下の立場をお守りし、かつこの国を導くために、なにをしなければならないか。その手段が複数あるとすれば、そのなかで最も有益な方法を選ぶべきです」

「有益な方法というのは、リオネル殿を利用することか」

「お好きなようにご解釈ください。ですが、ベルリオーズ家への復讐は、貴方が熱望するものでもあるはず。違いますか?」


 ブレーズ公爵がなにか答えようとしたとき、館の玄関が開きジェルヴェーズが顔を出した。


「なにをしている。早く来い」


 父親を一瞥して、フィデールは館へと歩きだす。

 太陽は真上にあり、影はほとんど伸びていない。そのかわり、白い砂利石のうえ――フィデールの歩む真下には、一際濃い影が落ちていた。


 息子の後ろ姿を、ブレーズ公爵は無言で見つめていた。が、ふと引きつけられるように背後を振り返る。

 金箔に飾られた馬車の後方にある堅剛な一台は、ひとりの囚人を繋いでいるはずの馬車だ。


「厄介な土産を携えてきたものだ」


 ――ベルリオーズ家は生易しい敵ではない。

 ブレーズ公爵は低くつぶやいたのだった。






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