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狩りや日頃の鍛錬で身体を鍛えているクレティアンは、四十歳を超えた今もかつてと変わることなく、若々しく引き締まった体躯の持ち主である。その彼が風邪をひくなど、大変に珍しいことだった。
「心労がたたったのかもしれませんね」
ダミアンの台詞に深くうなずきながら、ラザールは声の調子を落とす。
「これまで体調を崩されなかったことのほうが不思議だったんだ。山賊討伐を任じられたときも、その直後に五月祭のため王宮へ呼び出された折も、リオネル様は多大な危険にさらされていた――けれど不安をおくびにも出さずに、公爵様は毅然とされておられた」
しかし今回、たたみかけるようにして起こったビューレル邸の事件と、リオネルのローブルグ行き……。
「もう限界だろう」
だれにも増してクレティアンは芯の強い人間だが、リオネルを失ったならどうだろうか――それはベルリオーズ家の皆が漠然と感じている不安である。
ひとり息子に対する愛情が深いというだけではない。
三十年前になにもかもを奪われたクレティアンの心の支え――生きる糧であったのは、家族だけだ。けれどアンリエットは若くして世を去った。クレティアンに残された希望は、リオネルただひとりなのだ。
「リオネル様のローブルグ行き、なにがなんでもお止めすればよかったのでしょうか」
「いや……それではジル殿を見殺しにすることになる。だれよりもそれを許さないのは、公爵様ご自身だろう。公爵様はリオネル様を送り出すしかなかった」
ダミアンとラザールの会話を黙って聞いていたクロードが、腕を組み、言葉を選ぶ調子で二人へ告げる。
「たしかに、クレティアン様の具合は芳しいとはいえないご様子だった。しかし、話す様子は毅然として、憔悴しておられる感じでもない。心配するな。このところ政務も忙しかったようだし、夏風邪を召したのかもしれない。皆に心配をかけることを、クレティアン様は最も厭われるだろうから、あまり気を揉むな」
まっとうな意見であり、非常に前向きな考え方であったが、それがクロードの深い洞察からくるものか、それとも単に彼の楽天的な性格から生じたものかは判然としなかった。
「夏風邪ですか……たしかに我々が暗い顔をしているのは、公爵様の望むところではないでしょうね」
気持ちを切り替えようとするようにダミアンが言う。
「旅と交渉の無事を信じておられるからこそ、リオネル様を送り出したのでしょうから、我々もそのご決断を信じ従うのが、家臣としてあるべき姿かもしれません」
「むろん、公爵様とリオネル様のご判断に異議を唱えるつもりは毛頭ない」
ラザールは片眉をひそめて、西の方角を見やった。
「しかしな」
途切れたラザールの言葉を引き継いだのはクロードだった。
「しかし、左腕も治りきらぬリオネル様の御身が心配――というところか?」
言い当てられて、ラザールは浅く溜息をつく。
「まあ、そういうことだ。リオネル様にもしものことがあれば、ジルが助からぬどころか、公爵様や我々も希望を失うことになる」
「なんというか――」
クロードは視線を斜めに傾げて、思いを馳せるような眼差しをした。
「――それはそのとおりだが、心配はいらない。リオネル様には、ベルトランとアベル、それにディルク様やマチアス殿もついている。彼らが持つ心身の強さは、おまえたちもよく知るとおりだ。リオネル様の身に真の危険が迫ったときには、彼らが力を併せてお助けするのだから、敵だけではなく死神までもが逃げていくに違いない」
リオネルが死ぬときは、その他の者が全員命を失ったあとである。だが、果たしてそのようなことが起こりうるのか――と、クロードは不安をぬぐいきれぬラザールとダミアンに説いた。
「リュドミーラ神の言葉にもある。『案じることで、なにかを変えることはできない』と」
それは聖典内の、有名な聖句である。
「『どうやっても変えられぬものを案じ続けるより、信じて待ちなさい。そこに真の祈りがある』――さあ、我々にとっての祈りは、ベルリオーズ家に忠誠を捧げ、仲間を愛し、鍛錬に打ち込むことだ。考えるよりも、身体を動かしたほうがよほどいい結果になるぞ」
ぽんとラザールの肩を叩くクロードは、表情こそ引き締まっていたが、両目には笑みをたたえていた。それが別れの挨拶だったようで、現れたときと同様、颯爽と騎士館の玄関口へ向かって歩いていく。
騎士隊長の後ろ姿に一礼したラザールとダミアンは、顔を上げると、無言で視線を交わしあう。口元にはかすかな笑みを浮かべながら。
人の上に立つ者は、最悪の場合を想定し、それに備えなければならないと言われている。
クロードは、最悪の場合を承知しながらも、それを受け入れ、かつ悲観的にならず、また考え込みすぎず、淡々と自分の成すべきことを全うすることができる。前向きなその姿に、周囲の者は勇気と元気を与えられるのだ。
かような能力は、努力によって身に付くものではない。クロードが若くして騎士隊長の座に就いたのは、ただ剣の腕を買われただけではなく、騎士らの上に立ち、彼らを率いていく天与の才を認められたからにほかならなかった。
「公爵様も、クロード隊長とお話しされて、明るい心持ちになられたかもしれませんね」
「ああ、違いない。ただ、夏風邪はこじらせると長引くからな。公爵様が早く回復されるのを願うばかりだ」
話が途切れると、周囲で剣を撃ち合わせる騎士らの掛け声や、曇り空を突き抜けていくような高い金属音が鼓膜を打つ。
「では、その願いを込めて、我々も撃ち合わせをいたしましょうか」
「そうだな」
かくして二人は、再び鍛錬に精を出すことにしたのだった。
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ツェットリッツ領内の街ニーシヒ。
体調を崩したディルクの愛馬シリルの回復を待つため、リオネルらは二日目の朝をこの街で迎えていた。
シリルは回復しつつあり、うまくいけば翌朝には出発できそうであると、獣医からは告げられている。
シリルの体調不良という予期せぬ事態には陥ったが、それ以外は概ね旅は順調だった。
しかしその日、一行のうちのひとりに災難が降りかかることとなった。
それは、朝食を宿の地上階にある食堂でとった一行が、部屋から出ようとしたときのこと。ちょうど彼らの話題は、マチアスがいかに優秀な従者であるかというところから発して、けれど手段を選ばぬ冷静な男であるという方向へ、転換しつつあったところだった。
「それにしても、アベルをラクロワへ行かせまいとしたときの、マチアスの判断と行動は早かった。まさか、あのような強硬手段に出るとは思わなかったが」
と、尊敬の念を込めてしみじみつぶやいたのはレオンである。その言葉に、ディルクがライ麦パンをちぎる手を止めて苦笑する。
「やるときは徹底的なんだよ」
「しかし、おれはアベルに対して同じことをできそうにない。いろいろと恩もあるしな」
レオンが言う「恩」というのは、五月祭の折りに、兄ジェルヴェーズに飲まされた毒で苦しんでいたところを、煙突掃除の少年に扮したアベルに助けてもらったことだ。
「まあ、気持ちはわかる。アベルになにかあれば、リオネルに殺されそうだし」
ディルクがパンを頬張りながら相槌を打つ傍らでマチアスは、
「もうその話はやめましょう」
と小声でつぶやく。けれど、あの日の出来事を今でも根に持っているのは他でもなく、鳩尾を突かれたアベルだった。
「マチアスさんが、あんな人だとは思っていませんでした」
ラクロワへ赴いたリオネルを翌朝まで待つと約束したのに、マチアスに鳩尾をつかれて意識を奪われた。つまりアベルは約束を信じてもらえなかったのだ。
いつになく厳しいアベルの言葉に、さしものマチアスも視線を伏せて黙りこむ。マチアスを不憫に思ったのか、リオネルが彼を弁護した。
「アベル、それはおれがマチアスに頼んだことだったんだ。彼を責めないでほしい」
「はい、それはわかっています」
素直なアベルの返事に、さらにマチアスは沈黙を深くする。その様子をみとめたディルクが、机の隅に座すマチアスには聞えぬように皆にささやいた。
「そっとしておいてやろう、ああ見えても少しは気にしているんだ」
かくして食事を終えて、皆が席を立ったとき。ちょうど背後を、熱い羊乳を運ぶ宿屋の看板娘が通りかかった。
床にはめこまれた木材は、あちこちが古びて穴が空いている。
その穴につまづいたふくよかな看板娘は、派手に盆をひっくり返し、さらに前面に倒れ込む。彼女が咄嗟に掴んだのはレオンの衣服だった。
目前で起こったことなら、レオンにも避けようがあっただろう。だが、背後で起こった出来事に、レオンは咄嗟に反応することができなかった。
飛び散った羊乳はレオンの服を直撃し、さらにレオンの夏用の上衣が丸みを帯びた看板娘の体重を支えきれるはずもなく、不吉な音をたてて無残に破れた。
「あっ」
と、ひと声発したのは、いったいだれだったか。
一連の悲劇が起こった直後、周囲の者は言葉もなくその惨状を振り返っていた。
レオンの上等な服の切れ端を掴んだまま、のそのそと立ちあがろうとした看板娘に手を差し伸べたのはリオネルである。
「大丈夫か?」
助け起こされてからようやく手を差し伸べてくれた相手を見やり、娘は夕暮れの太陽のように顔を染めた。そして、
「す、すみません!」
と大きく頭を下げて、だれの顔を見ることもなく走り去ってしまう。リオネルほどの美青年に助け起こされて平気な女性のほうが珍しいので、当然の反応ともいえよう。
けれどこの状況に納得がいかないのは、むろんレオンだ。
今やレオンの服は羊乳の匂いがし、さらに右肩から腰にかけて盛大に破れていた。このような非礼を働いた相手は、目の前からあっというまに消え去ってしまったのだ。
むろん彼女に対して咎め立てするつもりはなかったが、レオンとしてはやり場のない感情が残る。
「怪我はないですか?」
気遣うようにレオンに声をかけたのはアベルである。レオンが返事するまえに、ディルクが服の破れた部分をつまみ上げながら断言した。
「ああ、これはもうだめだね。かなり羊乳臭いし。新たな服を買ったほうがいい」
むろん服の着替えくらいはあるが、たくさん持ち歩いているわけではない。一着を失ったなら、新たなものを補充する必要があった。マチアスも気遣わしげに尋ねる。
「火傷はしませんでしたか?」
「いや……それは大丈夫だ」
「このままだと風邪をひく。早く着替えたほうがいい。身体が冷えれば、この季節でも体調を崩すから」
と、着替えるよう勧めたのはリオネルだ。次いで、ベルトランが提案する。
「このあたりで服を仕立ててくれる店を探したほうがいいな。ディルクと行ってきたらどうだ?」
というのも、旅の途中はいかなる理由であれ単独行動は避けたほうがいいというのが、彼らが定めた取り決めだったからだ。しかし、ディルクには同行できない事情があった。
「すまないが、おれはこれからシリルの様子を見にいかなくちゃならない」
「なら、おれと行くか?」
ディルクの代わりに店探しにつきあってくれるというベルトランに、けれどレオンは控えめに謝絶した。
「……できればアベルに来てほしい。いや、ディルクやベルトランではだめだということではないのだが……服を一着仕立ててもらいに行くだけだ。アベルがひとり来てくれれば、それでいいのだが」
ごちゃごちゃと言ってはいるが、ようするに服の仕立屋にいくのだから、大の男を連れて歩くよりは、こぢんまりと従騎士のアベルを連れていきたいというところのようだった。
「おれはかまわないけど、ご主人様の許しが出るかどうか」
とディルクがリオネルを見やる。ベルトランと顔を見合わせ、無言でなにかを確かめ合うとリオネルはうなずいた。
「わかった」
単独行動を避けるべきだと言いだしたのはリオネル自身である。この際、しかたがないというところだろう。
「アベルもそれでかまわないか?」
「ええ、もちろんです」
迷いなくうなずくアベルを、リオネルはしばし難しい面持ちで見つめる。けれどレオンは、リオネルの様子を気にとめる気配もなく、
「そうと決まったら行こう。アベル、着替えてくるからここで待っていてくれ」
と、足早に食堂を出て部屋に向かった。