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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第五部 ~敵国の都は、夏の雨にけぶる~
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 真新しい包帯を持って部屋に入ったとき、リオネルは書き物机に向かって政務を処理しているところだった。

 机に向かう姿勢にわずかな違和感を覚えるのは、脇に添えられているはずの左手が力なく下がっているためだろう。

 その姿を目にすれば、アベルの胸に痛みが走る。


「ああ、アベル。いつもありがとう」


 リオネルが怪我をして以来そばに付き添っていたアベルは、毎日取りかえられる包帯や薬を部屋に用意する役目を担うようになっていた。


 リオネルの怪我が癒え、日常が戻るとともに共有できる時間は再び少なくなったが、リオネルのために包帯を運ぶときは必ず会える。それはリオネルの様子を間近で知ることができる数少ない機会だった。


「具合はいかがですか」

「とてもいいよ」


 アベルが怪我の具合を尋ねると、リオネルは決まってこう答える。けれど左腕はなかなか動かせるようにならない。

 心配でいてもたってもいられなくなるが、本人が調子がよいと答えているのだから、それ以上追及するわけにもいかない。


「……そうですか、よかったです」


 返事に添えられたアベルの笑みは、わずかに憂いを含んでいる。それを見て、リオネルはアベルの心情を察したようだった。

 リオネルは屈託なく笑った。


「本当だよ。信じていないだろう?」

「いえ、そんなことは。ただ――」

「ただ?」


 問われたアベルはしばらく黙っていた。沈黙が長いので、リオネルが再び笑う。


「大丈夫だ、そのうち動かせるようになる」


 アベルの懸念は見事に見透かされていたようだ。壁際に立つベルトランが、いつものように二人のやりとりを黙って見守っている。


 なにか言いたげな表情のままアベルは一礼した。

 もっとリオネルのそばにいて怪我の様子を知りたい気持ちはあったが、政務を邪魔するわけにはいかない。ディルクやレオンでさえ、リオネルの仕事を邪魔しないよう席を外しているのだから。


 いつも必要な物を届けたらすぐに戻ってしまうアベルに、この日はリオネルが声をかけた。


「もう戻るのか?」


 質問の意図を判じかねて、アベルが金色の睫毛に縁取られた、透明な水色の瞳をまたたかせる。


「もし時間があるなら、少し話をしないか」

「けれどリオネル様のお仕事を邪魔するわけには……」


 リオネルは肩をすくめた。


「怪我から回復するにつれて、アベルと過ごす時間がほとんどなくなってしまった。こんなことならずっと怪我が治らないほうがよかったかもしれない」


 怪我が治らないほうがいいなどという発言は不謹慎かもしれないが、寝る間も惜しんで付き添っていたアベルにとり、その言葉は身に余るほどの褒美だった。

 ベルリオーズ公爵や婚約者候補の筆頭であるフェリシエ・エルヴィユではなく、自分のような者がリオネルのそばにいてよいのかと、アベルは度々不安を感じていた。


 フェリシエは結局リオネルが完全に回復するまえに、自領に戻ってしまった。蒼の森で落としたという金剛石ダイヤモンドの指輪は見つからぬままだが、このような事態になってしまった以上、アベルには指輪を失くしたことを黙っている以外に、彼女のために成しうることはなかった。

 様々な思いがアベルにはあれども、リオネルは先程のようなあたたかい言葉をかけてくれる。おかげで、頼りなく揺れていた足元が、しっかりと踏みしめられるようになった気がする。


「おいしい焼き菓子があるんだ。いっしょに食べよう」

「焼き菓子……ですか?」

無花果いちじく胡桃くるみのタルトだよ」


 アベルの口元に笑みがひらめく。甘いものが特別好きなわけではないが、久しくそういったものを口にしていなかったので、今は無性に食べたい。


「……いただきます!」


 明るい返事を聞いたリオネルもまた破顔した。







 部屋に甘い香りが漂う。大麦やライ麦より高価な小麦の粉を使用して作られたタルトは口どけがよく、噛むごとにバターの香りと果物の甘みがふわっと広がった。


「――そのあとおれたちはどうなったと思う?」


 渋めの葡萄酒を口に運びながら、リオネルは問いかけた。


「えぇと、そうですね……宿を探したのでしょうか」


 はずれだ、とリオネルが笑う。


「お金を持っていなかったんだ。それにまだおれたちは子供だったからね。結局ジルの家に泊めてもらった」

「リオネル様が、領民の家に?」


 焼き菓子を片手に持ちながら、アベルは目を丸くした。

 リオネルは幼いころディルクと共に、よくシャサーヌの街へ行き、商人や農家の子供たちと身分による隔たりなく遊んでいたらしい。そのことは以前耳にしたことがあったが、具体的な出来事を聞くのは初めてのことである。


 無花果が好きだという赤毛の用心棒ベルトランもまた、普段は口にしない焼き菓子をつまみながら、話に耳を傾けている。……それにしても、ベルトランと焼き菓子は似合わない。


「楽しかったよ。ジルの家はパン屋で、朝起きるとすごくいい香りがするんだ。こう言うと嫌味に聞こえるかもしれないけど、街の生活の一端に触れたような気がして、すごく嬉しかった」

「けれどリオネル様がお戻りにならなくて、公爵様やアンリエット様は心配したのでは?」

「父上は慌てて街中を捜索しようとしたようだ」


 申し訳なさそうにリオネルは苦笑した。


「けれど寝静まったシャサーヌの民をたたき起こして、大騒ぎするわけにもいかないと言ったのが母上で、翌朝になれば二人で戻ってくるかもしれない――捜索はそれからにしよう、ということになったんだ」

「翌朝にリオネル様とディルク様は館へ戻ったのですか?」

「ああ朝一番にね。おれたちは子供だったけれど、さすがに周囲の人の気持ちが想像できたんだろう」


 控えめなリオネルの説明である。聡いリオネルのことだ、おそらく皆に迷惑をかけていることを知っていて、ひどく気にかけていたに違いない。


「怒られましたか?」

「父上には怒鳴られたよ。暗くなって帰れなくなったのだと説明しても、もちろん納得するわけがないからね。オリヴィエやラザールたちには泣かれて、あのときは申しわけなく思った」


 笑ってはならないところだが、アベルはつい口元をほころばせてしまった。ベルリオーズ家に仕える騎士たちはこぞって優秀な剣士であるが、こと主人のことになると限りなく心配症なのだ。自らの立場を恐れずに言うなら、そこが彼らの愛すべきところだとアベルは思う。


「でも不思議なことに、母上だけは疲れた顔に、そっと笑みを浮かべて頭を撫でてくれた」


 懐かしむように語るリオネルの横顔を、アベルとベルトランは無言で見つめる。


「まるで、『よくやった』と褒められているようだった」

「……素敵な方ですね」

「そうかな」

「ええ、とても」


 顔を上げたリオネルの瞳に、風が揺れるようなアベルの頬笑みが映る。リオネルはふっと息を吐きだした。


「アベルには母上の気持ちがわかるのか」

「わかるというか――そのように振る舞えるアンリエット様の強さと優しさが、想像できます」


 アベルの返答にリオネルがかすかに首を傾げると、「自分が言うのもおこがましいのですが」と、アベルは恥ずかしそうに小さく笑った。


「きっと子供には冒険が必要なんです。危険なことをして、人に迷惑をかけて、成長するものですから。でも頭ではわかっていても、特に母親は心配が先に立つものでしょう? わたしもきっとそうです。けれど、アンリエット様は違いました。冒険から戻ってすでに充分に叱られた子供を、笑顔で迎えることができるアンリエット様は、包容力のある方なのではないでしょうか」

「そうか――」


 しみじみとうなずくリオネルの代わりに、ベルトランがつぶやく。


「アベルからそんな話を聞くとは思わなかったぞ。親になってみてわかるものもあるのだろうな」

「――わたしは親なんて立派なものではありません」

「イシャスの母親だろう?」


 当然のことを確認してくるベルトランに、アベルはもどかしい気持ちになる。

 母親と呼べるほどのことをしていないし、「母親」という響きは少し気恥かしくもあった。

 自分は男としての生き方を選び、歩んでいる。たしかにイシャスの産みの親ではあるが、今更女性として認識されると居心地が悪く、また、十五歳にして親たる自分を認識することも難しかった。


「母親なんて言葉にこだわらなくていい。アベルがアベルらしく生きていれば、それでいいんだ。育て方や愛し方は人それぞれなんだから」


 そっと紡がれたリオネルの言葉に、アベルは肩から力が抜けていくのを感じる。自分自身でさえ肯定できないものを、リオネルが認めてくれたような気がした。


「あれからイシャスは肉が食べられるようになったしね。思いは互いに通じているはずだ」

「なるほど」


 ベルトランがうなずく。


「奥が深いものだな。クロードあたりには、まったく理解できないだろう」


 皆がベルトランの指摘に笑った。


「そう、アベル。きみに伝えておきたいことがある」


 まるで思い出したかのようにリオネルは言ったが、なぜだろうか、切り出す頃合いを見計らっていたかのようにアベルは感じた。

 リオネルの口調は穏やかだったが、双眸はとても真剣な色を称えている。


「明日には館の者すべてに伝わることだが――」


 わずかにリオネルは言葉を溜める。彼にしては珍しく、言いよどむようだった。


「アベル、西方の情勢については耳にしているだろう?」

「はい」


 わずかに緊張しながらアベルはうなずく。

 ユスターがアルテアガやローブルグと組み、シャルムに攻め入る可能性があることは、ベルリオーズ邸にいる騎士なら皆承知していることだ。


「その件で、ジェルヴェーズ殿下がローブルグへ赴くこととなった」


 束の間アベルが沈黙したのは、過去の記憶が蘇ったからである。

 ジェルヴェーズ王子によって大怪我を負わされたのは三ヶ月前のこと。そのジェルヴェーズ王子が、サン・オーヴァンを出てローブルグへ赴くという……。


 アベルの心情を察したリオネルは、席を立ち、アベルが座る椅子のまえで視線を合わせるようにしゃがんだ。

 水色の瞳をしっかりと捉えながら、リオネルは告げる。


「きみも知ってのとおり、シャサーヌは、我が国の王都サン・オーヴァンとローブルグの王都エーベルヴァオンのあいだに位置する。おそらくジェルヴェーズ殿下は、道中にここベルリオーズ邸に立ち寄るだろう」

「はい」

「おれはきみを殿下に会わせたくない」








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