プロローグ
……荒い息遣いが鼓膜に響くようだ。
早朝の冷たい空気に、絶え間なく白い息が吐き出されては、溶けていく。
焦るほどに女の足はもつれ、ともすれば倒れそうになった。うまく走れないのは、腕に抱く小さな存在のせいではない。極度の緊張と疲労のためだ。
躓き倒れそうになるそのたびに、彼女を支えるのは、かたわらを共に走る青年である。
「もう少しゆっくり走ろう。追手は来ていないから、心配しなくていい」
このようなときでも、青年は取り乱すことなく恋人を気遣った。逃げることができなければ、なにもかもが崩れ去るというのに。
果樹園の木々の合間を、ひと組の男女が走り抜けている。
周囲に人の姿はない。陽は登ったばかりだ。
娘の腕には、生まれてまもない赤ん坊が抱かれていた。母親の温もりに包まれ、赤ん坊は安心しきって眠っている。けっして離すまいとするように、娘はしっかりとその小さくあたたかな身体を抱いている。
隠しきれぬ焦りを紺色の瞳に滲ませながらも、青年は二人を導いていた。
「あっ」
娘の足がもつれる。赤ん坊を抱きしめながら前のめりになる身体を、青年が支えた。
「やはりこの子は私が抱いて行こう」
「いいえ、転ぶのはこの子のせいではないの。それにアルノルト、あなたは赤ん坊を抱き慣れていないのではないの?」
訝る眼差しで娘が問うと、こんな状況でも青年は小さく苦笑する。
「これから練習するよ」
「たくさん練習してちょうだいね」
娘は目だけで笑った。すでにそれは恋する少女ではなく、ひとりの男を愛し、その男とのあいだに授かった子供を守ろうとする女の顔だった。
「わかった。焦らなくていいから、怪我しないように」
「はい」
二人が再び走りだしたときだった。後方から馬蹄の音が響いた。
まさか、と青年は背後を振り返る。果樹園の向こう、城の方角から、馬に乗った幾多の兵士らの追いすがる姿があった。追いつかれるまでに、時間はかからないだろう。
「まずい」
青年はつぶやくが、蒼白になった娘は声も出ない。青年は娘を咄嗟に抱え上げようとした。けれど相手は騎兵だ。娘と赤ん坊を背負い、逃走を続けるなど無謀なことである。
伸ばされた手を、娘は退けた。
「なにをしてる、クラリッサ。早くこっちへ」
「もう、逃げられない」
「なにを言っているんだ」
「――わたしは充分に幸せだった、あなたの子供を産むことができたのだもの」
この子をお願いします、と赤ん坊を差し出そうとする娘を、アルノルトと呼ばれた青年は強引に引き寄せようとした。そのとき、鋭い羽音がまるで幻聴のように二人の鼓膜を打つ。
時が止まる。
運命を大きく分けたその一瞬は、永遠とも思える錯覚を二人に与える。
アルノルトが娘の名を叫ぶ。
不意に赤ん坊が目を覚まし、泣きだした。
等間隔に植えられた果樹園の木々の合間に、大きく広がる朝焼け――傾き倒れていくクラリッサの瞳は、虹色に輝く空の美しさを映し出した。
「クラリッサ――!」
悲痛な叫び声が上がる。赤ん坊の泣き声は、ますます大きくなった。
「……ああ、アルノルト」
胸元を射抜かれたクラリッサは、けれど、驚くほどはっきりとした語調で言った。
「大丈夫よ、不思議と痛くないの」
クラリッサはその白い頬に、笑みさえ浮かべている。
彼女の語る言葉が真実なのか、それとも安心させようとしているのか。ただ愛する相手の名を呼び続ける以外に、アルノルトにできることはない。その間も、赤ん坊は狂ったように泣き続けている。
一瞬のうちに追手はアルノルトとクラリッサを取り囲む。ひとりの騎士が馬から降り立ち、アルノルトに向けて一礼した。
「王子殿下、城へお戻りくださいませ」
固い声音がアルノルトに降りかかる。
「おまえらは――おまえらは……!」
呪いの言葉を吐きだすように繰り返し、アルノルトはクラリッサと子供を抱きしめながら、兵士らを見上げた。
「……人の命をなんだと思っている」
「殿下がおとなしくお戻りになるならば、その女と赤ん坊の命はお助けいたしましょう」
束の間、アルノルトの表情に迷いの色が浮かんだ。いつもなら「その手には乗らない」と跳ね除けたであろう。けれど、今は愛する娘と子供の運命がかかっているときだった。
すぐに手当てすれば、クラリッサを助けることができるかもしれない。たとえ遠く引き離され、二度と会えぬようにされたとしても、それでもこの世界のどこかでクラリッサが子供と共に生きていてくれたら……。
「おまえの言葉を信じていいのか、シュトライト」
「陛下への忠誠にかけて誓いましょう」
「――わかった」
沈痛な面持ちでアルノルトは承諾した。
つい先ほどまで意識を保っていたはずのクラリッサは、すでに瞳を閉じ、血に染まった胸元を不規則に上下させている。迷っている余裕はない。彼女を救うためならば、今は悪魔にでも魂を売り渡すだろう。
了承を得た途端、兵士らは赤ん坊とクラリッサをアルノルトの手から引き離し、アルノルトの身体を拘束した。
「なにをする!」
「国王陛下のご命令です、アルノルト様」
兵士らによって捕らえられ、アルノルトは宮殿の「西の塔」にある一室に軟禁された。