26
アベルは、庭園の先にある広大な芝生を越え、その北東に位置する木立のなかにいた。
馬に跨ったまま少し駆けてみたり、木に芽吹いた若葉や花の蕾を眺めたりしている。
久しぶりに身体を動かし、馬の背に跨るのは爽快だった。進むたびに全身に伝わるその振動が心地よい。
ゆっくりと馬首をめぐらせながらあたりを散策する。
森の中ほど鬱蒼としておらず、適度な間隔で観賞用の木々や草花が生えるこの木立は、おそらく自然のものではなく、庭師によって設計され造られたものだろう。
その空間はアベルの心を安らかにした。
そして気がつけばアベルの影は地面に長く伸び、辺りは朱色と暗黒の二色に支配されている。
そろそろ帰らなければ、とアベルは後ろ髪をひかれながらも自分自身に呟いた。
部屋の窓から中庭にいる馬を確認し、館を抜け出してきたのは数時間前のことだ。これまで周囲の目を気にして庭園を散策することはずっと避けていたので、馬で遠出する絶好の機会だった。
いずれこの館を出れば、残りの生涯でこのように馬の背に揺られて、木立を散策することなんてないだろう。この機を逃せば二度とできないことだと思ったからこそ、多少強引な方法でここまで来た。
エレンには申し訳ないことをしたと思っている。
「戻ったら、謝らなくちゃ」
アベルはひとり呟く。
「怒ってるだろうな……」
館のほうへ馬首をめぐらせ、馬の腹を足で軽く蹴った。
けれど木立を抜け、芝生の領域へ入ったそのとき、庭園のほうから駆けてくる二騎の長い影をみとめる。近づいてくる馬に乗っていたのは、リオネルと、ベルトランだ。
七日経っても戻らなかった二人が、まさか、十日以上過ぎたこの日に現れるとは、想定していなかったことだった。
アベルは、ついさっきあとにしたばかりの木立に、踵を返して再び戻りたい気持ちになる。リオネルになにか言われることは容易に想像がつく。彼の小言を聞くのは嫌だった。
けれどここで逃げても、いずれは顔を合わせることになるのはわかりきっている。しかたなくアベルは二人がくるのを馬上で待った。
目前まで馬を寄せると、二人は手綱を引く。
アベルを見据えるリオネルの顔に、読みとれるような表情は見当たらない。
「アベル」
呼ばれてアベルは紫色の瞳を見返した。
「自分の身体のことを考えているのか?」
リオネルの声は低い。
アベルの心臓がずきりと跳ねた。リオネルが怒っている――かつてないほどに。
アベルはなにも答えなかったし、リオネルもそれ以上なにも言わなかったので、三人のあいだには重苦しい沈黙が流れた。
リオネルの視線から逃げるように、アベルはうつむき馬首をめぐらせる。
二人の横を無言で通りすぎようとするアベルのその横顔に、リオネルの冷やかな声が降りかかった。
「ドニに聞いていないのか。出産まであと二ヶ月だ。自分の身体とお腹の子のことを、少しは考えたらどうだ」
今までにも口うるさくいろいろ言ってきたリオネルだったが、このように厳しい物言いをしたのは初めてのこと。
アベルは、馬の歩みを止める。
その視線は、目の前の、馬のたてがみのうえに落ちていた。
「勝手な行動を取ってごめんなさい」
「そんなことを言っているんじゃない」
アベルは顔をあげてリオネルを見る。夕陽を映した紫色の瞳に宿るのは、たしかに怒りの色。
アベルの身体は、とてもあと二ヵ月余りで出産するようには見えない。それほど、アベルは痩せていた。自らの身体を大切にしていないように思えるアベルの行動の全てに、リオネルは憤っているようだった。
涙の泉のような瞳を、アベルはひたとリオネルに向ける。
「お腹の子など、どうなってもいいと思っています」
アベルの言葉に、リオネルは眉をひそめた。
「本気で言っているのか」
押し黙ったアベルの顔は泣いているようにも見えたが、その水色の瞳から涙が流れ落ちることはなかった。
「……あなたに」
言葉をいったん切ったそのアベルの唇は、かすかに震えている。
「あなたに、女の……女であることを厭う、わたしの気持ちなんてわかりません」
長い、長い影が、三人の跨る馬の脚から伸びていた。
沈んでいく夕陽がアベルの背後で真紅に燃えている。
アベルの金糸の髪も紅く縁取られ、夕陽に溶けていくようだった。
「そうか」
リオネルは、低い声音で言った。
「それならば、おれも――きみのことなど、どうなってもいいと思うことにする」
「…………」
「なにもかも好き勝手にすればいい」
穏やかだが、背筋の凍るような冷たさでそう言うと、リオネルは馬の腹を強く蹴った。
アベルの発した言葉は、十六歳の青年を本気で怒らせたようだった。
リオネルを乗せた馬はアベルの脇をすり抜け、またたくまに館のほうへと駆けていく。
駆けていった馬の速さで、アベルの髪がかすかに揺れた。
「リオネル!」
ベルトランが呼んでも振り返ることはない。諦めたようにベルトランがこちらを向いたとき、アベルの水色の瞳はぼんやりと馬のたてがみを見つめていた。
ベルトランはなにか声をかけようかと思ったのかもしれないが、この孤独な少女には、だれの、どんな声も届くことはないのだろうと悟ったようだった。彼も馬の腹を蹴り、館のほうへ馬を駆けていく。二人の後ろ姿は、夕焼けのなかに消えていった。
アベルは芝生に一人残されて、そっと馬の頭をなでた。
泣くことも、笑うこともできずに、たてがみに顔をうずめる。
どのような感情が自分のなかにあるのか、アベルにはわからなかった。
悲しいのかどうかもわからない。
優しくされること、冷たくされること、そのどちらに対しても、心の感覚はずっとまえから麻痺している。
感情を押し殺してからずいぶん時間が経っていた。
アベルは今夜、この館を出ようと思った。
館の主をあれほど怒らせて、ここに留まるわけにはいかない。
「ねぇ、あなたの名前はなんていうの?」
跨っている茶色い毛の馬に頬を寄せ、話しかけた。
「今日はありがとう、とても楽しかった。……わたしはあなたのご主人様を怒らせてしまったけど、あなたとここへ来たことを後悔はしていないから」
アベルはゆっくり馬を歩ませて館へ向かう。
館に戻ると、すでにリオネルとベルトランは王宮に向けて発った後だった。
そして、アベルが激しい腹痛に襲われたのは、その夜のことだった。
寝静まった騎士館の一室。
人の気配を感じて、ディルクは細目を開ける。
夕方にベルリオーズ家別邸に発ったはずの二人の姿が、ぼんやりと暗闇のなかに浮かびあがって見えた。もう戻ってきたのかとディルクは内心で驚く。
「ベルトラン、つきあわせてすまない」
「いや、おれは別に」
小声で会話を交わし、二人は寝る支度をしているようだ。
「おまえが騎士館に戻ると言い出して、一番慌てたのはジェルマンだ」
「……そうだね。申しわけないことをした」
「白髪が一本くらい増えたかもな。……では、おれは寝るが」
「おやすみ」
出入り口の扉に近い寝台にベルトランは横になったが、リオネルは窓際の寝台の脇に置かれた木製の背もたれ椅子に腰かけたままだった。
「寝ないのか?」
ベルトランが肘をついて半身を起こし、問いかける。
「すぐに休むよ」
リオネルがそう答えると、ベルトランは無言で再び寝台に長身を横たえた。
室内を、静寂と、闇とが支配する。
リオネルは、頬杖をついて、暗闇の一点をただ見つめていた。
どれほどそうしていたのか、ディルクは、リオネルが布団に入るのを見届けることなく、いつのまにか深い眠りに落ちていた。