33
降りそそぐ月明りが、騎馬像を輝かせている。
玄関に隣接する前庭に、ひとりの少女が佇んでいた。
裏口から館を出て、玄関のある前庭へまわったアベルは、月明りが包む光景に見惚れる。
――別れだ。
もう、ここへ戻ることはない。
この美しい月明りを、二度とこの場所で見ることはないだろう。
あらためて知る。
この館の美しさを。
そして、己のなかにおける、リオネルという存在の大きさを。
なにもかもを失うのだと思った。
しっかりと掴んでいたはずの手のひらから、知らず知らずのうちにこぼれ落ちていく、大切なものたち。
幸福だったのだと、失うときになって初めて知る。
遠くからでもいい。リオネルの無事を祈り、イシャスの健やかな成長を願い、そして、わずかでもベルリオーズ家の力になれたら。
北へ――。
目指すのは、元山賊らのいるラ・セルネ山脈沿いの開拓地。そこで、リオネルが掲げた案を実現させる手助けをする――それが、アベルが自らに下した処遇だった。
荷物はほとんどない。肩にかけているのは、小さな袋ひとつだけ。
月光に包まれる館に背を向けたとき、声がした。
「アベル」
振り返らずとも、声だけでだれかわかる。小さくその名を呼びながら、ゆっくりとアベルは振り返った。
元山賊の若者は、裏口から追ってきたのか、松明の明りが届かない暗闇のなかにいた。真黒なはずの瞳だけが、わずかな光を反射してその存在を示している。
「ここを出るのか」
「ええ」
月明りのもと、かすかに笑んだアベルの顔は、ヴィートの瞳にひどく切なげに映った。
「……坊ちゃんのもとから、離れるのか」
「坊ちゃんではありません。リオネル様です」
こんなときにアベルが言葉を訂正するのは、質問の答えから逃れるため。
「アベルが去る必要はないんだ、なにも悪いことをしていないじゃないか」
困ったように、闇のなかにいるヴィートを見つめてから、アベルは首を横に振った。
「充分な罪を犯しました。それに、もう決めたことです。これ以上、ベルリオーズ家の皆さまに……リオネル様に、ご迷惑をおかけするわけにはいきませんから」
「せめてトマたちにやられた腕や頬の傷が癒えてからにしたらどうだ」
「こんなの、たいした傷じゃありません」
蹴られた腕に手を置き、アベルは自らを嘲るように口元を歪める。
「……わたしがリオネル様に負わせた傷に比べれば」
「それは違う、アベルのせいじゃないぞ」
即座に否定したヴィートに、アベルは背を向けた。
「わたしのせいです。わたしは自分自身を赦すことはできません」
「そうかい、じゃあ、おれも行くことにするよ」
一度は踵を返したアベルが、再びヴィートを顧みる。
「え?」
「ひとりで行かせるわけがないだろう。どうしても行くというなら、おれもいっしょに行くぞ。アベルとふたりで生活するのはおれの夢だったからな」
近づいてくるヴィートを黙って見ていたが、アベルは不意に小さく釘を刺した。
「あなたと生活はしません」
「わかってるよ、冗談だ。でも旅についていくのはいいだろう?」
行き先は、ヴィートの生まれ故郷であるラ・セルネ山脈だ。断る理由はなかった。
「どうぞ……けれど、ひと言、ベルリオーズ公爵様に断ってからにしてください」
「アベルは断ったのか?」
「…………」
「なら、おれもこのまま出ていくよ」
ヴィートがアベルのそばに辿りついたとき、もうひとつの声が夜の大気を震わせた。
「リオネルには断ったのか?」
二人は顔を上げる。松明の灯る玄関に立っていたのは、ベルトランだった。
「――リオネルに別れも告げずに、去るのか」
松明の明りが、ベルトランの苦い表情を映しだしている。
「ベルトラン……ごめんなさい」
アベルの瞳に涙が溜まり、月明りに揺れた。
「……赦してください」
「あいつは今、動くことができない。そんなときに出ていくのか」
「もう二度とリオネル様にはお会いしません」
「なぜだ」
松明の炎と同様、ベルトランの赤毛の髪も松明に照らされ、燃えているようだ。
ヴィートは黙ってアベルの隣に立っていた。
「公爵様に命じられています。意識が戻るまえに、成すべきことをするようにと」
「おまえがすべきことは、リオネルになにも告げず、ここから出ていくことか」
「遠くからリオネル様をお守りすることです」
「それをリオネルが望んでいると思うのか」
「……ベルリオーズ家の平和と繁栄、そしてリオネル様のご無事を、お祈りしています」
これ以上の会話を拒み、歩きはじめるアベルのもとへベルトランは駆け寄り、その細い両肩を掴んで振り向かせた。
やや手荒にも見えるその行動を目前にして、頭に血が上ったヴィートは咄嗟に手を出しかけるが、次の言葉を耳にして動きを止める。
「リオネルに会ってくれ。熱に浮かされながら、おまえのことばかりを気にしている」
振り向かされたアベルの頬に、涙が伝う。
「なおさらお会いできません。もうわたしのことで、リオネル様を煩わせたくないのです」
「煩わしいわけがない。おまえと出会ってからのリオネルがどれほど幸福だったか、だれよりもそばにいたおれが一番知っている。行くな、アベル」
「わたしには他に道がないのです」
「なぜわからない」
「わたしのような者に、なにを理解しろと言うのですか」
「リオネルは――」
言葉が、喉元まで出かけている。
――リオネルはおまえに心底惚れているんだ。
アベルがいない場所で、どうしてリオネルが生きていける。あいつのそばにいてやってくれ……。
けれど、ついには口にすることができなかった。アベルの両肩に手を置き、ベルトランはもどかしそうに――なにかを訴えるように、けれど諦めるように言葉を吐く。
「リオネルは……!」
そのときだった。
「アベル――」
月夜に響いたのは、聞えるはずのない声。
顔を上げた三人が見たのは、玄関の柱にもたれかかることでようやく立つ、リオネルの姿だった。
その姿に、アベルは心臓が止まるような心地がした。
最後に目にしたのは、血に染まった姿。今、目前のリオネルは夜着をまとい、立っている。狼に襲われたのは夕方の出来事であるのに、何年かぶりかに会うような気がした。
リオネルの脇に、心配とも諦めともつかぬ表情でディルクが腕を組んでいる。その後方では、泣きそうな顔でエレンが立ちつくしていた。
「なぜリオネルを寝台に縛りつけておかなかった」
激しい怒声はベルトランがディルクに向けたもの。
「勘弁してくれ、ベルトラン。押し戻しても、押し戻しても、寝台から這い出ようとする怪我人を押さえつけるのは、押さえつける側にとっても苦痛だ。ましてや、相手が親友ならなおさら。リオネルの手足を寝台に縛りつけることなんて、おれにはできないよ」
小さく舌打ちしながら、ベルトランはリオネルのもとへ走る。
「部屋に戻れ、リオネル。傷口が開く」
けれど、肩を支えようとするベルトランをリオネルは手で制し、自らの力で前へ進んだ。――まっすぐアベルのもとへ。
見ていられないといった様子で、ディルクが右手で目元を押さえる。
危うい歩調でこちらへ近づいてくるリオネルに、気がつけばアベルは駆け寄っていた。
玄関の階段の麓、アベルはリオネルの今にも倒れそうな身体を支える。驚くほどその身体は熱かった。
「アベル……どうして」
支えているというよりは、アベルはリオネルの熱い身体に、かき抱かれているというべきだろう。
浅く、短い呼吸。
苦しげに細められた紫色の瞳が、信じられないほど間近。
青年の身体の熱さに――その瞳が映す色に、アベルはすべての感覚を奪われてしまいそうだった。
「そばに」
浅い呼吸の合間――けれど、リオネルはしっかりと告げる。
「そばに、いてくれ」
熱い息が、耳元。
「どこにも行くな、アベル」
深くうつむくアベル。言葉はない。ただ、頬を涙が伝った。
わかっていた。
わかっていたのだ。ひと目でも、この優しい主人に会ってしまえば―――この声を聞いてしまえば、決意が揺らぐことを。
だからこそ、会わずに去ろうと考えた。
アベルの澄んだ水色の瞳から、透明の涙が湧き出ては頬を伝い、リオネルの夜着を濡らす。
「おれからも頼む」
ディルクが言った。
「なにも告げずにいなくならないでくれよ、アベル。仲間だろう?」
そばに立つヴィートは、アベルを抱きしめるリオネルをむっとして見やりつつ、さすがに怪我人ゆえに文句を呑みこんでいる。
「イシャスが……」
涙に揺れる声がした。皆の視線が玄関の奥へ集まる。そこには、おずおずと進み出るエレンがいた。
周囲には、使用人や騎士が集まりはじめている。けれど、エレンは言葉を止めなかった。
「……あなたが部屋を去ってから、イシャスがお肉を食べると言いだしたのよ。食べないと、アベルがいなくなってしまうからと言って泣くの。わたしはなにも教えていないのに、不思議とわかったのね、あなたがここを去ろうとしているということが」
アベルは視線を伏せる。
胸の奥を、なにかが静かに濡らしてく。
「イシャスには、あなたの愛がしっかり伝わっていたのよ。イシャスはあなたのことが大好き……みんなあなたのことが、大好きなの」
――行かないで、アベル。
アベルはリオネルの熱い身体に抱かれたまま、涙を流した。
自分にはもったいない言葉ばかりだ。
こんな自分を赦し、受け入れてくれる存在がある。なにも掴めない手を、繋ぎ止めてくれている人たちがいる。
「これから、アベルと二人で生活するのは楽しみだったけど、どうやら今回は諦めるしかなさそうだな」
まわりに聞えるように、ヴィートはひとり冗談ともつかぬ声でつぶやくと、
「ここに残るんだろう、アベル」
と確認する。わずかに間を置いてから、アベルは小さくうなずいた。
歓声が上がったのは、いつのまにか玄関のほうに集まっていたベルリオーズ家の騎士たちからである。
「アベルを連れていくことは許さないぞ、ヴィート!」
叫んだのはラザールで、続いて老騎士ナタルの声がした。
「アベルがここに残れるよう、公爵様にはおれたちからも陳情する。きみはひとまず戻るんだ」
館を去らぬというアベルの決断に、騎士たちが喜びを露わにする。
けれどすぐにその声は、大きなどよめきに変わった。アベルを抱きしめていたはずのリオネルが、その場に崩れたからだ。すでに身体は限界を超えていた。
長身のリオネルを、アベルひとりの力で支えられるわけがない。ベルトランが咄嗟にリオネルの身体を掴まなければ、アベルと共に地面に倒れていただろう。
すでにリオネルの意識はなかった。
「リオネルを部屋へ――」
駆けつけたディルクが指示すると、「無茶を」とベルトランが低くつぶやき、リオネルの身体を抱きかかえる。
「こういうことをするから、アベルが責められる結果になるんだ。本当にわかってないな、この坊ちゃんは」
ヴィートの愚痴を拾った地獄耳のディルクが、呆れたような顔で苦笑した。
「それだけ、リオネルはアベルのことが大切なんだよ」
――そんな単純なことさえ、わからなくなるほどに。
館に運ばれていくリオネルを見送るアベルの瞳からは、再び大粒の涙が溢れている。周囲の騎士たちも、不安げに館の様子を見守っていた。
「リオネルは大丈夫だよ」
ディルクがアベルに声をかける。
「アベルがこの世にいるかぎり、死の谷底からでも、天国の門を蹴破ってでも、あいつはここへ戻ってくる。必ずだ。何度押し戻しても、どんなに説得しても、寝台から起き上がろうとするリオネルを見ていたら、心底そんな気がしたんだ」
それを聞いていたヴィートが、かすかに笑った。
ベルリオーズ邸の前庭に伸びた無数の影。
どこかほっとしたようなヴィートの苦笑や、ディルクの静かな横顔。
家臣らの低いざわめき。
黄金の騎馬像と、アベルの空色の瞳からこぼれる銀色の涙。
地上でなにが起ころうとも、静寂を貫く夜空の星。
すべてを、月明りが呑みこんでいく。