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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第四部 ~波乱に満ちた誕生日と、切なる祈り~
255/513

37






 最初に意識に届いたのは、自分の手を包みこむ温もりだった。次に感じたのは、閉ざした瞼を透かして視界を埋めつくす、眩い光。


 瞳を開けた瞬間、アベルはすべての記憶を取りもどして飛び起きる。


「…………!」


 弾かれたように顔を上げたアベルを、優しい眼差しで見つめていたのは、寝台に横たわるリオネルだった。

 アベルは我が目を疑う。最後に目にしたとき、たしかにリオネルの瞳は閉ざされたままだったからだ。


「熱は――」


 咄嗟に口から飛び出したのは、このひと言。それからアベルは返事を待たずに、リオネルのひたいに空いているほうの手を置いた。


 難しい表情で、アベルは手に神経を集中させる。まるで、難解な謎解きをするような険しさだ。その様子に、リオネルはそっと口元を緩める。


 リオネルの表情に気づいたアベルは、自分が笑われたのだということに気づくことができず、瞳をまたたかせた。


「リオネル様……?」


 ひたいに置かれた華奢な指先に、リオネルは自らの手を重ね、ほほえむ。


「もう大丈夫だ。ありがとう、アベル」


 普段と変わらない、相手を安心させようとするかのような、リオネルの笑み。途端にアベルの胸を占めていた暗い不安が洗い流され、代わりに胸が熱くなる。

 思いは言葉にならず、アベルの頬をただ安堵の涙が伝った。


「心配をかけてすまなかった」


 そう言って、リオネルは右手の人差指でアベルの涙をぬぐう。左肩から左腕にかけては、まだ動かすことができないのだろう、リオネルの左手は、アベルの左手に軽く触れたままだった。


「肩は……」


 肩の調子を尋ねようとしたが、最後まで言葉にならない。


「大丈夫だ」


 痛まないはずがない。

 アベルを安心させるためにそう言っているのだということを、アベルも、背後にいるベルトランもわかっていた。


 ――左腕は、もう動かすことができないかもしれない。

 その可能性を医者が示唆したことについて、本人には断じて伝えてはならないと、ベルリオーズ公爵からは固く口止めされている。


 隠し事をしているようなやましさと、そのような可能性について、けっして本人には知らせたくないという思いが混じりあっているところへ、周囲を安心させようとするリオネルの態度が、ひどくアベルをやり切れない思いにさせる。


「わたしのせいで、ごめんなさい」


 涙のうちに、小さな声でアベルは謝罪した。


「きみのせいじゃない」


 即座に否定したリオネルの語調は、優しい。アベルは再び涙をあふれさせた。


「リオネル様のお怪我が、わたしの傷であったならよかったのに」


 その言葉に、リオネルは眉をひそめる。それからアベルを、右腕で寝台へ抱き寄せた。


「もしこの傷を負ったのがきみだったら、命はなかったかもしれない」

「わたしは今、自分をゆるすことができません」


 リオネルの胸に顔を寄せて、アベルは声をおさえて泣く。


「そんな気持ちにさせていることを、すまないと思う。けれど、これでよかったんだ――きみを助けるためなら、左腕などいつでも獣にくれてやる」


 すると突如アベルは顔を上げた。

 涙に濡れた水色の瞳が、リオネルを睨みつけるように強い光を放っている。リオネルが息を呑んだのは、その気迫のためである。


「わたしはヴィートから獣を追い払う術を学びます。リオネル様のお身体を、二度と狼などに傷つけさせません」


 本当にヴィートから稽古を受けそうな勢いのアベルを見つめながら、リオネルはあの夜、狼を追い払ったときの獣じみたヴィートの姿を思い出す。

 リオネルは背筋がすっと寒くなるのを感じた。なにも答えられないリオネルの代わりに、ベルトランが苦笑する。


「ヴィートが狼を追い払う姿は、よほど迫力があったようだな」


 軽く咳払いをしてから、リオネルは右手でアベルの頬を包みこんだ。


「言い方が悪かった。もう二度ときみにこんな顔をさせないためにも、おれはけっして怪我などしない。――誓うよ」


 黙って深い紫色の瞳を見つめていたアベルは、やがてそっと瞳を閉じ、左頬を包みこむリオネルの手に、言葉にならない思いを委ねた。


 力強く、けれど繊細で優しい手。

 ――この温もり。

 胸に湧き上がる感情はなんだろう。安堵と焦慮、喜びと哀しみが、共存しているような心地。人はこのような気持ちを、なんと呼ぶのだろう――。


 感情の名前をアベルは知らなかったが、それと共に湧きあがるまた別の感情については、アベルも知っていた。それは、恐怖だ。

 なぜなのかわからなけれど、アベルは無性に怖かった。そして、恐怖から逃れようとすると、ひとりの女性の姿が目に浮かぶのだ。

 ……フェリシエである。

 だからこそ、弾かれたようにアベルはリオネルの手から逃れ、口を開いた。


「今日はリオネル様のお誕生日です」

「そう、だったかな」


 唐突なアベルの言葉に、リオネルはわずかに戸惑いながら首を傾ける。


「おめでとうございます」


 生真面目な様子で頭を下げたアベルに対し、


「ありがとう」


 と、リオネルは含み笑いで応じた。


「どうしたんだ、急に?」

「フェリシエ様も、リオネル様のお誕生日に、直接お祝いの言葉をお伝えしたいと思うのです。ですから、わたしはいつこの部屋を立ち去ってもいいように、あらかじめお祝い申しあげました」

「…………」


 かすかに残っていた含み笑いが、すっとリオネルの顔から消え、寂しげな表情へと変わっていく。それから、そっと口元に笑みをたたえて、アベルを見つめた。


「……おれの誕生日なら、きみからひとつ贈り物がほしい」

「わたしから?」


 驚いた顔をしたのは、なにも持たぬアベルである。所持品など、剣と服のほかには、ほとんどない。これまで貯めたお金はいくらかあるが、リオネルほどの者にふさわしい品を贈るためには、到底足りないだろう。


「差し上げたいのは山々ですが、わたしには――」

「笑ってほしいんだ」


 言葉を遮って、リオネルが言った。

 アベルはきょとんとしている。


「笑う?」

「まだ目覚めてから、きみの笑顔を見ていない。いや、もっと前からだ」


 ――最後に、アベルがリオネルのまえで屈託のない笑みを浮かべたのは、いつのことだっただろう。


「もうずいぶん長いあいだ、おれはアベルの笑うところを見ていないような気がする」


 よく意味がわからず、目をまたたかせていたアベルが、不意に顔を朱に染めた。


 笑ってほしい。

 笑顔が見たい。

 そんなふうに言われて、笑えるはずがない。


 そもそもなぜリオネルは、自分のような者の「笑顔」など見たいのか。それがいったいなんの役に立つのだろう。ようやく言葉を発したとき、次のように答えるのがアベルには精いっぱいだった。


「そんな冗談が言えるほど元気になったんですね」


 少し安心しました、とはにかみながらアベルは言うと、リオネルは真剣に答えた。


「おれはすぐに元気になる。ヴィートの回復力を超えてみせるよ」


 ヴィートの回復力――それは、医者も舌を巻いた、「人間とは思えぬ」ほどのもの。

 リオネルの言葉に、アベルは思わず笑ってしまう。久しぶりの笑顔だった。


 もちろんリオネルが目にするのも久々であるが、アベル自身にとっても長らく忘れていたものだ。……リオネルにとっては、思ってもみない最高の誕生日の贈り物となった。


「リオネル様が回復されたら、またラベンダー畑に連れていっていただけないでしょうか」


 意外そうな面持ちになるリオネルに、アベルは不安げな視線を向ける。


「いけませんか?」

「いや、けっしてそんなことはない。ただ……」


 言いかけて、リオネルは口をつぐむ。

 あの日の出来事がきっかけで、アベルはエレンからひどく責められることになった。それ以来アベルは、騎士館にこもりきりになり、リオネルの前にも姿を現さなくなってしまったのだ。そのことは、ひとつの陰りとして、リオネルの記憶のなかに刻み込まれている。


「おれが無理に連れていったせいで、きみに辛い思いをさせたことが、ずっと気になっていた」


 結局やんわりと心情を告白したリオネルに、アベルは視線を伏せ、かすかに笑ってみせた。


「ラベンダーの花冠を作りたいのです」

「花冠?」


 思わずリオネルが聞き返す。


「なんのために?」

「リオネル様は、あのラベンダー畑にある礼拝堂で、大切な方と二人だけで結婚式を挙げたいとおっしゃっていました。そのお相手のために、花冠を作り、礼拝堂に密かに飾っておきたいと思ったのです。――十九歳になられたリオネル様へ、わたしからの贈り物です」


 アベルの伏せられたまつ毛をしばらく見つめていたリオネルが、「そうか」と、ひと言だけ答える。

 それから、リオネルの右手が、アベルの細い指を握りしめた。


 顔を上げたアベルに、リオネルがほほえむ。


「なによりも嬉しい贈り物だ」


 ――ありがとう、アベル。


 再びアベルの顔に広がった笑みに、リオネルだけではなく、ベルトランまでが安堵を覚えた。


「素敵な贈り物のついでに、もうひとつ、おれのわがままを聞いてくれないか」


 アベルがわずかに首を傾げる。これ以上、自分がリオネルにしてあげられることは、なにひとつ思い浮かばなかったからからだ。


「もう二度と館から出ていこうなど――おれのそばから、なにも告げずにいなくなるなど――そんなことをしないでくれるか」


 淡い水色の瞳が、深い紫色の瞳と交わる。

 二人の横顔を、白い光が映し出す。


 小さくうなずくアベル。

 大きく息を吸いこみ、肩から力をぬくリオネル。


 不思議とベルトランは確信する。きっとリオネルは元の身体になる、と。

 リオネルは何者にも負けないだろう。神にも悪魔にも、命を狙う敵にも、己自身の不安や恐怖にも。アベルがいるかぎり――。


 ベルトランは、陽だまりのなかのリオネルとアベルを、まぶしげに見つめていた。






+++






 シャルム宮殿。


 西の木立のなかから、先程から剣を撃ちあわせる金属音が響いていた。

 王宮と騎士館のあいだには、広大なシャルム式庭園が広がっている。庭園では、政治の話題に夢中になる貴族や官僚、また恋人たちが会話を楽しみながら散策しているが、その左右にある木立は、公にできぬ恋に身を投じる者たちの密かな逢瀬の場所であり、また、王宮で生活する従騎士が個人的に鍛錬する場所でもあった。


 剣を打ちあわせる音が、晴天を突き抜ける。

 高い金属音。

 不意に、その音が止む。木の葉のざわめきが、途端に存在感を増した。


 肩で荒く呼吸しているのは、撃ちあわせをしていた二人のうち、年若いほうだけだった。


「ありがとうございました」


 呼吸も整わないまま、長剣を鞘に収めて少年は元気よく一礼する。木々の合間を吹き抜ける風が、汗に濡れた少年の肌を撫でていった。


 けれど清々しい少年の様子に比べ、礼を言われたほうの若者は、どこか釈然としない面持ちである。

 若者は、手で額の汗をぬぐう少年の姿を見つめ、そしてついにその名を呼んだ。


「カミーユ」

「はい」


 はきはきと返事をした少年は、若者のそばまで歩み寄る。稽古をつけてくれていたのは、母方の従兄弟フィデールだった。


「最近、稽古の際にノエル殿からなにか言われないか」

「いいえ、なにも」

「…………」


 フィデールはしばし沈黙する。カミーユは不思議そうな面持ちである。ノエルは本当になにも言っていないようだ。


 久しぶりにフィデールはカミーユに稽古をつけた。カミーユの腕が、以前より上達していることは間違いない。

 けれど、剣の構え方がノエルのものとはわずかに違う。剣の繰り方もやや異なっていた。

 それは、ほんのわずかに感じられる程度であり、はっきりと何者かの剣技を連想させるほどのものではない。だが、あのノエルが、この異変に気がついていないはずがない。知っていて、なにも言わなかったのだ。


 ――庭で稽古をしていたら、指南してくださる御仁と出会いました。


 以前、たしかカミーユはそう言っていた。

 もし他者の影響を受けているのだとすれば、考えられるのはこのこと以外にない。


「今でも、名も風貌もわからない相手から、稽古を受けているのか」


 従兄弟からの質問に、カミーユは「いいえ」と首を横に振る。


「近頃は現れないので、叔父上が忙しいときはひとりで練習しています」


 そう答えるカミーユは、寂しげである。だがフィデールは安堵した。万が一、相手が王弟派の者であったら厄介だからだ。

 この件について、ノエルがあえてカミーユになにも言わなかった理由は、想像できるような気がする。


 口数が少なく、感情を表に出さないのでわかりにくいけれど、ノエルは優しい。

 おそらく若い甥の好きなようにさせてやりたかったのだろう。交流する相手が王弟派だったならば、二人を引き離さなければならない。気づいていて、知らないふりをするというのは、非常にノエルらしいやり方だった。


 けれど、フィデールはノエルと同じ態度をとるわけにはいかない。


「ならば、これからもそのほうがいい」


 淡々とフィデールはカミーユに告げる。


「え?」


 カミーユは、意味がわからないという顔をした。


「ノエル殿から稽古を受けられないときは、なるべく私が指南するが、もしそれが叶わなければ勉学に励むといい」


 つまり、もう見知らぬ相手から稽古を受けてはならないということである。黙ってうつむいたカミーユは、しばらくしてからようやく「はい」と小さく返事した。

 気落ちした様子だが、フィデールとしては、災厄の芽は早いうちに摘み取っておきたい。

 これ以上カミーユが面倒事に巻き込まれては、フィデールの力を持ってしても庇いきれない。カミーユの身になにかあれば、叔母ベアトリスを哀しませることになる。


「フィデール様」


 遠慮がちな声に呼ばれて、王宮のほうへ向かいかけていたフィデールは振り返る。稽古のことで言い募るのかと思いきや、カミーユはまったく別のことについて口にした。


「リオネル様の、怪我の具合はいかがなのでしょうか?」


 質問するカミーユは、気まずげな様子である。

 ブレーズ家の嫡男であるフィデールに対し、政敵ベルリオーズ家の者について尋ねるのだから、気まずいのは当然のことだ。それでもフィデールに尋ねなければならなかったのは、おそらく事情を知っていそうな相手が他にいなかったからだろう。確認せずとも、カミーユの心境は容易に想像できた。


「軽くはないようだ」


 短くフィデールは答える。けれどカミーユの沈黙は、さらなる説明を求めているようだった。


「気になるのか?」


 フィデールの問いに、カミーユは瞼を伏せてうつむく。どう答えようか迷っているようだ。


「……リオネル様は、いい人です」


 小さな声が返ってくる。


「母上や貴方あなたとは、対立する家の方だということは承知しています。でもリオネル様は、親切で心優しい方です。私はそのことを、立場とは切り離して考えたいんです。だから怪我を負ったと聞けば、とても心配になります」


 遠慮がちに答えるカミーユに、フィデールは感情の宿らぬ青灰色の瞳を向けた。


「性格など問題ではない。何者であるかが、すべてだ」


 冷ややかな声が、カミーユの頭上に降り注ぐ。


「そんなの、おかしいと思います」

「そう考えるかぎり、おまえの母上を哀しませることになる。わかっているのだろう?」


 母を哀しませることになる――その言葉に、カミーユは口をつぐんだ。フィデールの言うとおり、よくわかっている。自分の意見を通せば、周囲を落胆させることになる。

 反論する言葉は、出てこなかった。


「リオネル殿は狩りの最中、獣に襲われたという話だ」

「…………」

「一命は取り留めたらしい。レオン殿下が見舞いに向かわれた」


 それだけを告げると、フィデールは再び王宮に向けて歩き出す。


 歩きながら、フィデールは考えていた。

 聞いたままの話をカミーユには告げたが、それが真相ではないだろうことを、フィデールは知っている。あのリオネル・ベルリオーズが狩りで獣に襲われるなど、そのような失態を犯すわけがない。むろん事情などわからないが、なにかがベルリオーズ邸で起こったことだけはたしかだ。


 地面を踏みしめる自らの足音に加え、背後から軽い気配がある。

 とぼとぼと後ろからついてくる従兄弟の様子が、フィデールには振り返らずとも目に浮かんだ。








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