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扉を開けてすぐ、レオンの目に飛び込んできたのはリオネルの笑顔である。
「ああ、レオン。来てくれたのか」
最後に会ったのは一ヶ月以上前のことだ。久しぶりに見る友人の、変わらぬ笑顔と、思いのほか元気そうな姿にレオンは心から安堵する。
リオネルは肘掛椅子に座ったまま、読んでいた本を小卓へ置く。その傍らの長椅子では、アベルが本を膝のうえに乗せてうたた寝をしており、赤毛の用心棒は、いつものように影のごとくリオネルの近くに立っていた。
使用人にやらせればいいものを、昨夜使用した蝋燭の片づけやら読みおわった本の整理やら、細々としたことをマチアスがやっているようだ。特に仕事もないヴィートは、アベルが眠ってしまったため、片隅でちびちびと酒を飲んでいる。
いつ見ても変わらない穏やかな光景に、レオンは深い感慨を覚えた。
「リオネル、その、なんだ、久しぶりだな。怪我はどうだ?」
なぜ遠慮がちに話しているのか、レオン自身にもわからなかったが、リオネルからは優しげな声が返ってくる。
「ありがとう、おかげで順調に回復している。レオンも元気そうでよかった」
「おれは大丈夫だが、なんというか、おまえは大変だったな」
「大変?」
不思議そうな顔でリオネルは繰り返し、それから思い至ったように、「ああ、怪我したことか」と笑った。
「怪我したことなんて大したことじゃない。大変だったのは、そのあとだ」
「そのあと?」
レオンは首を傾げる。リオネルは曖昧な表情になった。
「アベルが館を去ると言いだして、気が気じゃなかった。おちおち寝台で休んでいられなかったよ」
「そこか」
やや呆れたようにレオンがつぶやく。
「おちおち休んでくれてりゃ、おれはアベルと旅に出れたのに」
ぼそりと発せられたヴィートのつぶやきを聞えぬふりで、リオネルは眠るアベルを見やる。
「……かわいそうなことをしたと思っている。おれのせいで、辛い思いをさせてしまった」
「おまえには、他に選択肢はなかっただろう」
口を挟んだのはベルトランだった。
「それはそうなんだけど、アベルを追いこんでしまったことには違いない。だれも教えてはくれないが、アベルを批判的に見ている騎士たちもいるのだろう?」
そう言いながら、リオネルはちらとディルクを見やる。
「アベルのことを思えば、もう少し違うやり方で助けることができたらよかったと、反省している」
リオネルの指摘に、室内が静まり返った。
厩舎裏で起こった事件について、関係者は一切口外していない。それは公爵の指示であるからだ。けれどリオネルは勘がいい。耳に入ってくる情報以上のことに、彼は気がついているようだった。
「いや、まあ、結果的には、アベルも狼から救えたし、リオネルの怪我も回復しているわけだし、これでよかったんじゃないのか? なあ、ベルトラン」
話を逸らそうと、ディルクがベルトランに同意を求める。――しかし。
「これでよかっただと?」
ベルトランの声は不機嫌そのものだ。
「リオネルがこれほどの怪我を負って、どこが『よかった』というんだ」
「ほら、だから、ヴィートを超える回復力で……傷口は塞がってるわけだし……」
もごもごと弁明するディルクに対し、ベルトランが無言になったのは、それもひとつの真実ではあったからだ。
リオネルがアベルに誓ったとおり、リオネルの肩は驚くべき速さで回復しつつある。それは、奇跡的に熱が下がった晩から始まった。怪我の回復は、アベルがそばにいることに起因しているのだろうか……。
「おれが同じ怪我をしたら、もっと早く治してみせるぞ」
杯を口に運びながら、ヴィートが喧嘩腰で言う。
「そんなことで競い合ってどうするんだ」
と、ディルクは呆れ顔になった。
「あいかわらずアベルはよく寝るな」
感心するようにつぶやいたのはレオンである。
「毎晩、リオネルの寝台の傍らで、椅子に座りながら寝ているから、疲れがとれないのだろう」
ベルトランが説明すると、リオネルが声の調子を落とした。
「おれのことより、アベルの身体のほうが心配だ」
「おまえもあいかわらずだな」
レオンのつぶやきに、皆が口元をほほえませた。
だれの目にも、ほほえましい二人の姿だった。感情の種類は違えど、互いを想いあうリオネルとアベルの姿には、見る者の胸を温かくするものがある。ただひとりヴィートだけはおもしろくなさそうだったが。
そのとき、小さな声が眠るアベルの口から漏れた。
「んん……」
ようやく目を覚ましたのだ。
これだけ大勢の者が話をしていても、今まで気づかなかったアベルの熟睡ぶりには、ここにいるだれもが舌を巻かずにはおれない。また、いくら周囲から殺気が感じられないとはいえ、騎士を目指す者としては、いささか警戒心に欠ける。
顔を上げたアベルは不思議そうにリオネルを見て、それからレオンを振り返る。
「レ……レオン殿下? わたしはお迎えにもいかず、こんなところで眠り込んで……」
途端にうろたえるアベルに、レオンが困ったように言った。
「いや、アベル。おれのために気を使うことはない。起こしてすまなかった」
シャルム王宮において、兄に毒を飲まされ瀕死の状態であったところをアベルに助けられてからというもの、レオンはアベルに頭が上がらない。
慌てて立ちあがったアベルの膝から、読みかけの本が落ちる。開いたまま落ちたその頁には、ラベンダーの花冠の作り方が挿絵付きで描かれていた。
それをリオネルはすっと拾いあげる。片手で本をアベルに差し出しながら、リオネルは眩しそうに相手を見上げた。
「もっと寝ていてよかったんだよ」
高貴な人たちに気を使われて、アベルはひどく困惑した様子だ。本を拾ってもらった礼を述べつつ、さっとリオネルの手からそれを受けとる。
「わたしが寝ていたら、どうか叩き起こしてください。主人や王子殿下のいるところで眠っている家臣など、館を追い出されてもおかしくないのですから」
花冠の作り方を示した本を抱きしめながら、アベルは言った。
その本を読んでいた理由を、リオネルは知っている。アベルが朝起きれない理由も、わかっている。アベルに返す言葉が見つけられないリオネルに代わり、口を開いたのはディルクだった。
「叩き起こす? リオネルがアベルを? そんなことをリオネルができるわけないじゃないか。できないことを要求するのは酷というものだよ、アベル」
「ですから、リオネル様はわたしを甘やかしすぎなのです」
「甘えていればいいじゃないか」
「そういうわけにはいきません」
きっぱりと言い切ってから、アベルはその場を離れ、レオンに長椅子に腰かけるよう勧めた。
「今回のことでわたしは骨身に染みたのです。わたしは、これまで以上に全身全霊でリオネル様をお守りします。それを妨げるのであれば、たとえリオネル様ご本人であっても容赦はいたしかねます」
アベルの気迫に、リオネルでさえ目を丸くしている。ディルクが驚いたように言った。
「容赦しないとは物騒だな。いったいどうなるんだ?」
「……本気で怒ります」
短くアベルが答える。
周囲はきょとんとしていた。それから、一拍置いて、部屋に押し殺したような笑いが広がった。途端にアベルの顔が赤く染まる。
「わ、笑わないでください。わたしは真剣です」
「いや、笑わないよ」
実際に、リオネルだけは笑っていなかった。
「アベルに怒られるのは、なにより怖い」
「そうだったね、リオネルにとってアベルとベルトランは、世界で最も怖い存在だった」
「え?」
ディルクの一言に、今度はアベルが虚を突かれた面持ちになる。
「リオネル様にとって、わたしが怖い存在とは……」
アベルはいったい自分がなにをしでかしただろうと、あれこれ記憶を辿った。主人に怖がられるとは、どういう家臣だろうか……。
「なあ、そうだろう、リオネル?」
にやにやと笑いながら、ディルクはリオネルに話を振る。
「それだけだと誤解を招くだろう」
「じゃあ、本人にしっかり説明してあげたら?」
親友に促され、リオネルはアベルに視線を向けて、躊躇いがちに口を開く。
「つまり……」
リオネルは言い淀む。
答えは明確だ。
愛しているから、怖い。
けれどリオネルは、アベルにうまく伝えられるような言葉を探すことができない。アベルの不安そうな空色の瞳が、リオネルに向けられていた。
「つまり、なくてはならない存在ということだろう?」
助け船をだしたのは、意外にもヴィートだった。――絶妙な言い方である。
「そういう意味では、おれもアベルが怖いからな」
「おれがマチアスを恐れているのも、そういう理由なのか?」
首を傾げるディルクに、ベルトランがすかさず指摘する。
「おまえの場合は、また違う理由があるんじゃないのか?」
会話についていけないアベルが、困惑した面持ちで立っていた。
「あれこれ言ってすまない。つまり――」
リオネルが真っ直ぐにアベルを見つめる。
「きみのことが大切だということだ」
――大切。
その言葉に込められた意味とは。
くすぐったいような、けれどひどく畏れ多いような思いに駆られて、アベルはわずかにうつむく。
ならば――、とアベルは思う。
だれよりも恐怖を抱いているのは、この自分だ。大事な主人であるリオネルを失うことを、アベルは自らの死よりも恐れている。アベルにとってリオネルもまたひどく怖い存在だった。
「こうしてレオンが到着して、また皆で集まることができたんだ。今夜はレオンが宮殿から持ってきた高級な酒で祝おうぜ」
「なにを祝うのです?」
ディルクの発言に、質問したのはマチアスである。
「皆で集まれたことだよ」
気を使うようにマチアスはベルトランとアベルの表情を見やったが、二人の表情は穏やかだった。だれもが皆で集まれた喜びを噛み締めている。
「酒のつまみに、エスカルゴっていうのはどう?」
ディルクが提案すると、ベルトランが真っ先に賛成する。
なにか確認するかのように、リオネルが無言で視線をアベルへ向けたが、アベルは小さな唇に笑みをたたえた。
「わたしも食べたいです」
「アベルが食べるなら、おれも食べるぞ」
と、すかさずヴィートが主張する。
「今日は、苦手なものを克服する日にするというのはどうだ、マチアス?」
主人に茶化されたマチアスが微妙な表情になると、部屋にはほがらかな笑いが広がった。
いつもありがとうございます。
あと3~4話で、第四部終了となります。最後までお付き合いいただければ誠に幸いですm(_ _)m yuuHi