第一章 敵国ローブルグへの使者 1
窓からは、赤茶色の家々の屋根、街の中心を流れる川、そして、眼下には果樹園を見渡すことができる。
川沿いの、山の麓に建てられた城だ。城の周囲の斜面には、小作人らが手入れをする農地や果樹園があり、さらにその向こうには都が広がっていた。
この窓から外へ視線を向けるたびに、フリートヘルムは忘れえぬ光景を思い起こす。
まさに、この窓からだったのだ。
あの日フリートヘルムは、姉のカロリーネと共にその光景を目撃した。
果樹園のなかを、走り抜ける二人の姿――。
兄アルノルトは、愛する相手を支えながら、ここを下っていた。その光景を眺めながら、フリートヘルムは自分が走っているかのような感覚を覚え、両手を固く握りしめ、姉と共に二人を見守っていた。
ただ恐ろしく、早鐘を打つ心臓が痛かった。城の楼閣の鐘は鳴っていないのに、耳元では激しく警鐘が鳴り続けていた。
逃げる二人に追いすがる兵士たち。
そのときフリートヘルムは、一条の光の筋を見た。
四歳年上の姉カロリーネがすぐ隣で高い悲鳴を上げる。朝陽に煌めく矢が、逃げる娘の身体に突き立っていた。
遠くて声は聞こえない。だが、兄の口がなにかを叫んだ。その声は、フリートヘルムには聞えないはずなのに、頭のなかで響きわたった。
シュトライト率いる兵士らが二人を取り囲む。
視界が真黒に染まった。
フリートヘルムの記憶に残る次なる場面は、姉と共に、鉄格子のはめられた狭い部屋で、敬愛する兄と会話しているところである。
……妹弟がアルノルトの幽閉されている部屋を訪ねたのは、捕らえられて二日経ったころのこと。
『お兄様……』
アルノルトより五歳年下の妹カロリーネは、涙を流した。
『ごめんなさい、わたしが余計なことをしたせいで――』
力なく視線を上げたアルノルトは、かすかに口元を笑ませる。
『いいんだ、カロリーネ。おまえのせいじゃない。おまえは、私たちを助けようとしてくれたのだから』
さらにカロリーネは、鉄格子のはめられた窓を見やって、怒りをにじませた。
『こんなのひどすぎる。まるで、監獄だわ。お兄様は王太子でいらっしゃるのに』
カロリーネの背後では、彼女のさらに四歳年下のフリートヘルムが、怯えた面持ちで固まっていた。
『フリートヘルム』
アルノルトは弟の名を呼んだ。
『おまえにも心配をかけたな』
十歳のフリートヘルムは、いつも快活なカロリーネのそばにいるせいか陰が薄く、無口で大人しい少年だった。
『もしわかるなら、教えてくれないか。クラリッサが助かったとシュトライトから聞いているが、彼女は今どうしている』
『…………』
二人は押し黙った。そしてついにカロリーネの喉から嗚咽が漏れ出る。
――ああ、そうか。
すぐにアルノルトは察した。
――やはりそうなのか。
愛する娘は、助からなかったのだ。
不安げに黙って見つめてくるフリートヘルムと、泣き崩れる妹とを、眺めるともなく眺めるアルノルトの瞳から、一粒涙がこぼれて頬をすべる。
――ああ、クラリッサはもうこの世にはいないのだ。
『フリートヘルム、許してくれ』
弟を引き寄せて、アルノルトはつぶやいた。突然、兄の腕に抱きしめられたフリートヘルムは、なにが起こっているのか理解できていない。
『この国を継ぐのはおまえだ。私を赦してくれ、フリートヘルム』
そう言ったとき。
生温かい血しぶきが、二人の姉弟のまえに散った。
アルノルトが手にしていたのは、フリートヘルムの腰に下げられていたはずの短剣。
『お兄様――――!』
カロリーネが悲痛な声を上げる。けれどアルノルトは、風が吹くようにほほえんでいた――いつもと変わらぬ優しさで。
どんなときも、アルノルトはこんなふうに穏やかな青年だった。
いつだって、太陽のようにあたたかく、周囲に輝きを与えてくれた。この国の光であり、希望だった。
それなのに、運命が用意していた結末は、これほどまでに残酷とは――。
『カロリーネ、フリートヘルム。おれの子を――、……を、頼む』
兄の血に濡らされながら、大きく双眸を見開き、フリートヘルムは立ちつくしている。
手の届かぬほど眩しい存在である兄アルノルトの言葉は、フリートヘルムの耳に、遠く異国の言葉のように聞こえていた。目の前で起こっている出来事、聞こえてくる言葉、そのすべてを理解することができなかった。
カロリーネの叫び声に気づき、兵士らが部屋に駆け込む。
室内は、鉄が錆びたような匂いに満ちていた。
すでにアルノルトの身体は血に染まり、息も絶え絶えだった。あたりには真紅の海が広がり、兄はまさにこの世界から消え去ろうとしている。フリートヘルムは果てしない絶望を覚えていた。
『嘘だ。こんなことがあるはずがない』
その言葉を、頭のなかで幾度繰り返しただろう。兄が息を引き取った瞬間は、やはり黒い暗幕に覆われて思い出すことができなかった。
+
あのとき部屋に満ちていた匂いは、あのまばゆいばかりの兄の存在とは、今でも結びつかない。人の身体のうちに流れるものが、一様にあの鉄錆のような匂いのものであるなどとは、到底考えることができなかった。
少なくとも、輝かしい兄アルノルトの存在は、あのような生臭い匂いとは程遠いものだった。
海の色を称えた瞳で、フリートヘルムは城下を見下ろす。
あれから二十年が経った。
なんという歳月だろう。
二十年。
この歳月は、あのとき十歳だったフリートヘルムを「大人」と呼ぶべき年齢にし、恐ろしかった父王の命を奪い、フリートヘルムに玉座を与えたのだ。
けれどこの気の遠くなるような歳月でさえも、王となるはずだった兄の存在を、フリートヘルムの記憶から消し去ることはなかった。
……夕暮れの空は、澄んでいる。
煉瓦色の街はその赤さを増し、川面は夕陽の欠片を散りばめて輝いている。
ここから見える景色は美しい。
美しいが、それは、けっして自分のものにならない光景だ。
これはすべて、兄アルノルトが受け継ぐべきだったはずのもの。フリートヘルムがこの景色を――この国を拒絶しているのではない。この景色が、この国が、フリートヘルムを拒んでいるのだ。
王などという肩書きに、興味もなかった。
隣国では、玉座欲しさに、正統な王位後継者である異母弟を裏切った者もいるという。フリートヘルムには理解できない行動だった。
生まれながらに王とは決まっているものだ。少なくとも、兄アルノルトは、王となるべく生まれてきた者だった。
明るく朗らかな性格でだれからも愛され、聡明で、父であり先王であるディートリヒは王の資質に溢れるアルノルトを溺愛し、まるで珠玉のように育てた。まさに、神々に祝福された王子であったのに。
姉カロリーネもまた、明るく活発な女性である。
輝く太陽や星の下で、まぶしさに耐えかね身をひそめて育ってきたフリートヘルムが、今、あの兄が立つべき場所にいるなど、いったいだれが認めることができるだろう。
……先程から、背後にはひとりの騎士がひざまずいている。長いこと同じ姿勢のまま無言で控えていた。
その騎士に、ようやくフリートヘルムは返事を放る。
「逃げられたのは今更しかたがない。どうにかして、もう一度探しだしなさい」
騎士は重々しくうなずきつつ、フリートヘルムに確認する。
「では、いまひとつの件……ユスターからの使者はどういたしますか」
「会わない」
「と、申されますと?」
「追い返せ」
「しかし……」
「裏でこそこそと行う外交など、ろくなものではない。面倒事に巻き込まれるのは御免だ」
束の間の沈黙を置いてから、騎士は頭を下げた。
「――かしこまりました」
室外では、いまひとりの騎士が待機している。フリートヘルムの面前から辞したばかりの騎士は、同僚に聞こえるほどの小声でつぶやいた。
「せめてヒュッター殿が、ツィンドルフの城から戻られていればな……」
「殿下はなんと?」
「引き続き探すようにと。ユスターの使者は追い返せとおおせだ」
浅く溜息をついてから、待機していた騎士は諦めた視線を閉ざされた扉へ向ける。
「ヒュッター殿がおられても、陛下の態度にお変わりはなかろう。カロリーネ様がいれば多少は違うかもしれないが」
「陛下は、あの方を探す以外には、なにも関心をお持ちでない」
するとそばにいた同僚の騎士が、皮肉めいた語調で言った。
「我々が血眼で探し出したとしても、おそらくあの方を王宮へ連れて帰ることなどできはしないだろうに」
重苦しい溜息が混ざりあう。
「やれやれ、陛下は外交にも内政にもご興味をお持ちでない。お世継ぎなど望むべくもないし、政治の実権を握っているのは今やシュトライト候ただおひとりだ。王家の血脈はフリートヘルム王の治世で絶え、栄華を極めた我が国も、もはやこれまで」
痛烈な指摘に、騎士は苦い感情を口元に浮かべたのだった。
+++
「おい、アベル」
声をかけられたのは、昼食がはじまって間もないころだった。
顔を上げたのは従騎士の少年アベル。
月明りのごとき金糸の髪を後ろでゆるく束ね、淡い水色の瞳を印象付けるその容姿は少女と見紛うばかりだが、事実、アベルは十五歳の少女なのだった。
男として生きる道を選んだのには、ひと言では語りきれぬ経緯がある。
アベルを男と信じて疑わない騎士ラザールは、大麦で作られたパンをちぎり、頬張りながら尋ねる。
「今日は、牛の尾のようにおまえにまとわりついているヴィートの姿が見えないが?」
そういえば朝食にも顔を出していなかったし、とラザールは首を傾げた。「牛の尾」という言葉に笑いそうになりながらも、答えるアベルの声には寂しげな響きが滲んでいた。
「今朝早く、ヴィートはラロシュへ戻りました」
ヴィートというのは、もともと山賊であった若者だが、アベルの主人であるリオネル・ベルリオーズが山賊討伐をした折りに、盗賊業から足を洗った青年である。
「なんだって? おれは聞いてないぞ」
目を丸くするラザールの周囲では、騎士たちが聞くともなく二人の話を聞いている。
「彼は神出鬼没なんです。突然現れたのですから、突然帰っても不思議ではないでしょう?」
「それはそうだが、挨拶もなしとは冷たいな」
このようにラザールが言うのも当然のことだった。
貴族出身者である騎士らが集うベルリオーズ邸において、山賊あがりのヴィートは、ラロシュにいる山賊たちとの調整役というその重要性を認められても、完全には受け入れられていない。それは出自の確かでないアベルにも共通することだ。
けれどそのような雰囲気のなかで、ラザールやダミアンら一部の騎士は、他者と区別することなくヴィートに接していた。むしろ、かわいがっていたといっていいだろう。
それが突然姿を消してしまえば、水臭いと思うに違いない。
「彼なりに別れを言うのが照れくさかったのではないでしょうか」
ふうむ、と唸りながら、ラザールはパンくずのついた髭を撫でた。
「今度会ったら、脇腹を小突いてやる」
なんだかんだ言いながら、ヴィートがいなくなったことを残念がるラザールの様子に、アベルはつい口元をほころばせる。
「今、笑ったな?」
「いえ……」
「おれは寂しくなんかないぞ」
その台詞に、周囲の騎士たちが笑いを噛み殺した。だれもがラザールの心境を察していた。
ほほえみながら、アベルはしみじみとつぶやく。
「本当にラザールさんは、いい人なんですね」
「なんだ、おまえ。まだ十五歳の雛鳥のくせに、一人前な口を利きやがって」
「すみません」
寂しいのは、アベルも同じだった。手持無沙汰なのか、居場所がないのか、この館にいるあいだじゅうヴィートは、アベルのそばにいるか、もしくはイシャスと遊んでいるかのどちらかだった。
心根の優しいヴィートが突然いなくなれば、アベルとて喪失感を覚える。
けれど、しかたがないということもわかっている。
彼は、遊びにきているわけではない。ラロシュにいる元山賊らと、彼らを監督する立場にあるリオネルとの調整役を担っているヴィートは、双方を頻繁に行き来しなければならなかった。
けれど裏を返せば、また遠くない未来にヴィートはベルリオーズへ再び顔を出すだろう。
そのためではないかと、アベルは思う。ラザールらに、なにも告げずに館を去ったのは、別れを告げるほど長く離れるわけではない――早くここへ再び戻りたい――という、彼の気持ちの表れだったのではないか。
そう考えれば、ラロシュで別れたときほどの寂しさを、アベルが感じることはなかった。
日常が戻りつつある。
長いあいだ、怪我を負ったリオネルのそばに付き添っていたため、アベルが通常の生活に戻ったのはつい最近のことだ。
食卓の端では、ロベール・ブリュデューやトマ・カントルーブなど、保守的な騎士たちがかたまって座っている。身元の確かでないアベルを疎んじる彼らは、アベルの存在を無視するかのように生活しており、アベルもあえて自分から彼らに近づこうとはしなかった。
リオネルの怪我の具合は安定しており、通常の生活が再開されたため、ベルリオーズ邸ではなにも起こらなかったかのような雰囲気が漂っている。
けれど、以前と大きく異なるのは、リオネルの左腕が未だ動かせないことだ。
そのことを、公爵はじめ館中の者が懸念しており、アベルは毎晩手を組んで祈っているのだが、本人はいっこうに気にしておらぬ様子で、「いつか動くようになる」と笑っている。
ベルリオーズ邸が暗い空気に包まれないのは、おそらくリオネルの明るさゆえだろう。
他に以前と違うことといえば、シャルム王国第二王子レオンやアベラール家嫡男ディルクが館に滞在していることだ。二人はあえて口にしないが、リオネルの左腕が動くようになるのを見届けるまでは、去るに去れないといったところのようだった。
「雛鳥などと言いつつ――」
にこにこと笑いながら、若手の騎士ダミアンが口を挟む。
「ラザール殿は、ヴィートがいなくなって寂しいのではなく、心配なんですよね」
「なんの話だ」
虚をつかれたようにラザールが答えた。
「やつのことなんか心配してないぞ」
「そうではなく……本人の前なのでこれ以上は言いませんけど、雛鳥のまわりに、野生の珍獣が番犬のようについていると、ラザール殿も安心だったということでしょう?」
「これ以上は言わないといっておいて、ダミアン、おまえ、はっきりと言っているではないか」
そばにいた老騎士ナタルが鋭く指摘しつつ笑った。アベルは顔を上げる。
「え?」
不思議そうな顔をするアベルに、ナタルは白髭に覆われた口元を笑ませた。
「アベルが突然この館から消え、王都サン・オーヴァンで大怪我を負って帰ってきたとき以来、ラザールはおまえのことが心配で仕方がないのだ」
「ラザール殿はけっこう心配性だということです」
ダミアンとナタルが笑うと、笑われたラザールはもごもごと弁解する。
「それは、むろん、ベルリオーズ家の従騎士は我々が守らなければならないからな。リオネル様もアベルのことを大変心配なさっておられるし」
しばしアベルは言葉を失った。自分は、ラザールらにとっては身分の低い、他所者である。そのうえ、当主であるリオネルに怪我を負わせたのだ。批難され、館を追い出されてしかるべきなのに、彼らは心配さえしてくれている。
感謝してもしきれぬ思いにアベルは駆られた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われるようなことなんぞ、してないぞ」
透きとおった水色の瞳をまっすぐに向けられ、ラザールは視線を逸らして頭をかく。
「照れているラザール殿なんて、なかなか見られません」
後輩のダミアンに冷やかされ、ラザールは片眉を上げた。その場をごまかすように、ラザールはアベルの皿に肉を盛る。
「ほら、肉を食え、肉を。いつまでこんなに細っこい身体でいるつもりなんだ」
「こんなに食べられません」
まだ空になっていないアベルの皿に、ラザールは次々と鹿肉の塊を載せた。
「そんなことを言っているから、おまえは骨と皮しかないんだ。早く頑丈な身体になって、リオネル様を安心させてさしあげるんだ。いいか、ベルトラン殿やクロード殿までとはいかなくても、ダミアンや、せめてジュストくらいの体格にはなれよ」
「…………」
むろん、ダミアンやジュストのようになれるものならなってみたいが、果たして肉を食べれば彼らのようになれるのか。自信はない。男顔負けの剣豪ではあるが、なんといってもアベルは女性だ。それを知るのは、主人であるリオネルの他には数名しかいない。
「さあ、シャルムの騎士なら、肉を食い、酒を飲み、剣を握り、敵を倒し、女の愛を勝ち取れ。それでこそ男だ」
「無茶苦茶な展開ですね」
ダミアンがつぶやくと、周囲に笑いが巻き起こった。