18
光には、音がある。とてもかすかな、けれど凛として涼やかな。
カーテンの隙間から差し込む光は、金剛石の粒子が集まっているかのようだ。美しい音色を奏でながら光は部屋の空気を震わし、そして床に落ちて真白な日溜まりを作っていた。
カーテンを閉ざし、暗闇のなかでひとり祈るのが、エマの日課である。
光に溢れた場所にいることなど、エマは自分自身に対してけっして許さなかった。その様子は、自らを罰しているようでもあり、正気と狂気の狭間にいるようでもある。
けれど。
……この日は、カーテンの隙間から光が漏れていた。
いつもならきっちりと閉めなおすそれに、なぜなのかエマは触れようとしない。
小さく歌を口ずさんでいる。光の奏でる音色に合わせるように、ぼんやりと口ずさんでいるのは、幼子をあやす子守唄だった。
ふと歌がやむ。
なにかにとりつかれたように、エマは部屋の一点を凝視していた。
「シャンティ様……?」
エマが見つめていたのは、ちょうど日溜まりができている場所のあたり。そこにいるのがシャンティではないと気づくと、エマは大きく双眸を開いて驚愕の表情を浮かべた。
「あなたは……!」
――エマ。
光のなかから、かすかな声が響く。エマは、喜びとも驚きともしれぬ声を上げて相手のドレスにすがりつき、繰り返しその名を呼んだ。
「ご無事だったのですね。よかった――ああ、よかった。でも、どうしてここに? どうやって……」
相手の返事を待たずに、エマは問いつづけた。それは、身を切るように苦しげな問いかけだった。
「……どうやってお戻りになったのです? これまでどこにいらしたのですか? わたしめを罰するためにここへ来られたのですか? ならば、どのような罰でもお受けします。いいえ、いっそその美しいお手でわたしを殺めてください。赦していただきたいとは、申しません。そのようなことを言える立場にわたしはいないのですから。どうかわたしが犯した罪を、今こそ償わせてください」
涙で目元を濡らすエマに向けて、光のなかから再び声がする。
――なにを言ってるの、エマ。
遠い日と変わらぬ、明るい口調だった。
――具合が悪いと聞いたから、薬を持ってきたのよ。
思わずエマは涙を止めて、煌めく光の流れを見つめる。
「……薬……?」
――そんなふうに驚くことないでしょ。わたしはこう見えても――なのだから。
その声と同時に、光のなかからひときわ明るく輝く小さな塊が現れ、エマのほうへゆっくりと移動した。
「ああ、神様。私は夢を見ているのでしょうか」
震える手でエマは光の塊を受けとった。光の塊は、水晶のようでもあり、川面の水のようでもある。けれど、エマの目には別のものに映っているようだった。
「この中身が毒であれば、どんなにかわたしは幸せでしょう」
――なにを言うの、エマ。
心底怒っているような、相手の声だった。手にした物の眩しさに耐えられなくなったように、エマは暗い地面に伏して声を上げる。
「お赦しください、どうかお赦しください――」
エマは大きな声で赦しを請い、涙を流した。その声を聞きつけた侍女が、エマの部屋へ駆けつける。
「エマ様、どうなさいましたか?」
「そこに――そこにコルネリア様がいらっしゃる……」
「それはどなたですか?」
侍女は不審そうに、エマの指差したほうを見やる。そこには、あたたかな日溜まりが落ちているだけだった。
「だれもいませんよ」
呼吸を落ち着かせ、エマが顔を上げて先程と同じ場所を見つめる。
「…………」
侍女が言ったとおり、そこにはだれもいなかった。たしかに先程まで存在していたはずの気配は、消えている。
「なんてこと……」
虚ろな声でエマは呟いた。
「薬……薬は…………」
慌ててエマは手のなかを確認する。先程受けとったはずのものは、エマの小さな手のひらから消え去っていた。
かわりに一枚。
なんの花であろうか。
――水色の花弁だけが残っていた。
「シャンティ様のお部屋に飾った花ですか?」
花弁を覗き込んだ侍女が、声の調子を落として尋ねる。
「それともどこからか舞ってきたのでしょうか?」
相手からの返事がないので、窓が開いているのかとカーテンの隙間へ侍女は視線を移した。
はっきりとは確認できないが、わずかにカーテンが揺れているようでもある。花弁はやはり窓から舞い込んだのだろうか。
放心したように地面に座りこむエマへ再び視線を戻し、侍女はなんとも哀しげな面持ちになった。
「エマ様は、毎日シャンティ様のお部屋に飾っていらっしゃいますものね。きっとお嬢様も喜ばれていますよ」
けれどエマは黙っていた。
じっと花弁を見つめ、そして呆然と涙を零した。
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強い日差しが照りつけている。
荘厳な門を、趣を異にする二台の馬車通り過ぎると、たちまち館の庭は出迎えの者たちで溢れた。
小石の敷かれた前庭にずらりと並ぶのは、ブレーズ家に仕える屈強な兵士たち。正面玄関のまえで整列しているのは使用人である。
大都市ル・ルジェの中心部からわずかに外れた丘のうえに建つブレーズ邸。
この日、八月の太陽が中天に差しかかるころ、ベルリオーズ家の騎士ジル・ビューレルを収監した馬車と共に、ジェルヴェーズとフィデールはブレーズ邸に到着した。
玄関からさらに砂利の敷かれた庭へ降り、自ら出迎えたのはブレーズ公爵である。
煌びやかな馬車から下り立ったジェルヴェーズのもとへ真っ先に歩み寄り、ブレーズ公爵は丁寧に挨拶をした。彼がなによりも先に伝えたのは、長旅へのねぎらいと、見舞いの言葉である。
「お怪我をされたと聞き、案じながら殿下のご到着を待っておりました」
大変に丁寧な出迎えだったが、一方、出迎えられたジェルヴェーズはどこか落ち着かぬ様子だった。なにしろ、ジェルヴェーズはブレーズ公爵のことが得意ではない。
母グレースや父王に対してはなるべく短気を抑える以外では、ジェルヴェーズが苦手とする唯一の人物である。
この日は、ブレーズ公爵の顔に張り付いている笑顔の鉄面皮が、同情の鉄面皮に変わっている。それはそれでジェルヴェーズは居心地悪いのだった。
真上から照りつける太陽光の強さに、背中を汗が伝う。八月にしては珍しい暑さだ。
怪我の痛みとあいまって大変に不快だったが、ブレーズ公爵の出迎えを受けたために、ジェルヴェーズは苛立ちをぶちまけることができなかった。
「久しぶりだな、公爵。変わりない様子でなによりだ」
変わりない――いや、王宮にいたころよりも、心持ち血色がよいような印象さえある。
王宮においてブレーズ公爵が負っていた任は、それだけ重いものだったということだろうか。
「王宮を長く不在にして、大変申し訳ございません」
「ああ、父上がそなたの戻るのを待っている」
ジェルヴェーズが落ち着かぬ様子でいることに気づき、フィデールは父公爵を促した。
「父上、殿下を医師に」
久々に交わされる父子の会話は事務的で、再会の喜びを感じさせない。
「むろん、すでに呼んである。殿下、どうぞ館内へ」
執事に案内され、ジェルヴェーズが先に玄関へ向かう。館内に入るのを見届けた直後のこと、ブレーズ公爵が息子を振り返り、そして相手にだけ聞えるほどの小声で、けれど厳しい口調で言う。
「おまえというものがそばにいて、どうして殿下をご負傷させた」
「申しわけございません」
素直に謝罪する息子を見つめて、ブレーズ公爵は目を細めた。
「リオネル殿を交渉に向かわせることは、国王陛下の御心ではない」
「存じております」
「なぜ謀った」
「私はなにも」
「…………」
すでに息子は父親を信頼していない。それはブレーズ公爵もよくわかっていることだった。フィデールがなにを考えているのか、もはや公爵にもまったくわからない。
その事実は、己が子ながらひどく遠い存在であるような感覚を抱かせる。
けれど、ブレーズ公爵にとり、フィデールは頼みの綱でもある。
自分とエルネストが亡きあと、玉座についたジェルヴェーズと――ひいてはこの国を支えることができるのは、あらゆる意味でフィデールしかいないのだ。その存在がなければ、ジェルヴェーズの暴走と、大国シャルムの迷走は火を見るより明らかなのだから。
「なにを考えているかは知らないが、つまらぬ計略を立てて、陛下の御心に反することをするな」
「計略など立ててはおりませんが」
いったん言葉を切ってから、感情のこもらぬ眼差しでフィデールは父親を見やる。
「陛下の御心とおっしゃいますが、それを父上は本当にご存じなのですか?」
「なにが言いたいのだ」
「人の本心など、所詮わからないということです、父上」
「そうかもしれぬ。だが、私にはおまえの心がわかる」
「本当ですか?」
わざとらしほど驚いた顔をフィデールはしてみせた。
「ならば教えていただきましょうか。私自身にもわからない、私の本心とやらを」
妹ベアトリスとよく似た青灰色をひたと向けられ、ブレーズ公爵は眉をひそめる。
「リオネル殿を破滅させることだけが、すべてではない」
「そうお考えになるのは、陛下のご本心をくみ取ってのことですか?」
「フィデール」
苛立ったようにブレーズ公爵は声を低めた。笑顔の鉄面皮が得意の公爵にしては珍しいことである。
「余計なことを口にすると、そなたといえども痛い目に遭うぞ」
ふっと口元に冷ややかな笑みをひらめかせると、フィデールは軽蔑するような眼差しを父親へ向けた。
「グレース王妃殿下が気づいておられぬとでも?」
「……フィデール」
押し殺したようなブレーズ公爵の声だった。
「それ以上言うと、舌を引き抜くぞ」
苦笑しながらフィデールは答える。
「舌を抜かれては困ります」
そう言いつつ、「では本題に戻しましょう」と続ける。
「ひとつ、はっきり申しあげます。今回の役目、ジェルヴェーズ殿下には不適当です」
「どういうことだ」
「殿下の能力について言っているのではありません。適性を申しあげているのです。ジェルヴェーズ殿下は文武共に大変秀でておられますが、直接交渉に当たるには不向きです。陛下は、そこを見誤られた。陛下のご決断を受け入れ、殿下の立場をお守りし、かつこの国を導くために、なにをしなければならないか。その手段が複数あるとすれば、そのなかで最も有益な方法を選ぶべきです」
「有益な方法というのは、リオネル殿を利用することか」
「お好きなようにご解釈ください。ですが、ベルリオーズ家への復讐は、貴方が熱望するものでもあるはず。違いますか?」
ブレーズ公爵がなにか答えようとしたとき、館の玄関が開きジェルヴェーズが顔を出した。
「なにをしている。早く来い」
父親を一瞥して、フィデールは館へと歩きだす。
太陽は真上にあり、影はほとんど伸びていない。そのかわり、白い砂利石のうえ――フィデールの歩む真下には、一際濃い影が落ちていた。
息子の後ろ姿を、ブレーズ公爵は無言で見つめていた。が、ふと引きつけられるように背後を振り返る。
金箔に飾られた馬車の後方にある堅剛な一台は、ひとりの囚人を繋いでいるはずの馬車だ。
「厄介な土産を携えてきたものだ」
――ベルリオーズ家は生易しい敵ではない。
ブレーズ公爵は低くつぶやいたのだった。