10
夜も明けきらぬころ、馬の嘶きが湿った空気を震わせた。
ベルリオーズ邸の前庭に、数人の騎士の姿がある。――リオネル、ディルク、そしてベルトランだった。
薄暗いなか、馬から降り立った三人は、急ぎ館に入っていく。
「おかえりなさいませ」
玄関で出迎えた少数の使用人に対し、一言二言なにかを命じておいて、リオネルは真っ先にベルリオーズ公爵の私室へ赴く。
それからしばらく二人きりでなにやら話し合っていたが、部屋から出てきたリオネルは、室外で待機していたベルトランとディルクをみとめて、深くうなずいてみせた。
そのままリオネルとベルトランはアベルの部屋へ、ディルクはレオンの部屋へと向かう。
アベルの寝室の扉をそっと開けたリオネルは、そこに若者の存在があることに気づく。
なによりも先に若者の存在に気づいたのは、彼が寝台を守るように、その傍らで片膝を抱えて座っていたからだ。
おそらく仮眠をとっていたのだろう。扉が開く前にリオネルらの気配に気づいたらしく、マチアスはまさに長剣片手に立ちあがろうとするところだった。
扉口に現れたリオネルの姿に、マチアスは一礼する。
「アベルは?」
余計な挨拶の一切を省いてリオネルは尋ねた。マチアスもまた端的に答える。
「このとおり、寝台におられます」
張りつめた空気が、安堵感に和らいだ。
けれど、足音を立てず寝台に歩み寄ったリオネルは、かすかに表情を曇らせ再びマチアスのほうを見やる。
「眠っているのか」
「いいえ、私が意識を奪いました」
やはり、という顔をリオネルはした。
眠っているにしては、廊下から差し込む光に照らされたアベルの顔は、蒼白く、わずかな苦痛さえ感じさせる。
「アベルは、おれの行き先に気づいたのか」
「申しわけございません。私の力が及びませんでした。処罰は覚悟のうえです」
「――いや」
眉を軽くひそめてリオネルは言った。
「隠しとおすことなど不可能だった」
窓の向こうでは、音もなく朝陽が登りはじめている。カーテンの合間から、橙色の光が差し込む。
「アベルのことが気になっていた。館に戻り、無事な姿を確認できて安堵した。何事もなくすんだのはきみのおかげだ、マチアス。感謝する」
無言でマチアスが一礼したとき、扉口にディルクとレオンの姿が現れる。
「殿下をお連れしたよ」
「なんだ、こんな朝っぱらから――」
眠たげに目をこすりながら、レオンは苦情をもらした。
「突然いなくなって、突然帰ってきたと思ったら、こんな朝早くに起こしにきて……」
睡眠が足りていないらしいレオンは、ベルトランを超える仏頂面である。けれど、だれよりも睡眠が足りていないのは、一睡もせずにラクロワから駆け戻ってきたリオネルたちに他ならない。
しかし疲労感を滲ませながらも、リオネルの口調は凛としていた。
「すまない、レオン。だが今すぐにここを発たなければならなくなったんだ」
「は?」
思いも寄らぬひと言に、レオンの眠気は吹っ飛んだようだった。
「今すぐに、ここを発つだと? なぜ? どこへ?」
「旅の準備ができ次第、おれはローブルグへ行く。あまり詳しく説明している暇がないんだ」
レオンが絶句していると、寝台が軋む音がする。
「……リオネル様?」
周囲の騒がしさに、アベルが目を覚ましたのだ。目のまえにリオネルの姿を認めて、アベルの淡い水色の瞳は安堵と同時に複雑な感情を映す。
「リオネル様、お戻りになったのですね」
気を失う寸前の記憶は、アベルにひどい悪夢を見せていた。
かつて煙突のなかで聞いた、リオネルを陥れようとするジェルヴェーズらの話し声。その声を何度夢のなかで聞き、うなされたことか。
「アベル、すまなかった。……事情はあとで話させてくれ」
とりあえずこの場を収めようとするリオネルの意思をアベルは感じとったものの、即座に納得はできない。
「お戻りになったばかりなのですね」
アベルの声音からその感情を読み取ったリオネルは、静かに答える。
「ああ、たった今戻った」
「いつ館を発たれたのですか?」
「…………」
昨日、少なくとも朝から一度もアベルはリオネルらの姿を目にしていない。だとすれば、かなり早い時間から彼らは旅立っていたことになる。長いあいだアベルはそのことに気づかず、呑気に書庫の整理をしていたことになる。
「リオネル様は、すべてわかっていて、わたしに書庫の整理を命じたのですね」
「違う」
すかさずリオネルは否定した。
「そうじゃない。館を出たのはまったく予期していなかったことだ」
無言になったアベルを、リオネルはまっすぐに見つめた。
「ラクロワで、ナタン・ビューレルが殺された」
「――え?」
淡い水色の瞳が驚愕に見開かれる。
シャサーヌから王都サン・オーヴァンに向かう途中にあるビューレル邸には、アベルも立ち寄ったことがある。当主であるジル・ビューレルとその弟ナタンとは、直接言葉こそ交わしたことはないが、アベルも面識くらいはあった。
その彼が殺されたとは――。
言葉を失うアベルに、リオネルは穏やかな口調で告げる。
「事件の収拾を図るためにラクロワへ向かったんだ。そして、どうしてもローブルグへ行かなくてはならない事情が生じてしまった」
詳しい事情をリオネルは説明しなかった。おそらく一刻も早くローブルグへ向かうためだろう。経緯こそわからないが、ローブルグへ向かう目的はアベルにも想像することができた。
つまり、ジェルヴェーズが滞在するラクロワにおいて事件が起きたならば、それを収拾しようしたリオネルがローブルグに行かねばならなくなった理由はひとつである。
――ローブルグへ行けなくなったジェルヴェーズの代わりに、リオネルが交渉へ赴く。
それ以外には考えられない。
「……リオネル様がご無事でなによりでした」
本当はなによりも先に伝えたかった言葉を、アベルは口にする。
これから起こるだろう、波乱に満ちた旅路は容易に想像ができる。今ここでリオネルに伝えておかなければ、二度とその機会は訪れないとアベルは思った。
アベルの素直な言葉は、リオネルの目を細めさせる。
「心配をかけてすまなかった。黙って出ていって、申しわけなかったと思っている」
言葉が終わらぬうちに、突如アベルは不安な思いに駆られてリオネルを見上げた。危険だからと、また書庫の整理を口実に置いていかれるのだろうか。
「ローブルグへは、わたしも? それとも書庫の――」
「もちろん、いっしょに来てほしい」
リオネルの返答に、アベルはようやく肩を撫で下ろす。
詳しいことはわからないが、なにかとんでもない事態になっていることはたしかだ。六人はさっそく旅支度にかかった。
+++
王宮の庭園を二人の騎士が歩んでいる。
彼らが歩む近くでは、貴婦人らが口元を隠して憧憬の眼差しを送り、若い騎士は欠かさず敬礼する。
庭園を騎士館へと向かって歩んでいたのは、正騎士隊隊長シュザン・トゥールヴィルと、副隊長のシメオン・バシュレである。シャルムの強兵を率いる二人に、皆が尊崇の眼差しを向けていた。
「ジェルヴェーズ殿下は、交渉を成立しうるでしょうか」
花壇を抜けて周りに人がまばらになると、シメオンは声を低めて言った。ジェルヴェーズが王宮を発って一週間以上経つが、その動向については今のところなにも聞こえてこない。
むろんローブルグの王都エーヴェルバインに到着するまでは、まだ時間がかかる。報がもたらされないことのほうがむしろ安心できるはずなのだが、それでも言い知れぬ不安は募る。
なぜなら、王命を受ける際にひどく難色を示していたジェルヴェーズであるから、どれほどの気概と使命感があるのか未知数だ。
シャルムの命運は、ひとえにジェルヴェーズの手腕にかかっているというのに。
副隊長シメオンの疑問に、シュザンは淡々と答えた。
「陛下は、ジェルヴェーズ殿下を信じて今回の任をお命じになった。我々はそのご決断を見守るしかない」
「それは理解しております。ただ、シュザン殿ご自身がいかなるお考えをお持ちか、うかがいたかったのです」
隊長であるシュザンは、絶世の美女と謳われたアンリエット・トゥールヴィルの弟――つまりリオネルの叔父にあたり、まだ二十八歳という若さである。シュザンがこの若さで正騎士隊隊長という座に就いている背景には、彼自身の実力以外にも、複雑な事情が国王エルネストの側にあった。
いかなる事情があるにせよ、結果としてシュザンは副隊長であるシメオンより遥かに年下である。さらに、国王派であるシメオンとは異なり、シュザンは王弟派の貴族だ。にもかかわらずシメオンは、シュザンの実力を認め、上官として深い尊敬の念を抱いていた。
核心をつくシメオンの質問に、シュザンは沈黙している。それから、言葉を選びながらシュザンは答えた。
「陛下の決定に逆らうことはできない。と同時に、だれが交渉に当たろうとも、成立の可否は予測不可能だ。ならば、今我々は我々にできることを成すしかない」
「我々は戦いの準備をして待つのみ――ということですか」
「ローブルグとの交渉がどうなろうとも、北と西に脅威があることには変わらない」
シュザンの言葉にシメオンはうなずき、さらに捕捉する。
「もし交渉が不成立に終われば、ユスターの動きは加速するでしょう」
「戦いに備え、いつでも兵を動かせるようにしておくことが、我々正騎士隊に与えられた任務だ」
ユスターとの国境には、すでに勇将フランソワ率いる一隊を派遣している。有事の際には、彼らが真っ先に動くことになるだろう。シュザンとシメオンは戦いに備えて動きはじめていた。
「……とはいえ今回のことは、国王陛下がジェルヴェーズ殿下を試されたようにも見えます」
しばし考え込んでから、シュザンは部下のつぶやきに答えた。
「試されたというより、望みをかけられたのだろう」
交渉のことだけではなく――とつけ足したシュザンに、すべてを理解してシメオンは頷きを返す。
「この交渉を成し遂げれば、ジェルヴェーズ殿下には、この国を治める力が備わっていると考えるべきでしょうか」
国王派貴族のシメオンの台詞としては、きわどいものだった。
シュザンは無言になる。言葉を発しなかったのは、自分のためではなく、シメオンを守るためだった。
沈黙が訪れたとき、二人のもとへ年若い騎士が馬を駆けてくる。
シュザンをみとめて騎士は馬から降り立ち、一礼して、手紙を差し出した。
「これは?」
手紙は小さく畳まれている。これを王宮まで届けたのは伝書鳩だろう。
「ベルリオーズ公爵クレティアン様より届きました。時を同じくして、ジェルヴェーズ殿下からも、国王陛下宛てに文書が届いております」
ほぼ同じときにジェルヴェーズからエルネストに宛てて手紙が届いていると聞き、シュザンは表情を硬くする。
旅が順調にいっていれば、すでにジェルヴェーズはベルリオーズ領を通過しているころだ。それが、クレティアン側とジェルヴェーズ側からそれぞれ王宮に手紙が届くということは、ベルリオーズ領内においてなにかがあったのだろうか。
シュザンは素早く手紙を開く。
そして、一読して絶句した。
その様子を見守っていたシメオンが、何事か起こったのかとシュザンに尋ねる。シュザンが頭を押さえたのは、普段から患う片頭痛が特にひどく感じられたからだ。
無言でシュザンは手紙をシメオンに手渡した。ちらとシュザンを見やってから、シメオンは手紙に視線を落とす。
手紙を読むシメオンの表情が、徐々に険しくなっていった。
「これは……」
――手紙には、ラクロワで起こった一件と、負傷したジェルヴェーズの代わりにリオネルが交渉へ向かった旨が記されていた。
シュザンが、国王エルネストに呼びだされたのは、その直後のことである。
「知ってのとおり、思いも寄らぬ事態になった」
「――は」
王宮の一室で、ビロードの絨毯の上にひざまずき、国王と謁見しているのはシュザンだ。
「ベルリオーズ領ラクロワにおいて、ジェルヴェーズがベルリオーズ家の廷臣ナタン・ビューレルによって襲われた」
王の書斎には、近衛隊隊長であり、エルネスト付きの近衛兵でもあるアルドワンと、シュザン、そしてエルネストの三人だけである。
シャルム国王エルネストは、渋い面持ちでシュザンに語りかけた。
「程度のほどは不明だが、ジェルヴェーズは左腕を負傷したということだ」
「聞き及んでおります。ベルリオーズ家と縁続きである身としては、なにを申しあげればよいか」
今は亡きシュザンの姉アンリエットは、ベルリオーズ家に嫁いでいた。
けれどもシュザンの謝罪には関心を示さず、エルネストは続ける。
「ローブルグとの交渉に当たれなくなるとは……」
この事態にどう対処してよいかわからないといった様子だった。エルネストとしては、考え抜いた末に、ジェルヴェーズをこの任に当たらせた。それがこのような事態になるとは。エルネストでなくとも予期できなかったことだった。
「殿下のお怪我の具合も危惧されます」
「うむ……」
エルネストの返答が曖昧だったのは、ローブルグへ赴くことになったリオネルもまた、左腕に大怪我を負っていることを承知だったからだ。
表向きは、怪我ゆえにジェルヴェーズが旅を続けられなくなったのでリオネルが引き継いだということになるが、しかし、任を引き継いだリオネルも同じように左腕を負傷しているのだから事態は複雑だ。
――リオネルがこの大任を引き受けたのは、家臣が犯した罪に対して赦しを請うためであることは明白だった。
「しかし、これでいいのか」
果たしてこれでよかったのかと、エルネストは疑問を抱かずにはおれなかった。すべてはエルネストの望んだ方向とは違うほうへ向かっている。
この国の命運を託した相手は、ジェルヴェーズなのだ。
ローブルグとの交渉を成立させれば、エルネストは長子ジェルヴェーズを未来のシャルム統治者として心から信頼を寄せることができたはずだった。
それが大きく当てが外れた。
さらに、左腕を動かせぬ甥リオネルにこの大役を任せるつもりもなかった。
けれど同時に、エルネストのうちでは安堵にも似た感情も生じていた。
万が一、ジェルヴェーズが交渉に失敗すれば、他ならぬ自分自身が息子に失望することを、エルネストは知っていた。それを、心のどこかで恐れていたのだ。
長きにわたる敵国に交渉にいくというのは、容易なことではない。交渉の失敗だけではなく、一歩間違えば、その場で捕らえられ人質にされてもおかしくはないのだ。
息子がその危険から遠ざかったこともまた、エルネストにとり僥倖なことだった。
結局エルネストは、王である立場や、息子に対する愛情、愛した娘の忘れ形見であるリオネルへの愛憎……それらの板挟みにあい、はっきりとした立場をとれずにいる。
かようなエルネストの葛藤にいったん収拾をつけたのは、シュザンのひと言だった。
「事態がこのようになったうえは、ジェルヴェーズ殿下には怪我の養生に専念していただき、リオネルにローブルグとの交渉を任せる他ありません」
「……さよう、だな」
歯切れ悪くエルネストは答える。
「つきましては、ひとつお約束いただけませんか」
煮え切らぬ様子の国王に、シュザンは凛とした声を投げかけた。
「我が甥リオネルは、ジェルヴェーズ殿下の代わりにローブルグとの交渉に向かいました。殿下とは立場が異なるゆえに、失敗すれば、エーヴェルバインで補殺される可能性もあります」
王子ともなれば容易く命を奪われることはないが、一貴族となれば話が別だ。
良心の呵責からか、それとも別の感情からか、エルネストは黙っていた。
「交渉を成立させた暁には、ジェルヴェーズ殿下はナタン殿の罪の赦免、さらにジル・ビューレル殿の身柄の解放をお約束くださっているようです。加えて、陛下からもお約束いただけないでしょうか。――仮に交渉が失敗に終わったとしても、命あってリオネルが戻ってきたならば、どうか彼を庇護くださいますよう、何卒お願い申し上げます」
――なにから庇護するのか、シュザンは明言しなかった。
けれど、言わずとも知れる。
交渉の失敗は、おそらくシャルムを戦争へと一気に加速させるだろう。王子という立場ならともかく、臣下ならばその責任を厳しく問われかねない。
特に今回の場合は、ジェルヴェーズにリオネルを罰する絶好の口実を与えることになる。
シュザンの懸念は、そのことにあった。
「……善処しよう」
最後までエルネストの態度は、はっきりしない。シュザンの嘆願に対してもなお曖昧な返答である。
深く頭を下げながらシュザンは、心のうちに嘆息せずにはおれなかった。
この混乱に巻き込まれたリオネルを守ることができるのか。いかにして、シュザンの立場から彼を擁護できるのか。
ふと頭によぎるのは、冷ややかで知略に満ちた青灰色の瞳だ。
――フィデール・ブレーズ。
ローブルグへ旅立ったジェルヴェーズに同行した、ブレーズ家の嫡男。
今回の一件の背景に、陰謀と計略の匂いを感じるからこそ、シュザンは甥の身を案じずにはおれなかった。