38
静まり返っている。
暗い部屋は、人がいるのかどうかも定かではない。
――時間が止まっているようだ。いや、実際に時間は止まっているのかもしれない。少なくともエマのなかでは、あの日から時は少しも動いていなかった。
扉を叩く音は、控えめであったにもかかわらず、静寂のなかではひどく大きく響いて聞える。返事がないため遠慮がちに開かれた扉からは、瞬時に部屋へ光が差し込んだ。
「エマ様?」
光のなかから、怪訝そうに名を呼ぶ声がする。
「いらっしゃるのですか?」
「ああ、カトリーヌかい」
闇のなかから返事が聞こえる。
「私はここにいるよ」
「こんな暗い部屋で、いったいどうされたのです?」
この館の伯爵令嬢シャンティに仕えていた侍女カトリーヌは、廊下からの光を頼りに、家具などにぶつからぬよう、注意深く部屋へ足を踏み入れた。
ようやくカーテンまで辿りつくと、カトリーヌは一気にそれを開け放つ。
瞬間、部屋に光が溢れる。
光の洪水だった。
「眩しい、閉めておくれ、カトリーヌ」
寝台脇の小さな椅子に腰かけていたエマが、両手で顔を覆う。けれど、カトリーヌは怒ったように答えた。
「こんな暗い部屋にいらしたら、お身体を悪くします」
「わたしには眩しすぎる。お願いだから、閉めておくれ」
「いけません、エマ様。ちゃんと光を浴び、お食事をとらなければ、元気になりません」
「やめておくれ。閉めておくれ」
「お外に行かれるときは、そんなに眩しがったりしないではありませんか」
「だめなんだよ、カトリーヌ。光のなかにはシャンティ様がいる。ずっと見ていると、わたしは気がおかしくなりそうになるんだ。気がつけば、あの方のもとへ手を伸ばしている。あの方に届きそうな気がする。だが、ふと正気に戻って手を見てみれば、実際に触れているのは凶器だ。シャンティ様のところへ行くための、鋭い刃なんだ――」
顔を覆いながら語る声はくぐもっていて、泣いているのか、泣いていないのか、わからない。
カトリーヌは、沈痛な面持ちになると、躊躇いがちにカーテンに手を伸ばし、それをゆっくりと閉ざした。
部屋には再び暗闇が戻る。
昼間とは思えないほど暗い。まるで、冥府だ。開け放してある扉の向こう、廊下の窓から漏れる光が、現世に通じる道筋だった。
「ありがとう、カトリーヌ」
顔を上げたのだろう、エマの声はくぐもってはいなかった。
カトリーヌはいったん廊下へ出てから、再び室内へ戻る。そして、なにかを慎重に小卓に置いた。そのとき、カチャカチャとかすかな金属音が起こる。部屋には、食欲をそそる匂いが漂った。
「今日は朝食にも、昼食にもいらっしゃらなかったので、皆が心配しています。温めなおしてきたので、エマ様、どうか召し上がってください」
相手の姿が判然としない闇のなかへ、カトリーヌは話しかけたけれど返事はない。ふと、エマはこの部屋にはいないような感覚に、カトリーヌは囚われる。
「エマ様?」
「……ああ、カトリーヌ。おまえにはいつも世話をかけるね。感謝しているよ」
「感謝なんていいんです。それより、もっと召し上がってください」
「おまえのことがかわいいから、わたしは言うよ。よくお聞きなさい」
暗闇のなかから聞こえる声には、真剣というよりは、なにか恐ろしささえ感じさせる気迫がある。カトリーヌは返事ができなかった。
「いいかい、もしおまえがこのまま館に留まりたいと思うなら、余計なことは口にしないことだよ」
ごくりとカトリーヌは唾を飲む。「余計なこと」という言葉が指すものを、カトリーヌは知っている。だが、エマの言いたいことはわからなかった。
「三年前のあの日、シャンティ様は、伯爵様がお帰りになるまえに、なにも知らずにお亡くなりになったんだ。いいかい、ディルク様が来たら、もう二度とあんなことを言うんじゃないよ」
「ですが」
思わずカトリーヌは声を高める。
「――ですが、それではシャンティ様があまりにも、おかわいそうです」
「ああ、かわいそうだよ。シャンティ様も、ディルク様も、おかわいそうだ。若いお二人を苦しめたのは、わたしなんだよ。だからこうして、私はここで祈っているんだ」
「ディルク様に同情する必要など……! ご自身が招いた結果ではありませんか」
「カトリーヌ、おまえは己自身の哀しみに埋没してまわりが見えていないんだ。想像してみてごらん、ディルク様が婚約を破棄した御事情と、その後の結末から受けた衝撃を」
闇に沈黙がおちる。
廊下から漏れる光は、カトリーヌのいる場所にも届かなかった。
「……だれかを憎まなければ、生きていけないではありませんか」
ぽつりとカトリーヌが言う。
「シャンティ様が亡くなり、わたしは仕えるべき主人を失いました。それは、わたしの人生を失ったと同じです。だれかを憎まずに、どうして生きていけるでしょう?」
「わたしを恨めばいい。わたしこそが罰を受けるべき人間だ」
「エマ様は、なにもしていません」
「知らないほうが幸せというものだよ、カトリーヌ。さあ、わたしに祈らせておくれ。わたしはだれのことも恨まない。恨めないのだから、こうして祈ることでしか生きていけないんだ」
部屋の暗さは、エマの心の闇だ。いかなる言葉も、ここでは意味をなさない。そのことにカトリーヌは気づかされる。
黙ってカトリーヌは扉口に向かう。カトリーヌの影で、部屋はいっそう暗くなった。
部屋をでる寸前、カトリーヌは暗がりを振り返った。
「ちゃんと食べなければ、祈ることもできなくなります、エマ様」
暗がりから返答はない。
「カミーユ様と、トゥーサン様がお戻りになったとき、エマ様がお元気でなければ、お二人はどれほどお心を痛められることでしょう」
言葉が途切れると、沈黙のなかにすすり泣く声が聞こえた。
ほんの少しだけ、カトリーヌにはエマの気持ちが理解できる。エマは、哀しみと絶望の淵にいる。死んだほうが幸せなのかもしれない。だが、それさえ許されないのだから、彼女の心の安らぎとはいったいなんなのだろう。
返事の代わりに、かすかに食器と食器がぶつかる金属音が聞こえた。エマは食事を手につけたのだ。
このまま放っておいたら、エマは死ぬことができたかもしれない。けれどそれさえ、させてやらなかったのは、単なる自己満足だろうかとカトリーヌは思わずにはおれない。
天への祈りが、エマに救いをもたらしてくれるよう、カトリーヌは願った。
+++
複数の騎士らを伴った一台の馬車が、白亜の壮麗な館の門をくぐる。馬車の壁面には、シャルム王家の紋章――菖蒲の文様が装飾されている。
事件が起こった日以来、重苦しい雰囲気の漂っていたベルリオーズ邸に、この朝、明るい話題が咲いた。
シャルム王国第二王子であるレオンが、ベルリオーズ邸に到着したのだ。
国王派に属する人物には違いないが、リオネルと共にシュザンのもとで修業した身であり、ディルクも含めて彼らの親しさは皆が知るところである。
レオンが、真にリオネルの身を案じて見舞いに訪れたということを、館にいるだれもが理解していた。
玄関まで出迎えたベルリオーズ公爵との挨拶を済ませると、レオンは早速リオネルの部屋へ案内してほしいと申し出た。怪我をしてから半月以上が経つというのに、部屋から出ることができないという事実に、レオンはひどく不安になったのだ。
けれど、そんなレオンを呼びとめたのは、ディルクだった。
「ちょっと話があるんだけど」
有無を言わさぬ様子だったので、しかたなく見舞いより先にレオンはディルクと話をすることにした。
「なんだ、話というのは」
近衛であるシモンとクリストフも追い払われ、レオンはディルクに大階段の上にある踊り場の陰へ連れていかれる。
「久しぶりに会ったのに、やけに無愛想だな、レオン」
「おれはリオネルの見舞いにきたんだ。おまえと無駄話をしにきたわけじゃない」
「ああ、おまえがリオネルのことが大好きなことは、よく知っている。大丈夫だよ、リオネルは立って歩けるくらいには回復してる。おれの話はすぐに終わるから我慢してくれたまえ、王子殿」
「そ、そうじゃない。従兄弟として、兄の代わりに見舞いにきただけだ」
はいはい、と幾度もうなずきながら、ディルクは笑った。
「変わらないレオンらしさが嬉しいよ。もっと早くに来るかと思っていたけど」
「おれがベルリオーズ邸に赴くことが最終的に許可されるまで、一週間もかかったのだ」
「どうして?」
「西方に不穏な動きがあるらしい。なかなか父上の許可が下りなかった」
「西? ローブルグか?」
ディルクは眉をひそめる。西といえば、宿敵ローブルグの存在が真っ先に思い浮かぶ。
ローブルグ王国がもし大軍でシャルムに攻め込んでくれば、国境近くに位置するデュノア領やアベラール領は、間違いなく戦火に巻き込まれる。
けれど、レオンの返答は予想外のものだった。
「いや、ユスターだ」
「ユスター?」
ディルクは眉を寄せる。ユスター王国は、ローブルグの南に位置し、シャルム王国とは「竜の尾」部分と接する大国だ。長いことシャルム王国とユスター王国は剣を交えていない。彼の国が、いったいどのような動きをみせているのか想像もつかなかった。
「まあいい。この話はあとにしよう。まずはおまえの無駄話を聞いてやろう」
ディルクが浮かぬ顔つきだったのは、西方の動きが気になったからである。だが、先にレオンをリオネルに会わせてやらなければ、話の続きは聞かせてもらえそうにない。
「それが、無駄話でもないんだ」
薄茶色の瞳を、ディルクはレオンへ向けた。
「なんのことだ?」
怪訝な顔をする友人をまえに、ディルクは声を低める。
「リオネルとアベルのことだ。会いに行くまえに、蒼の森でなにが起こったのか、レオンには話しておきたい。そして、この事件に関して、アベルのまえで触れないでほしいんだ」
いつもは冗談の塊のような男が、なにやら真剣な様子なので、レオンはとりあえずうなずいた。
「わかった。約束する」
「頼むよ」
そうして、ディルクはリオネルの誕生日の二日前に、蒼の森で起こった事件についてレオンに語りだした。
その日は、ベルリオーズ家とアベラール家による大規模な狩りが蒼の森で催され、つつがなく終わった。だが理由はわからないが夕刻にアベルは単独で森へ入り、あたりが暗くなるとともに、アベルは狼に襲われ、リオネルがそれを助けようとして怪我を負うこととなった。その後、厩舎裏で起こったベルリオーズ家とアベラール家の乱闘騒動。
すべての責任を負ってベルリオーズ邸を去ろうとしたアベルを、リオネルが引きとめた。
「リオネルの熱はなかなか下がらなかったが、アベルがそばに来たら、奇跡のように下がった。それからは、アベルがずっとリオネルのそばにいる」
「今も?」
「今もだ。公爵様は、リオネルが望むかぎり、アベルがそばにいることを許可するとおっしゃっている。そのせいで、フェリシエはへそを曲げて自領に戻っちゃったけど」
扱いづらそうなエルヴィユ家の令嬢を思い出し、レオンは「へえ」と顔を引きつらせる。
女とはつくづく面倒臭いものだとレオンは思う。結婚はまだ当分先でいい。いや、このまま友人たちと楽しく過ごせるなら、一生そんなものしたくないとさえ思った。
「アベルは、リオネルに怪我を負わせたことをひどく気に病んでる。だから、あの子のまえで、事件のことを話題にしないでほしいんだ」
「それはかまわないが、そもそもなぜアベルは森へ?」
ディルクは首を横に振る。
「まだアベルはそのことについて、我々に話してくれていない。いや、もう話すつもりはないんだろうね。リオネルにさえ明かしていないようだから」
しばし考え込んでから、レオンは言う。
「話せない理由があるのだろうな」
「……あのアベルだからね、言わないと心に誓ったら、絶対に言わないだろう」
「事情はわかった」
「リオネルの怪我は順調に回復してる。レオンの顔を見たら喜ぶと思うよ」
こうしてレオンはディルクに案内され、リオネルの部屋へ向かった。