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遠くからその様子を眺めていたディルクが、苦笑しながらベルトランに語りかける。
「きみの従騎士殿が、大変なことになっているみたいだよ」
「ラザールか。彼はアベルを可愛がっているからな」
「だけど、あれだけの肉は、アベルには食べられないだろう」
遠目に見ても、アベルの皿に盛られた肉の量は相当なものだ。アベルを気の毒に思い、なんとかしてやれないだろうかと、ディルクは傍らに座る親友に視線を向けた。けれどリオネルの顔には、心配ではなく安堵の表情が浮かんでいる。
「ヴィートがいなくなって、気落ちするかと案じていたけど」
と、リオネルは目を細めた。
「ラザールたちのおかげで元気そうでよかった」
「それはそうだけど、あの肉はどうにかしてあげたほうがいいんじゃないか」
ディルクの懸念をよそに、領主らと賓客が列する食卓における話題は、西方の情勢へと移行していく。
「ユスターの動きをどう思う」
食卓を囲む面々に尋ねたのは、ベルリオーズ公爵クレティアンである。
この席に居並ぶのは、ベルリオーズ家嫡男リオネル、シャルム王国第二王子レオン、アベラール家嫡男ディルクとその従者マチアス、ルブロー家三男でリオネルの側近であるベルトラン、そしてベルリオーズ家の騎士隊長クロードだ。
第二王子レオンの近衛兵であるシモンやクリストフらは、長期滞在になるからという理由で既に王都へ返されている。レオンの性格からすると、ベルリオーズ邸にいるときくらい気儘に過ごしたかったのかもしれない。
クレティアンの問いかけに、皆それぞれ思案顔になる。
「ユスターとシャルムは長いこと比較的友好な関係にあったはずだ。あの国が、秘密裏にアルテアガやローブルグと手を組み、シャルムを手中に収めようとするなど、だれも思いも寄らなかったこと。なぜユスターは突然そのような行動に出たのだと思う?」
「やはり、北方の動きを警戒したからではないでしょうか」
真っ先に答えたのはクロードである。
「エストラダは驚くべき速さで大陸北方の国々を侵略しています。彼の国はおそらくこのまま侵略を続けるつもりでしょう。大陸各国はエストラダの侵攻をいかにして食い止めようか、頭を悩ませているはずです。その結論が、ユスターにおいては今回の行動だったのではないでしょうか」
話を聞きながらベルリオーズ公爵はうなずく。他の面々も深く考えこんでいる。クロードの意見はだれもが同意するところだった。
「自国を守るために、まずはシャルムを支配下に置き、南西地域の基盤を固める。それからシャルム兵を戦いの前線に配置し、自国は安全な場所からそれを見守る。そんなところでしょうか。発想としては姑息で、おもしろくさえありますが、こちらとしては甚だ迷惑な話です」
葡萄酒の杯を揺らしながら、ベルトランが淡々とつぶやく。
シャルム国内においては未だ明るみにされていない西方情勢であるが、ここベルリオーズ邸においては、すでにレオンの口から伝わっていた。
この事態にシャルム宮殿にいる為政者たちがいかなる対応に出るのか、皆、疑問と不安を抱かずにはおれない。政治の中枢に関わっていないからこそ、自分たちにはなにもできない。若者らが抱く、そのじれったさと不満を払拭したいというのが、今回クレティアンがこの話題を切り出した理由でもあった。
「私はもうひとつの背景があると思います」
言葉を発したのはディルクだ。ディルクは親友のリオネルをちらと見やり、それからベルリオーズ公爵へ身体ごと向きなおる。
「ユスターは、我が国に生じつつある綻びに目をつけたのではないでしょうか」
クレティアンはその先の意見を求めるように、じっとディルクを見返した。
「リオネルは十九歳になりました。シャルム国内において、リオネルを次期国王にと望む声は日に日に強くなり、それはもはや貴族だけではなく平民からも上がっています。まさに今、シャルムは大きく二分しようとしています。その綻びがシャルムの力を弱めていることに、ユスターは気がついたのではないでしょうか」
目を伏せ、ベルリオーズ公爵は言った。
「ディルク殿が言うとおり、憂うべきことだがシャルムは大きく二分しつつある」
公爵が言葉を区切ると、食堂内のざわめきが大きく響いて聞こえた。領主の食卓が据えられた場所より一段下にある騎士らの食卓からは、絶えず笑声が上がっている。とくにアベルやラザールがいるあたりは賑やかだった。
「それは、私が王位継承権を放棄して以来のことだ」
三十年前、先王の嫡子であるクレティアンは、異母兄であるエルネストに裏切られ、玉座を奪われた。その際、多くの貴族がクレティアンの血筋の正統性を唱えてエルネストに刃向ったが、クレティアンは国内の平定と、家族の安全を保障するという条件で王位継承権を完全に放棄したのだった。
「これまではリオネルもまだ幼く、次期国王の話題などさほど大きな声で言う者はなかった。けれど徐々にシャルムは騒々しさを増してきた。ジェルヴェーズ殿下を支持する者と、リオネルを玉座に望む者のあいだで軋轢が生じている。それはディルク殿が言ったとおり、我が国に他国がつけいる隙を与えている」
「私は玉座など望んではおりません」
静かな声音でリオネルが告げた。
「むろんシャルムという国を愛していますが、それ以前に私は、このベルリオーズの地と、そこに暮らす民の領主でありたいと思っています」
「それは承知のうえだ、リオネル。しかしおまえがそう考えていても、他の者がそう考えているとは限らない」
「特にジェルヴェーズ王子の暴虐ぶりを知る者たちは、ね」
皮肉っぽくディルクが言うと、先程からうつむき、無言を貫いていたレオンが、さらに頭を項垂れる。実兄の日頃の行いを、だれよりも近くで見ているのは他でもないレオンだ。
「いえ、レオン殿下。貴方やご家族を責めるつもりでこのような話を始めたのではありません」
レオンの心情を察したクレティアンは、すかさず断りを入れた。
「貴方がリオネルの友人であられ、そして貴方がここにいる今だからこそ、私は話しておきたいと思ったのです」
顔を上げたレオンは、本来玉座にいるはずだった叔父に恐る恐る視線を向ける。
「シャルムはひとつでなければならない。二分してしまえば、この国は今回のことだけではなく、度重なる災厄に見舞われるだろう。だからこそ、私はかつて王位継承権を放棄した。けれど今、再び同じ問題が生じてしまった。そこで、シャルムをひとつに結びつけることができるのは、レオン殿下とリオネル――二人の友情が欠かせないと私は考えている」
やや荷の重い言葉を向けられたレオンは、ちらとリオネルを見やる。そこには、レオンの困惑を組みとって微笑するリオネルの優しげな表情があった。
レオンは安堵する。リオネルの態度は、レオンに大切なことを思い出させた。
そうなのだ。
シャルムのためではない。
恥ずかしくて間違っても口には出せないが、レオンはただ純粋に、リオネルのことを慕っている。彼の人格と人柄を、従兄弟として、友人として敬愛している。ただそれだけのことだ。
それをシャルムの結束のためにと言われたら、レオンは途端にどうしてよいかわからなくなってしまう。
「父上、貴方のお気持ちを私たちは充分に理解しています。ご心配には及びません。これからもレオンと私は友人でありつづけるでしょう」
どうも事の重要性を受け止めておらぬような――もしくは、あえて受け止めていないかのように振る舞う若者らを、クレティアンは困ったような面持ちで見つめた。
これからのシャルムを担うのは、ここにいる若者たちだ。
彼らを守り続けたいが、いずれクレティアンは彼らより先にこの世を去るだろう。だからこそ焦りもするし、クレティアンは自らの気持ちを理解してほしいと思うのだが、青年らの仲睦まじい様子を前にすると、あまり老婆心を出し過ぎるのも野暮なことかと感じないでもない。
「手を取り合い、助け合い、この国を支えていきなさい。それが私の願いだ。私はいつまでおまえたちを見守れるのかわからないのだから」
「今際の言葉のようなことをおっしゃらないでください、父上」
整った顔立ちに、リオネルは苦笑をひらめかせる。
「父上には長生きしていただかないと、私には近しい肉親がひとりとしていなくなってしまいます」
「ならば早くフェリシエ殿と結婚しなさい。私が世を去るまでには子を成し、私に見せるように。さもなければ、死後この館に夜な夜な化けて出るぞ」
「…………」
あながち冗談とも思えぬクレティアンの脅しにリオネルが口をつぐむと、耐えきれなくなってディルクが吹きだす。
恨めしそうにリオネルがディルクを軽く睨むと、従兄弟のレオンがリオネルの代わりに逆襲に出た。
「ディルク、おまえも早く女好きの噂に収拾をつけて、嫁探しでもするのだな。楽しげに笑っているが、リオネルよりも子供が望めそうにないのはおまえのほうだろう」
鋭い指摘に憮然としながらも、ディルクは負けていない。
「おまえこそ浮いた噂のひとつでも立ててみたらどうだ。このままでは今にローブルグの国王よろしく『シャルムの第二王子は、男色家の変人かつ変態男だ』などという噂が立つぞ」
「ディルク様……」
他国の王と自国の王子に対しあまりに品のない物言いであるため、マチアスが眉をひそめると、今度はリオネルとベルトラン、そしてクロードが堪え切れずに笑いだした。
「リオネル、おまえだけは味方だと思っていた」
仏頂面のレオンに、クレティアンもまた必死に笑いを噛み殺しているようである。
一方、リオネルらが話しているあいだもアベルは、皿のうえに山のように積み上がった鹿肉と、必死に格闘しつづけていた。
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ベルリオーズ領より東方、シャルムの中央に位置する王都サン・オーヴァン。
王宮の一室では、苛立った声が、昼下がりの平穏な空気を乱していた。
「お受けできかねます」
ジェルヴェーズは、片膝をついたまま父王を睨み上げる。
大広間の窓からは、燦々と陽光が差し込み、大理石の彫刻や金に塗られた家具が直視できぬほどの輝きを放っていた。
この場所において、上座に国王エルネストが座し、絨毯の敷かれた地面のうえにジェルヴェーズが跪いているという形からも明白であるように、これは公式な場であり、エルネストの命令は正式なものだった。が、ジェルヴェーズの瞳には強い憤りと反発が滲む。
「なぜ私が敵国に頭を下げねばならないのですか」
「すでに会議で決定したことだ」
「私は聞いていません」
「それはそなたが会議を欠席したためだろう。欠席した理由を、私が知らないとでも思っているのか」
先般行われた西方情勢に関する会議にジェルヴェーズが参加しなかったのは、ひとえに彼自身の不始末による。
つまり、この社交の季節においては、連日のように各所で宴が催される。そこでジェルヴェーズは気に入った娘を見つけては寝台に連れこみ、夜が明けるころまで熱中しているため、午前中は起きあがるどころではない。
件の会議は、まさに朝方に行われたものだった。
「だからといって、私がこの命を受けねばならぬ理由にはなりません」
大広間に人はまばらだった。国王やジェルヴェーズ付きの近衛兵ら以外には、王妃グレースの兄であるルスティーユ公爵、ユスターとの国境近くに領地を有するロルム公爵、正騎士隊隊長シュザン、同じく副隊長シメオン、そしてジェルヴェーズの側近であるブレーズ公爵嫡男フィデールが並ぶのみである。
公式な場ではあるが、内密の話である。だからこそこのような顔ぶれなのだが、少数であることが私的な雰囲気を作ってしまうこともあり、ジェルヴェーズは正式な王命に真っ向から反発した。
「ローブルグは長きにわたるシャルムの宿敵。それを、王位継承者たる私がローブルグへ赴き、同盟を組むための交渉にあたるなど、ありえぬことです。ならばいっそ私に兵を率いて彼の国へ攻め入るよう命じてください。そのほうが、よほど名誉なことです」
「そなたの気持ちもわからないではない。だが今、ローブルグと戦争を起こしたところで、双方にとってなにも得るものはない。必要なのは外交による勝利だ」
ジェルヴェーズは憮然とした。いかにもシュザンが言いそうなことである。父王の背後にいるのがだれなのか、ジェルヴェ―スにもようやく見えてくる。
「あくまでも父上は私に、敵国に頭を下げよとお命じになるのですか」
「頭を下げろとは言っていない。交渉へ赴くようにと命じているのだ」
「同じことではありませんか。同盟を望んでいるのは、我が国なのですから」
憤る息子に対し、シャルム国王エルネストは根気強く説得を続ける。
「そうとも限らない。北方でエストラダがどのようにして諸国を制圧しているのか、ローブルグにも伝わっているはずだ。ならば、彼の国とて今後いかにして自国を守るべきか思案を重ねているに違いない。ローブルグが他国と手を結ぶ前に、我が国は行動を起こすべきなのだ」
ジェルヴェーズは、王のそばに立つシュザンを一瞥する。彼こそがこの一件を父王に提言した人物だと、ジェルヴェーズはほぼ確信していた。
リオネルの叔父にもあたる正騎士隊隊長のシュザンは、真っ直ぐにジェルヴェーズへ視線を注いでいる。ジェルヴェーズの不快感はさらに増した。
「私でなくても、交渉はできるはずです」
吐き捨てるように言う。
「私は辞退します」
「さっきも言ったとおり、ユスターの使者は王に謁見さえ許されなかったそうだ。我が国から使者を向かわせたとしても、おそらく同様の待遇を受けるだろう。だが王位継承者たるそなたが赴けば、さすがに無視することはできまい。それくらいの覚悟を見せなければ、ローブルグ国王の心は動かせぬ」
「あの奇人と名高いフリートヘルム王の心など、動かしたくもありませぬ」
「シャルムの危機であるぞ。ユスターがアルテアガと手を結んだ今、ローブルグまでもがあちらに加われば、シャルムは三国に囲まれ未曽有の危機に陥る」
「王子という立場がそれほど重要ならば、レオンを遣わせばいいではありませんか」
「あれは今そなたの代わりにリオネル・ベルリオーズの見舞いに行っている」
「そんなもの、引き揚げさせればいいのです」
「この重大な任務を任せることができるのは、次期国王たるそなたしかいないのだ。これは王命だ。とやかく口答えせずに従いなさい」
「…………」
舌打ちしたいのをどうにかこらえる顔で、ジェルヴェーズは押し黙った。こうもはっきりと「王命」と告げられれば、受けるほかはない。だが、到底納得はできない。
忌々しげな面持ちで、しかし、ジェルヴェーズはぎこちなく父王に対し頭を下げる。だがその途中、ジェルヴェーズの視界に、壁際に佇む側近フィデールの姿が映った。
フィデールの瞳は、意味ありげにジェルヴェーズへ向けられている。その淡い青灰色の双眸は、たしかに微かに笑っていた。
――お受けくださいませ、殿下。
彼の表情はそう言っている。
――おもしろい考えがございます、と。
このときようやく、ジェルヴェーズは王命に従う決心がついた。
「謹んで勅命を賜ります、陛下」
心のなかで密かに嘆息しながら、エルネスト王は重々しくうなずいた。大広間に安堵の空気が流れたのは言うまでもない。