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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第四部 ~波乱に満ちた誕生日と、切なる祈り~
254/513

36



前半部分は、相変わらずの2人+1人だと思って読んでいただければ幸いですm(_ _)m

後半は、安定の主要登場人物です。











 投げつけられた枕が、壁に跳ね返って床に落ちる。

 エルヴィユ邸の自室であれば、抑えることなく怒りを爆発させられるが、ここはベルリオーズ邸だ。大きな物音を立てるわけにはいかない。


 けれど、フェリシエの感情はこれまでになく激していた。

 発散しきれない怒りを涙に代えて、フェリシエはどうにか己の感情に耐えようとしている。


「なぜなの、ライラ」


 青緑色の瞳に燃えるような色をたたえ、フェリシエは声を吐きだす。


 ――なぜ、婚約者候補たる自分ではなく、卑しいアベルがリオネル様のそばにいるのか。


「リオネル様に怪我を負わせ、そのうえ罰も受けずに、リオネル様のおそばに付き添っているなんて」


 ゆるせない、赦せないと、フェリシエは呪いの言葉のごとく繰り返した。


「おかわいそうに、お嬢様」


 抑えきれぬ感情を涙に代えるフェリシエの肩を、ライラがさする。


「すべてはあの者が悪いのです。リオネル様の優しさを利用し、身寄りがないなどと言って同情を誘って関心を引き、心を惑わしているのです。儚げな仮面の下には、したたかで計算深い素顔を隠しているに違いありません」

「大嫌いだわ、あんな子。なぜ死ななかったの。アベルではなくリオネル様がお怪我を負うなんて――なぜこんなことに? あまつさえアベルが、リオネル様のおそばにいるなんて。憎い……憎いわ、あの子が」


 フェリシエの強く握りしめた拳が、細かく震えた。


「ヴィートという男もあなどれません。リオネル様に、アベルの居場所を知らせたのはあの男です。今回リオネル様とアベルを助けたことで、ベルリオーズ公爵様の信頼を得たという噂もあります」


 フェリシエはライラの説明に対しなにも語らず、顔を寝台に押しつけ、両手を幾度も布団に叩きつけている。そんな主人に、ライラは言葉を投げかけた。


「あと一歩だったのです、フェリシエ様。アベルは自らこの館を出ていくはずでした」


 だが、アベルを引きとめたのはリオネル本人である。


 ……アベルを殺そうとすれば、リオネルが怪我を負う。アベルを館から追い出そうとすれば、リオネルが引きとめる。

 これらの事実に加え、ヴィートからはアベルを陥れようとしたことについて疑いの目を向けられており、すぐに次の行動に移るには危険すぎた。


「しばらくの辛抱です、お嬢様。また機会は訪れましょう。今は、リオネル様のお心をアベルから遠ざけ、フェリシエ様に向ける方法を考えましょう」

「無理よ……そんなの無理」


 それは、ぽろりとこぼれたフェリシエの本音であり、弱音だった。


「わたしはアベルのようにはなれないわ……思いやりの心なんて持っていないし、人を惹きつける魅力もない。リオネル様は、わたしなんて見向きもしない」


 フェリシエの声は沈んでいる。それは、怒り狂っているときよりも、よほどライラを不安にさせる。なぐさめるライラの声は、母親のように優しかった。


「そのようなことはありません。アベルなど所詮、卑しい身分の者です。フェリシエ様は由緒正しい家柄の、華やかで美しく教養あるご令嬢。きっかけさえあれば、必ずリオネル様はそのことに気がつかれます」

「わたしは、その卑しい身分の男に負けているのよ」

「それは、アベルが卑しいがために、狡猾に振る舞っているからです」


 しばらく寝台に顔を預け、虚ろな瞳をしていたフェリシエが、ふとつぶやく。


「わたし……リオネル様のすべてがほしい」


 ――そのためなら、悪魔にでも魂を売ることができる。


「手に入らないなら、いっそリオネル様のお命をこの手で奪うわ」


 愛は、憎しみとかぎりなく近い場所にあった。


「そのようなことを……フェリシエ様」


 ライラが子供をなだめるように、フェリシエの金髪に触れる。


「お嬢様が愛する方を、ご自身の手で殺める必要はございません。悪魔に魂を売るのはこのライラだけでけっこうです。アベルを殺せば、すべて解決するのですから」


 朝の光の美しさ。

 だが二人の心に、その清々しい光が差し込むことはなかった。








 光が届かない場所にいたのは、この青年も同様である。

 ジュストは頭が割れてしまいそうなほどの、激しい感情の渦に巻き込まれていた。


 ――まさか、このような事態になるはずではなかった。


 ジュストはライラの計画を事前に知り得ていたが、リオネルがあれほどの怪我を負うことになるとは、夢にも思っていなかった。ジュストは、自らの膝が震えているのを強く感じる。まともに歩けないほどだ。


 敬愛する主人であるリオネル・ベルリオーズが負傷した。その事実はジュストを打ちのめしていた。また、あと一歩でアベルを追い出せそうだったのに、動けないはずのリオネルが引き留めに行ったことも、追い打ちをかけていた。


 獣に襲われるのは、アベルであるはずだったのに。


 激しい感情はジュストのうちに堆積し、爆発してしまいそうだった。けれど、その衝動をどうにか抑えたのは、ジュストが本来持ち合わせている天性の冷静さが働いたからである。


 今は動かないほうがいい。

 リオネルの容体は、安定してきているという。なにか行動を起こすにしても、事態が落ち着いてからで遅くはない。それに、不審な動きを見せれば、勘のよいリオネルやディルクになにか悟られてしまう可能性もある。今は耐えるときだ。


 いったんそう決意すれば、一日も早いリオネルの回復を祈る以外、ジュストに成すべきことはなかった。





+++






 許可を得て入室した若者は、扉のまえで深々と頭を下げる。


「申しわけございませんでした」


 ディルクの前で腰を折るのは、従者のマチアスだった。厩舎裏での事件による謹慎が解けてから、初めて主人の部屋を訪れたのである。


 謝罪するその姿を見やりながら、やや複雑な表情を浮かべたのはディルクだ。


「ああ、マチアス。もう一日経ったのか」

「寛大な御処分、感謝いたします」

「寛大ね……」


 小さなガラス玉を手で弄びながら、ディルクはつぶやいた。


「アベルやヴィートを心配する気持ちは、おれも同じだ」


 マチアスは頭を下げたままである。


「でもやっぱり、あれは、やりすぎだったよ」


 到着した晩以来、二人はこれまで落ちついて会話を交わす機会がなかった。ベルリオーズ邸に着いたときにはすでに事件は起こっており、ディルクはリオネルの見舞いや、厩舎裏の事件の事後処理に追われ、一方マチアスは丸一日部屋で謹慎していたからである。


 あらためて今回の件について語るディルクは、わずかに疲れた顔をしていた。


「ベルリオーズ家の騎士たちと、我がアベラール家が剣を交えるなんて、前代未聞だ。下手すれば、何百年と続いていきた両家の関係に、修復できない亀裂を生むところだった」

「深くお詫び申し上げます」

「反省していないだろう、マチアス」

「……けっしてそのような」

「いや、おまえの顔には書いてあるぞ。そうやって頭を下げて、顔を隠しても、おれにはわかる。自分は正しいことをしたと思っているだろう」


 今度こそ、マチアスはだんまりを決めこむ。


「やっぱりね」


 呆れ顔で、ディルクは口元を歪めた。


「わからないでもないよ、おまえの気持ちは」

「…………」

「アベルに暴力を振るったことは、おれもゆるせない。ヴィートとベルリオーズ家の騎士らを戦わせてはならないというのも、正しい判断だ。ただ、おまえやバルナベが代わりに剣を交えるのではなくて、他の方法があったんじゃないか? 話しあいに持ち込むとか、少なくともおれの到着を待つとか、なにかあっただろう」


 やはりマチアスは黙っている。


「なにか答えたらどうだ? 黙っていても、おれの意見などまったく響いていないことは、とうにお見通しだ。言いたいことがあれば、言ってみろよ」


 すると、マチアスはゆっくりと頭を上げた。

 その表情には、反省の色も後悔の色もにじんでいないが、かといって特別他の感情が垣間見えるわけでもない。


「いいえ、ディルク様のお言葉は、この胸に深く突き刺さっております」

「それで?」


 皮肉っぽい笑みで、ディルクは促した。


「それ以上でも、それ以下でもありません」

「嘘をつけ。今回のやり方は、おまえらしくなかった」

「そうでしょうか」

「……腹を立てたのか?」


 問われると、しばらくの間を置いたのち、


「まあ、そういうことかもしれません」


 と、案外あっさりマチアスは白状する。今度はディルクも黙し、マチアスの顔を見つめた。


 沈黙が支配する部屋に、ゆるやかな風が流れこむ。

 すでに言い当てられているのだから、マチアスの沈黙も長くはなかった。


ゆるすことができませんでした」

「アベルの件か?」

「ええ、彼らがアベル殿に怪我を負わせたことです」

「なるほど……」


 手元のガラス玉を二回ほど、手のひらのうちで回し、


「……おまえらしくないといえば、おまえらしくないけど」


 皮肉めいた笑みを、ディルクは口元に浮かべた。


「まあ、おまえらしいといえば、おまえらしいか。リオネルといい、ヴィートといい、アベルのことになるとまわりが見えなくなるやつばかりだな」

「あなたはなにもご存じないからです」


 突き放すような口ぶりに、ディルクがむっとする。


「なんだその言い方は。おれがなにを知らないっていうんだ? おれだってアベルのことは心から心配している。けれど、大きな騒ぎになればなるほど苦しむのはアベルだということも、理解しているつもりだ。おまえたちは、だれもそのことを考えてやってないじゃないか」

「あなたは、どれだけ大きな騒ぎになろうとも、なにを犠牲にしようとも、アベル殿を守らなければならないということを、ご存じないのです」

「それが結果的に、アベルを苦しめることになっても?」

「そうお考えになるのが、ディルク様のお優しさであることは存じております。けれど、そのお優しさゆえに、あなたは三年前に大切なものを失ったではありませんか。なりふりかまわず――声が枯れ、血を吐き、毒にまみれてでも、守り抜かねばならないものがあるのではないかと、私は思うのです」

「過去のことと、アベルの話と、なにか関係があるのか」


 ディルクの口調が明らかに強張った。心の痛みと共に、わずかな憤りさえ感じられる声音だ。


 触れてはならない話題であることを、マチアスはよく知っている。それでも口にしたのは、心の奥底ではディルクに気づいてほしかったからだ。目のまえにある真実に。


「おわかりになりませんか?」

「なにが言いたい?」


 寂しげにマチアスは視線を伏せる。

 だが、しかたのないことであるということもわかっている。

 シャンティは死んだのだ。

 そして、アベルは十五歳の少年で、リオネルの忠実な家臣――。


 それこそが、ディルクのなかだけではなく、おそらくアベルのなかでさえ、紛うことなき事実なのだから。


「ディルク様を責めるつもりは、なかったのです。不用意な発言をお赦しください」

「失ったものは、返らない」

「そうですね」


 ――そうかもしれない。

 もうアベルは二度とシャンティとしては生きないだろうし、ディルクと結婚することもないだろう。

 だが、マチアスは守るほかない。

 彼女を二度も死なせるわけにはいかないのだから。


「マチアス、ありがとう」


 思いも寄らない言葉に、マチアスは伏せていた視線を上げた。気落ちした様子のマチアスよりも、ディルクはさらに哀しげだった。


「アベルを守ってくれて――そして、リオネルの理想を守ってくれて感謝してる。おれの立場では、到底できないことだった」


 主人の表情が、さらにマチアスを切ない思いにさせる。


 ああ、そうだ。

 リオネルも、ディルクも同じなのだ。

 立場に縛られ、がんじがらめにされて身動きができない。大切なもののために生きようと願っても、彼らには重い足枷がはめられ、肩には荷を背負わされている。


 だからこそ、リオネルはアベルを危険に晒さねばならず、ディルクはシャンティを過酷な運命に委ねてしまった。

 二人が真の親友でいられるのは、共に同じ苦しみを背負っているからなのかもしれない。


 とすれば、自分の立場だからこそできることがある。そのことに、マチアスは気づく。

 ヴェルナ侯爵家の血を引いていることなど、マチアスにとってはなんの意味もない。しがらみにとらわれず、己にとって大切な人たちのために身を捧げることが、マチアスの選んだ生き方なのだった。


「トマ・カントルーブやロベール・ブリュデューたちはどうしてる?」


 マチアスの謹慎が解かれたということは、アベルを襲った騎士たちも自由になったということである。


「今朝、私やバルナベ殿と同じく公爵様にご挨拶をし、それからは他の騎士と行動をともにしているはずです」


 マチアスの返答に、ディルクは何度かうなずいた。


「おまえははじめから、彼らの行動に目をつけていたんだろう?」


 でなければ、あれだけ早くアベルやヴィートの危機に駆けつけることはできなかったはずだ。


「ええ、今回の事件が起こるまえから、彼らはアベル殿へ敵意を抱いているようでした」

「これからも、彼らには目を光らせておいたほうがいいな。リオネルの耳には入れてはならないと、公爵様のご命令だ。だとすれば、おれたちがアベルを守ってやらなければ」

「はい」

「ラロシュでのこともある」


 それは、ラロシュ邸で行われた宴において蜂蜜酒に毒が混入され、それをヴィートが口にした一件である。未だに犯人の目的は判然としていないが、アベルを狙ったとも充分に考えられるのだ。

 あの四人の騎士たちなら、毒を用意することはできるだろう。だが、あの時点でそこまでの殺意を抱いていたかどうか……。


「気をつけるにこしたことはありませんね」

「おれは、おれの立場で力を尽くす。マチアス、おまえもよろしく頼む」

「もちろんです」


 寵臣の返答に、かすかに口元に笑みを浮かべてみせると、それからディルクはどこか宙の一点を見つめながら、手のうちにあるガラス玉を、カチ、カチと鳴らした。








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