42
視界を埋めつくす紫。
むせかえりそうなほどの、甘く切ない香り。
太陽が眩しい。今は、朝だろうか、それとも昼だろうか……。
アベルは夢を見ていた。
花を一輪ずつ、つなげている。
――ラベンダー。
不器用なはずのアベルが手にしているのは、作りかけだが美しい花冠だった。だからこそ、アベルはこれが夢であるということを、はっきりと認識することができた。
遠くで遊んでいるのは、イシャス。
笑い声が木霊する。
やがてイシャスがこちらに向けて走ってくる。アベルは花冠を作る手を休め、顔を上げた。自然と、顔が綻ぶのが自分でもわかる。無邪気なイシャスの笑顔を、アベルは心から愛おしいと思った。
「これ、なに?」
走り寄ってきたイシャスがアベルに尋ねる。
「花冠よ」
しばらくラベンダーの花冠を見つめていたイシャスは、そっとそれに触れ、「きれい」とつぶやいた。
「リオネル様の大切な方に、贈ろうと思ってるの」
そしていま一度顔を上げてイシャスに向けてほほえむと、そこには、イシャスの姿はなく、代わりに濃い茶色の髪と深い紫色の瞳の少年が立っていた。
イシャスよりずっと年上だ。けれど、まだ子供である。少女と見紛うほど整った容姿の少年だった。彼が、幼いころのリオネルであると気づくまで、長い時間はかからなかった。
リオネルは、哀しげな面持ちでアベルの前に立っている。その瞳はけっして涙を溜めてなどいないのに、頬には涙が伝っているかのように見えた。
「全部、ぼくのせいだ」
はっきりとリオネルはそう言った。
――すべて自分のせいだ、と。
アベルは手を伸ばす。
「大丈夫」
なにが大丈夫なのか、わからない。この少年の苦しみさえ、アベルにはわからない。ただ、言ってあげたかった。言わずにはおれなかった。
こうすること以外に、なにをこの少年にしてあげられるだろう。
少年の頬に手を触れ、アベルは繰り返した。
「大丈夫、大丈夫だから……」
こくりと少年がうなずくと、手に伝わっていた温もりが突如、消える。少年は、光の粒となってラベンダー畑に散った。
大きく見開いたアベルの瞳は、虚空を見据える。
「待って……!」
光の残片を掴もうとするかのように、アベルは手を伸ばす。だが、触れたのは、かすかに冷たく感じられる光の欠片。
そして散った光の先にいたのは――。
その人の名を呼ぼうとして、けれど言葉は声にならず、その姿が視界から薄れ、やがてラベンダー畑の風景さえ遠のき、アベルは覚醒した。
太陽が眩しい。
今は、朝だろうか、それとも昼だろうか……。
その感覚は、夢のなかと同じだ。
視界に、ひとりの青年の姿をみとめる。陽だまりのなかで、本を読んでいるのはリオネルだった。
また自分だけ椅子に座ったまま眠りこんでしまったことを知り、アベルはひどく焦る。起きあがろうとすると、すっと肩が寒く感じられた。アベルの身体には、毛布がかけられていたのだ。
アベルが目覚めたことに気づき、リオネルが顔を上げる。そして、当然のように言った。
「まだ夜だよ。寝ていてかまわない」
「夜って……」
窓の外は明るい。リオネルの部屋は、輝くばかりの光に溢れている。けれどリオネルは、冗談を言っているようにも見えない。
「ごめんなさい、わたしは今日も――」
「まだ夜だと言っただろう? ゆっくりしていればいい」
淡々と告げると、リオネルは再び本に視線を落とす。
「…………」
しばし沈黙したのち、アベルはやや声を低めて言った。
「またわたしを甘やかすおつもりですか? それとも、からかっているのですか?」
読んでいた本を小卓へ置き、リオネルは顔をアベルへ向けた。
「ごめん」
短くリオネルが謝る。困ったような微笑で。だが、謝罪されて真に困るのはアベルのほうだった。
「寝ていたら、起こしてくださいとお願いしたはずです」
そう言いながらも、アベルは決まりの悪い面持ちだ。それもそのはず、眠ってしまって謝罪しなければならないのはアベルのほうなのに、なぜかリオネルが謝罪するという展開になってしまったからだ。
ならば、はじめから眠らなければいいのだけれど、夜は悪夢を見ることが多くて深く眠れず、また、このところリオネルの寝室にある長椅子で休んでいるため、午前中はほとんど朦朧としたような状態だった。
「そうだったね、これからはそうするよ」
すまなそうにリオネルが答える。こんなやりとりを、これまで幾度繰り返してきただろう。これからは起こすと言いながら、リオネルが実行に移したためしはない。それどころか、アベルが眠ってしまうと、いつも毛布や膝掛がかけられている。
毛布をたたみながら、これはリオネルがかけてくれたのだと思うと、アベルは切なくなった。
「これ……」
アベルは小さな声で言った。
「……毛布、ありがとうございました」
礼は言わなければならない。いや、彼の気遣いに対しては、心からありがたいと思うのだ。
こんな気の利かない自分を、リオネルは非難せず、見守ってくれるだけではなく、風邪を引かぬようにと気遣ってくれる。本当は、嬉しい。とても嬉しい。けれど、その優しさに甘んじてはならないと、アベルは絶えず自らに言い聞かせていた。
「よく眠れた?」
笑顔を向けられれば、アベルも素直に答えずにはおれない。
「夢を、見ていました」
「どんな夢?」
「わたしの夢など、お聞かせするほどのものではありません」
「聞きたいんだ。とても気持ちよさそうに眠っていたから」
淡い空色の瞳でアベルはリオネルを見つめた。リオネルの言葉が意味するところを、判じきれなかったからだ。
しばしばアベルは悪夢を見る。見る夢のほとんどは、悪夢といっていいだろう。
今日のように幸福な光景のなかにいる夢など滅多にないが、見るときは不思議なことに、リオネルのそばにいるときばかり。リオネルと共にいるときの安心感。それが、アベルに幸福な夢を見させているのかもしれない。
とても気持ちよさそうに眠っていたから、とリオネルは言った。普段は悪夢ばかり見ていることを、リオネルは知っているのだろうかとアベルは束の間考えたのだった。
「……ラベンダー畑にいる夢を見ました」
「ラベンダー畑?」
「はい、先日リオネル様に連れていっていただいた場所です」
そうか、とわずかに驚いたようにリオネルはつぶやく。
「ラベンダー畑で、きみはなにをしていたんだ?」
「花冠を、作っていました。――貴方の誕生日の贈り物を。ずっと花冠の作り方を説明した本を読んでいたので、夢に見たのでしょうね」
笑いながらアベルがそう言うと、リオネルが無言になる。突然相手が黙ったので、アベルは心配になった。
「リオネル様?」
アベルの優しい主人は、なにやら深刻そうな顔をしていた。
「アベル、夢に見るまで花冠のことを考えてくれるのは嬉しいけど、そんなに頑張らなくてもいいんだ、わかっているね? きみが作ってくれるものなら、どんなものでも嬉しい。おれへの贈り物だからとか、礼拝堂に飾っておくからといって、完璧でなくともかまわないんだ」
「それは……わたしが作る花冠は、うまく仕上がらないとご想像されているのですね?」
アベルの指摘に、リオネルは困惑した面持ちになる。
「いや、そうではないけど、アベルがこのところずっと花冠の本を読んでいたから……」
「たしかに、これまで作ったものは、ひどいものでした」
かつてデュノア邸で作った花冠をアベルは思い出す。とてもではないが、人に贈ることができるようなものではなかった。何個作っても、うまくいかなかった。
「ですが、夢のなかでは素晴らしいものができたのです」
「そうなんだね」
「わたしが心配しているのは、もうすぐラベンダーの時期が終わってしまうことなのです。リオネル様の十九歳のお誕生日をお祝したいのに」
言い終えてから、アベルの脳裏になにかがひらめく。
――そうだ。
リオネルと共に行かなくてもいいのではないか。自分ひとりでラベンダー畑へ行き、あの礼拝堂に飾っておけば、それで充分気持ちは伝わるのではないか。
「アベル、まさか――」
リオネルが紫色の瞳を細める。
「なんでしょう、リオネル様」
「ひとりで行こうなんて思っていないだろうね」
「えっ?」
今思いついたばかりのことを言いあてられ、アベルは動揺した。
「そ、そんなつもりは……」
リオネルの双眸がアベルにひたと向けられている。
だめだ、とアベルは思った。この人の前で嘘はつけない。宝石のような紫の瞳には、なにもかもを見抜かれてしまう。
「……ですが、ラベンダーが枯れてしまっては、冠を作ることができなくなってしまうではありませんか」
やはり、という顔さえリオネルはしなかった。すでにリオネルのなかでは、疑惑ではなく、確信にまで至っていたのだろう。
「だめだ。ひとりであんな遠くまで行かせるわけにはいかない」
「遠くまでって、子供ではないのですから」
「シャサーヌの街で起きたようなことを、繰り返すわけにはいかない」
「シャサーヌで……?」
なんのことかと記憶を辿ったアベルは、一ヶ月ほど前に、仕事の途中で観劇へ行ったことを思い出した。責められているのだと思い、アベルはうつむく。
「……今度は仕事中ではなく、余暇をつかって行きますから」
「問題は観劇へ行ったことじゃない、共に行った相手だ」
「ジークベルトのことですか? 彼は……友人です。悪い人ではありません」
真っ向からジークベルトを庇うアベルの姿勢に、リオネルは不安とはまた違った、もやもやした感情を覚えずにはおれない。いつかヴィートに対して抱いた気持ちと似ている。
人は、このような思いのことを「嫉妬」と呼ぶのだろうかと、リオネルは思った。
わずかに眉をひそめ、それからリオネルはすっと席を立つ。
「わかった。今から、いっしょに行こう」
「は……?」
思わずアベルは口を開ける。リオネルがなにを言いだしたのか、理解ができない。
「おいで。おれがこれからきみを、もう一度ラベンダー畑へ案内する」
「なにをおっしゃっているのですか? リオネル様は怪我をされています。そんな身体で……」
「使えないのは左手だけだ」
たしかに、リオネルならたとえ両手を放しても、容易く騎乗できるだろう。
だが――。
「なにかあったら、どうするのですか。もし馬から落ちて肩でも打ったら……」
「おれは絶対に落ちない」
「刺客に囲まれるかもしれません」
「右手が動けば充分だ」
「せめてベルトランといっしょに――」
「ベルトランはディルクと剣の鍛錬をしている」
「呼びにいきましょう」
「いや、いい。きみがいれば他に供はいらない」
けっして強い口調ではなく、頬にはかすかにいたずらっぽい笑みまで浮かべているのに、リオネルの態度には有無を言わせぬものがある。
するりとアベルの脇を通り抜け、扉を開けて「行こう」とリオネルはアベルを促す。けれど、アベルは従うわけにはいかなかった。
「できません。わたしは先日、リオネル様にお怪我を負わせたばかりです」
「怪我を負ったのは、おれ自身の力が足りなかったせいだ。きみのせいじゃない。そして、もう二度と怪我などしない。そうきみに誓ったはずだ」
「リオネル様のお身体が心配なのです」
「おれは、きみがひとりで出かけてしまうのではないかということのほうが、心配だ」
「行きません、ひとりでは行きませんから」
「今後、二度と単独で行動しないと誓うか?」
「…………」
誓えない。誓えなかった。誓いを立てれば、いずれ破ることになるのは、わかりきっている。アベルが黙っていると、リオネルがほほえむ。
「よし、じゃあ、いっしょにラベンダー畑に行こう。一ヶ月近く、部屋から出なかったんだ。そろそろ外の空気が吸いたい。きみもだろう?」
もはやアベルはなにも言えなかった。差し出されたリオネルの手に、躊躇いながらも自らの手を重ねる。
命に代えても――、とアベルは思った。
これからは命に代えても、リオネルを何者からも守らなければならない。なぜあの日、自分はリオネルの盾になることができなかったのだろう。この命など、リオネルのためなら惜しくもないのに。
「ヴァレールは元気かな」
白い陽光が窓から溢れる廊下を、怪我をしているとは思えぬ軽い足取りで、リオネルは歩いていく。
ヴァレールとは、リオネルの愛馬の名だ。リオネルは嬉しそうである。
久しぶりの外出が嬉しいのだろうと、アベルは思った。その気持ちは、アベルにもよくわかる。しかしリオネルが真に感じていたことは、実際には少し違った。
怪我をしてから、アベルはずっとリオネルのそばにいてくれた。片時も離れずに。
回復するまでは、けっしてそばから離れまいとするアベルの想いが、リオネルにはなによりも嬉しかったし、こうして共に過ごす時間はかけがえのないものだった。
こんな時間が、永遠に続けばいいと思うほどに。
けれど、それが叶わぬ思いであることは、リオネルもよく知っている。
アベルは、風のような少女だ。目のまえにいても、たとえこの腕に抱きしめても、ふと消えてしまうような感覚に襲われる。
主従としての隔たり、ベルリオーズ家の跡取りとしてのリオネルの立場や、フェリシエとの縁談、アベルの秘められた過去の苦しみ……それらが、いずれ二人の距離を大きく引き離してしまうような気がしてならないのだった。
人気の少ない通路を通り、アベルの手をしっかりと握ったままリオネルは、裏口から厩舎のほうへ向かう。
手を握られることへの恥ずかしさから、アベルはうつむいている。
けれど、なにも掴めない非力なこの手が、たしかにリオネルと繋がっているのだと思うと、アベルは心のどこかで泣きたいほどの幸福と、神への感謝を覚えるのだった。
次回、第四部の最終話です。
長い間ありがとうございます。あと一話おつきあいいただけましたら幸いですm(_ _)m yuuHi