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天空にはぽつりぽつりと千切れ雲が浮かび、その背後で茜色と藍色が静かにせめぎ合っている。広大な空の一角を、荘厳にして優美なベルリオーズ邸の尖塔が、まるで影絵のように黒く切り抜いていた。
礼拝堂の鐘が鳴る。
アベルが本来の仕事に戻ったのは夕刻だった。
騎士館の厩舎に駆け戻ると、ひとりの青年が冷ややかに振り返る。ベルリオーズ家の騎士隊長を務めるクロード付きの従騎士ジュストだ。
「ジュストさん。すみません、遅くなりました」
アベルの謝罪に、まだ表情に幼さを残すジュストはぷいと顔を背けた。
「あの……これから毛を整えます」
騎士たちの相棒である馬を馬櫛で手入れをするのは、従騎士の大切な仕事である。けれどジュストは固い声音で言い捨てた。
「もう終わってる」
「では、掃除をします。まだ北側が残っているはずです」
「それも終わった」
「餌を持ってきますね」
「すべて終わってる」
あからさまに不愉快な表情を作りながら、ようやくジュストはアベルのほうを向く。
「……申しわけありません」
掃除などは当日中に終わらせなければならない仕事ではなかった。だからこそアベルはリオネルのもとで時間を過ごしたのだ。
けれど、アベルがいないあいだにすべてジュストが片付けてしまったというのは事実である。
頭を下げるアベルに対し、ジュストは大きな溜息をつく。
「なにもできないのに、いつまでここにいるつもりなんだ? リオネル様に怪我を負わせておいて、何事もなかったかのようにここに居座るなんて厚顔無恥もいいところだ。そのうえ仕事もできないんだから呆れて言葉もないね」
無言でアベルはうつむいた。ジュストが述べていることはすべて正論なので、アベルに言い返す言葉はない。すたすたと歩み寄ると、ジュストはアベルの胸元を掴み上げた。
女性であるがゆえに何年経っても小柄なアベルとは違い、ひとつ年上のジュストはますます男らしい身体つきに成長している。身長もさることながら、十六歳のジュストは肩幅や胸板もしっかりとして、同じ従騎士とは思えない体格差だった。これでは、ラザールが心配してアベルに肉を食べさせようとするのも納得できる。
「いいか、これ以上リオネル様や騎士の方々の邪魔になるような真似をするなよ。もちろんおれに対してもだ。おまえは役に立たないどころか、周りに迷惑ばかりかけばかりだからな」
半ば宙に吊られた状態で、アベルは相手を睨んだ。
「手を放してください」
「よくそんな口が利けたものだな。自分の立場をわかっているのか」
「わかっています」
はっきりとアベルは答えた。
「わたしはリオネル様をはじめ多くの方にご迷惑をかけています。けれど、ここにいたいのです。こんなわたしでも必要だと仰ってくださるリオネル様のおそばに、お仕えしたいのです。どんなに脅されても、その気持ちに変わりはありません」
「うぬぼれるのもいい加減にしろ!」
ジュストはアベルを力任せに突き放す。アベルは藁の散らばった厩舎の地面に転がった。
「リオネル様がおまえを必要としているだって? 笑わせるな。リオネル様は同情なさっておられるだけだ。おまえはリオネル様のお優しさを、狡賢く利用しているんだ」
アベルさえいなければ、自分がベルトランの従騎士となり、リオネルの近くに仕えることができたはずだと考えるジュストだから、当然アベルの存在は疎ましい。
憎々しげに吐き捨てると、ジュストはぷいと踵を返す。
言いたいことだけ言って去ろうとするジュストの背中に、固いものが飛んできた。背中に当たり、地味に痛みを与えたのは、空の水桶である。むろん投げたのはアベルだ。
相手が憤怒の表情で振り返ると、アベルが叫んだ。
「突き倒していただいた返礼です」
今は、トマ・カントルーブらに囲まれたときとは違う。あのときはリオネルの負傷により心身ともに弱り果てていたし、相手はリオネルに仕える位の高い騎士たちだった。
けれどジュストとは、同じ立場の従騎士同士だ。アベルが、返礼を見舞わないはずがなかった。
「言ったな。覚悟はできてるか」
犬猿の仲とはいえ、味方同士の喧嘩で剣を抜くわけにはいかない。そんなことをすれば、再び乱闘騒ぎを起こすことになってしまう。
つまりは、素手の戦いがはじまった。
むろんそれはアベルにとり圧倒的に不利なものだ。
床に座り込んだままだったアベルは、引き返して拳を振り上げるジュストの目前で、くるりと反転して飛び起きる。と、すぐに二発目の攻撃が繰りだされた。それも、身体を捻って寸でのところで避けると、アベルは鮮やかにジュストの後方へ回る。
けれど、黙って相手からの攻撃を待っているようなジュストではない。即座に背後に向けて蹴りを見舞う。さすがはベルリオーズ家に仕える貴族の男子だけあり、剣技のみならず、武器を使わない喧嘩も一流だ。
剣を握ればアベルがジュストに簡単に負けることはないが、体格差もここまでくれば、素手の勝負でアベルに勝ち目はない。
激烈な蹴りが入る寸前、しかしジュストの動きが止まった。
ジュストは慎重な性格である。画策してトマ・カントルーブやロベール・ブリュデューらにアベルを害させるのはよいが、自ら手を下して騒ぎを起こすのは賢明ではないと知っていた。
なにより、リオネルはアベルのことを気にかけている。下手なことをして、リオネルの不興を被るわけにはいかないのだった。
相手が攻撃を止めたので、アベルもまた動きを止める。そのときだ。ジュストは隙をついて、アベルの髪を掴み寄せると、耳元でつぶやき捨てた。
「リオネル様からの同情をいつまで誘えるか見ものだな」
乱暴に手を放すと、ジュストは先程投げつけられた水桶をアベルへ向けて蹴りつける。
咄嗟に身体を庇って、アベルは水桶を腕で受けた。そのあいだにも、ジュストは厩舎の戸口から姿を消している。アベルにとっては、なんとも悔しい終わり方だった。
――わかっている。
ジュストが口にする言葉には、真実も含まれているのだ。
身寄りもなく、幼い子供を抱えたアベルを、リオネルが放っておけるはずがない。幾度でも手を差し伸べてくれるリオネルに、アベルは結局のところ甘えているのだ。
この人を失えば、アベルはなにもかもを失う。もはやアベルという人間は、リオネルのいる場所以外にはありえない存在だ。だからこそ、命をかけてリオネルを守らならなければならない。
けれど自分がリオネルを守る以上に、アベルはリオネルに守られていた。リオネルにも、彼の周囲にも迷惑をかけている。ジュストやトマ・カントルーブらの言うとおり、もしかしたら自分はここからいなくなったほうがいいのかもしれない。
実際に、リオネルのそばから去ろうとしたこともある。
けれどそのたびに、リオネルは伝えてくれるのだ。
――ここにいてもいいのだ、と。
リオネルのいる場所が、アベルの帰る場所であると。
今は、その言葉を信じていたかった。
怪我を負ったリオネルがアベルの名を呼んでくれたように、彼が少しでも自分を必要としてくれているなら、そのあいだはリオネルのそばにいたいと、アベルは願うのだった。
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シャルム宮殿の白い壁や、金色に塗られた門が、夕暮れの黄味がかった陽光を煌びやかに反射させている。
庭園を吹き抜けるのは、昼間の太陽の温度を含んだ風。
短い夏を謳歌する草木がその風に揺れ、やわらかなざわめきを生んでいた。
庭園には、そぞろ歩きをする人々の姿。楽しげな話し声や貴婦人らの明るい笑声、宮殿内から漏れ響く楽の音……それらが混ざりあい、宮殿は和やかな雰囲気に包まれている。
いつになく平穏だと感じるのは、自分の思いすごしだろうかとカミーユは首を傾げた。
「平穏……といえば平穏だけど」
少年の声は夕暮れの空に解けていく。
「寂しい気もする」
カミーユの言葉に応える者はない。周囲に人がいないのだから、当然のことだ。
シャルム国第一王子ジェルヴェーズが王宮を発ったのは二日前。ローブルグと同盟を組むための交渉に当たるという、重大な任務を負っての出立だった。当然のことながら、片腕であるブレーズ家の嫡男フィデールも同行している。
フィデール・ブレーズはカミーユにとっては母方の従兄弟にあたる。
カミーユはジェルヴェーズらの行き先を、同行するフィデールから聞いていたのだが、どこから広まったのか、王宮に出入りする者の多くは、すでに本件について多少なりとも知っていた。
巨大で煌びやかだが、冷たい視線に張り巡らされたこの王宮において、親しく話せる相手が減ることは孤独なことだ。
というのも、いまひとり親しく話すことができる相手であったレオンは、すでにベルリオーズ邸に赴いており王宮にはいない。加えてフィデールも去ってしまい、もはや王宮で会話を交わすことのできる相手は、従者であるトゥーサンを除けば、師であり、叔父でもある近衛隊副隊長ノエルのみとなってしまった。
顔も名も知らないが、カミーユに密かに剣を教えてくれた騎士も、最近はめっきり姿を現さなくなっていた。
西の空を、鳥の群れが黒い影となって飛んでいく。黒い影は茜色の空にくっきりと浮かび上がり、夕空をいっそう鮮やかに見せた。
「寂しい気もするけど」
再び少年はつぶやく。
「やっぱり平穏だ……」
気性の激しいジェルヴェーズが不在の王宮は、やけにのんびりしているようだった。人々の顔に、不安や緊張の色が見受けられない。鳥の鳴き声さえ、普段より伸びやかに聞えるから不思議だ。
夏――それは社交の季節であり、恋の季節でもある。
けれど、王宮において夜毎催される舞踏会は、人々の緊張が最も高まるときだった。
ジェルヴェーズはけっして酒に弱くはないが、それでも過剰に摂取した酒精分によって戯れも暴虐も激しくなり、気に入らない者に対しては容赦なく暴力を振るったし、逆に気に入った娘に対しては、婚約していようが既に嫁いでいようが意のままにした。
それらの恐怖から解放された宮廷人たちは、今、束の間の夏を謳歌しているようだ。
ジェルヴェーズが帰還するのは、ひと月後か、それとももっと先か。ジェルヴェーズはローブルグとの交渉を成功させ、シャルムを救うことができるのか。庭園を歩む人々は和やかな笑みをたたえていたが、竜の尾に領地を有する者でなくとも、今回の一件を知る貴族らにとっては大きな関心事だった。
八月も上旬である。
あと半月も経たぬうちに、サン・オーヴァンには秋の気配が漂いはじめるだろう。
待ち焦がれた夏は短く、草木も動物も、人間たちも、皆なにかを取りもどそうと――もしくはなにかを心に留めておこうとするように、この夏の日の午後を過ごしていた。
けれど、庭園に面した西の木立の脇に腰をおろしていたカミーユは、突如、この平穏な風景に似合わぬ音を耳にする。
初めは、空を切る音だった。
それからなにかがこすれるような乾いた音に変わり、音の正体がなんであるかと考える間もなく、それはカミーユの視界に入ってきた。
一端が尖り、もう一端に白い羽のある長細い棒。
――矢である。
この穏やかな時間に似つかわしくない代物だが、カミーユはすぐに状況を察した。
西の木立は、王宮に仕える従騎士が密かに鍛錬する場所でもある。だれかが武術の稽古をしていたのだろうが、この場所で矢の稽古をするのは本来禁じられていた。むろん、散策している者に流れ矢が当たる可能性があるからだ。
案の定ひとりの少年が、矢を追ってきたのだろう、木立のなかから姿を現す。少年といっても、ひと目で自分と同じ歳の頃だとわかる相手だ。