17
小気味良い蹄の音を立てて、複数の馬が駆けている。
馬の数は六頭。いずれも優れた騎手を乗せているようで、田園風景に囲まれた砂っぽい街道を走る姿は美しく流麗で、その速さに追いつく旅人はいなかった。
先頭を駆けるのはディルクとマチアス、つづいてリオネルとアベル、それにレオン、最後尾を守るのはベルトランだった。
この日はアベルたちにとり、二日ぶりの出立となった。
ディルクの愛馬シリルはすっかり回復し、他の馬たちやその主人らも充分に英気を養うことができたので、再開した旅の出だしは好調である。
空にはぽつりとはぐれ雲がひとつ浮かんでいるだけで、あとは夏らしい爽快な蒼さが広がっている。
けれど不意に吹きつける風は時折冷ややかで、秋の近づいていることを感じさせた。
秋は、アベルがデュノア邸を追い出された季節である。
毎年この季節が近づくと、アベルはひどく切ない思いに駆られる。なぜだろう、最も苦しい経験をした真冬よりも、秋のほうが哀しかった。
弟カミーユの明るい笑顔と、悲痛な泣き顔とを同時に思い出し、それから交わせなかった母との別れを思い、エマやトゥーサンのことを思い、最後に父親から向けられた冷たい瞳に胸をえぐられる。
それが、秋という季節の始まりを感じるときに、アベルのうちに生じるものだった。
八月半ばである。
あとひと月ほどすれば、シャルムは秋めいてくるだろう。
なんと短い夏だろうと、アベルは思う。
けれど、短いからこそ愛おしい。
冬は、長く厳しい。だからこそ、春の訪れが嬉しく、束の間の夏に焦がれる。
そして、春を導く冬には、もの言わぬ静かな優しさが秘められているような気がする。それはかつて、コカールの八百屋で働く青年に教えられたことだ。
もうすぐ昼の時間帯に差しかかるというころ。
「アベル、少し話をしてもいいか」
黙々と馬を駆けるアベルに、話しかける声があった。すぐ横を駆けていたリオネルである。
朝、ニーシヒを出発してからまだ一度も休憩を取っていなかった。そろそろどこかで休まなければならないころだ。なにか言いつけられるのかと、真面目な眼差しと口調でアベルは返事をした。
けれど、リオネルから返ってきた反応は、難しい話をするようなふうでもない。
「その……昨夜はゆっくり休めたか」
「え? あ、はい」
想像していたより他愛のない話題だったので、やや戸惑いながらアベルは答える。
「そうか、よかった」
それだけ言って、リオネルは黙りこんだ。
いったいリオネルはなにを聞きたかったのだろうと、アベルはちらと横を駆ける主人を盗み見る。すると、まっすぐ前を向いていたはずの紫色の瞳が、ふとアベルの視線に気づいてこちらを向いた。
視線がぶつかると、今度は慌ててアベルが瞳を伏せる。
……思いも寄らず目が合うと、どうしてよいかわからなくなってしまう。
「昨日は、レオンの服を仕立てるのに、いっしょに街へいってくれてありがとう」
再び声をかけられて、アベルはどぎまぎしながら視線を上げる。
「いいえ、わたしはただお供しただけですから」
「街で……」
なにやら言いづらそうにリオネルは言葉を続けた。
「街で、またあの男に会ったのか?」
「え?」
「ジークベルトと名乗っていたそうだが、シャサーヌの街できみに話しかけてきたのと同じ者だったのか?」
ああ、とアベルはリオネルの言わんとしていることを理解する。彼がこの件について知っているということは、レオンが昨日の経緯をリオネルに説明したのだろう。
「ええ、会いました。仕立屋を紹介してくれたんです」
「そうか」
そう答えたきり、再びリオネルは黙りこむ。なんだか、今日のリオネルは様子がおかしい。アベルは不思議に思い、尋ねてみた。
「どうかしましたか?」
「……なぜ彼はニーシヒにいたのだろう?」
「あちこちを旅していて、今はエーヴェルバインに向かう途中だと言っていました」
「そうらしいね」
やはりリオネルは、レオンから聞いてすべて知っているようだ。ならば今更聞きなおす必要がどこにあるのだろうと、アベルは内心で首を傾げる。
「……わたしたちがエーヴェルバインに向かっていることは、知らせていません」
「ああ、わかってる」
「なにか心配なことでも?」
「いや……」
珍しくリオネルが言葉を濁らせている。アベルは端正な横顔を見やって、今度は実際に首を傾げた。
アベルは知らぬことだが、リオネルはかつてヴィートから次のように言われたことがある。それは、アベルがジークベルトと共にシャサーヌの劇場に行ったあとのことだ。
『なにを悩んでいるのか知らないが、ジークベルトというやつは気をつけたほうがいい。あいつはアベルに執心しているぞ。眠るアベルをそのまま連れ帰ってもおかしくない様子だった。今回アベルになにもなかったことだけは、運がよかったということだな』
――と。
リオネルが心配せずにいられるはずがない。
ジークベルトがアベルに強い関心を持っているということは、最初に会ったときの彼の眼差しから充分に察せられる。旅をしているにせよ、幾度もアベルの前に現れ、このような異国の街で再会するというのも、偶然にしてはできすぎている。
注意を喚起したいのだが、この少女はともかく鈍感であるし、一方的に「気を許すな」と言ってもおそらく反発するだろう。年頃の娘を心配する父親のように、リオネルはどう対話してよいかわからないのだった。
「アベル……確認したいことがあるのだが」
「なんでしょう」
「知らない大人に声をかけられたら、ついて行っていいか、それともついていってはいけないか、どちらだと思う?」
「それは――」
答えかけてから、アベルはぷっと吹き出す。
「――なんですか、その質問は」
「いいから、答えてみてくれ」
「ついて行ってはいけません」
「そうだね。では、『知らない大人』の定義はなんだと思う?」
「会ったこともない人、ではないでしょうか」
「そうだ。けれど、一、二度会えば、その人はもう知人なのだろうか」
「さあ、どういう形で会ったかにもよるかと思いますが」
「たとえば街で偶然会っただけという場合は?」
「相手にもよるのではないでしょうか」
「…………」
遠まわしに注意を喚起しているが、アベルにはいっこうに理解できている様子がない。
リオネルはついに押し黙った。
「では今度はリオネル様に質問です」
アベルのほうから聞かれるとは思ってもいなかったリオネルは、やや驚いた表情になる。
「おれに?」
アベルはおかしそうに笑った。含み笑いで問いかける。
「もし知らない子供を見つけたら、連れて帰っていいか、それとも連れて帰ってはいけないか、どちらだと思いますか?」
「それは――」
答えかけてから、リオネルは苦笑した。
「――さっきとは逆の立場からの問いということか?」
「ともかく答えてみてください」
「連れて帰ってはいけない」
「普通なら、そうです。では『知らない子供』の定義はなんだと思います?」
「さっきの流れからすると、会ったこともない子供、といったところかな」
「はい。けれど三年前、あなたは見も知らぬわたしを、館へ連れて帰りました」
指摘されてはじめて、リオネルはこれがなんの話であるかということに思い至る。
「……そうだったね。あのときは善悪の判断など考えなかった。ただ死に瀕しているきみを助けることしか頭になかったから」
「もし、あなたが悪い人だったら、元気になったわたしを奴隷として売り飛ばすこともできました」
「…………」
たしかにアベルが言うとおり、リオネルではなく別の悪意を持った何者かがアベルを連れ帰っていたら、いったいどうなっていただろう。想像すると恐ろしい。あのとき、自分がアベルを見つけていなかったら――と思うと、リオネルはぞっとした。
「けれど、リオネル様はそうしませんでした。命を救ってくださったうえに、わたしに新たな生き方を与えてくれました」
「新たな生き方を与えてもらったのは、おれのほうだ」
真に受けていないのか、アベルはただかすかに柔らかい笑みをたたえる。
「ですから、ついていくこと、連れて帰ることそれ自体が問題なのではないのだと思います。なぜついていくか、なぜ連れていくか――それが重要ではないでしょうか」
「行動そのものではなく、動機によって答えは違ってくると」
「動機の数だけ答えがあるかもしれません」
「なるほど、アベルの言いたいことはわかった」
「本当に?」
「ああ」
「ならば、これからわたしの行動にもっと自由をくださいますか?」
突然のアベルの要望に、リオネルは眉を寄せた。
「それとこれとどう関係があるんだ?」
「答えがひとつではないなら、わたしに単独行動を許すという道もあるはず……ということです」
「きみが言ったとおり、単独行動を認めないという事実より、その理由が重要だとすれば、それはただひとつ。アベルの身の安全を最優先に考えているからだ。もちろんディルクやレオンたちもそうだが、きみはまだ従騎士の身だ。おれにはきみを守る義務がある」
残念そうな顔になるアベルに、リオネルは念を押す。
「ということだから、これからもけっしてひとりで動かないように。わかったね?」
「……はい」
渋々という様子でアベルはうなずく。
「あと、知らない人にはついていかないように」
「リオネル様は、はじめからそのことが言いたかったのですね? 子供扱いしないでください」
わずかに怒ったようなアベルの口調だった。
「…………」
なにか答えようにも、これ以上言えば水掛け論になることは目に見えているので、リオネルは黙るしかない。
一方アベルは、少し拗ねた表情のなかにも、かすかに複雑な色が混じっていた。
「その……心配してくださっているそのお気持ちは、言葉にならないほど嬉しいです」
リオネルがアベルを見やる。
「どうやってあなたの心遣いに報いたらいいか、いつも考えています」
「報いる必要なんてない。ただ、きみが無事で、ここで――おれのそばで笑っていてくれたら、それだけでいい」
リオネルの言葉に、アベルはややくすぐったそうに笑む。
「その言葉だけで、わたしは一生、生きていけるような気がします」
「おれは、きみの笑顔が好きだ」
「変な冗談はやめてください」
明るくアベルは笑い飛ばす。
「冗談じゃないよ」
「それが冗談ではないというなら、わたしもリオネル様やイシャス、ベルトラン、エレン、ラザールさん、そのほか大勢の人たちの笑顔で元気になります」
「ベルトランの笑顔? あまり見たことがないけど」
首を傾げたのはむろんリオネルではなく、突然会話に加わってきたディルクである。
隣り合うアベルとリオネルとは違い、前方にいるディルクが発したのだから、その声はとても大きい。
「き……聞いていらしたのですか」
瞬時にアベルは顔を朱に染めた。皆の笑顔で元気になるという台詞を、ディルクに聞かれていたのが恥ずかしかったのだ。
「大丈夫、聞こえていたとしたら、ディルクだけだ。彼は耳がいいんだ。それに、すべて聞いていたわけではないだろう」
リオネルは笑いながら説明した。
「なんの話だ? おれの笑顔がどうした?」
ディルクの声を聴きつけて、後方のベルトランが問いただす。するとディルクが大声で答えた。
「アベルがベルトランの笑顔で元気になるんだって」
きゃー、とアベルは悲鳴を上げる。
「やめてください、ディルク様」
「おれの笑顔?」
案の定、ベルトランが微妙な面持ちになった。アベルは弁解しようとするが、慌てているとうまくいかない。
「違うんです! あ、いえ、違わないのですが、その――」
加えてディルクが文句ありげにぼやいた。
「おれの名前が入ってなかったけど?」
「えっ! それは、その、ほかの大勢って言ったではありませんか」
「大勢にくくられるのは非常に残念だ」
ぶつぶつ言っているディルクに、レオンが呆れた声を放る。
「いったいなにを、おまえはまた子供っぽくひがんでいるのだ?」
「いつものことです。お気になさらないでください、殿下」
とマチアスに言われ、レオンはなにかを納得した。
「ああ、おまえではなくベルトランの笑顔で元気になると言われなくて、落ちこんでいるのか。当然のことではないか。おまえのにやけ顔で、いったいだれが元気をもらうんだ」
「なんだと、レオン。おまえの脱力した顔には、生気も吸い取られそうだ」
言い返されて、明らかにレオンはむっとしたが、けれど適当な言葉が見つからなかったらしく、黙り込む。ここまでくると、アベルもどう事態を収拾すればよいかわからない。
落ち着いた、よく通る声で、リオネルが言った。
「おれはレオンの穏やかさが好きだし、ディルクの笑顔には小さいころからずっと元気をもらってきたよ」
だれもリオネルの言葉には茶々を入れない。
「アベルもきっと、だれかひとりではなく、ディルクやレオンを含め、皆と笑って過す時間が好きなのだろう。おれもそうだし、皆もそうなんじゃないかと思う」
アベルは深くうなずいた。
「このようないい話を馬上でするのはもったいないな」
とレオン。
「そういえば、そろそろ休憩の時間じゃないか」
ディルクが空を見上げ、太陽の位置を確認して言う。
「では、休憩地で話の続きをしましょうか」
マチアスが笑顔で言うと、
「この話に続きがあるのか?」
とベルトランがぼそりと尋ねる。自分の笑顔が話題に出てくるなど、ベルトランとしては気恥ずかしくてならない。勘弁してほしいといった様子である。
そんなベルトランを助けたのかどうか、マチアスは冷静に答えた。
「アベル殿に、いかに単独行動が危険かということをわかってもらうまで、話し合いましょう」
「なんの話だ?」
ディルクが問う傍らで、アベルは再び顔を朱色に染めた。
「全部聞いていらしたのですか⁉」
「そうそう、マチアスはおれより地獄耳だからね。気をつけたほうがいいよ」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでください」
マチアスが冷静に抗議すると、皆のあいだに笑いが広がった。