35
初夏の白い陽光が、ベルリオーズ邸を包んでいる。
あの夜、冷然と地上を照らしていた月は今、空の明るさに隠され、そのかわり瞼に焼きつくような青さが世界に満ちていた。
今日は、ベルリオーズ家嫡男リオネルの、十九歳の誕生日である。
この晴れやかな日に、けれど、ベルリオーズ邸は寝静まった夜のごとく、静かだった。
祝いの席はない。鍛錬や稽古を行う者もない。だれの顔にも、心配と不安の入り混じった表情が浮かんでいた。
ベルリオーズ家の当主であるクレティアンも、例外ではない。
嫡男であり、ひとり息子であるリオネルは、獣によって左肩に大怪我を負わされてから、寝台に伏せたままである。傷口からの血は止まったが、熱が引かなかった。健康で、体力がある青年であるだけに、この状態は危惧される。
朝、執事のオリヴィエと共に、息子の寝室へ様子を見にいくクレティアンの表情には陰りがあった。
到着した公爵を部屋へ迎え入れたのは、リオネルの腹心であるベルトランだ。彼が扉を開けると、クレティアンは部屋の眩しさに一瞬、双眸を細めた。
次第に瞳が慣れてくると、今度は、ひとつの風景が目に飛び込んでくる。
差し込む朝陽のなかに、若者が二人――手をとりあって、眠っていた。
窓から顔を背けるように寝台で眠る、息子のリオネル。
そして、傍らで寝台にもたれかかり、リオネルの手を握りながら眠る、従騎士のアベル。
……いや、アベルの細い指は、怪我人の両手のうちに閉じこめられているのだから、手を握っているのはリオネルのほうだと言うべきだろうか。
もはや、どちらがどちらの手を握っているかなど、関係ないような気がした。この景色は、たしかに感嘆するほど美しく、ある種の感動さえ与える。
二人の容姿の問題ではない。若い二人が互いを思いやる気持ち――それを、感じずにおれないがゆえに、この景色は美しいのだ。
「リオネルは」
光のなかの光景にしばらく声を出せずにいたクレティアンが、ようやく発したのは、このひと言だけだった。
床にひざまずくベルトランの顔からは、昨日まで浮かんでいた焦慮のようなものが、完全に消え去っている。落ちついた口調で、赤毛の騎士は説明した。
「アベルがそばに来てから、随分と落ちつきました。熱も下がりました」
「そうか、下がったか――」
クレティアンの声に、驚嘆の色がにじむ。
「あれほど高熱が出ていたのに、信じられない」
「医者も不思議がっていました」
熱が下がったというリオネルの寝顔は、たしかに苦しみから解放されている。代わりに、深い安堵と幸福感に満ちているのは、傍らにいる存在のためなのか。
獣に襲われた夜、館を出ていこうとしたアベルを、リオネルが前庭まで引き止めに行ったという話は、クレティアンの耳にも入った。アベルに対し、自らの決断により行動せよと命じたのは、他でもないクレティアンである。
アベルが自ら館を出ていくように、クレティアンは仕向けた。けれど、動けないはずのリオネルが、ここまでするとは思っていなかった。
いや、本当はわかっていたのかもしれない。わかっていながら、心のどこかで、そうならないことを願っていた。
……二人が二度と会わないことを、願っていたのかもしれない。
それがなぜなのか、クレティアンにはわからなかった。
アベルが館を出ていこうとした夜、寝台に戻されたリオネルは、明け方まで意識を失ったままだった。しかし陽が昇り、わずかに意識を取りもどすと、熱に浮かされながら繰り返しアベルの名を呼びつづけた。
その様子を目の当たりにし、自室で待機するよう申しつけたアベルを、リオネルのそばに行かせることにしたのは、だれの嘆願があったわけでもなく、クレティアン自身の決断によるものである。
リオネルはまるで、母親を求める子供のようだった。怪我の苦しみや、そこからもたらされる精神的な不安を和らげてくれる相手を、リオネルは朦朧とした状態のなかで探しつづけていた。
その相手は、父親である自分でも、ベルトランでもなくただひとり――アベルなのだ。
この一件により、クレティアンはこれまでの印象を変えざるをえなくなった。
つまり、リオネルがアベルを最年少の――かつ、気に入りの家臣として、守り抜こうとしているのだとクレティアンは思っていたが、それは少し違った。
むろん、アベルを守ろうとしていることには、違いない。
けれどそれ以上に、リオネルは守られていたのだ。
……アベルによって。
アベルという存在だけが、リオネルに幸福を授けることができるということに、クレティアンはこのときはじめて気がついた。
それは、幼いころからの悲痛な経験に重ね、母親であるアンリエットがこの世を去って以来、リオネルが失っていたものであり、だれひとりとして、彼に与えることのできなかったものだ。
クレティアンは、ある種の希望を見出すと同時に、慄然とした。
リオネルの心を守っているのが、由緒正しい令嬢でも屈強な騎士でもなく、身元も定かではない、まだ幼い少年であるということは、クレティアンにとり受け入れがたいものだった。
と同時に、もし再びその存在を失ったら、リオネルがどのような状態に陥るのか、想像すると恐ろしくもなる。
リオネルがアベルを引き留めた日の翌朝、クレティアンは考えに沈み、動くことができなかった。けれど、あれこれ考えているときではないことも知っていた。
怪我のうえに、無理を重ねてリオネルは高熱に浮かされている。相手がだれであろうと、リオネルを安心させ、落ちつかせる存在が必要だった。
昼過ぎに見舞った息子の状態をまえに、クレティアンは、アベルをそばに行かせることを決意した。アベルの名を呼ぶ息子の姿は、クレティアンの胸を哀れみで満たし、その心を動かしたのだ。
その後、直々に部屋を訪ね、息子のそばにいてほしいと頼んだときの、あのアベルの顔……。
なにも語らずとも、アベルがリオネルに対して抱く思いは伝わる。
アベルとリオネル――二人の強い結びつきを、クレティアンは今回、望むと望まざると目の当たりにすることとなった。
「昨日より、かなり顔色がいい」
息子の顔をのぞき込んだクレティアンは、複雑な感情を脇に追いやり、かすかに口元を緩める。どのようなきっかけにせよ、ひとまずリオネルの熱が下がったのだ。クレティアンにとり、今はこれ以上嬉しいことはない。
「医者も不思議に思うほどとは。本当に、最後に見た状態とまるで違う」
「病は気からとは言いますが、精神が身体にもたらすものの大きさを、今回私は目の当たりにしました」
さりげなくベルトランが口にした言葉に、クレティアンは緩めていた顔を再び真顔に戻す。
「それほどまでに、リオネルにとりアベルの存在は大きいということか」
「……そのように、見受けられます」
感情を読みとらせまいとするかのように、ベルトランは頭を下げて表情を隠した。
さらになにかを尋ねようとしたが、ベルトランがそのまま顔を上げないので、クレティアンはしばし黙してから質問を断念し、小さな溜息をつく。
そのとき、先程から期を見計らっていたらしい執事のオリヴィエが、控えめに口を開いた。
「フェリシエ様が、見舞いを希望していますが、いかがいたしますか」
今、リオネルは熱が下がり、容体は落ちついている。本来ならば、将来妻となるはずのフェリシエをリオネルに会わせるべきだろう。
だが。
「まだだ」
低く、公爵は答えた。
寝台のリオネルは今、アベルの手を握り、安らかに眠っている。
大きな窓から降りそそぐ光のなか、リオネルの傍らで眠るアベルの姿は、まるで遥かなる空の国から、リオネルを救うために舞い降りてきた天使のようだった。
フェリシエをここへ招くためには、リオネルのもとからアベルを引き離さなければならない。
……今は、そのときではなかった。
「このまま、二人を眠らせてあげなさい」
「フェリシエ様は、かなりお心を痛めておいでと聞き及んでおりますが」
オリヴィエは慎重に言葉を選んでいるようだった。
双眸を閉じ、クレティアンは無言で首を横に振る。
「私には、できない」
なにを、とは言わなかった。
けれど、ベルトランとオリヴィエにはわかる。クレティアンにできなかったこと――。
――今日は、リオネルの十九歳の誕生日だ。
口をつぐんだまま、ベルトランは床を見つめていた。
+
リオネルが瞳を開いたのは、クレティアンが部屋を去った直後のことだった。
目は開いたが、言葉はない。ただ傍らで眠る少女の寝顔を、深い紫色の瞳で見つめていた。
「夜半過ぎまで起きていたが、おまえの熱が下がると、安心して寝てしまったようだ」
主人が目を覚ましたことに驚く様子もなく、ベルトランは説明する。
平熱に戻ったリオネルが、ベルトラン以外の者の気配がそばにあって気がつかないはずがないのだ。クレティアンやオリヴィエが入室した瞬間から、リオネルが覚醒していることを、ベルトランは知っていた。
だがそれを知っていながら、声もかけず、「なぜ起きて公爵と話さなかったのか」とも問いたださないのは、聞かずともリオネルの気持ちがわかるからである。
今は、他のだれとも会いたくないし、話したくない。ただアベルのそばで、リオネルは静かな時間を過ごしたいはずだ。
ベルトランの説明を受けても、リオネルは黙っていた。
寝台にもたれかかって眠るアベルを愛おしげに見つめ、それから、アベルの顔にかかった金糸の髪をようやく上げた右手でそっとよける。
泣いていただろうことが、アベルのなだらかな頬に張り付いた髪や、目の端からこめかみにかけて残る涙の痕でわかる。
涙の痕を軽くなぞり、リオネルは瞳を細めた。
「……覚えている、アベルがここへ来てくれたときのことを」
ようやくリオネルが声を発する。長いあいだ気を失っていたせいか、リオネルの声はわずかにかすれていた。
「覚えているか」
ベルトランが繰り返すと、再びリオネルは口をつぐむ。
覚えていた。
熱と痛みに苛まれながら垣間見たのは、寝台に駆け寄り、リオネルの顔をのぞきこむアベルの表情。
濡れた空色の瞳。
リオネルの名を呼ぶ声。
熱が下がったのは、愛しい人がそばにきてくれたという安堵からでもあり、その人を、これ以上苦しませたくないという、強い気持ちゆえだったかもしれない。
耐えきれないほどの心の痛みを映した、アベルの泣き顔。この少女に、このような顔をさせているのは自分なのだと思うと、リオネルは身が引きちぎられる思いがした。
「おれはアベルを、哀しませてばかりだ」
「そう思うなら、もう二度と怪我などするな」
ベルトランの厳しい言葉に、リオネルはアベルを見つめながらつぶやく。
「そうだね」
と。
それからアベルの頬に残る傷痕を撫でるようになぞり、リオネルは声を低めた。
「この傷は、だれにやられたんだ?」
意識がはっきりしてはじめてリオネルは気がつく。アベルの頬についた傷は、まるで暴行を加えられたかのようである。
あきらかに硬い空気をまとったリオネルに、ベルトランは淡々と答えた。
「だれでもない。暗くておまえは気がつかなかっただろうが、森で狼と争っているときになにかでぶつけたようだ」
「嘘をつくな」
リオネルの声音は厳しい。けれどベルトランはあくまで態度を崩さなかった。
「嘘と決めつけるのはおまえの勝手だが、事実は事実だ。さっきも言ったが、もう済んだことはしかたがない。これからいかにして自分自身と――そしてアベルを守るかということだけを考えろ」
「…………」
「自分自身を守れなければ、アベルを守ることなどけっしてできない。その傷跡のこともそうだし、ヴィートが来なければ、アベルやおまえの命さえもどうなっていたかわからないんだ。二人そろって狼なんぞにやられてどうする」
もっと強くなれ、とベルトランは言い放つ。
むろんリオネルはアベルの傷について、ベルトランの説明で納得したわけではない。だがそれ以上追及しなかったのは、頑として真実を述べるつもりのない相手の態度の理由を悟ったからであり、だれに殴られたのかは漠然と察せられ、またベルトランの言うことは完全に正しかったからである。
身を犠牲にしても、アベルを守りたいと思っていることはたしかだ。けれど、そのようなことをアベルが望んでなどいないことも、リオネルはよく理解している。そして、そのせいで、アベルを余計に傷つけることになったのは、顔の怪我を見ればわかる。
アベルを守り抜くためには、まず自分自身を守ることができなければならない。
あの夜、ヴィートが助けにこなければ、アベルも狼の餌食になっていたかもしれないのだ。自分がしっかりしていれば、アベルの頬に残る、このような怪我を負わせることもなかったのだろう。
もっと冷静に動くべきだったかもしれないとも思う。狼が嫌う炎を携え、家臣を集め、より計画的に……。
けれど、あの瞬間なにも考えずに飛び出していなければ、アベルの命はなかったかもしれない。
駆けつけたとき、アベルに襲いかかる獣を寸でのところで倒したのだから。もし一瞬でも遅ければ……と思うと、リオネルは背筋が寒くなる。
アベルの白い肌に噛みつく獣の姿を想像すれば、やはりこうするしか道はなかったのだとも思えた。
ただ、ベルトランは「助けに行くな」と言ったわけではない。
――もっと強くなれ、と言ったのだ。
アベルの泣きはらした寝顔を見ていると、その言葉が胸にずしりと存在感をもって感じられた。
傷つけられた白い頬。
そこに落ちかかる、睫毛の影。
とてつもなく切なく、そして愛おしいと感じるのは、なぜなのか。
今日、リオネルは十九歳になる。
さらにベルリオーズ家嫡男としての責任の重さは増し、フェリシエとの婚約を含め、しがらみや世の常識に絡めとられていくだろう。
それを打ち破る力が、自分にはあるのか。
それだけの強さがあるのか。
――もっと強くなれ。
ベルトランの言葉を、リオネルは噛みしめた。