28
アベルの容体は、二夜明けても変わらない。
リオネルはその間、王宮に戻らずベルリオーズ家別邸に留まっていた。
自室にこもっているか、時折アベルの部屋の前まで来て、なにをするでもなく――なにができるわけでもなく、しばらくそこに佇んでいる。
ジェルマンの配慮により、リオネルはここで父公爵から命じられた仕事をするために戻ってきているいうことになっていたので、館の者は二人の滞留を訝しまなかった。
アベルが苦しみはじめてから三日目。ドニやエレンが出入りする扉の隙間から漏れ聞こえてくるアベルの悲鳴も、だんだんに力ないものになっていた。
その声を聞きながらリオネルは扉の前に座り込む。
遠い日の記憶の底から浮上する光景があった。
涙でゆがんだ、自分の小さな指先。
十年前、母が苦しむ寝室の前でリオネルはこんなふうに扉の前に座っていた。目を開けていても閉じていても六歳の少年の心は休まらなかったので、ただぼんやりと目に涙を溜めて、自分の手のひらを見ていたことを覚えている。
その手はひどく無力だった。
大切な人が苦しんでいるのに、なんの役にも立たない小さな手。
そんなふうに思っていたことを鮮明に思い出す。
どうして今まで忘れていたのだろう。リオネルの、母が死ぬまでの記憶はとても曖昧で、ディルクと遊んだ覚えはあるのに、母の笑顔が思い出せない。
覚えているのは、扉が開いた瞬間。
横たわる母の身体。
部屋中に響きわたったのが、自分の悲鳴だということに気づけなかった。
泣いても叫んでも、けっして開くことのない、永遠に閉じられた両目。
今、扉の前に座り込んで見つめる手は、あの時よりずいぶん大きくなった。
強くなったつもりでいた。
守りたいと願うものを、自分の力で守れるようになりたいと思っていた。
けれど十年前から、この手はなにも変わっていない。
小さな命が二つ、必死に戦っているというのに、自分はなにもできない。
そのうえ最後にアベルに投げかけた言葉は心ないものだった。
――きみのことなど、どうなってもいいと思うことにする。
――なにもかも、好き勝手にすればいい。
アベルにもしものことがあれば、リオネルはこの先、自分自身を許すことができそうになかった。
女性であるアベルの気持ちは、たしかにわからない。けれど、リオネルに対し、自分の気持ちなどわからないと言い放ったときの、あの水色の瞳は見えない涙をこぼしているようだった。
女性であることも、本当の名前さえ捨てて生きる幼い少女の苦しみに、もっと寄り添うことができていたら、こんなことにならなかったのではないかと、リオネルは感じずにはいられない。
眺めていた両手を握りしめる。
「リオネル」
廊下を歩んできたのは赤毛の用心棒だった。
「そんなところに座っていても状況は変わらないぞ」
「……わかってる」
子供のように扉の前で動こうとしないリオネルに、ベルトランは視線を落とす。
「自分を責めているのか?」
鋭く言い当てられて、リオネルは言葉を返せなかった。
「十年前も、おまえは自分を責めたのか?」
「…………」
「おれが初めておまえに会ったとき、とても六歳の子供の目ではないと思った」
「どうして?」
「うまく言えないが……おれには、ひどく大人びた目をしているように見えた。全ての感情を押し殺しているかのように」
「そうかな」
「――あのお転婆は、きっとおまえを救ってくれる」
ベルトランの言葉の意味がわからず、リオネルは顔を上げる。
「あの頑固娘は、生き抜いて、十年前のおまえの心も含めて、癒し、赦してくれる」
リオネルはベルトランの顔を見つめた。
「そんな気がするんだ」
「……おれには、逆に彼女が死を望んでいるように思えて」
「そうかもしれないな」
「死んで、しまうかもしれない」
「本人が望んでいても、あんなお転婆など、死のほうが遠慮するかもしれないだろう」
ベルトランが軽い口調で言うと、リオネルは、ほんの少し口端を上げた。
「あいつを手なずけて、あの世に連れていける死神は、そうはいないぞ」
「……そうだね」
リオネルがそう呟いたとき。
背後の扉がそっと開いた気配に、二人は視線を向けた。
エレンが立っている。
呆然と立ちつくすエレンのその目からは、涙が滂沱と流れていた。リオネルは心臓がつぶされるような痛みを感じる。
「う……」
エレンの口から声がもれる。
「う、う……」
エレンの言いたいことがわからず、二人は辛抱強く待った。
「……産まれました……」
聞こえた言葉が信じられず、二人はただエレンの顔を凝視する。
「……男の子です……」
そして、相手が仕える主人であることも忘れて、エレンはリオネルの胸に顔をうずめて泣きだした。その肩を支えながらリオネルは尋ねる。
「アベルは……?」
腕のなかの女中は、首を横に振る。それがなにを意味するのか、はっきりしない。
扉の隙間から、赤ん坊のひ弱な泣き声が漏れ聞こえてきて、リオネルは視線を向けた。
アベルの声は、もうしない。
「エレン、赤ん坊を抱いていてくれ」
部屋の奥から聞こえてきたのはドニの声だ。
リオネルはエレンをベルトランに預けて、ゆっくり室内に足を踏み入れた。
アベルの細い身体が、寝台に横たわっている。
汗と涙でぬれた青白い顔。その瞳は閉じられていた。
それは、十年前の、あの日と同じ光景。
リオネルは、自らの思考が蒼白になっていくのを感じた。
ドニの腕のなか、白い布にくるまれた小さな赤ん坊がいる。
「リオネル様」
「ドニ、アベルは――」
ドニはリオネルの前まで来ると、うつむいた。
「意識を失いました。体力を使い果たしています。あとは本人の生命力と、生きる気持ち次第でしょう」
寝台まで歩み寄ったリオネルは、アベルの顔を覗き込む。
濡れて額に張りついたアベルの淡い金髪の髪を、そっと指先でよけてやる。
起きているときは、警戒する小動物のような瞳でリオネルを見ていたが、今はとても素直な表情をしていた。
不意に、ドニが腕に抱いていた赤ん坊をリオネルの前に差し出す。
リオネルは驚いてドニを見返した。
「母親が抱いてやれないのです。リオネル様、代わりに抱いてあげてください」
「……いいのか?」
ドニはそっとうなずく。
「人間は産まれた瞬間から、だれかの愛を受けなければ、死んでしまいます。それほどまでに人は弱く、孤独で、愛に飢えた生き物なんですよ」
「――――」
リオネルはドニの腕から小さな赤ん坊を受け取った。
「抱き方が……わからないな。これでいいのか?」
リオネルはおそるおそる赤ん坊の身体を抱える。
「ええ、大丈夫です。首がぐらつくので、頭を支えてやってください」
リオネルは不器用に、腕のなかの小さな頭に手をやった。
「……小さい」
「そうでしょう」
「小さいのに、とてもあたたかい」
「母親のお腹のなかは、あたたかいのですよ」
「心地よかったのだろうね」
「アベルが助かるかどうか、正直言ってわかりません」
ドニは、ここではっきりとそう告げた。
「母親が助からなくても、この子が生きていけるだけの愛情を、我々か、もしくは別のだれかから、この子は受け取らなければなりません」
「……アベルが助かることを、おれは信じる」
「さようでございますね」
リオネルは赤ん坊の顔を覗き込んだ。
最初に少し泣いてからは、もう声は出していない。うっすらと目を開けて、おそらくまだほとんど見えていない目で、この世界をうかがっているようだった。
「こんにちは」
リオネルは、自分の気持ちを元気づけるように、赤ん坊に笑いかける。
「おれは、リオネルというんだ。きみはどんな名前がいい?」
返事をするはずがない赤ん坊に、リオネルは続けた。
「きみのお母さんは、がんばってきみを産んでくれたよ。今度はきみが、おれといっしょに、お母さんが元気になることを祈ろうね」
「リオネル……」
そうつぶやいたのは、もちろん赤ん坊ではなく、部屋に入ってきたベルトランだ。
「ああ、ベルトラン。見て、とてもかわいいだろう」
「…………」
複雑な表情のベルトランに構わず、リオネルは赤ん坊をあやしている。
「……かわいいか? 猿みたいな顔だぞ」
ベルトランのその言葉に、ドニが答えた。
「産まれたばかりは、皆このような感じですよ」
「そうなのか」
大人たちに囲まれて育ってきたリオネルが、今は生まれたばかりの赤ん坊を抱いているその姿が、ベルトランにひどく不思議に感じられた。
「楽しそうだな」
「うん……十年前、産まれてこなかった弟妹を、ようやく抱いているような気がする」
赤ん坊にほほえみかけるリオネルの横顔を、ベルトランが見つめる。
そこへ、落ち着きを取り戻したらしいエレンが、二人に手で出ていくように合図した。
「今からアベルの身体を拭うので、お二人にはお部屋を出ていただきたいのですが」
赤ん坊を抱いたまま部屋を追い出された二人は、所在無げに廊下に立ちつくす。
「リオネル様、あとでわたしにも抱かせてくださいね」
エレンは、扉を閉める前にそう言い残していった。
「……ベルトラン、この子をどうすればいいんだ?」
「抱いていればいいんじゃないか?」
「ずっと?」
「……さあ」
二人は顔を見合わせた。
その後一日経ち、二日経っても、アベルの意識は戻らなかった。
リオネルが王宮を出てからすでに五日が経っていた。
毎日欠かすことなくアベルの様子を見に行くリオネルに、ついに忠告したのはベルトランだ。
「リオネル、さすがにそろそろ王宮に戻らないと、従騎士としての生活に支障が出る」
アベルの死んだような寝顔を見ながら、リオネルはうなずく。
ベルトランの言うことはリオネルにもわかっていたことだ。いつまでも、アベルのそばにいるわけにはいかない。
「この子と赤ん坊のことはドニとエレンに任せて、おれたちはいったん王宮に戻ろう」
リオネルはもう一度うなずいた。
シュザンになにも言わずに稽古場から抜けてきたのである。これ以上ベルリオーズ家別邸に留まるわけにはいかない。
二人はその日の夕方、死の淵をさまようアベルと、産まれたての赤ん坊を残して、館をあとにした。
アベルが奇跡的にひっそりと意識を取り戻したのは、その日の夜、闇も深まった時刻のことだった。