7
石畳の前庭に、軽快な馬蹄の音が響いている。
ところどころ綿雲の浮かぶ青空の下、よく引き締まった毛並みのよい馬に跨っているのは、ベルリオーズ家嫡男リオネルである。
「さすがはリオネル。危なげないね」
ベルリオーズ邸の玄関に面する前庭。
馬上の親友を見上げるディルクは、納得顔だ。けれどその横では、ベルトランが普段以上の仏頂面だった。否、仏頂面に見えるのは、彼なりにひどく心配しているからかもしれない。
「いざというときに左腕が動かせないでは、それこそ命に関わるかもしれないぞ。戦場において、その腕では手綱が持てないのだから」
騎兵は右手に長剣、左手に手綱や、あるいは盾などを握る。怪我を負って以来、左腕を動かすことのできぬリオネルは今、手綱を使わず足だけで馬を操り、右手に剣を握っていた。むろん盾は持てない。
まだ左腕が動かせないというのに、そろそろ乗馬と剣の鍛錬をしたいなどという無茶を言いだしたのは、リオネル本人である。
鈍った身体を鍛えなおしたい。彼がそう考えたのは他でもない、西方情勢に対する懸念があるからだ。
「さすがにこの状態のおまえを、国王も戦場に送りだしたりはしないだろう。鍛錬はもう少し先に延ばしたらどうだ?」
このように諭すレオンもまた心配顔である。
「戦いに行くためじゃない」
馬上からリオネルは友人たちに告げた。
「早く元気な姿をアベルに見せたいんだ。あの子は、おれの怪我のことをひどく気に病んでいるからね」
リオネルの発言に一同は呆れて言葉を失うが、ひとりディルクだけは笑っている。
「やあ、さすがはリオネル。視点がいまいちずれてる」
「どのあたりが『さすが』なんだ? リオネルの視点は、普段はずれてないぞ」
迷惑そうに否定するベルトランに、リオネルが苦笑した。
「つまり、普段はずれていないが、今のおれの発言はずれているということか、ベルトラン。どのあたりがおかしかったかな」
主人に真っ向から問われてベルトランは口ごもった。
アベルに対してリオネルが抱く想いは知っている。けれどこのように惚けながらも、リオネルが西方情勢を見据えて鍛錬をすると言いだしたのだということも、ベルトランはよく理解していた。
答えられぬベルトランを気の毒に思ったらしいディルクが、
「いや、西方の話題を避けるにしても、せめて狩猟の練習だとか言っておけばいいじゃないか」
親友の指摘には微笑のみを返し、リオネルは馬の腹を蹴った。さすがにリオネルもディルクに対して、先程の自分の言葉が、実のところ半分以上は本気なのだとは打ち明けられない。
剣を片手に、リオネルと愛馬ヴァレールは風のように、余裕さえ感じさせる優雅さで、騎馬像の周囲を一周して戻ってくる。
手綱を握っていないにもかかわらずリオネルは安定して騎乗しており、ヴァレールもまたリオネルの意によく従っていた。もし両腕が動けば、馬上で弓を繰ることなどリオネルにとり容易いことだ。
負った痛手の深さをだれもが痛感せずにはおれなかったが、口に出す者はいなかった。
代わりにレオンは低くつぶやく。
「そろそろ兄上はベルリオーズ領に入っただろうか」
避けては通れない話題だった。というのも、ジェルヴェーズが王都サン・オーヴァンを発ったという報は、すでにベルリオーズ邸にももたらされている。出立の日時からすると、広大なベルリオーズ領内の一部にはすでに入っているころだ。
領内において、ジェルヴェーズ一行が立ち寄る場所はあらかじめ決められている。ベルリオーズ領の各地方の管理を任されている騎士たちには、ジェルヴェーズが到着したら即座に知らせるよう、さらに到着後は丁重に注意深くもてなすようにと伝えてある。
いったんベルリオーズ領内に入れば、遅くとも三日目にはここシャサーヌに到着するはずだ。前王からの正しい血脈を受け継ぐこの家に、かの気性の激しいジェルヴェーズが訪れるのだから、ベルリオーズ家の忠実な騎士たちも、王子をもてなす準備をする使用人らも、それぞれの思いと緊張感を抱いているに違いない。
「昨夜、ジェルヴェーズ王子の来訪を予告する使者が、ひと足先にビューレル邸に到着したという知らせを受けた。おそらく今日中にはビューレル邸に着くだろうな」
答えたのはベルトランで、リオネルは馬上で剣を鞘に収め、左腕の調子を確認している。そのようなリオネルの様子を、気がかりげにレオンは見上げた。
「リオネル、ずっと言おうと思っていたのだが」
すっと視線をリオネルが友人に向けると、真剣な様子のレオンの傍らで、ディルクはにやにやと笑っている。
「おまえが、従兄弟であるリオネルのことを、心から心配してることはここにいるだれもが知ってるよ、レオン殿下。いまさらあらためて伝えなくても大丈夫だ」
「ち、違う」
思いも寄らなかった言葉と、ある意味においては的を射ていた照れ臭さから、つい否定してしまい、慌ててレオンは言いなおした。
「いや、心配はしているのだが、いやいや、そういう話ではなく……」
レオンの様子をおかしそうに笑うディルクを、マチアスが諌める。
「殿下はリオネル様に真剣に話をなさろうとしているのです。余計なことを言うのは無礼ですよ」
従者に諌められたディルクは、不満げながらも笑いを収めた。
「レオン、なにか言おうとしたのか?」
馬から降り立ったリオネルは、従兄弟のレオンへ視線を注ぐ。レオンの表情から、よからぬ話であるということをリオネルは察していた。
「なにか心配なことでもあるのか?」
「いや、気にしなくてもいいことなのかもしれないが」
リオネルはうなずき、話を促す。
「気掛かりがあるなら、些細なことでも言ってくれ」
「ああ」
と、うなずくレオンはなおも言いづらそうだった。
「兄上がすでに領内に入っているとは知らなかった。もっと早くに言おうと思っていたのだが……」
そう切り出したのち、王宮にいたころ、母である王妃グレースや兄ジェルヴェーズと三人でラベンダーの砂糖菓子を食べたときの出来事を、レオンは語った。その際にジェルヴェーズが気になることを口にしたのだと。
『リオネル・ベルリオーズには、いたく気に入っている年若い家臣がいる』
――と。
一同は沈黙した。即座に思い浮かぶ人物がいたからだ。その人は従騎士としての仕事が終わり次第、ここへ合流することになっている。
「強引な話の切り出し方だった。まるで兄上は、おれの口からなにかを引きだそうとしているように見えた」
「それで? 第一王子はそれ以外になにか言ってきたのか?」
いったん言葉を区切ったレオンに、話の続きを促したのはディルクである。
「おれに、その家臣の名前がなんだったかと聞いてきた。知らないと答えると、兄上はこう言った」
――イシャスとかいう名だ、知っているだろう。
負の感情をあまり表に出さぬリオネルが、このときだけは明らかに表情を曇らせた。
「イシャスという名の『家臣』は知らないと答えたが、兄上は納得していないようだった」
「……アベルのことかもしれないな」
ディルクがつぶやく。
「しかし兄上がどこでアベルのことを知りえたのか、わからない」
「山賊討伐に参加した、国王派の貴族あたりから聞きつけた可能性もある。けれど、イシャスという名が出てきたのは解せないな」
五月祭の折り、瀕死の状態だったアベルがリオネルによって助け出されたときの事細かな経緯については、二人は知らない。イシャスの名前がでてきたことを疑問に思うのは、当然のことだった。
「イシャスという名は、アベルが煙突掃除の少年に扮していたときに使っていた名だ」
「え?」
リオネルが発したひと言に、二人は同時に意表を突かれた面持ちになる。そしてすぐに悟った。けっして歓迎すべきではないことを、悟ったのだ。
「兄上は、煙突掃除の少年の正体が、リオネルの家臣であると気づいているのか」
煙突掃除の少年に扮していたアベルは、他でもないジェルヴェーズに暴力を振るわれ、大怪我を負った。けれど事件が起こった時点では、ジェルヴェーズは煙突掃除の少年の正体を知らなかったはずだ。
「おれが煙突掃除の少年を連れ帰ったことを、ジェルヴェーズ王子は煙突掃除の元締めから聞きだしたのかもしれない」
「アベルを連れ帰るときに、おまえは名乗ったのか?」
王都サン・オーヴァンにおいて、リオネルがボドワン邸の裏庭から瀕死のアベルを救ったときに交わされたやりとりをリオネルは二人に語る。
ボドワン邸にアベルを救いに行ったのは、ほかでもないリオネル自身だ。煙突掃除の少年『イシャス』とリオネルの関係を、ジェルヴェーズはこの一件から察した可能性がある。
「まずいな」
つぶやいたのはベルトランだった。
「ジェルヴェーズがなにをどこまで知っているかは不確かだが、もし煙突掃除の少年が生きていると知ったらなにをするかわからない。それがリオネルの家臣となると、なおさらのこと」
「さすがの第一王子も、ローブルグとの交渉というこの重要なときに、なにか仕掛けてくるとは思えないけど……」
ディルクが眉を寄せる。そう思いたいところだったが、王宮で対面したジェルヴェーズの、リオネルに向ける眼差しを思い出すと楽観的にはなれない。
「……気をつけるに越したことはないだろうね」
殺したはずの煙突掃除の少年が生きており、かつその少年が宿敵リオネル・ベルリオーズの家臣だったと知れば、ジェルヴェーズの怒りはいかばかりか。けれど、リオネルの毒殺を妨害したのが同じ少年であるということまで気づかれているとは、この場に集まる敏い若者らですら思い至らない。
「少なくとも、兄上は煙突掃除の少年の名を『イシャス』 だと信じているようだった。そして兄上がおれから聞き出したかったことは、彼の生死と、本当にリオネルの家臣にその名の少年がいるかということだったのではないだろうか」
「だとすれば、煙突掃除の少年は死んだのだということにしておけば、すべては丸く収まるわけだ」
ディルクが腕を組みながら言う。安易な解決方法だが、もっとも有効であることはたしかだった。死んだことにしてしまえば、もうそれ以上探しようがないのだから。
「だが、それであの王子が納得するだろうか」
ベルトランの懸念に、ディルクが肩をすくめる。
「そうするしかないだろう。なあ、リオネル?」
先程から言葉少なである親友に、ディルクは水を向ける。いつになく厳しい表情のリオネルが、口を開きかけたときだ。
遠くから駆けてくる姿があった。眩いと感じるのは、白い肌を縁取る金糸の髪が、真昼の陽光を反射しているためだろうか。
リオネルは口を閉ざし、目を細める。
「リオネル様」
若者らのもとに急ぎ駆けてきたのはアベルである。後ろでゆるく束ねた髪は、走ってきたせいか少し乱れていた。
「鍛錬を再開するというから驚きました」
これまで話の中心になっていたとは露とも知らぬアベルは、清々しい空模様に不釣り合いなほど曇った表情でリオネルを見上げる。
「左腕が動かせないのに鍛錬なんて無茶です」
「当面は片腕だけでも支障がないことを確かめたかったんだ」
先程までの厳しい表情が嘘のように、リオネルは明るく笑った。
リオネルとしては、ジェルヴェーズが煙突掃除の正体に気づきはじめているということについて本人に聞かせたくない。事実を知っておとなしく隠れているアベルではない。かといって、まったく恐怖を抱かないわけではないだろう。ならば、自らの力でこの少女を守るほかにリオネルに道はなかった。
アベルは黙っていた。このとき彼女が咄嗟に言葉を見つけられなかったのは、このまま左腕が動かせないかもしれないことを、リオネルが覚悟したのだと思ったからだ。
アベルの不安を察して、リオネルは安心させるように言い聞かせる。
「当面は、と言っただろう。近いうちに左腕は完全に回復する予定だ」
「なんだ、その根拠のない自信は」
すかさずディルクが苦笑する。
「――もちろんそうあってはほしいけど」
と、苦笑のあいまにディルクの表情には複雑な色が浮かんだ。アベルは不安そうな表情のままである。その様子に、「ほら」とディルクは言葉を続けた。
「おれの言ったとおりだろう? 無茶をしたら、アベルを安心させるどころか余計に心配かけるに決まってるじゃないか」
「そんなこと、言っていたかな」
「たしかさっきおまえは、『リオネルは視点がずれている』とだけ言っていた」
指摘したのはレオンである。
「そうだったかな?」
話についていけぬアベルは困惑の面持ちである。
「ああ、アベル。そういえばこれからきみに頼みたい仕事ができたんだ」
「仕事ですか?」
唐突に話を振られたアベルは、不思議そうにリオネルを見つめた。ジェルヴェーズ王子がベルリオーズ領内にいるというこのときに、やらねばならない仕事とはなんであろう。
「今日から早速始めてもらいたい」
「なんでしょう」
アベルは忠実な家臣である。リオネルの命を危険にさらすことでなければ、主人の命令を聞かぬわけがない。けれどさすがのアベルも、敬愛する主人の口から発せられたひと言には耳を疑った。
「書庫の整理だ」
――書庫の整理。
それは、リオネルがアベルを何らかの危険から守りたいと考える折々に、都合よく命じられる雑務だ。そしてそれは同時に、アベルの最も苦手とする仕事である。
アベルは絶句した。
「ディルクが許可してくれるなら、マチアスにも手伝ってもらいたいと思っている」
リオネルの意図を、ディルクは即座に理解する。リオネルは、アベルをジェルヴェーズから遠ざけ、マチアスに守らせるため、書庫の整理を命じたのだ。
「ああ、お安い御用だよ。我が従者を使ってくれたまえ」
むろんリオネルの意図は、アベルにも伝わっていた。
「ひどいです、リオネル様」
アベルの抗議を受け、リオネルの瞳がわずかに揺れる。アベルが納得できない理由はわかりきっていた。
「こんな重要なときに、わたしはリオネル様のおそばにいさせてもらえないなんて」
「書庫に籠れと命じているわけじゃない。なるべく書庫で過ごしてほしいということだ」
「同じことです」
「書庫から出てもいい。気になることがあれば、館のなかの様子を見にきてもかまわない。ただずっときみが表に出ていたら、殿下がなにかに思い至らないとも言えない。どうしても心配なんだ」
白い光に包まれたアベルの透けるような肌を、リオネルは胸に生じる痛みと共に見つめた。ボドワン邸の裏庭で、遺体のように無残に放置されていたアベルの姿を発見したときの衝撃を思い出せば、リオネルには他に選択肢がなかった。
「おれのために、仕事を引き受けてくれないか」
「…………」
――わかってくれ、アベル。
そんな言葉が聞こえてきたような気がして、アベルは返す言葉を呑む。リオネルの紫色の瞳から視線を逸らしたのは、うなずかざるをえないことを悟ったからだ。
「わかりました」
アベルは自分自身を納得させようとする。
書庫に籠れと命じられたわけではない。なるべく姿を現さないようにと言われただけだ。
そして、それがリオネルから従騎士である自分に向けられた「愛情」の一種であることも、アベルは理解していた。周囲に心配をかけない範囲で、自分にできることをやるしかない。
「引き受けてくれてありがとう、アベル」
家臣が主の命令に従うのは当然のことなのに、リオネルは律儀に礼を述べてくる。アベルは戸惑いながらも、その気遣いにかすかなほほえみを作って返した。
何事もなくジェルヴェーズがベルリオーズ邸を訪れ、そして去ることをアベルは願った。
おそらくこの場にいるだれもが同じ思いだっただろう。
けれど、事件は起こった。
――ベルリオーズ邸においてではない。ベルリオーズ領内における二箇所目の宿泊先、騎士ビューレルの館で起こったのだ。