40
街が輝いている。
シャサーヌの夜。
商店や家の窓から漏れる明かりや、街灯の光が、空に灯る無数の星たちをかすませている。まるで空にいたはずの星たちが、地上に落ちたようだ。
地上の星に彩られた街は美しいが、明りを灯した店内は静穏とは無縁である。人々が大声で議論する声が、街路にまで漏れ聞こえていた。
彼らの話題は、半月前から今朝に至るまで、ベルリオーズ家嫡男リオネルの怪我のことで埋めつくされていた。けれど今はそこに、シャルム宮殿から見舞いにきたレオンの話題も加わっている。
「レオン王子が見舞いに来るってことは、リオネル様の怪我の具合は相当悪いということだろうな」
「おい、不吉なことを言うんじゃねえよ。レオン殿下は、リオネル様のご友人だから見舞いにきたというだけだ。リオネル様がそんな大怪我を負われるはずがねえ」
「なにを根拠にそんなことを言い切れるんだ。リオネル様だって人間だぜ。流行り病にもかかれば、怪我だって負われるだろうよ」
「おれたちがそんな軟弱な考えでいるから、リオネル様がお怪我を負われるんだ。いいか、ご領主様が我々を守ってくださるように、我々もご領主様をお守りしなければなんねえ。だが、おれたちになにができる? おれたちゃ、働くこと以外には、こうやって飲んで食って語りあうことくらしかできやしない。じゃあ、どうすればいいと思う?」
熱く語る男に、困惑気味な答えが返ってくる。
「そんなの知らねえよ」
「愛だよ、愛。そりゃ愛しかねえ」
周囲からはなんの反応も返ってこなかったが、男は続ける。
「おれたちがご領主様方を、常に深い愛と尊敬によって敬っていれば、ひどいことにはならねえんだ。愛が足りないと、公爵様やリオネル様を危険な目に遭わせてしまうってことだ。おまえらの足りない頭で、おれの言いたいことがわかるか? リオネル様の怪我が重いかもしれないと疑うことそれ自体が、愛の足りない証拠だ」
「おめえの愛じゃあ、なんだか臭そうだな」
だれかがぼやく。
「ご領主様も、そんなものいらないんじゃないのか」
「ああ、少なくともおれはいらねえ」
あちこちで反論が出たので、これまでにも増して男は熱く語りはじめる。
酒場に限らず、婦人同士の立ち話、礼拝のあとの情報交換、店先での世間話、家族団欒の会話など、街のいたるところでリオネルとレオンのことは話題になっていた。
生粋のシャサーヌ市民ではなく、またシャルム人ですらないこの男も、リオネルの身に起こった事件については知っている。嫌でも耳に入ってくるのだから、知らぬはずがない。
ジークベルトは、周囲の客たちの会話をつまみにしながら、麦酒の大きな杯を傾けていた。
それにしても、とジークベルトは思う。
この街における、領主家の人気には驚くべきものがある。ベルリオーズ公爵と、今は亡き侯爵夫人、そして跡取りであるリオネルの悪口をおよそ耳にしたことがない。
国王派とやらの立場に立つ他所者が、酒場でベルリオーズ公爵を批判したのをジークベルトは一度だけ聞いたことがある。そのときは、居あわせた客たちが激怒して、客同士で大喧嘩となった。
厄介なことに巻き込まれぬよう、ジークベルトは早々に店を出たが、その一件から、ベルリオーズ領内においては、けっして領主家の影口は叩くまいという教訓を得たものである。
ベルリオーズ公爵については、祭典などの際に、幾度かその姿を目にしている。嫡男リオネルは、街で偶然に一度、そしてラロシュ領へ山賊討伐に向かう際にいま一度目にしていた。
容姿の整った親子ではある。特にリオネルは、絶世の美女であったという母親の血を濃く引いているらしく美男子だ。
だが、ベルリオーズの領民のようにジークベルトはリオネルに親しみを抱いているわけではない。
リオネルが並々ならぬ腕の持ち主であることは、一目でわかった。幼いころから剣の修業を重ねてきたジークベルトも、彼には及ばないかもしれないと感じるほどだ。
領民からこれほど慕われているのだから、人柄も素晴らしいのだろう。
顔よし、腕よし、人柄よし……と申し分のない人物ではあるが、なにしろ印象が悪い。
あの紫色の瞳。
偶然にもシャサーヌの街で会ったとき、深い怒りをたたえたあの瞳を向けられ、ジークベルトはなにか身体のうちに秘められた感情を、引き出されるような心地がした。
それは、リオネル・ベルリオーズという人間が、シャルム王家の正しい血筋を引く者だからだろうか。
シャルム王国とローブルグ王国という歴史的敵国にそれぞれ属する者の身体には、理屈ではなく、自ずと敵対心が湧きあがるような血が流れているのかもしれない。
それに加えて、あの少女の存在があった。
異色の趣味を持った人物をよく知るせいだろうか、男女を見分ける能力においては、ジークベルトは人より格段に長けている。
街ではじめてアベルを見かけたとき、彼女が女性であることを、ジークベルトは即座に見抜いた。
姿形ではない。リオネルのように、整った容姿の男もいれば、男と見紛うばかりの女もいる。ならばなぜわかったのかといえば、ジークベルトにもはっきりとはわからない。直勘――としかいいようがないものだ。
勘は磨かれるものだというが、磨かれてもどうしようもないような勘である。余分な能力が備わったのは、あの男のせいだと祖国にいる人物を思い浮かべるが、今回ばかりはそれが少しは役に立ったというわけだ。
女とわからなかったら、ジークベルトはアベルには近づかなかっただろう。
「さあ、これからどうやって彼女を口説こうかと考えていたところだったけど」
祖国からこの地へ流れてきてしばらく経つ。
シャサーヌに逗留したのは、殊のほかこの華やかな街が気に入ったからだ。ここには、ローブルグの王都エーベルヴァインとはまた異なる不思議な魅力がある。許されるならば、このままこうして好きな場所でぶらぶらと生きていきたい。
だが、そろそろこの場所を離れなければならないときが、近づいているようだった。
酒場を出て雑踏へ出たジークベルトは、ちらと露店をのぞくふりをして、背後へ視線を走らせる。すると、二階部分が突き出た木組みの家屋の陰で、すっと人影が消えた。
ずっと後をつけられている。逗留場所も突き止められているに違いない。彼らを撒くつもりなら、早々にシャサーヌを離れなければならない。
離れることに躊躇いはない。追手を撒けば、いくらでもこの場所へ戻ってくることはできる。けれど名残惜しいのは、名前を教えてもらったばかりの少女のことだった。
次に会ったときには、口説くつもりでいた。彼女の主にはすでに警告したのだ、堂々と彼のもとから奪っても文句を言われる筋合いはない。
――しかし。
「あの男が、怪我を負うとはね」
このような状態では、いくらアベルに気の利いた言葉をかけたとしても、心に響かないだろう。彼女の心は、主人の怪我のことでいっぱいなのだから。
それに、だ。
リオネル・ベルリオーズは、暗くなった森に入ってむざむざ獣に襲われるような軽率な輩ではない。狩りで怪我を負ったというのは、おそらく建前なのだ。公表できぬ事情があったに違いない。
あの男が、怪我を負ってまで守ろうとしたものがあるとすれば、それは――。
どう考えても、ジークベルトの立場は不利だった。
「おい、ジークじゃないか」
突然肩を掴んだのは、飲み屋で幾度か顔を合わせるうちに親しくなった、シャルム人の男である。
「ああ、伯爵殿」
その男はけっして爵位など持ってはいなかったが、酒に酔うと自分はどこいらの伯爵家の庶子であると吹聴するので、ジークベルトは彼を「伯爵殿」と呼んでいた。実の名はニコラである。
「そうとも、伯爵様さ」
自信たっぷりに答えてから、ニコラはジークベルトにどこへいくのかと尋ねた。
「酔い覚ましに歩いていただけだ」
「酔ってねえだろ? あんたが酔ったところなんて、見たことないぞ。なあ、暇なら遊びにいこうぜ。今夜もおれのために、いい女をひっかけてくれよ」
「かまわないよ。代わりにひとつ頼みを聞いてくれるなら」
「なんでも聞くぜ」
こうして夜の街へ繰り出した二人は、男女入り乱れる酒場へと入っていく。ジークベルトをつけていた影は、店外の物陰へ潜み、再び二人が出てくるのを待った。けれど明け方近くなっても、ジークベルトはおろか、連れの男も出てこない。
酒の匂いが充満する店内。
泥酔した客らのなかにジークベルトの姿はなく、彼が裏口から出ていくのを手助けした伯爵様だけが、女の肩に手をかけながら椅子で大いびきをかいていた。
+++
「真相は依然として不明ということか」
薄暗い部屋は、かすかな炎と葡萄酒の香りがした。
「どうかな……シャンティは、婚約破棄を知ったあとに亡くなっている」
低い調子の声が響く。片手でひたいを覆ったのは、ディルクだった。
「今回デュノア邸へ行って明らかになったのは、アベラール邸で婚約破棄を告げられたデュノア伯爵が、館に戻ってからシャンティに手を上げたということだ。それからシャンティは池に落ちた」
「失望ゆえの自殺に違いないと?」
静かな口調で、リオネルが問う。
「可能性は高くなる」
「仮にそうだったとすれば、母が婚約を後押ししたことと繋がらない」
「単純に良縁だと思われたのかもしれない」
「それだけの理由で、父に内密にしてまで、アベラール侯爵に頼み込むだろうか」
ディルクが押し黙ったのは、それについてはたしかに解せなかったからだ。
深夜である。
エスカルゴをつまみに、皆で酒を酌み交わしたあとだった。
この夜用意されたエスカルゴは特別なもので、アベルはエスカルゴの味を思いのほか気に入り、いくつも口に運んだ。けれど、苦手を克服しようとして無理にエスカルゴを食べたマチアスは、気分が悪くなって部屋で休むはめになった。マチアスにしては珍しい事態である。
既にアベルとヴィートはそれぞれ自室に戻っていた。
レオンは旅の疲れからか酒がまわったようで、うとうととしながら、時折リオネルらの会話に相槌を打つが、どこまで話を理解しているのかは不明だ。
かくして、確実に会話に参加しているのはリオネル、ディルク、そしてベルトランの三人だけだった。
「たしかに、一連の流れからすると、自殺と考えるのが自然だが」
ベルトランが腕を組む。
「もしアンリエット様がシャンティ殿の死を予期していたとすれば、自殺だったとしても、その背景になにかがあるかもしれない」
「……人が、何年も先の自殺を予期できるものだろうか」
「状況によっては、ありうるかもしれない」
「どんな状況だ?」
「それは――、すぐには思いつかないが」
口ごもるベルトランの傍らで、空になった杯にディルクは自ら葡萄酒を注ぎ足した。
今夜、ディルクが消費する葡萄酒の量は多い。いつもは周囲に見せることのない表情が、ディルクの顔には浮かんでいた。それは、親友たちのまえだからこそ垣間見せる一面である。
「――わかってた」
小さな声で、ディルクは言った。
「事故でないことはわかっていた」
それは、カミーユやフィデールの態度からも、明白なことだったはずなのに。
「それでも、自殺でなかったならばと、心のどこかで願っていた」
「ディルク……」
沈痛な面持ちで、リオネルはつぶやく。ディルクは杯に満たされた葡萄酒を、眺めるともなく眺めていた。
「聞いてくれて、ありがとう。今のおまえに聞かせる話ではないとは思ったんだけど、怪我の具合がよさそうだったからつい口にしてしまったよ」
「母の後押しした結婚だ。おれにとっても、シャンティ殿のことはやりきれない」
「ああ、そういってもらえると、ありがたいよ」
蝋燭の光をたたえた葡萄酒を眺めながら、ディルクは消え入るような笑みを浮かべる。
不意にリオネルが自らの杯を持ち上げた。
「シャンティ殿のために」
銀杯が煌めく。
祈るような、リオネルの声だった。
「彼女の魂が安らかであるように」
無言で顔を上げたディルクは、目を細め、杯を軽く掲げた。
+++
七月も残すところあと十日ほどである。
今年の夏は例年と変わりなく、汗が額に滲むような日はまだ訪れていない。時折激しい嵐が訪れる以外、シャルムの夏らしい清々しい天気が続いていた。
夏は、社交の季節である。
王都には地方からも多くの貴族が集まり、華やかな宴が連日各所で催されていた。
むろんシャルム宮殿もそのひとつである。もっとも華やかな社交場といっていいだろう。夕刻になると、着飾った男女が次々と馬車から降りて、宮殿の門をくぐった。
浮かれた雰囲気が、城だけではなく街中に溢れている。けれど宮殿内には、そのような華やかな雰囲気からはかけはなれた、緊張感の漂う一室があった。
「できるかぎり、早めに手を打たねばなりません」
部屋に響いた声にはまだ若さが滲むが、意志の強さが秘められている。
「ユスターの動きは、すでに見過ごすことのできないところまできています」
大勢の王侯貴族らが並ぶ長机に、地図を広げて主張したのは、正騎士隊隊長シュザン・トゥールヴィルだった。
立って説明するシュザンを見上げる出席者は、シャルム国王をはじめ、そうそうたる面々である。竜の東部に公爵領を有するルスティーユ公爵、竜の尾に領土を持つロルム公爵、それに加え、大変珍しいことに、シュザンの兄であり、リオネルの叔父にもあたるフェルナン――現トゥールヴィル公爵も出席していた。
フェルナンは、ほとんど自領から出ない。社交の季節に限らず、王の誕生祭や五月祭にさえ、王宮に赴くことはなかった。
王宮での生活が煩わしいというのもさることながら、フェルナンは現国王を毛嫌いしているのである。そのことを知ってか知らずか、エルネストもまた、フェルナンに対しては重要な場面に参加せずとも、とやかく言うことはなかった。
前述した他にも、名立たる貴族らがこの会議には参席している。重大な話し合いであると同時に、この季節だからこそ、各地から領主らが集まることができたのだ。
ただ姿が見えないのは、王子ジェルヴェーズと、その側近であるフィデールである。
社交の季節、ジェルヴェーズは普段にも増して女遊びに明け暮れていた。宴で気に入った相手と連日のように明け方まで寝台で過ごすジェルヴェーズは、当然、朝の会議などに出席することはできない。フィデールは、そのような主人のそばについていた。
「ユスターとアルテアガはすでに交渉を成立させ、両国は手を結びました。さらに諜報員の報告によれば、彼の国は、アルテアガに次いでローブルグにも働きかけようとしている模様です」
議場がざわめく。ユスターが、アルテアガに加えローブルグまでをも、味方に引き込もうとしているとは。もしそれが実現すれば、シャルムの西方は三国の脅威にさらされる。
彼らが手を結んで侵略してくれば、三国に囲まれた竜の尾に位置する領地など、ひとたまりもないだろう。大国シャルムにとっても大きな脅威だ。
「ユスターは、隣国を味方に引き入れたうえでシャルムへ侵略し、大陸西方において多大な影響力を及ぼすことで、北方からの脅威、つまりエストラダの侵略に対抗しようとしていると考えられます」
たしかに、大国ユスターがアルテアガとローブルグと同盟を組み、さらにシャルムを支配下に置けば、飛ぶ鳥を落とす勢いのエストラダでさえ、容易には手を出せないはずだ。
「つまり我が国を、エストラダの侵略から身を守るための盾にするというわけですな」
出席者がざわざわと議論を交わしはじめる。
「しかしだ。もし我が国が、侵略を食い止めるためにユスターと争うことになれば、北部にも王都にも隙が生じる。戦いの最中に攻められたら、我々はエストラダに対抗できない」
「それこそが、ユスターの狙いなのではないか。全軍を動かせないことを知りながら、戦争に持ちこむ。勝敗は明らかだ」
「なるほど、でなければ、ユスターが戦いなどを仕掛けてくるはずがない。勝算があるからこそ、つまらない欲を出すわけだ。何食わぬ顔をして、実は虎視眈々と我が国に攻め入る機会を狙っていたのかもしれないぞ」
長年の敵国であるシャルムとローブルグ。けれど、その争いをただ横から見守っていただけのはずだったユスターが、機をとらえてシャルムを潰す。なるほど、たとえシャルムの領土を同盟を結んだ三国で分けたとしても、ユスターは広大な国土を有することになろう。
「だとすれば、狡猾な狐だな」
侮蔑するようにつぶやいたのは、シュザンの兄フェルナンである。貴族のなかで最も位の高い「公爵」という爵位を持つ者のうちで、三十五歳のフェルナンは最年少だった。それは、前トゥールヴィル公爵が病を患い、爵位を息子に譲ったからである。