11
壁に直接書かれた品書きを見ながら、
「やはり鴨にしよう、それしかない」
と言いきったのはベルトランだった。
「おれは豚の腸詰めでもかまわないよ」
六人が座る机の脇を、他の客のところへ豚の腸詰めを運ぶ給仕の娘が通りすぎる。
豚の腸詰めには、弾力を予感させる照りと膨らみがあり、香辛料の独特な香りがした。それを一瞥したディルクが、豚の腸詰めもうまそうだ――などと発言すると、再びベルトランが毅然と答えた。
「いや、これからしばらく腸詰めが続くだろう。ここでは鴨を食べておくべきだ」
ベルトランの発言に、リオネルが苦笑する。
「ローブルグに入ったとしても、豚の腸詰め以外になにも食べられないわけじゃないだろう」
現にシャルム国内でも、鴨肉以外に様々なものを食すことができるし、他国の料理を出す食堂も多い。
「いや、ローブルグ人は頑固だ。豚の腸詰め以外は作るまい」
友人であり、頼もしい家臣でもある赤毛の騎士から返ってきた台詞に、再びリオネルは苦笑せざるをえなかった。極端な意見ではあるが、たいがいのシャルム人が抱いているローブルグ人の印象など、この程度のものである。
――つまり、『頑固で偏屈で無口なローブルグ人』というわけだ。
特に、ローブルグに近い竜の左翼――シャルムの国土はしばしば竜の形に似ているため、このように例えられる――に位置するベルリオーズ領に生まれ育ったリオネルとは違い、遥か東方、竜の右翼に位置するルブロー領を故郷とするベルトランは、ローブルグに対する既存の観念を捨てきれずにいた。
ローブルグ人はというと、やはり、『シャルム人はお喋りで軽率で浅薄な連中』――などと考えているようだが。
「腸詰めもおいしいですよ」
くすくすと笑いながら、アベルはベルトランに語りかける。
「それに、ローブルグの料理は腸詰めだけではなく、牛や豚を焼いた肉料理や、キャベツを主とした副菜、スープもあります」
「詳しいんだな」
ディルクのつぶやきに、はっとアベルは顔色を変えた。
身元を知られるような発言は控えていたはずなのに、雰囲気に呑まれてうっかり口が滑ってしまったのだ。本来の立場からも、過去に起こった出来事からも、アベルはけっして身元を明かすわけにはいかなかった。
明かすことのできないアベルの故郷は、他でもないローブルグと国境を接するデュノア領である。
かつてアベルはデュノア家令嬢「シャンティ・デュノア」として、隣接するアベラール領の嫡男ディルクと婚約していたが、それも今は遠い過去の話――。
過去と現在を切り離さなければ、アベルはここにいることができない。
そのデュノア領では、ローブルグとシャルムの文化が混じりあい、アベルにとっては馴染みのあるものだった。
「もしかしてアベルは、西方の出身なのか? だとしたらおれと同じじゃないか」
けっして身元を明かそうとしないアベルに、遠慮なく尋ねるのは、何事においても自由なディルクだ。
「そういうわけでは――」
口ごもるアベルに、リオネルとベルトランがもの思わしげな視線を向ける。というのも、かつてアベルがラロシュ領でヴィートと共に踊った際に、ローブルグの曲を口ずさんでいたことを、二人は知っているからだ。
さらにアベルとローブルグを結びつけるものは、もう一点あった。それは彼女の月明りのごとき金糸の髪と、淡い水色の双眸だ。茶系の髪と瞳が多いシャルム人には比較的珍しい。
アベルがローブルグと関わりのある者ではないかという考えが、リオネルやベルトランの脳裏によぎるのも無理のないことだった。
一方、アベルの正体がシャンティ・デュノアであると勘づいているマチアスは、さりげなくアベルに救いの手を差し伸べた。
「最近は、シャルム国内でローブルグ料理を出す店が増えましたからね。私も、アベル殿が今言われたローブルグ料理ならすべて知っています」
「へえ、シャルム名物のムール貝を食べられないおまえが、ローブルグ料理に詳しいとはね」
ディルクの台詞が笑いを誘い、とりあえず話題が逸れたことにアベルは安堵した。と同時に、心のなかでマチアスに感謝する。
素性について周囲に勘付かれるのではないかというきわどいところで、いつも助けてくれるのはマチアスだ。そのことをアベルは不思議に思わないでもなかったが、まさか自分の正体が知られているとまでは考え至らない。
「腸詰めでも、鴨でも、ムール貝でもいいが、早く注文してくれ」
和やかな雰囲気のなかで、ひとりぐったりとしているのはレオンである。早朝に起こされ、ほとんど休む間もなく一日馬を駆けてきたので、疲れは絶頂に達しているようだ。
「眠い。早く宿に戻って休みたい」
シャサーヌから一日かけて辿り着いたこの地は、ベルリオーズ領内の西方に位置するマルスナという町である。宿を押さえてから、夕飯を食べるために食堂に入ったところだった。
「ああ、すまなかった。注文しよう」
そう言って給仕に向けて片手を上げたリオネルだが、彼こそが最も疲労しきっているはずだ。ディルクとベルトランもまた、リオネルと同様に休息を必要としているに違いない。彼らは、ラクロワへ発ったその日から、一睡もせずにベルリオーズに駆け戻り、その足でローブルグへと旅立ったのだから。
三人が疲労の色を見せないのは、さすがというか、驚異的というしかない。自分だったら倒れているだろうとアベルは思う。と同時に、彼らのことが心配でもあった。
「――わたしが」
駆けつけた給仕に、リオネルに代わってアベルが注文を述べる。
結局は、ベルトランの意見を尊重して鴨肉料理と、ひよこ豆のスープ、チーズの盛り合わせ、そして五人分の葡萄酒と、蜂蜜酒を一杯頼んだ。
「体調はいかがですか」
給仕の娘――というにはやや歳がいっていたが――が去ると、アベルと同じ懸念を抱いていたらしいマチアスが、一同を見渡して言葉をかける。左腕を負傷しているリオネルに対しては、特に気をつかっているようだった。
「今朝、突然知らされた方々も、ラクロワへ赴かれた方々もお疲れのはずです。体調も万全ではありませんし、今夜は早めに宿に戻りましょう」
リオネルは軽くうなずいたあと、次のように切り出した。
「今日はほとんど休憩もなく走らせてすまなかった。宿に戻ったらゆっくり休んでほしい。ただそのまえに、話しておかなければならないことがある――」
重要な議題が出ることを知って皆が押し黙った。
リオネルが今から語ろうとする内容を察していない者はない。とういうのも、レオン、マチアス、そしてアベルはまだ、ラクロワにおいて何事が起こったのか知らされていなかったからだ。
「今回、ローブルグへ旅立つことになった経緯についてだ」
リオネルの口から出たのは、皆が予想したとおりの言葉。ようやく皆が集まり机を囲んだ今こそ、話すべき頃合いだった。
「ラクロワへ同行してくれたディルクとベルトラン、そして詳細を聞かずについてきてくれたレオン、マチアス、そしてアベルには感謝している」
そう前置きしてから、リオネルは語りはじめた。
「これまでの経緯を話しておこうと思う。驚くことも多いと思うが、聞いてほしい。……あの日、アベルたちが書庫に入ってすぐに、ラクロワから使者が到着した」
リオネルの声に注意を傾けると、途端に店内の騒音は意識の背後に沈みこむ。
「使者は、ナタンがジェルヴェーズ王子に剣を向け、返り討ちに遭ったことを知らせてきた。ジェルヴェーズ王子が激昂し、この事件を収拾させるために即刻ジル・ビューレルを処刑しようとしていると聞き、彼を救うためラクロワへ向かった。が、到着したときすでにジルは捕らえられ、別室に軟禁されていて、会うことはできなかった」
話は次のように続いた。
知らせを受けて駆けつけたリオネルの姿をみとめて、ジェルヴェーズはやや意外そうな顔をした。
『自らここへ出向くとはな、リオネル・ベルリオーズ』
従兄弟同士であり、玉座に最も近いところにいるこの二人が対面するのは、五月祭の前日に起こった毒混入騒ぎ以来のことである。
ビューレル邸内の応接間。
左腕に包帯を巻いたジェルヴェーズは長椅子にゆったりと腰かけ、リオネルは絨毯の敷かれた床に膝をついていた。リオネルもまた左腕が不自由である。
『我が家臣が起こした不始末を、お詫び申しあげに参りました』
『不始末、か――』
ジェルヴェーズは皮肉めいた笑みをひらめかせる。
『やつは私の命を狙った。不始末というのはいささか謙遜が過ぎるようだが』
『気を害されたのであれば、ご容赦ください』
『このような少数で自ら出向いたのは、その控えめな謝罪の気持ちを現すためか?』
毒の混入騒ぎとは一転、優位な立場にいるジェルヴェーズは、双眸に残忍な色をたたえてリオネルを見下ろしていた。膝をつき、頭を垂れるリオネルの姿は、ジェルヴェーズにとりさぞや愉快な眺めだっただろう。
『殿下のお命を狙い、お怪我を負わせたこと、ナタン・ビューレルの主として殿下に深くお詫び申し上げます』
『謝罪など不要だ』
冷淡な声でジェルヴェーズは言い放つ。
『そなたの謝罪ごときで、私の怒りが収まると思っているのか。ナタンは既に死んだが、その兄ジル・ビューレルは八つ裂きの刑に処す。ベルリオーズ家に対する処罰は父上から下されよう』
『お待ちください』
すかさずリオネルは声を上げた。感情を宿さぬ砂色の瞳が、床のうえのリオネルを見下ろす。
『ジルの処刑につきましては、殿下のご慈悲を賜りたく存じます。ナタンがこのような行いに及んだ事情は未だ明らかではありませんが、責任は主である私にあります。どうかジルではなく、私をお咎めください』
ジェルヴェーズは鼻で笑った。ジルのような一介の騎士であれば、ジェルヴェーズの一存で死に値する刑に処すことができるが、現国王の甥であり、シャルム王家の血筋を引くリオネルともなれば、おいそれと重刑に処すわけにはいかない。
そもそも罪を犯したのは家臣であり、リオネル本人ではないのだ。
『そなたの言うとおりにしたとして、私になんの利がある。私は重大な王命を受けて、ローブルグに赴く途中だったのだ。それがこのような場所で命を狙われ、負傷し、身動きできなくなってしまった。この事態をいかにして収拾するというのだ。ジルを処刑せずして贖えまい』
『ならば、私にローブルグへ行かせてください』
リオネルのひとことに、背後でひざまずくベルトランの肩が揺れる。ディルクもまた、かすかに顔を上げて幼馴染みの後ろ姿に視線をやった。
『そなたが行くだと?』
眉をひそめるジェルヴェーズに、リオネルは淡々と告げる。
『私がローブルグとの交渉にあたります。結果を出した暁には、どうかナタンの死をもって贖いとし、ジル・ビューレルを解放くださいますようお願い申し上げます』
表情を微塵も動かさずに、ジェルヴェーズは言葉を投げ返した。
『そなたが交渉に当たるわけにはいくまい。王から勅命を受けたのは私だ』
『私は国に忠誠を誓ったシャルムの騎士。王命を賜った殿下の代理として、勅命を引き継ぐことは道理に適っております』
『いささか都合がよすぎるのではないか? 私の代わりに交渉に赴くことで、ナタンの罪を不問に伏すというのは』
『交渉を成立させたら、という条件でかまいません』
『失敗したら、どう責任をとる?』
『――殿下のお心のままにご処分ください』
リオネルの返答を耳にして、ジェルヴェーズは皮肉めいた笑みを浮かべる。
『随分と大きく出たものだ。その言葉に偽りはないな?』
『むろんです』
『ならば、交渉が成立しなければ、当初のとおりジルは八つ裂き刑、そなたは私が赦すまで、『恐怖の塔』で罪人らと共に生活せよ。それを受け入れるか』
わずかな間を置き、リオネルが答えた。
『承知いたしました』
ついに声を上げたのはディルクだ。
『……リオネル!』
恐怖の塔は、王都サン・オーヴァンの南西にそびえる牢獄塔である。そこへ収容された者は、極刑に処されずとも、拷問や栄養失調、疫病により大半が数年のうちにこの世を去る。
ローブルグとの交渉の行方など、予測不可能だ。こちらがいかに言葉巧みに交渉にあたったとしても、相手が応じるとはかぎらない。それほど不確かなものであるのに、成功しなければ牢獄塔に収容されるとは。
ベルトランもまた、当然ながら黙ってはいなかった。
『おそれながら、本件につきましては、国王陛下及びベルリオーズ公爵様にお伺いを立てるべきかと存じます』
けれど背後を振り返り、リオネルは首を横に振る。
『私の考えに異議を唱えるか』
冷ややかな眼差しでジェルヴェーズはリオネルの背後に伏す二人を見やった。口を開きかけたベルトランが言葉を発するより先に、リオネルが答える。
『すべて異論ございません』
それから頭を上げて、リオネルはジェルヴェーズを見上げた。
『どうか私に勅命の代行をお命じください』
『だめだ、リオネル――』
なおも言い募ろうとするベルトランを、すぐ横に跪くディルクが片手で制する。
これ以上食い下がれば、ジェルヴェーズの怒りは間違いなくベルトランへ向かうことになる。それは、ベルトランの命の危険を意味する。
また、リオネルの決断はすでに変えられないものであることを、ディルクは悟っていた。
『リオネルに従おう。リオネルがジルを守るなら、おれたちがリオネルを守るしかない』
低いディルクのつぶやきに、ベルトランはぐっと口元を引き結ぶ。
『それほどの覚悟があるなら、行けばいい』
散歩へ送りだすかのような気軽さで、ジェルヴェーズは告げる。
『リオネル・ベルリオーズ、そなたがローブルグへ赴きフリートヘルム王に謁見せよ。そして、同盟を結べ。失敗に終わったと判じたときには、ジルはこちらで処刑する』
『承知しました』
そう答えながらリオネルは、ジェルヴェーズの背後に控えるブレーズ家嫡男フィデールを見やる。感情の読めぬ青灰色の瞳が、リオネルをまっすぐに見下ろしていた。
リオネルとフィデール――二人の視線が無言のうちにぶつかりあう。
――これは、罠なのか。
それとも、都合よくリオネルを利用する算段か。
どちらにせよ、背後で知略を巡らせている者は……。
フィデールはそっと、リオネルの眼差しから視線を外した。
話が終わると、レオンは大きな溜息をついた。
「そうか、兄が再びそのようなことを」
レオンはそれ以上言葉もないといった様子だ。次から次へとリオネルを陥れる計略を思いつくものだが、今回は特に巧妙だった。
そもそもナタン・ビューレルがジェルヴェーズに襲い掛からなければ、リオネルに火の粉がかかることはなかったのだ。
単なる偶然なのか、それともすべては謀られたことなのか。
「レオンに同行してもらったのは、いざというときにシャルム王家の権威を借りたかったからだ。大国の王を相手に公爵家の嫡男という立場でおれが交渉に赴いたとしても、相手にされない可能性がある。無理に連れてきてすまなかった」
「いや……おれなどが役に立つとは思えないが、少しでもおまえの力になれるなら、それはむろんかまわない」
どこか不器用に答えるレオンに、ディルクが笑う。
「本当はリオネルの役に立ちたいんだろう? 素直じゃないなあ、二の君は」
じろりと悪友を睨み返しておいて、レオンは鴨肉を切り裂いた。
「兄が撒いた毒を、少しでも拾おうという、弟としての責任感だ」
「それは見上げた心がけだけど、おまえの兄が撒き散らす毒は猛毒すぎる。特に今回は性質が悪い」
レオンの切り裂いた鴨肉を見つめながら、ディルクが眉をひそめる。ベルトランがディルクの意図を察して言葉を引き継いだ。
「毒かどうかも判然としないからこそ、恐ろしい毒だ。ナタンがあの男に斬りかかった理由がわからなければ、ジェルヴェーズ王子が撒いたものかどうかもはっきりしない」
リオネルが静かにうなずく。
「ナタンの行動については、徹底的に調査する。今頃、父上が指揮をとってくださっているはずだ」
「しかし、ナタンは殺されてしまった。真実は闇のなかだ。どこからどこまでが計略だったのかを判じるのは難しいだろうな」
「たしかに今の時点ではわからないが、なにか手がかりが見つかればわかることもあるかもしれない」
「『恐怖の塔』になど絶対に入れさせないぞ」
ベルトランは苦い面持ちで言い捨てた。そこにアベルが加わる。
「もちろんです。リオネル様を監獄に入れるなど、けっして許しません。そんなことになれば、私は全力で『恐怖の塔』を破壊します」
「根本的な解決になってないような気もするが……」
ベルトランがつぶやく傍らで、マチアスが淡々と付け加えた。
「なにがなんでも交渉を成立させましょう」
「あらゆる意味でシャルムのために――ね」
ディルクが杯を干す。
このままの速度を保って行けば、あと二日ほどでシャルムとローブルグの国境を超えることになるだろう。
突然生じた事件により旅に出ることになった六人。彼らに待ち受けている運命は、まったく未知なるものだった。
誤字脱字報告、ありがとうございます。とても助かります。
昔から幾度読み返しても誤字脱字が多くて、自ら愕然としています…。
こんなにたくさん見つけてくださり、お時間とお手間を取らせてしまったこと、お詫びと感謝の気持ちを込めて本日更新させていただきました。
ご指摘いただき、感謝ですm(_ _)m yuuHi