13
礼拝堂の鐘の音が響き渡る。
茜色に染まる西の上空では、巣へ戻ろうとする鳥の群れが、濃い影を描いていた。
木組みの家々の白い壁や、宙に舞う砂埃、遠くに見える領主の館の屋根……なにもかもが夕陽に染められている。街の賑わいまでもが、浮き立つようなざわめきに満たされ、夏の夕刻の色を帯びているようだった。
短い夏は、恋の季節だ。
どこの国でもそれは変わらぬ事実のようで、ローブルグ領内にあるこの町においても、生温かい風の吹く夕刻は、待ちうける甘い恋の予感にときめいていた。
けれど、街路を歩むアベルの表情は浮かない。
女という生き方を捨てたがために、恋などには無関係だということだけではなく、アベルの気持ちに影を落とす出来事があったのだ。国境を超えて、シャルムからついにローブルグ領内に入ったのだという感慨も、この出来事のためにほとんど忘れかけていた。
大きめの布包みを、けっして離すまいとするように両手で抱えながら、アベルは砂っぽい道を足早に歩いている。
「そんなに気を揉むことはない」
アベルの表情を見やって言葉をかけたのは、傍らを歩む赤毛の騎士だった。
「あの様子ならば必ず回復する。あとはディルクとリオネルに任せておけばいい」
赤毛の騎士――ベルトランは長身であるため、ごく普通に歩いていても、早足のアベルと同じくらいの速度である。
師匠であるベルトランに話しかけられたアベルは、
「はい」
と短く答えたきり、なにも言わない。従騎士の晴れぬ様子に、ベルトランが無言で視線を投げかけた。
すぐ横からもの問いたげな眼差しを感じて、アベルはしかたなしに口を開く。
「ここで時間を費やしてしまえば、囚われているジル様の身も、リオネル様のことも心配です」
やはりといった顔でベルトランはアベルから視線を外し、前方を向いた。
「気持ちはわかるが、今はしかたがない。早くエーヴェルバインに着いたからといって、交渉がうまくいくとは限らないんだ」
「ですが、一日も早くジル様を救うためにリオネル様は旅程を急いでいたはずです」
「むろん、行程を急いだのは当然のことだ。が、その皺寄せが今になって生じた。シリルだけではない。我々にも休息が必要だということだ。おれはともかく、リオネルやディルクの身体も限界だったはずだ。アベル、おまえも休めるときに休んでおけ」
「わたしは平気ですが……」
自分のことはいいのだとアベルは言ったものの、たしかに、ラクロワに赴いた日から寝る間も惜しむようにして西方に向けて旅を続けてきたリオネルらは、かなり疲労しているに違いない。むろん、彼らの馬も。
なにか言いかけてから、けれどアベルは言い淀んで口を閉ざした。喉元まで出かかっていた言葉を呑み込んだ代わりに、溜息をつく。
――もしナタンに続いてジル・ビューレルまでもが処刑されることになったら。
もしリオネルが、「恐怖の塔」などに投獄されることになったら……。
その可能性を考えるほどに、アベルの気持ちは焦った。
「他人のことを心配するまえに、自分のことを考えろ。おまえが倒れたとしても、旅は中断するんだ」
「私は館で休んでいましたし、万が一なにかあれば、従騎士のわたしのことは二の次でいいのです。なにより大切なのはリオネル様なのですから」
「そうはいかない。それができるリオネルではないことを、おまえはよくわかっているはずだ」
そう言われて、アベルは黙りこむ以外になかった。
わかっている。
自分がどう考えていようと、リオネルがだれかを見捨てて旅を続けるわけがないのだ。
けれど、このようなことでリオネルの身の安全を守ることができるのだろうか。
アベルは不安を覚えずにはおれなかった。
これまで順調に進んでいた旅が、いったん中断されることになったのは、シャルムとローブルグの国境を超えてすぐのことである。シャルム領リンタールから、ローブルグ領ツェットリッツに入って一日も経たぬうちに、彼らが跨る馬のうち一頭の具合が悪くなったのだ。
体調を崩したのは、ディルクの愛馬シリルである。
ツェットリッツ領内で二番目に大きい都市ニーシヒに滞在していた折のことだ。
ラクロワに赴いた日からディルクの愛馬もまた、休む間もなく走り続けてきた。これまで倒れなかったことのほうが、むしろ不思議なのだ。リオネルの愛馬ヴァレリーと、ベルトランの愛馬ユリウスは、さすがというべきか、驚異的というべきか、今のところ普段と異なる様子はない。
ちょうど休憩をとるためニーシヒに立ち寄った際にシリルの具合が悪くなったので、獣医を呼び様子を見てもらうと、少なくとも二日は休ませなければ動けるようにはならないとのことだった。
むろんディルクが愛馬を身捨て、他の馬に乗り換えるわけがない。ディルクは自分を置いて先に旅を続けるようにと願い出たが、リオネルは「ヴァレリーとユリウスもおそらく限界だから、ここでいったん休んだほうがいい」と、逗留を決断したのである。
現在、ディルクが中心となってシリルの看病に当たり、リオネルはその補助、マチアスとレオンは他の馬の体調に留意しながらその世話に当たっていた。
一方アベルはというと、街に出て必要なもの――逗留中に使用する雑品や、食糧、馬のための薬などを買いに出かけることになった。
買い物へ行くくらいひとりでも平気だと言うアベルに、ほとんど強引に用心棒をつけたのはリオネルだ。
『ベルトランといっしょでなければ、街へ出る許可は出さない。あくまでひとりで行くというなら、買物はあとでおれが行く』
などと言うので、アベルはしかたなくベルトランと共に出かけることを受け入れた。
「焦ってもしかたがないときもある。まずはシリルが回復するのを待とう」
そうなのだ。
ベルトランの言うとおりである。ディルクやシリルを残して旅を続けるという選択肢は、アベル自身のうちにもないのだから。おそらくリオネルもまた同様なのだ。
ただ、理屈ではわかっていても、気持ちだけはどうにも落ち着かない。
「なにかこの時間を有意義に使わなければと思うなら、ローブルグ人の国民性の研究でもしてみるといい。変わり者と名高い国王と交渉するのだから、それ以前にローブルグ人そのものの気質を知っておくべきだ」
気になる言葉を耳にして、思わずアベルは尋ねた。
「ローブルグの王様が変わり者?」
「知らないのか?」
問い返されて、アベルは首を横に振る。それを見たベルトランは苦笑してから、「いや」と言葉を濁らせた。
「なんでもない。おまえは知らなくていい」
「教えてください、気になります」
「ただの噂だ」
「どんな噂ですか?」
「少し変わっているというだけの話だ」
誤魔化されて、アベルは不満げな表情を作る。それをベルトランは見て見ぬふりをした。
余計なことをアベルに伝えて、いらぬ心配を抱かせたくはない。特にその手のことに関してはめっぽう疎そうなアベルである。ありのままに聞いた噂を伝えてよいものかどうか、ベルトランは判じかねた。
「とにかく、この休息は必要なものだということだ。おまえもやれることをやったら、あとは体調を整えろ」
やや一方的に話をまとめるのは、繊細な話術などとは無縁であるベルトランの最終手段、もしくは常套手段である。それがしばしばアベルを釈然としない気持ちにさせるのだが、ベルトランもそのことを知りつつ、他に方法がないのだった。
なにも教えてくれそうにないので、アベルはそれ以上追及せず、街の喧騒のなかを歩む。
この町はたしかに敵国ローブルグの領内なのだが、アベルは不思議と他国にいる気がしなかった。国境が近いので、シャルム人も多く滞在しているというのも理由のひとつだろう。あるいは、アベルの生まれ故郷であるデュノア領もまた国境沿いに位置する土地だったので、両者は雰囲気がどこか似通うのかもしれない。
しばしばローブルグ人の姿を見かけることのあった故郷の街を、アベルは懐かしさと共に思いだした。そのときである。
無視できぬほど強い視線を、どこからかアベルは感じた。
はっと顔を上げて、周囲を見回す。アベルの視界に入ってきたのは、着飾った若い三人の娘たち、大きな荷物を抱えた旅人、杖をついて歩く老夫婦、買物籠を手に持つ婦人、そして……。
「なにを見ているんだ?」
怪訝そうなベルトランの声が斜め上方から降ってきた。彼は、アベルが感じているこの視線に、まだ気づいていないようだ。それも当然である。なぜなら視線はただまっすぐにアベルだけへと向けられていたからだ。
なにを見ているのかとベルトランから問われても、アベルはなにも答えなかった。問われるよりまえに、アベルは視線の主を見つけていたのだ。
「知り合いなのか?」
ようやくベルトランも、連れに対して向けられる執拗な視線に気づき、静かに尋ねた。警戒しているようだ。
アベルは無言で首を横に振る。
だが、アベル自身は不思議と警戒心が湧かなかった。
こちらをじっと見つめるのは、乾いた地面に座り込む白髪の老人――その身なりや様子からすると、おそらく物乞いであると思われた。
老人は痩せて落ちくぼんだ瞳を、じっとこちらへ向けている。
面識のない相手だったが、向こうは少なからずアベルに関心があるようだった。
「行こう、妙な相手と関わらないほうがいい」
ベルトランに腕を引っぱられたが、アベルはどうしても老人の眼差しが気になり、数歩先へ進んだものの再び足を止める。
「おい、行くぞ」
再び促されるのと、老人が手を上げるのが同時だった。
老人は、たしかにアベルに手招きしていた。――こちらへおいで、と。
「行ってもいいですか?」
返答に左右されるつもりはなかったが、一応ベルトランに確認をとると、渋い表情が返ってくる。
「やめておけ、知り合いではないんだろう」
「でも、向こうはわたしになにか用があるようです」
ベルトランが渋面で黙りこむ。この少女が、一度言いだしたら考えを曲げぬ、筋金入りの頑固であることを、これまでの経験からベルトランはよく知っている。
面倒事に巻き込まれたくはないが、万が一のときには自分がアベルを守ればいいのだと腹をくくって、ベルトランはしかたなくうなずいた。
師匠兼お目付役であるベルトランから了承を得て、アベルはゆっくりと老人のほうへ歩み寄る。
老人は、靴屋の看板がかかった商店のまえに、他の物乞いと同様に小さな布切れを置いて座っていた。布切れのうえには、パンの欠片だとか、乾肉の一部と思われるものだとかが転がっている。貨幣を与えられることは滅多にないが、残飯ならば施す者もいるようだ。
仏頂面をさらに険しくしたような強面の用心棒を伴い、ゆっくりと近づいてきた少年を、老人は一瞬たりとも目を離すことなく見つめている。
間近へ来たアベルを見上げても、老人は無言だった。
「あの……」
手招きされたから、ここまで来たのである。
けれど老人はただアベルの顔を凝視するだけで、なにも言わない。こんなに見られたら顔の中心に穴が開くのではないかとアベルは思った。
間近で見れば、男は思ったより若い。といっても六十歳は超えているだろう。皺が多く、肌が黒ずみ、髪が白いのは、これまでの過酷な生活のせいかもしれなかった。
「この子に、なにか用か」
しびれを切らして口を開いたのはベルトランだ。
すると老人は、なにかを思い出すように――もしくは懐かしむように、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「あんたの顔、見覚えがある」
深く皺の刻まれた指を向けられて、アベルは戸惑う。アベルはこの男を知らなかった。
「わたしですか?」
思わずアベルは確認する。
「人違いでは……」
「あんたのような顔を、見間違えるわけがない」
そう言われても、アベルのほうは覚えていなのだから、どう答えてよいのかわからない。
「どこで見たんだ?」
黙ってしまったアベルの代わりに、ベルトランが胡散臭そうに尋ねる。
「ラスドルフだ。わしは彼の地から流れてきた」
「ラスドルフ……?」
思わずつぶやいたのはアベルだった。
ラスドルフといえば、ここツェットリッツよりやや南に位置する、やはりシャルムとの国境沿いにあるローブルグの領地だ。アベルの故郷デュノア領とは、国境を挟んで隣り合っている。
故郷の地にあまりにも近い場所だったので、アベルは内心でどきりとした。見たことがあると言われたのは、隣り合うラスドルフとデュノアを、老人が勘違いしたためではないか。
わずかな動揺から、アベルは心持ち小さな声で確認する。
「わたしはラスドルフへは行ったことがありません」
「ラスドルフのご領主様の住まう街シュトヴェだ」
「……いいえ、知りません」
「わしはたしかにおまえの顔を見た。――だが、別人だ」
「意味がよくわからないのですが……」
困惑気味にアベルはつぶやいた。顔を見たと言い張っているのに、別人とはどういうことか。アベルが困惑するのは当然のことである。
「とにかく、わしはあんたを見てあの街を思い出した。とても懐かしいんだよ」
「…………」
「あんたはシュトヴェの香りがする。会えてよかった」
老人はひとり納得しているようだったが、アベルのほうはまったくついていけていなかった。とりあえずはっきりしたことは、老人がラスドルフの都市シュトヴェに愛着を持っているということだけである。
「そんなにシュトヴェという街がお好きなら、どうしてお戻りにならないのですか?」
「ここへ来れば仕事があると聞いてやってきたんだ。それが大きな失敗で、今やこのざまだよ。戻るための旅費なんてあるはずない」
アベルは瞳をまたたいた。ベルトランが無言でアベルの腕を引く。
だが、ベルトランの無言の制止を振り切り、アベルは懐から革袋を取り出し、数枚の貨幣を老人に手渡した。
「わたしも故郷に思いを馳せることがあるので、あなたの気持ちはわかるような気がします。多くをさしあげることはできませんが、これをシュトヴェへ戻る費用の足しにしてください」
アベルから金を受けとった老人は、それを断る素振りもなく、大事そうに懐にしまう。
「ああ、ありがとう。シュトヴェにいた人も、こんなふうに優しかった」
「そうですか」
もはや相手の話をアベルはほとんど真に受けてはいなかった。ベルトランはそれ以上の反応で、すべてが作り話だという顔をしている。
「帰ろう、アベル。リオネルたちが心配する」
「はい」
師に促されて、アベルはようやくその場を離れることにした。
「元気で――」
老人は最後に、だれかの名前を呼んだようであったが、急ぎ足で立ち去るベルトランを追っていたアベルの耳に、その声は届かなかった。
「まったく、なにかと思えば、金が欲しかっただけか」
曖昧にほほえみながら、アベルは首を傾げる。
「……どうでしょう」
「シュトヴェには行ったことがないんだろう?」
「ありません」
「ならば、巧妙におまえの気を引きつけて、金を引きだしたということになる」
アベルは沈黙した。
たしかにベルトランの言うことはもっともなのだが、老人が単に嘘をついたようにも思えない。
しかし、アベルはシュトヴェにも行ったことがなければ、老人とも面識がない。だとすれば、だれか自分と似た人がその土地におり、その人を老人は思い出したのかもしれない――というくらいの認識だった。
だからこそ、お金を渡してもいいと思ったのだ。老人にも告げたとおり、故郷を懐かしいと思う気持ちは、アベルにもよくわかる。
「アベル、おまえは時に警戒心がなさすぎる。話しかけられたからといって、必ず答えなければならないという決まりはないんだ。特に知らない街にいるときは、気をつけろ」
「はい」
師匠の忠告に口答えせず、アベルはうなずいて見せた。あまりに素直な態度が返ってきたために、どれくらい心に響いているのだろうと、ベルトランはやや不安になったようだ。
ベルトランが再度確認する。
「本当に気をつけるんだぞ」
「わかりました」
「……ならいいが」
「ベルトランがそんなに心配症とは知りませんでした」
にこにこと笑いながらアベルが言う。ベルトランは、八歳も年下の従騎士にからかわれたと思ったのか、微妙な面持ちになった。
「ああ、リオネルの気持ちがわかるような気がする」
「どういう意味ですか?」
「……どうにも不安になるということだ」
ぼそりとつぶやかれた声を、アベルは聞きとることができなかった。「え?」と聞き返すアベルを一瞥してから、ベルトランは言った。
「リオネルたちの土産に、なにか美味いものを買っていくか」
「いいですね」
アベルの表情が輝く。宿に籠りきりのリオネルたちは、心身ともに疲労しているだろう。彼らを喜ばせたかった。
「なにがいいだろう?」
「なにがあるか、お店を覗いてみませんか?」
「そうするか」
普段は厳しい稽古を介した師弟関係にある二人が、この日は仲良く異国の街で買物を続けた。