27
「ねえ、ベルトラン、きみはリオネルが館に戻る理由を知っているんだろう?」
これまでにも幾度となく聞かれた質問を、この日もベルトランは繰り返し聞かれていた。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
「おれは知らない」
「知らないわけないだろう、きみはリオネルのそばを片時も離れないのに」
この日は槍の稽古だ。
稽古の休憩時間に、わざわざ木立にいるベルトランのそばまで行き、ディルクは問いつめていた。
「直接、リオネルに聞いたらどうだ」
「本人が教えてくれないから、きみに聞いてるんじゃないか」
「リオネルはなんて?」
「『わからない』の一点張りだよ」
「……教えてくれているじゃないか」
「どこが?」
「リオネルが、館に戻る理由がわからないって言うなら、本人にもわからないのだろう」
「……なんだそれは。余計にさっぱり意味がわからないよ」
「本人がわからないことを、おれがわかるはずないだろう」
「リオネルとベルトランがわからないことを、おれがわかるはずないよな? あれ、なんだか、わけがわからなくなってきたけど……とにかく、あの日からリオネル元気ないよね」
あの日とは、リオネルとベルトランが、ベルリオーズ家別邸に赴いたものの、泊まりもせず、深夜に騎士館に戻ってきた日のことだ。
ディルクに指摘されてベルトランは黙りこむ。そのことについては知っていることがあったからだ。
毎週ベルリオーズ家別邸に足を運ぶようになったリオネルに、ベルトランはその理由を尋ねたことはない。リオネルがどのようなことを考え、どう行動するのか――、それに危険を伴わないかぎり、詮索するつもりはなかった。文句の一つも言わず、黙ってリオネルに従うベルトランに、リオネルはよく「つきあわせてすまない」と言う。
だが昨夜のこと。
リオネルはぽつりとベルトランに言った。
『あの日から……』
『え?』
『あの日から、ずっと迷っている』
ベルトランは、黙って言葉の続きを待った。
『アベルにひどいことを言ってしまった』
『…………』
『謝ろうと思うんだけど、なぜか、会えない』
馬に乗ったアベルを残して、館をあとにした、あの日。
あれからすでに二週間が経っていた。そしてあの日から、二人は一度も館に戻っていない。
『明日、戻るか?』
ベルトランが言うと、リオネルは茶色の睫毛を伏せたまま、返事をしなかった。
リオネルは自らの危険な立場や、置かれている厳しい状況などに対して、けっして弱音を吐くことはない。幼いころから周囲からの期待と、そして敵意を一身に受け、どれほど思い悩むことがあったか想像を絶するが、リオネルはそんな素振りは見せず、ベルトランやディルクをはじめ周囲のどんな者に対しても、いつも穏やかな態度で接していた。
そのリオネルが、自らの発言を後悔するのは初めてのこと。珍しく思いつめた様子に、ベルトランもどうしてよいのか、少なからず戸惑う。
黙りこくってしまったベルトランに、ディルクは続けた。
「レオンも心配してるよ。おれたちでなにか役にたつこともあるかもしれないし、今度一緒に行かせてよ」
「……そういうことは、本人に聞いてくれ」
「だからさっきも言ったけど、本人に断られたから、おまえに聞いてるの」
「主人がだめだというのに、おれがいいと言うわけがない」
「主人といっても、従兄弟同士だし、ベルトランのほうが年長じゃないか」
「又従兄弟だ」
「なんにせよ、あいつの兄みたいなもんだろ」
しつこい相手に、ベルトランは苦笑する。
「そんなに気になるのか?」
「なんかおもしろそうだから。リオネルが夢中になるものって、見てみたいだろう」
「……夢中、か」
ベルトランがそう呟いたとき、休憩している従騎士たちのほうへ駆けてくる一騎の姿があった。その姿を見るやいなやベルトランは駆けだす。
このようなところで白昼堂々と狙ってくるとは考えにくいが、もし刺客であればリオネルを守らなければならない。ディルクも、ベルトランのあとから駆けてくる。
けれど、相手の顔が確認できる位置まで来ると、ベルトランは小さく息を吐いた。よく見知った顔だったからだ。
「パトリス、どうかしたのか?」
走ってきたベルトランに目で答えてから、リオネルは館に仕える兵士パトリスへ顔を向ける。
馬から降りて、二人に一礼したパトリスは、リオネルに小さな紙切れを手渡した。
「ドニ先生からです」
紙切れを開き、そこになぐり書きされている文字を目で追うと、途端にリオネルの表情が険しくなる。
リオネルはベルトランを振り返った。
「館へ戻る」
咄嗟に返事をできないベルトランの代わりにディルクが言う。
「え、戻るって――稽古は?」
「シュザンに伝えておいてくれ。あとで直接謝るから」
言い終えるや否や、リオネルは厩のほうへ足早に向かう。あっけにとられる周囲を残して、ベルトランとパトリスがそのあとを追った。
「リオネル、なにがあった」
リオネルに続いて馬の背に飛び乗ったベルトランに、リオネルは紙切れを渡す。
そこには、
『このような手紙を王宮まで届けることをお許しください。アベルが危険な状態です。そのことだけをお伝えいたしたく。ドニ』
と、書かれていた。
それを読んでいる間に、リオネルは馬を走らせている。
ベルトランは馬の腹を強く蹴った。
無言で王宮からベルリオーズ家別邸まで駆け、リオネルらは館の門をくぐる。
外套も羽織らず、稽古着のまま突然戻ってきた主人に、ジェルマンは大いに驚いたようだった。
「リオネル様、そのように急がれていったいどうなさいました」
彼の様子からすると、ドニの配慮で館の者はアベルの状況を一切知らされてないようだ。
ジェルマンの質問にも答えず、リオネルは大階段を駆け上がっていく。
最上階へ一目散に向かう主人に、ジェルマンはアベルの身に何かが起こっていることを、察したようだった。
「ジェルマン、館の者に悟られないようにしろ」
なにやら察したらしいジェルマンにそれだけを告げながら、ベルトランも大階段へ向う。
ジェルマンは二人の後ろ姿に一礼した。
アベルの部屋の前まで来たリオネルは、拳を握り、わずかにためらってから、意を決したように扉を叩く。
「おれだ、ドニ。入っていいか」
しばらくして扉が開き、エレンが顔を出した。
扉が開くと同時に、苦しそうに呻く声がリオネルの耳に飛びこんでくる。
「エレン。アベルは?」
「今は……お入りにならないほうがよいかと思います」
そう言ったエレンの目は充血し、その周囲は涙で濡れている。
次に聞こえてきたのは、アベルの悲鳴にも近い声だった。
「アベルは――アベルは大丈夫なのか」
エレンはうつむいて首を横に振る。
そしてそっと部屋から廊下にでて、背後の扉を閉めた。
「実は、もうすでに二週間ほど、アベルの容体は悪かったのです」
「二週間……というと、おれが最後に戻ったあたりか」
「はい。リオネル様が王宮に行かれた日の夜、アベルの顔色が悪かったので問いただすと、お腹が痛いと申しまして」
リオネルの面持ちが苦いものになる。
「王宮のリオネル様に、お伝えするべきことかどうかわからず……」
「――それで?」
「それからずっとお腹の痛みに耐えていたのですが、今朝から尋常ではなく苦しみはじめ……ドニが言うには、産気づいたとのことです」
眉を寄せ、リオネルは戸惑うように言った。
「予定ではまだ一ヶ月半あるはずだ」
「ですから、とても厳しいようです。そしてこのままでは、母体も子供も助からないかもしれないと……」
エレンは、頬に零れ落ちた涙をぬぐった。
「……そんな」
リオネルは拳を握る。
「どうにかして助けられないのか」
エレンはうつむいた。
「わたしにはわかりかねます。アベルの身体が出産に耐えられれば、助かるのでしょうけど……」
押し黙ったリオネルの代わりに、背後に来ていたベルトランが口を挟む。
「なかには入れないのか?」
「ちょっとそれは……あの、お腹の子の父親というわけではありませんし……それに、アベルのあのように苦しむ姿を見ているのは、もう本当に耐えられません……」
「……そうか」
もう一度涙をぬぐったエレンに、ベルトランはうなずいた。
「でも、ドニ先生以外に、わたしだけでもあの子のそばにいてあげたいので」
「そうしてくれ、エレン」
リオネルがそう言うと、エレンは二人に深々と頭を下げ、再び部屋に戻っていった。
「リオネル」
ベルトランは、拳を握って佇む青年に声をかける。
「大丈夫だ、あいつは。あんなにお転婆な娘が簡単に死ぬわけがない」
「…………」
「おれたちは、信じるしかない」
「……おれは、こういうときにいつもなにもできないんだね」
リオネルの脳裏に、母の白い死に顔が鮮明によみがえる。
アベルのことが気になっていた最大の理由は、母のことを思い出さずにいられなかったからだ。
十年前、ほっそりとした身体のなかにリオネルの弟か妹かを宿したまま、その小さな命と共に、この世を去った母。
助けた少年が、女性であり、身ごもっていると知ったそのときから、アベルが無事に子供を産んで、笑顔でその子供を抱く姿を見たいと思っていた。それは十年前に叶うことのなかった、リオネルの切なる願い。
けれどどんなに願っても、アベルにその思いは届かなかった。
――そして、届かないまま、再び永遠の別れをしなければならないのか。
「アベル……」
不安を振り払うように首を振ると、リオネルはもう一度、拳を握りしめた。