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「わたしはリオネル様のおそばを離れません」
即座に告げたアベルをまえに、リオネルは困ったような、あるいはどこか苦しげにも見える面持ちになった。
「きみがそう主張することはわかっていた」
「でしたら――」
「けれど、おれはきみのことが心配だ」
「あのときの煙突掃除の子供が、わたしであるなどとジェルヴェーズ殿下が気づくはずがありません。わたしは全身煤で真っ黒だったのですから。声だってカラカラで」
「それはわかっている。だが、心配なのは正体が知られることだけじゃない」
いったん言葉を区切ってから、リオネルは眉をかすかに寄せて問いかけた。
「怖かっただろう」
――――。
咄嗟にアベルは返す言葉を見つけられなかった。
恐怖……それは長いこと考えないようにしてきたものだ。恐怖に囚われてリオネルを守れないなどという事態になってはならない。たいしたことないと考えてしまえば、それまでのことである。
二年前に自ら川で捨てたはずの――リオネルや、心ある人たちに助けられなければ幾度も失ってきたはずの、この命だ。大切な存在を守るためなら、怖いものなどなにひとつない。
「本当に怖いのは、あなたを失うことだけです」
アベルは答える。
「どんなときも、あなたのそばにいさせてください。わたしはあなたのためにいるのですから」
「頭でそう考えてはいても、身体は痛みを覚えているものだ」
「そういったものには慣れているんです」
健気というべきか、開き直っているというべきか、痛みに慣れているというアベルの発言にリオネルが眉をひそめた。動かすことのできる右腕を伸ばし、アベルの頬に触れる。
リオネルの指先は、絹布のようにあたたかいアベルの金糸の髪に触れていた。
「頼むから、そんなものに慣れないでくれ」
見つめてくる瞳が、苦しげに細められている。
慣れるというのは、人間にとって素晴らしい能力だ。けれど痛みには慣れても、リオネルの深い紫色の瞳を間近にすることだけは、幾度経験してもいっこうに慣れない。
深い紫色を目前にして、アベルは再び言葉を奪われた。
「怖いのはおれのほうかもしれない。痛みや死の恐怖に慣れていくきみが、怖い。そのままアベルが、おれの手の届かない場所へ行ってしまうような気がしてならない」
「死ぬのは……」
酒精分を口にしていないのに、アベルは眩暈を覚えた。リオネルの真剣な眼差しは、アベルの心から厚い鎧を奪っていく。
「死ぬのは怖いです、リオネル様。大切な人たちと別れるのは、とても怖いです。あなたと離れるということは――わたしにとっては死ぬと同じです」
「アベル……」
しばらく深く考える様子で、リオネルは手を頬に添えたままアベルを見つめていた。
頬に感じるリオネルの手。その体温――。
リオネルもまた、その手からアベルの頬の温度と髪の質感を感じとっているのかと思うと、アベルは気が遠くなるような心地がした。
「そこまで言うのなら、ひとつ約束をしてほしい」
「約束を守るのは、少し苦手です」
控えめに言ったものの、つまり約束は守れないと答えるアベルに、リオネルは苦笑する。
「そうだな、たしかにこれまで幾度も約束を交わしてきた」
――そして、それらはことごとく破られてきた。
「じゃあ、言葉を変えよう。条件がある」
「条件?」
「ジェルヴェーズ殿下がいる場所では、なるべくおれから離れていること、殿下に近づかないこと、他の騎士たちに紛れていること、目立つ行動はしないこと、発言を控えること、危険なことがあればすぐに大声で助けを呼ぶこと、そして、この金色の髪を染めることだ」
「なんだか、たくさんありますね」
困惑の表情をアベルは浮かべる。
「それになんですか? 最後の、髪を染めるというのは」
「なにもせずとも、きみはこの髪の色だけで充分に目立つ。せっかく目立つ行動を控えても、この髪では意味がない」
胸の奥に鋭い痛みをアベルは覚えた。
「……この髪は、そんなにおかしいですか?」
「違う」
誤解されたことに気がつき、リオネルは即座に否定した。
「このうえなく綺麗だ――触れてもよいものか、ためらわれるほどに」
そう言いながら、リオネルはアベルの頬から手を離す。アベルの頬はまたたくまに、リオネルの体温を失った。
綺麗だと言ったときのリオネルの声が、アベルの耳に残る。
嬉しいような気もしたが、なぜリオネルはこのような言葉を口にするのかという疑問のほうが、アベルにとってはより大きい。
時折リオネルが口にする褒め言葉は、アベルにはあまりにくすぐったくて、「からかわれているのではないか」という気持ちにさえなる。
「だから染めてほしいんだ。ジェルヴェーズ殿下の目に留まらない存在でいてほしい」
「髪なんて染めなくても、きっと殿下はわたしなんか気にも留めないでしょう」
寒々しく感じる頬を、アベルは無意識に指先で触れた。
「きみがなんと言おうと、これらの条件を守れないならば、アベルは館の奥の安全な一室で待機していてもらうことになる」
「ま……守ります」
慌ててアベルは宣言する。
「守るか?」
「守ると言っているじゃないですか」
半ばふてくされた口調で返答するアベルに、リオネルは平然と答えた。
「不安だから確認した」
「不安って……信じていらっしゃらないのですね」
「ああ、信じていないとも。きみには、命じておいた書庫の整理を放棄し、単身で王都へ向かった前例がある」
二人の最後のやりとりを、ベルトランは苦笑交じりに見守っている。
「やはりリオネル様はあの一件について、わたしを赦していらっしゃらないのですね」
「そんなことはないよ。無鉄砲で、向こう見ずで、自分の身を大切にしないきみが、あんな無茶をするだろうことに気づかなかったおれが悪い。今でもそう思っている」
「リオネル様は意外と意地悪なんですね」
「意地悪?」
突如ぶつけられた言葉に、リオネルは面食らう。幼いころから、穏やかだとか、物腰が柔らかいなどと言われることはあったが、リオネルに「意地悪」という烙印を押す者はなかった。
「そうか、意地悪か……」
つぶやきながら、リオネルは口元に微笑を浮かべる。どこか嬉しそうだ。
その態度に、アベルは戸惑った。主人に対して「意地悪」などという言葉を吐いてしまったものの、今更謝罪するのも癪だ。そんなアベルの葛藤をよそに、リオネルは明るい表情なのだから。
「もう失礼します。ご馳走様でした」
やはり先程から自分はからかわれているのだと思い、アベルは席を立った。けれどすぐにリオネルも立ち上がり、アベルを引きとめる。
「ごめん、意地悪を言うつもりはなかったんだ。赦してほしい」
右手をリオネルに捕らえられたまま、アベルは立ちすくんでいた。自分を見つめる紫色の瞳は真剣で、切なげでさえある。
伝えるべき言葉を発するまでには、時間がかかった。
「……わ、わたしこそ、意地悪だなんて言ってごめんなさい」
眼差しに安堵の色をひらめかせ、リオネルはほがらかに笑った。
「いいんだ。よく考えてみれば、ディルクもそれに近いことを言ってたし」
「ディルク様が?」
問い返してから、アベルはぷっと吹き出してしまう。彼ならいかにも言いそうだ。
「近しい人には、おれの意地が悪いということが知られてしまうらしい」
「きっとその『意地悪』という言葉には、親しみが込められているのです」
「きみの言葉にも?」
「……もちろんです」
リオネルの問いに、アベルは小さな声で答えた。
「意地悪」などという言葉を投げつけておいて、実は親しみを抱いているからなのだと、面と向かって白状するのは恥ずかしいではないか。
「そうか……。だからかな。意地悪と言われるのは嫌いじゃない」
「おかしなリオネル様」
「そうだね」
二人は顔を見合わせて笑った。
その様子を見守っていたベルトランは、見ておれぬといったふうに視線を泳がせる。けれども若い二人の仲睦まじさに――この平穏なひとときの愛おしさに、遠くを見つめるベルトランでさえ、精悍な頬を緩めずにはいられない。
すると、断りもなしに扉が開く。
現れたのは案の定、ディルクだ。無断でリオネルの部屋に入室するのは、幼馴染みであり、親友である彼くらいしかいない。彼の背後には従者のマチアスと、ディルクやリオネルの従騎士仲間であるレオンの姿。
「噂をすれば――だね」
アベルに笑いかけるリオネルの意味ありげな態度に、ディルクは不満そうな表情を作った。
「仲良く三人でタルトを食べながら、ひそひそとおれの噂話か? いやに楽しそうじゃないか」
「少し話題に出てきただけだよ」
リオネルの弁解に、ますますディルクは不満を募らせる。
「中途半端な扱いだね」
「ならば、話題の中心になって陰口を叩かれたいのか? なにを子供っぽいことを言っている」
厳しい指摘をしたのはリオネルではなく、呆れ顔のレオンである。するとディルクは、はっきりと次のように発言した。
「リオネルとベルトランはともかく、アベルがおれの悪口を言うはずがない」
「随分な自信だな。アベルでさえ、おまえの悪口なら言うかもしれないぞ」
レオンが口端を吊り上げると、一方でリオネルは苦笑した。
「もちろんアベルはディルクの悪口なんて言わないけど、おれやベルトランだって、おまえのことを悪く言ったりはしない」
「いや、リオネル。おまえは思いのほか意地が悪いからな。笑顔で辛辣なことを言ったりする……って、アベル、なにを笑ってるんだ?」
口元を押さえて隠してはいたが、アベルが笑っていることはすぐにディルクに気づかれる。
「ごめんなさい。リオネル様の言っていたことは、本当だったのだと思って」
「そうだろう?」
楽しそうな笑みを、リオネルもまた浮かべている。ディルクがリオネルのことを「意地が悪い」と言うのだという話をしていたのは、つい今しがたのことだ。
「なんだか気に入らないな。最初から話を聞かせろ。おれたちのぶんもあるんだろう?」
そう言って、ディルクは無花果と胡桃のタルトを指差した。
「もちろん」
うなずいたのはリオネルである。
「ようし、じっくり話を聞こうじゃないか」
空いている椅子にディルクが躊躇なく腰をかけると、
「甘いものは、王宮でラベンダーの砂糖菓子を食べすぎてから苦手なんだが」
と、ぶつぶつ言いながらもレオンが続いた。次いで、リオネルの想いを知るマチアスが恐縮しながら頭を下げる。
「突然押しかけたうえに、図々しく加わり申し訳ござません」
こうして、総勢六人で焼き菓子を囲むことになったリオネルの部屋は、賑やかな笑い声に包まれた。