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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第五部 ~敵国の都は、夏の雨にけぶる~
274/513

12





 兵士に守られた二台の馬車が、砂塵を舞わせながら、乾いた地面のうえを走っていく。

 前方を走るのは装飾細やかな美しい馬車で、かたや後方を走るのは、厳重に鉄格子の施された荷車のごとき一台だった。


 馬車はベルリオーズ領ラクロワから、真南へ下っているようだ。

 現在はベルリオーズ領の南端に隣接する小領地、クリュナ子爵領へ入るところである。このまま南下を続け、クリュナ領を含め幾つかの領地を超えた先にあるのは、ブレーズ公爵領の中心都市ル・ルジェだ。


 ――趣を異にする二台の馬車が向かうのは、まさにその大公爵領の都。


 大きな溝のうえを車輪が転がると、馬車がガタンと揺れる。揺れとともに左腕をさすったジェルヴェーズに、隣に腰かけるフィデールが声をかけた。


「痛みますか」


 すると、返事の代わりに砂色の眼光がフィデールを見返した。

 その視線を恐れるでもなく、またひるむ様子もなく、フィデールは淡々と尋ねる。


「いかがされましたか?」

「フィデール、そなた、私が怪我を負うことを見越していただろう。それを計算に入れたうえで、今回の計画を立てたのだな」

「まさか。なぜそのようなことを?」

「この怪我がなければ、事はこれほどうまく運ばなかった。リオネルを動かす最大の切り札になったではないか」


 冷静な面持ちのままフィデールは答えた。


「貴方が怪我を負われたことだけが、今回の計画における最大の失態であったと、私は思っています」


 片腕とも呼べる家臣の言葉に、ジェルヴェーズはふんと鼻で笑った。


「まあいい。おまえに直接聞いたところで、答えを得られるとは思っていなかった」

「私は随分と殿下から信用されていないようですね」


 フィデールは苦笑する。


「殿下に疑念を抱かせたこと――私が至らなかったためでしょう。心からお詫び申しあげます」

「深手ではないと思っていたが、案外に傷がうずく」

「我が館に着きましたら、早急に手当てを。よい医師がおります」

「リオネル・ベルリオーズの左腕はまったく動かせないようだったな」


 左腕をさすりながら、思い出したようにジェルヴェーズがつぶやいた。

 ラクロワのビューレル邸に駆けつけたリオネルは、包帯こそ巻いていなかったが、左腕を一度も動かさなかった。その様子にわざとらしさはなく、左腕の機能は完全に失われているようだった。


「あるいはあれが演技であったら、敵もさるものだが」

「……おそらく真実でしょう。少なくとも私の目にはそう映りました」


 フィデールの言葉に、堪え切れなくなったようにジェルヴェーズは笑声を上げる。


「愉快だな。ナタン・ビューレルごときに怪我を負わされたのは気に入らないが、リオネルが左腕を使えぬとは実に痛快だ。あのまま戦場に送りこめば、手を下さずとも致命傷を負うかもしれない」

「単身で戦場に向かえば――たしかにそうですね。けれどリオネル殿の周りには厚い守りの壁があります」

「赤毛の用心棒のことか」

「それ以外にも、リオネル殿と親しいディルク・アベラール殿、それにベルリオーズ家に仕える騎士らは皆そろって剣豪です」

「こざかしい」


 そう吐き捨てたきり、ジェルヴェーズは視線を馬車の窓に向けていた。なにを思っていたのか、しばらくすると独り言のようにつぶやく。


「ならば、今ここで馬車を降り、ジル・ビューレルを殺しておくべきか。ひとりでも敵の数は減らしておくべきだ。違うか、フィデール」


 ジル・ビューレルは両手両腕を縛り上げたうえで、後方の馬車に繋いである。たしかに殺そうと思えば今すぐにでも可能だが。

 フィデールは控えめに諫言した。


「もし今ジルを殺したことが、ローブルグに向かうリオネル殿の耳に入れば、彼は約束を反故にされたことに激しく意義を申し立ててくるでしょう」

「意義など無視すればいい。むしろ、あの男の悔しがる姿を見ることができれば愉快ではないか」

「ジルの命を奪うのはいつでもできます。今は、切り札のひとつとして生かしておくほうが、我々にとって有益と考えられます」


 余人ならともかく、フィデールに諭されたうえは、ジェルヴェーズもなにも言わなかった。不思議とこの悪友であり右腕たる男に対しては、常の短気が起らない。

 ただし思いどおりにならなければ、むろん苛立ちを覚える。


 苛立ちを沈黙に代えて、ジェルヴェーズは再び窓のそとへ視線を移した。

 ベルリオーズ領から、すでにクリュナ領に入ったようである。敵地から離れていくという感覚は、ジェルヴェーズにある思いを抱かせた。


 ――必ずこの地に戻ってきて、リオネル・ベルリオーズを破滅させてやる。


 心身ともに、二度と立ち上がれぬほどあの青年を痛めつければ、幼いころから抱き続けてきた苛立ちにも似た苦しみと葛藤から、逃れられるのだろうか――。


「ル・ルジェまではあと二、三日で着くでしょう。父が殿下のお越しを心待ちにしております」


 笑顔の鉄面皮を纏った公爵を思い出し、ようやくジェルヴェーズのまとう空気が微妙に変化する。ジェルヴェーズが口元に浮かべたのは苦笑にも近かったが、それでも表情が和らいだことに変わりない。

 父王以上にジェルヴェーズが苦手とする相手であることを知ったうえで、フィデールがブレーズ公爵のことに言及したのならば、彼の策士ぶりもかなりのものである。


「……ああ、公爵に会うのは久しぶりだな」

「父はブレーズ領内の政務に専念しているようです」

「相変わらずなのだろうな」


 真意を意味か判じかねてフィデールはジェルヴェーズを見やった。フィデールとて、父親との関係が素晴らしく良好であるわけではない。むしろ複雑なわだかまり――いや、それ以上のものがある。

 相変わらずなのだろうというジェルヴェーズに、フィデールは短く返す。


「父が変わることはないでしょう」


 と。

 するとジェルヴェーズは声を上げて笑った。フィデールが意図したかどうかはさておき、ついにジェルヴェーズの機嫌は上向いたのである。


「天と地がひっくり返っても、あの男だけは笑顔を張りつけていそうだな」

「褒め言葉として、受けとっておきます」


 返ってきた言葉に、再びジェルヴェーズは笑った。





 笑い声の上がる馬車の後方では、囚人となったジル・ビューレルがひとりうつむき、荷車に揺られている。むろん話す相手もないので寡黙であることは当然であるが、それにしてもジルは思いつめた面持ちで車内の一点を見据えていた。


 自分の命を救うために、主人が危険な旅に出たことをジルは承知している。

 失敗すれば、リオネルの命こそ奪われるかもしれないというのに。


 いっそ、ここで舌を噛み切って死んでしまえたら――とジルは願った。

 主人の身を危険に晒すくらいなら、己が命などいくらでもかなぐり捨てる覚悟がある。けれど、ジルの考えを見越してか、彼の口には紐が咥えさせられていた。これでは舌を噛み切ることすらできない。


 生き地獄とはこのようなことを指すのだと、ジルは思った。紐を咥えさせるように命じたのはフィデールである。

 死ぬ自由さえ奪われた騎士は、ひたすらに主人らの無事を祈るしかなかった。






+++






 熱気に包まれた店内。

 酒と肉と客の体臭が混じりあうなかに、笑声と怒号が飛び交う。


 ベルリオーズ領の西側に隣接するシャンブロー領の宿場町プーラ。ここは、その一角にある客入りのよい酒場である。


「へえ、それは本当の話かい?」


 店内の片隅で、なにやらひそひそと話していた男たちの会話に割って入ったのは、騎士らしき身なりの若者だった。高価なものを身につけているわけではないのに、若者の物腰には品があり、どこか高貴な雰囲気さえ感じられる。


 小さな机を挟んで小声で話しこむ二人の怪しげな男に、酒場の客はだれも近づこうとはしないというのに、この若者は気にする素振りもなく声をかけたのだった。

 すると、やはりというべきか、話を聞かれた男の一方が顔色を変える。


「なんだ、人の話を盗み聞くとは生意気なやつだな。おれの話は、ただで聞かせてやれるもんじゃねえんだ。だれだか知らないが、無断で聞いたからには一発ぶんなぐってやる」


 シャルム人にしばしば見られるように、気の短い質らしい。男は言い終えるよりまえに拳を握っていた。


「おっと、こんなところでぼくは喧嘩するつもりはないよ」


 脅された若者は、けれど落ち着き払った様子で、笑みさえ浮かべてそのまま椅子に座っている。その態度に、拳を握った男はさらに顔を赤くして、苛立ちを露わにした。


 このように些細な諍いが生じたのは、大勢の客でにぎわう宿場町プーラの居酒屋「迷子の猫ル・シャ・ペルデュ」である。


「一杯おごるから、話の続きを聞かせてくれよ」


 若者は、銅貨が二十枚ほど入った袋を男に放った。

 どうせ、真実かどうかわからぬ話である。これくらいで充分であろう。


 手に飛び込んできた袋の中身を確かめてから、男は若者へ意味ありげな視線を向けた。若者はしかたなさそうに苦笑してから、もう十枚弾いてやる。


「これでいいだろう?」


 三十枚の銅貨を手に入れた男は、わざとらしい渋面で若者を見やってから、もったいぶった動作で頷いてみせた。


「こっちへ来いよ」


 相手は三十台と思しき恰幅のよい男で、連れがひとりいた。連れのほうは男と正反対の痩せた体型で、目の落ちくぼんだ狡猾そうな男である。連れの男の職業を、若者はひと目で察することができた。


 恰幅のよいほうの男は金さえ手に入れば、あとはどうでもいいようで、早速一枚の銅貨で酒を追加してからどっしりと丸椅子に腰かける。一方、痩せているほうの男は、若者の身なりに素早く視線を走らせ、無言のうちに観察しているようだった。


 銅貨を払った若者は、ローブルグとの国境近くに位置するこのあたりではよく見かける風貌の持ち主である。けれど、痩せた男はそれ以上のものを探ろうとするように、鋭い視線を若者に投げかけていた。

 その視線を感じた若者が、不快な顔ひとつせずに尋ねる。


「きみは情報屋だろう?」


 痩せた男は、はっとしてすぐに視線を伏せた。


「ぼくのことを観察しても、お金になるようなおもしろい発見はなにもないよ」

「そうだろうな」


 馬鹿にしたように言い捨てたのは、太ったほうの男だ。情報屋は黙っている。


「どうせローブルグから流れてきた、落ちぶれ騎士だろう?」

「ああ、まさにそんなところだ」


 笑いながら答えたのは、かつてベルリオーズ領の中心都市シャサーヌに滞在していた金髪碧眼の騎士、ジークベルトだった。


 なぜジークベルトが、ベルリオーズ領を出て西方に向かっているのか。


 実のところ、ジークベルトは可能な限りシャサーヌに留まりたかった。けれど、不覚にも居場所を嗅ぎつけられてしまったので、しばらくは別の場所へ移動しなければならなくなってしまった。

 どうせ場所を変えるならローブルグへ――というのがジークベルトの考えである。彼は今、シャサーヌからローブルグの王都エーヴェルバインに向かっている途中だった。


 このような経緯で気儘に旅をしているところ、ジークベルトはプーラの居酒屋「迷子の猫」で、いささか気になる話を耳にしたのである。


「それで? マルスナで目撃したっていうのは、本当にリオネル・ベルリオーズだったのか?」


 近くの椅子に腰かけながらジークベルトが話を促すと、恰幅のよい男は大きな身体を縮め、体格に似合わぬひそひそ声で答えた。


「ああ、たしかにおれの弟が見たらしい。弟は普段はシャサーヌに住んでいて、山賊討伐の折りにリオネル様のお顔を拝見したことがあるんだ。だから間違えない。マルスナの街を、少数の騎士を伴って歩いていたと言っていた」

「どこへ向かっているのだろう?」

「それがよ、行き先なのかどうかはわからないが、リオネル様ご自身の口が『エーヴェルバイン』って動いたらしいぜ」

「口が動いた?」

「弟は耳が聞こえねえんだ。だから、唇の動きが読める」

「すれ違った一瞬で、唇の動きが読めるものなのか」

「そこまでわかりゃしねえよ。それに、行き先がエーヴェルバインかどうかも知らねえ。ただ、そう動いたように読めたってことだ」


 たしかにマルスナは、シャサーヌからまっすぐ西方へ進んだところにある。もしそのまま真西へ向けて旅を続ければ、いずれローブルグの王都エーヴェルバインにいたる。


 情報屋の男は、すでに一度聞いた話なのか、ひと言も発せずに二人の会話に耳を傾けていた。


「連れの者は何人いた?」

「五人だ」

「どんな面々だ?」

「ひとりはあれだ、背の高い赤毛の騎士――噂に聞く最強の用心棒だろう。あとはわからねえが、女みたいに別嬪の少年がひとりいたらしい」

「へえ」


 当てが外れたふうを装ってジークベルトは溜息を吐いてみせた――内心では大いに満足しながら。

 銅貨とて、貴重な所持金の一部である。どうやらそれを払ったかいがあったようだった。


 ――リオネル・ベルリオーズが、密かにエーヴェルバインに向かっている。

 それは非常に興味深い事実だった。


 けれど男の話が真実であればあるほど、それが情報屋の耳に入るのは、秘密裏に旅をする者にとって歓迎すべきことではないはずだ。リオネル・ベルリオーズはともかく、あの水色の瞳をした少女を少しでも危険から遠ざけなければと思ったのは、ジークベルトの直感だった。


「で、情報屋殿はこの話を聞いて、どうするつもりなんだい?」


 情報屋は、吊りあがった細い双眸を無言でジークベルトに向ける。なにも答えるつもりはなさそうだった。


「いい加減な話は信じないほうが懸命だと思うけどね」

「てめえ、おれの話をでたらめというのか?」


 情報屋がなにか答えるよりまえに、男がいきり立つ。それを好機にジークベルトは呆れた調子で言葉をぶつけた。


「いや、そうは言わないよ。でも、リオネル・ベルリオーズほどの身分の騎士が、たった五人の供を連れて旅をするわけがないだろう? それもひとりは女みたいな子供だなんて、どう考えてもおかしいじゃないか。きみはそう思わないのかい?」

「それは――」


 男はやや口ごもる。


「――おかしいかどうかは知らねえが、事実は事実だ」

「似たような顔なんていくらでもいるもんだよ。そもそもマルスナの街をぶらぶらしているという時点で、リオネル・ベルリオーズとは別人と思ったほうがいい」

「さっきから聞いていれば、勝手なことばかり言いやがって……おれの弟の目はたしかだぞ」


 言い返す言葉は強気だが、語調に勢いがない。


「あんな田舎町に名門貴族の嫡男が行くわけがない」


 とどめとばかりにジークベルトが言い切ると、男は顔を真っ赤にしながらも言い返せずに黙りこんだ。その様子を内心ですまなく思ったが、ここはしかたがない。ジークベルトはあえて馬鹿にしたように告げる。


「もっとおもしろい話を聞けると思っていたのに、今日はついてないな。でも一度払ってしまった銅貨はしかたがないからね、返してもらわなくていいよ」


 片手を振ってジークベルトが踵を返すと、迷いを含んだ視線がその後ろ姿を追った。

 二人の会話を黙って聞いていた情報屋は、男の話の真偽を判じかねているようだ。その迷いこそが、ジークベルトの狙っていたものである。これ以上、二人にかかずらう必要はなかった。


 じゃあ、と言いながらジークベルトは酒場を出ようとする。

 と、その刹那、背後から怒りに満ちた気配が襲いかかってきた。腹を立てた男が追いすがり、拳をジークベルトに向けて振り下ろしたのだ。


 肉厚な拳を軽々とよけてから、ジークベルトは男の背中を軽く足で蹴りつける。標的によけられて均衡を失った男は、背中から押されて、たやすく前方に倒れこんだ。

 額をしたたか打ちつけたらしく、倒れて起きあがる気配のない男に、ジークベルトはしゃがみ込んで告げる。


「こんなところで喧嘩するつもりはないって言っただろう? 二度も言わせないでくれよ。でもまあ、いろいろ言って悪かったとは思ってる。残りの銅貨で今夜はぱあっと飲んでくれ」


 相手が聞こえているかどうかはわからなかったが、かまうことなくジークベルトは店の扉を開き、ゆったりとした歩調で街路へ出た。背中に感じる視線は、情報屋のものだけではなく、他の客のものも含まれているようだ。




 夏の夜風に金色の髪をなぶらせながら、おもしろいことを聞いた、とジークベルトは心中でつぶやく。

 彼らがローブルグへ赴く理由はなんなのか。もしエーヴェルバインに向かっているとすれば、いったいなにをするつもりなのか。なぜ少数で行動しているのか。


 そして、ジークベルトの行き先もまたローブルグである。

 もしかしたら、水色の瞳の少女――アベルにまた会えるかもしれない。

 ……そう思ったとき、ふと、ひとつの名が脳裏をよぎり、ジークベルトは立ち止まった。


 この名を、どこで聞いたのだったか。

 なぜ今その名を思い出したのか。

 考えてみたが、すぐに答えを見つけられそうにない。


 脳裏をかすめた疑問を生温かい夜風に預けて、ジークベルトは再び歩き出した。











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