9
食堂に入室してすぐ、アベルはいつもと様子が異なることを悟った。
――堂内が低いざわめきに満たされている。
普段なら、明るい話し声や笑声が響いているのに、どうしたことかこの日は深刻な空気だ。
さらには、多くの者がすでに席についているのに、主人であるリオネルとディルク、そしてベルトランの姿が壇上の主賓席になかった。
「…………」
おかしい。
考えてみれば、今朝から一度もリオネルの姿を見ていない。
リオネルはよく気の回る質だ。書庫は彼の私室からさほど離れていないので、整理の様子を見に訪れそうなものだが、この日は一度も顔を出さなかった。
しばらく周囲を見渡してから、アベルは食堂の出入り口へ向かう。リオネルを探しに行くためだ。無事を確かめたいと思ったのは直感である。アベルは胸騒ぎを覚えていた。
「アベル殿、どちらへ?」
廊下へ出たアベルを、食堂の扉口から呼び止めたのはマチアスだ。その声に、自席へ向かいかけていたレオンも足を止めた。
「リオネル様をお迎えに」
アベルが答えると、沈黙したマチアスの代わりに、レオンが不思議そうに言う。
「もうすぐ来るんじゃないか? わざわざ迎えに行く必要もないだろう」
マチアスが沈黙したのは、アベルの勘が想像以上に冴えていたからだ。食堂に入室した直後に異変に気付くとは、舌を巻く鋭さだった。通常ならレオンのように、そのうちに来ると考えるだろうに。
もう少し時間を稼げると思っていたマチアスは、珍しく当てが外れた。
「……我々は先に食事をとりましょう」
落ちつき払ったマチアスの声に、アベルは余計に不安をかきたてられる。マチアスがなにか知っているらしいことはすぐに察せられた。
「リオネル様とディルク様は、なにをしていらっしゃるのですか?」
「所要があって、出掛けられました」
「そうなのか?」
驚きの声を上げたのはレオンだ。
「おれが本を読んでいるあいだに出掛けていたとは知らなかった。いったいどこへ行ったのだ?」
「すぐに戻ります。我々は館で待ちましょう」
どこへ行ったのかというレオンの問いには答えずに、マチアスは二人を促す。首を傾げながらもレオンは食堂へ再度入ろうとしたが、アベルは一歩も動かない。
「皆様はどこへ行かれたのですか?」
まっすぐにアベルはマチアスを見上げる。わずかに困惑したマチアスの視線が、アベルを見返した。
「今は申しあげられません」
「言えないような場所へ赴かれたのですか?」
「明日の朝になったらお話しします」
「明日の朝? なぜですか?」
「お答えできません――お赦しください」
「少なくとも明日の朝まで、リオネル様はお戻りになれないのですね」
「…………」
鋭く切り返されて、マチアスは返答に窮する。
その様子を見つめながら、アベルは考え込んだ。
ローブルグへ交渉に向かう途中のジェルヴェーズは、すでにベルリオーズ領内に入っている。このような時期にリオネルが悠長に物見遊山にでかけたとは思えない。
――だとすれば。
「ジェルヴェーズ殿下のところですね」
ついにアベルは核心を突く。
「ラクロワでなにかあったのですね」
マチアスの表情が曇った。けれどアベルにとっては難しい推測ではなかった。
ジェルヴェーズがベルリオーズ領内に入ったことは、すでにアベルも伝え聞いている。彼の旅がその後順調にいっているとすれば、今頃はラクロワあたりに到着しているだろう。
加えてリオネルはこのところ、アベルをジェルヴェーズに会わせぬように、やけに神経質になっていた。アベルにけっして真実を伝えないよう、マチアスやレオンをベルリオーズ邸に残してまで彼がディルクと共に向かった先が、ジェルヴェーズ王子のもとである可能性は充分にある。
ならば、リオネルらが赴いたのは、ジェルヴェーズのいるラクロワだと考えるのが、最も素直な結論だった。
もしそうであったとすれば、ラクロワにおいて何事か事件が起こったに違いない。
「どうなっているのだ? おれも興味があるが」
控えめながらもアベルに加勢したのはレオンだ。二人に問い詰められて、マチアスは言葉を詰まらせた。
沈黙が横たわる。
気まずい静寂を破ったのは、アベルだ。
「わかりました」
と、不意に引き下がったのだ。漆黒の瞳を、マチアスがわずかに見開く。
「明日の朝まで待ちます。それでも戻っていらっしゃらなかったら、教えてくださいますね?」
「承知しました」
はっきりとマチアスは約束した。
「明日の朝までにお戻りになっていなければ、すべてお話しします」
――今は待つしかない。
マチアスの言葉にうなずき、一歩を踏み出した、そのときだ。
横から肩を引き寄せられる。
アベルは振り返る。
マチアスの漆黒の瞳が視界に入ったその瞬間、腹に鈍痛を覚えた。
「――――!」
「お許しください」
黒い瞳は、苦しげに細められている。
相手の名を呼ぼうとして、けれどアベルは全身から力が抜け落ち、意識までもが自らの力の及ぶ場所から遠ざかっていくのを感じた。それは、どれだけ抗おうとも、引き込まれていく意識の混濁だった。
――なぜ……。
崩れ落ちたアベルの身体を、マチアスは丁寧に抱きとめる。
「申しわけございません」
鳩尾を突いて気を失わせた相手に対し、すでに聞えていないことを承知でマチアスは再び詫びた。傍らではレオンが目を丸くしている。
「なぜ意識を奪ったのだ?」
「リオネル様がラクロワでジェルヴェーズ殿下に会われていることを知っていて、明日の朝までなにもできずに待たせるのは酷なことです。おそらく一睡もできずに過ごすことでしょう」
「だから気を失わせたのか」
「一睡もできずに過ごすあいだに、ラクロワへ向かわれては困りますから」
「さすがはディルクの従者だ。ここまでするとは思わなかった」
レオンの言葉に、マチアスは冷静な表情のなかにも苦い色を浮かべた。
「今の私の役目は、どんな手を使ってでもアベル殿を守ることです」
「かなり深く入れただろう?」
引きつった表情でレオンは尋ねる。筋肉の少なそうなアベルの腹部にマチアスの拳が入ったのを、レオンは目撃していた。
「リオネルがあの現場を見ていたら、逆におまえが殴られていたかもしれないぞ」
「どんな咎めも受けます。こうすることが結果的に、アベル殿にとっても、リオネル様にとっても、そしてディルク様にとっても最善の道だと私は信じています」
「おそろしいほど冷静で忠実な男だな、おまえは」
「ディルク様にお仕えするには、これくらいの度胸がなければ」
「なるほど」
レオンはやけに納得する。気を失ったアベルの顔を覗きこんでから、レオンは重い溜息をついた。
「おれには話してくれるのだろう?」
なにを、とは聞かずとも、レオンの心情をマチアスは即座に察することができた。
「我が兄が、今度はリオネルになにを仕掛けてきたのか教えてくれ」
両腕にアベルを抱えたままマチアスは首肯する。
「ディルク様からの手紙をお見せします。アベル殿を寝室に運んでからお渡ししますので、殿下はどうぞ先にお食事を済まされてください」
「この状況では食事も喉に通らない」
マチアスの腕のなかにいるアベルの蒼白い顔を見下ろし、レオンは肩をすくめた。
「この子ではないが、おれもリオネルとディルクが心配だ。だが、今はおれもここに残ったほうがいいのだろう?」
黙ってマチアスはうなずく。マチアスとて、主人らの安否が気がかりだった。けれど、今は駆けつけるときではない。任された任務は、この場所でアベルとレオンを守ることだ。
「共に参りましょう」
寝室へアベルを運ぶマチアスのあとに、陰気な面持ちのレオンが従う。ジェルヴェーズの度重なる暴虐にだれよりも疲れ果てているのは、弟であるレオンかもしれなかった。
+++
ステンドグラスから差し込む光は、薄暗い礼拝堂に七色の虹を投げかけている。虹は宙を渡ってから、石の床に輝く光の水溜まりを作っていた。
三美神のそびえ立つ祭壇の前に跪いているのは、王妃グレース――つまり王子であるジェルヴェーズやレオンの実母だ。
高く結わえた髪には、わずかな乱れもない。
質のよいドレスに身を包んだ王妃は、けっして華やかとは呼べぬ顔立ちながらも、うちから滲みでる慈しみと、王妃にふさわしい品格とを備えていた。
礼拝は朝に行われる。
昼下がりの礼拝堂は他に訪れる者もなく、静寂に包まれていた。
侍女も伴わず、鎮まり返った礼拝堂で両手を組み、グレースは祈りつづけている。かたん、と礼拝堂内のどこかで音がしたとき、ようやくグレースは顔を上げた。
「申しわけございません」
無機質なほど感情に乏しい声音が聞こえてきた。
顔を見ずとも、相手がだれなのかグレースにはわかる。
祭壇の脇にある司祭室から現れたのは、白い衣装を纏った、糸杉のごとく細身の男だった。
「王妃様」
グレースから数歩距離を置いたところで立ちどまり、白い衣装の男は深々と一礼する。
「お祈りを妨げたことを、どうかお赦しください」
「かまいません、大司祭ガイヤール様」
優しげな顔立ちに相応しい穏やかな笑みを、グレースは口元にたたえた。
「ちょうど戻ろうかと思っていたところです」
気遣いに満ちた王妃の言葉に、ガイヤールは再び頭を下げる。
「ならば、貴女様の祈りの続きを、私に引き継がせていただけませんでしょうか」
大司祭ガイヤールの言葉を聞き、グレースは微笑した。
穏やかなグレースの微笑の背後に、わずかな憂いが漂うのをガイヤールはみとめる。人の微細な心の動きを読むのは、この男の最も得意とするところだ。それこそが、身分の低い地方の一司祭であったガイヤールが、この国の大司祭にまで登りつめることのできた所以である。
「特にご心配なことがおありですか」
尋ねてから、愚問であったとガイヤールは気がつく。なぜなら、王妃であり子を持つ母でもあるグレースなればこそ、長子ジェルヴェーズが敵国に赴いた今、彼女の祈りは息子の無事とその成功以外にないからだ。
けれどガイヤールともあろう男が言葉を誤ったのは、その常識を超えたところでなお、グレースの微笑は陰を含んでいると感じたからだった。
「ええ、息子たちのことを心配しています」
息子たち、という言葉には当然のことながら、ジェルヴェーズ以外にもいまひとりの存在が含まれている。
「ベルリオーズにおられるレオン殿下のことも、ですか」
「ええ、息子たちと、お従兄弟であるリオネル様のことなどを、案じています」
「…………」
言下に、ジェルヴェーズとリオネルの対立、そして両者とレオンとの関係をグレースは示唆しているようだった。返す言葉を、ガイヤールは咄嗟には見つけられなかった。
俗界と離れ、だれよりも平和を望むべき立場にありながら、ガイヤールは、政治の中枢に関わり、諍いや反目のあいだに生じた隙につけこんで自らの地位を確立してきた。グレースの懸念に対し、返す言葉が見つからないのも当然である。
「リオネル様はお怪我をされています。左腕の具合は芳しくないと聞きますし、レオンもさぞ心配していることでしょう。ジェルヴェーズはちょうどベルリオーズ領を通過するころ。北方と西方の両面に脅威を抱えている今、忌むべき災いがかえって、あの子たち三人が手を取り合うきっかけになればよいのですが」
他の者が口にしたならば、嘲ることができたかもしれない。けれどこの人が言ったからこそ、心のなかで冷笑することさえガイヤールにはできない。
――それは、人の不幸を踏み台にし、世の中を嘲り笑って出世してきた男のうちに残る、わずかな良心のためだったかもしれない。
良心など、かなぐり捨ててしまったほうが、人はらくに生きることができる。他のだれよりもガイヤールはそのことを知っているはずなのに、王妃グレースのまえでは、わずかな迷いが生じるのが不思議だった。
黙したままのガイヤールにグレースは静かな眼差しを向け、そしてゆっくりと立ち上がる。
「では、お言葉に甘えて、わたしの祈りが神に通じるように、どうか願ってくださりますか、大司祭様」
「……むろんです、王妃殿下」
「神は祈りを必ず聞いていてくださっている……そうでしょう?」
「ええ、そのとおりです」
ほほえみながらうなずき、貴婦人らしいゆったりとした歩調で立ち去るグレースの後ろ姿へ向けて、ガイヤールは頭を下げた。
グレースの姿が視界から消えると、己のうちに生じたわずかな困惑を、ガイヤールは吐息で押し殺し、打ち消そうとした。小さな迷いが命取りになることを、彼は知っていたからだ。