8
ベルリオーズの中心都市シャサーヌと、領地の東端との中間に位置するラクロワ地方。このあたりの管理を任されているのが、騎士ジル・ビューレルだった。
黄昏時。
窓から差し込むわずかな夕陽の残照が、ビューレル邸の、真紅に染まった賓客室の床を薄気味悪く照らし出す。
通りかかった使用人らの悲鳴が廊下に響きわたる。
血を吸って赤黒くなった絨毯に伏していたのは、騎士ジル・ビューレルの弟ナタン・ビューレルだった。
「お赦しください、王子殿下」
生きているとは思われぬ弟を、さらに斬りつけようとするジェルヴェーズに対し、両手両足を床について懇願するのは館の責任者ジルである。
「弟が殿下に剣を向けたのは、なにかの間違いでございます。すぐに経緯を調べさせます。どうか剣をお収めください」
騎士にとって、このような形で慈悲を請うのは屈辱的なことだ。加えて、相手は主人の宿敵である。それでもジルが懇願するのは、最悪の事態を避けるためだった。
「間違いだと? この男は私を殺めようとしたのだ。間違いですまされると思っているのか」
容赦のない怒声が頭上から降り注ぐ。声の主は、シャルム王国第一王子ジェルヴェーズだった。
「ナタンの命はすでにありません。弟の死に免じて、どうかお怒りをお鎮めくださいますよう」
ジェルヴェーズの握る長剣が、鈍く光る血の赤を反射する。さらなる血を求めるように、それは貪欲な輝きを放っていた。
「この男が死んだからといって、それですべてが終わったなどと思うなよ。当主であるそなたはむろんのこと、ベルリオーズ公爵家にも相応の処罰が下ると覚悟しろ」
ジェルヴェーズの言葉に、ジルは顔色を一変させる。ベルリオーズ家に類が及ぶこと。それこそが、ジルの最も恐れていた事態だったからだ。
「どうか王子殿下、お聞き届けください。お咎めはナタンの兄であり当主であるこの私がすべて受けます。ベルリオーズ公爵様並びにリオネル様に対する処分については、何卒ご容赦いただきたく――」
ふん、と鼻で笑ってからジェルヴェーズは己の左腕を見やった。ナタンに襲われた際に負った傷口から血が滲んでいる。ジェルヴェーズは忌々しげに舌打ちした。
ジェルヴェーズとて騎士として、幼いころから馬術や武術を叩きこまれ、並々ならぬ腕を備えている。けれど、ベルリオーズ家に仕える騎士は皆、比類なき剣豪だ。
ビューレル邸に到着し、ようやく部屋でひとりになりひと息ついた折りに、突然ナタンに襲われ不覚にもジェルヴェーズは傷を負ったのである。
傷は浅いが、憎むべきリオネルと同じ左腕に怪我を負ったというのは、皮肉なことだった。
「殿下、怪我の手当てを」
駆けつけた医者の姿をみとめて、フィデールが言う。床に手をつくジルと、息の絶えたナタンを見下ろし、ジェルヴェーズは不愉快げに言い捨てる。
「私の命を狙ったうえに、腕を裂いたのだ。今夜にでもおまえらの首を刎ねてリオネル・ベルリオーズに送りつけてやる」
「ベルリオーズ家へは、すでに使者を出しています。なんらかの返答があるでしょう」
淡々としたフィデールの声に、ジェルヴェーズは皮肉めいた笑みをこぼす。
全ては計画どおりだった。
ただひとつジェルヴェーズにとって計算外だったのは、自らが手傷を負ったことだ。
もしかしたら、とジェルヴェーズは思う。もしかしたら――フィデールにとり、この程度の怪我を負わされるということは、想定の範囲内だったのかもしれない。
否、それこそが計画どおりだった可能性さえある。追求したとしても真実など得られそうにもないが、もしそれが真相だったならば、片腕と信頼する男の策士ぶりには、ジェルヴェーズも苦笑をこぼすほかなかった。
この傷こそが、怪我の程度は軽くとも最大の切り札になるからだ。
+
ラクロワ地方を管理する騎士ジル・ビューレルの館で起こった事件は、フィデールの遣わした使者の報によりすぐにベルリオーズ邸に伝わった。
真っ先に報を受けたのは、むろん領主親子である。早朝にベルリオーズ邸に到着した使者は、クレティアンやリオネルに驚くべきことを語った。
ジル・ビューレルの弟ナタンが、ビューレル邸に到着して間もないジェルヴェーズに突然斬りかかり、命を奪おうとしたというのだ。
ナタンは返り討ちに遭い、兄のジルは斬首に処されるという。ベルリオーズ公爵クレティアンとリオネルが、家臣の処刑に黙っているはずがなかった。
使者を下がらせた直後の部屋に、緊迫した声が響く。
「リオネル、どこへ行く」
父公爵の制止を振り切り、部屋を飛び出そうとしたのはリオネルだった。
「ジルを斬首に処すなどということを、断じて許すわけにはいきません」
「待て、私が書状をしたためる。殿下には決断をお待ちいただこう。おまえは行くな」
「急がなければ、ジルは殺されてしまうかもしれません」
開け放した扉の前に立ち、リオネルは深く眉根を寄せる。
「――ナタンがジェルヴェーズ王子に剣を向けるなど、なにかよほどの事情があったに違いありません」
あるいは、はめられたのか――。
言外に、リオネルは姦計の可能性を示唆する。
「私はこの目で真実を確かめなければ、到底納得できません」
本来主人を止める立場にいるはずのベルトランも、このときは言葉を発しなかった。
安易な意見は述べることができない。けれど思いはリオネルと同じである。ナタンの行動を無条件に受け取ることも、ジルを見殺しにすることもけっしてできない。
かといってリオネルを危険にさらすのは避けたいが、実際のところ、公爵かリオネルのどちらかが直接ラクロワに赴かぬかぎり、この事件は収集がつかないように思われた。なにしろ、あのジェルヴェーズが負傷したというのだから。
同じ最上階の一室にいたディルクが、騒ぎを聞きつけ駆けてくる。
「何事だい?」
短く事情を説明されたディルクもまた顔色を変えた。
「信じられない話だな。ナタンはなぜそんなことを」
もともとジル・ビューレルの弟ナタンは気性の激しい性格ではない。ジェルヴェーズ王子に斬りかかるなど思いもよらぬことだ。
今回の出来事は国王派に、ベルリオーズ家を処罰しうる口実を与えてしまった。だとすれば、すべては仕組まれたこととも考えられる。
「相手の目的はリオネル、おまえかもしれない」
「だったらなおさら行かないわけにはいかない。ナタンが死んだ今、せめてジルを救いたい。戦死ならいざ知らず、罪人として処せられるなど、ジルにそのような最期を迎えさせるわけにはいかない」
「…………」
皆が押し黙る。
忠実なベルリオーズ家の家臣が、背信の疑いで処刑されようとしている。その弟は、すでに言い訳もできぬ存在にされてしまったのだ。口ではリオネルを制止したクレティアンだが、激する感情はリオネルと同等か、それ以上のものだった。
けれどクレティアンはベルリオーズ家の当主として、感情に任せて軽率な行動をとるわけにも、騒ぎを大きくして他の家臣らの不安を煽るわけにもいかない。かといって、息子が単身で現場に向かうことに対しては不安をぬぐいきれない様子だった。
「公爵様、私も行きます。リオネルのことは、ベルトランと共に守ります。我々にジルの命を救わせてください」
ディルクの言葉に後押しされて、ついにクレティアンはリオネルがラクロワへ赴くことを了承する。――了承せざるをえなかったのだ。
家臣を見殺しにするという選択肢は、端からクレティアンのうちにない。リオネルの考えるとおり、書状という手段では、確実にジルを守ることができるかどうかはわからない。直接話をしに行く以外にジルを救う方法がないならば、リオネルのことは、ディルクとベルトランを信じて任せるしかなかった。
父公爵から許可を得たリオネルは、急ぎ馬に飛び乗る。
アベルは書庫で本の整理をしているので、この一件についてはなにも知らない。
もしリオネルがラクロワへ赴くと聞けば、アベルはおそらくおとなしく館で待ってなどいないだろう。リオネルは、アベルをなるべくジェルヴェーズから遠ざけておきたかった。
申しわけないという気持ちを抱いてはいたが、アベルになにも告げずにリオネルはベルリオーズ邸を後にする。
橙色の朝陽を受けて煌めく正門を、長い影を携えた若き騎士らの馬が駆け抜けていった。
+++
古い本の香りは、どこか懐かしかった。
書庫に満ちている匂いは、父デュノア伯爵の書斎のそれに似ている。
デュノア邸にいたころ、アベルは父伯爵の書斎へ滅多に入れなかった。けれど、重要な話があるときには必ずそこへ呼び出された。胸が高鳴るような緊張感と共に父の書斎に入室したことを、アベルは思い出す。
けれどその懐かしい香りも、こうして長いあいだ嗅いでいればうんざりしてくるものだ。
今朝から書庫にこもったきり、一歩も外へ出ていないアベルは、目のまえに生じた絶望的な状況に途方に暮れていた。
命じられた書庫の整理を、ジェルヴェーズの到着前に片づけてしまおうと、アベルは躍起になってやっていた。しかし、だ。
これはどういうことだろう。
本の配列がおかしい。
――医学書と神学書のあいだに、子供向けの童話集が挟まっているではないか!
仕事をはじめた当初は、けっしてこのような状態ではなかった。片付けが不要ではないかと思われるほど、書庫は整然としていたはずだ。あと数冊だけ並べ替えれば、完璧になると思われたのに……。
それがいまやどうだろう。床にも、机にも、椅子にも、山のように本が積み重なっている。いったいどの本がどこから現れ、どこへ収まろうとしているのか、もはや収集のつかない状態だ。
いつかのリオネルの台詞――書庫は「混沌とした」状態にある――が、ついに現実となったというわけだ。
「これは……」
はじめはアベルの仕事をただ見守っていたマチアスも、あれよあれよというまに驚くべき景色が広がっていったので、呆然とつぶやくほかなかった。
どうしたらこの短時間で、これほど書庫を乱すことができるのか。片付けなど仕事のうちにも入らぬほど要領のよいマチアスにとっては、理解に苦しむ事態だ。
「マ、マチアスさん……あの、これはまだ、その――」
咄嗟にアベルはなにか言おうとしたが、言葉は続かない。弁解の余地もなかった。
ようするにアベルは整理整頓が大の苦手なのだ。アベルに書庫の整理を任せるなど、もってのほかである。リオネルはそれを知っていて命じたのだから、怖いもの知らずというか、大物というべきか……。
一方、このような事態のなか、ひとり超越した存在があった。
レオンである。
彼は書庫に所蔵されている哲学書を一心に読み耽っており、部屋が荒れ果てているこの壊滅的な状況にまったく気がついていない。周囲で起こっていることなどまるで気にも留めていないのだ。この集中力はおそるべきものだ。
「大丈夫ですよ」
顔を赤らめて黙り込んでしまったアベルに、マチアスは気持ちを切り替えたように笑いかけた。
「これくらい根本的に入れ替えたほうが、本当の意味での整理になります」
「こ、根本的……?」
思いがけぬ言葉に、アベルはつい問い返す。
「そうです。根本的に整理すれば、書庫も生まれ変わるでしょう。そうでなければ、この任に当たる意味がありません。わたしも手伝います。いっしょに片づけましょう」
「…………」
思わず泣きそうになってアベルは言葉を呑んだ。
なんと親切で、気遣いにあふれた助言だろう。マチアスが手伝ってくれるのならば、このうえなく力強い。
「――がんばります!」
張り切って答えるアベルに、マチアスは微笑した。
かくして書庫の整理は再開したが……これが大変な作業になった。
なにしろ、マチアスが整然と片づけていく傍らで、アベルが途方もない並べ替えを行うからだ。本人は真剣にやっているからこそ、質が悪い。
さすがのマチアスも疲労を覚え、昼食時には休息を求めてアベルとレオンを食堂へ誘った。けれど二人の返答は芳しくなかった。
というのもアベルは責任を感じているらしく、
「片付けをもう少し進めたいので、お腹が空いたら炊事場に行きます」
などと答え、レオンはというと、
「きりがいいところまで読ませてくれ」
と言うのである。
書庫の状態はともかく、このままではおそらく二人とも昼食を抜くことになるだろう。
しかたがないのでマチアスは、自分を含めて三人分の食事を炊事場から直接書庫へ運ぶことにした。
その途中、炊事場へ向かう廊下において、マチアスはひとりの若者とすれ違う。相手は、マチアスと同じくアベラール家に仕える若手の騎士バルナベだ。
マチアスの姿をみとめたバルナベは、はっとした表情を浮かべ、すかさず呼びとめてきた。
「どうかしましたか、バルナベ殿」
焦っているようだったのでマチアスが訝ると、バルナベは一枚の紙切れを取り出した。
「ああ、マチアス殿。やっと会えました。ディルク様から手紙を預かっているのです。書庫へは直接届けてはならないと仰せつかったのですが、なかなかマチアス殿が書庫から出ていらっしゃらないので、いかにして渡そうか迷っていたのですよ。お会いできてよかった」
同僚の言葉に、マチアスは眉をひそめる。
「ディルク様はお出かけになられたのですか?」
「すべては手紙に書かれているはずです。私も詳細は聞いていません。ただ、リオネル様やベルトラン殿と共に、今朝早くベルリオーズ邸を発たれたことはたしかです」
書庫に籠りきりだったので、館で起こっていたことをマチアスは何ひとつ知らなかった。無言になったのは、嫌な予感がしたからだ。
受け取った手紙を一読したマチアスは、眉根を寄せたまま考え込む。その表情を見やってバルナベは声を低めた。
「――ラクロワですね」
「知っていましたか」
「今朝早く、ラクロワから使者が到着しました。お三方が急ぎ外出されたのは、その直後のことです。ビューレル殿の館でなにかが起こったと、すでに多くの騎士は察しています」
「そうですか」
淡々と答えたが、マチアスの表情は苦いものだった。
騎士らが察しているとなると、彼女にも伝わる可能性が高い。伝わってしまったら、アベルはリオネルのことで気を揉み、書庫の整理どころではなくなってしまうだろう。
「多くの者が察しているにせよ、このことは他言しないでいただけますか」
「むろんです」
バルナベがうなずくのを確認すると、マチアスは炊事場へ食事を調達しに向かった。
このような事態であれば、むしろアベルとレオンが書庫から一歩も出ないことは非常に好都合である。昼食を書庫内でとれば、少なくとも夜までは隠しとおせるだろう。
あとはリオネルたちが一刻も早く、無事に戻ることを願うばかりだった。
アベルが主人の不在に気づいたのは、夜も更けたころ。
直前まで本を読み耽っていたレオンが、突然立ち上がり、伸びをした。
「ああ、さすがに疲れたな。本を呼んでいると時の経過を忘れる。夕食は食堂でとることにしよう。アベル、一緒にいくだろう?」
王子であるレオンに促され、アベルもようやく仕事の手を休めて書庫を出た。リオネルらの不在を、二人にこれ以上秘密にしておくのは不可能である。潮時だった。