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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第四部 ~波乱に満ちた誕生日と、切なる祈り~
250/513

32







 八人の騎士が、ベルリオーズ公爵の書斎の床にひざまずいている。

 正確に言えば、そのうちのひとりは従騎士の少女、いまひとりは「自称」騎士であるヴィートだった。


 疲れた表情に、さらに疲労の色を重ねてベルリオーズ公爵クレティアンは嘆息した。


「……リオネルの意識は戻っていない。出血がひどく、熱も高い」


 八人の騎士たちは、身じろぎひとつしなかったが、激しい不安と動揺はその場に漂う空気から伝わってくる。


「熱が下がり、意識が戻ったとしても、左肩はもう動かないかもしれないと医者は言っている」


 公爵の言葉は淡々としていたが、声音や表情に滲み出る、哀しみと落胆は隠しようのないものだった。


 落ち着いた公爵の態度とは裏腹に、騎士たちに走った戦慄はすさまじいものである。それは公爵の傍らに立つディルクも同様だった。


 ――左腕はもう動かないかもしれない。

 それは、「衝撃」という以上のものだった。


 途端に立ち上がったオクタヴィアン・バルトが、背後に跪くアベルに殴りかかろうとする。だが、執事のオリヴィエとディルクがほぼ同時に、


「公爵様の御前だぞ!」


 と一喝し、さらにマチアスとヴィートが咄嗟に押さえつけたので、オクタヴィアンがその場でアベルに危害を加えることはなかった。

 そのかん、アベルは一度も顔を上げない。

 ひざまずき、視線を床に落としながら、アベルはひどい眩暈と吐き気を覚えていた。


 自分から発言することは許されていない。

 けれどアベルの口元まで、その言葉は出かけていた。

 わたしを処罰してください――、と。


 リオネルをこのような目に遭わせた自分が、未だに生きており、呼吸をしていることが、アベルには赦せなかった。愚かな自分が憎かった。


「オクタヴィアン」


 重々しい口調で、クレティアンはその名を呼んだ。短く返答するオクタヴィアンを、クレティアンは見下ろす。


「今、アベルに暴力を加えてどうなる。今夜おまえたちは、余計な騒ぎを起こしただけだ」


 言葉を返せぬオクタヴィアンに代わり、ロベール・ブリュデューが答えた。


「公爵様。私たちは一時の感情に流されアベルを痛めつけようとしたのではありません。リオネル様に怪我を負わせた責任を、命を絶って罪を贖わないのであれば、私たちの手で殺めるほかはないと――そう考えたのです」

「なるほど、アベルを殺めるか。それでもし、リオネルの意識が戻ったら、そなたらはアベルの殺害についてどう説明するつもりだったのだ?」

「お怒りは覚悟のうえです。リオネル様の御身を守るためならば、処罰は厭いません」

「リオネルは、なぜ怪我を負ったと思う」


 穏やかに、けれど力を込めて、公爵は騎士らに尋ねる。


「なぜだ、ロベール。答えられるか」

「アベルのせいです」

「だれの責任かとは聞いていない。なぜ怪我を負ったのかと聞いている」

「……アベルを、守ろうとしたからです」

「わかっているではないか。ではなぜリオネルは、アベルを守ろうとしたと思う。どうだ、オクタヴィアン」

「リオネル様が、家臣を大切にされる方だからです」

「そう、大事な臣下だからだ。……リオネルの考えていることすべてが、私にわかるわけではない。だが、リオネルにとり、自分に仕える者はかけがえのない存在であることはたしかだ――あれは、多くを失ってきたからこそ、今そばにいる者たちを守りたいと考えている」

「…………」

「それは、リオネルのそばに長いこと仕えているそなたらなら、理解できるだろう」


 重い沈黙が降り落ちた。


「特にアベルは、リオネルにとり身近であり、最年少でもある家臣だ。大怪我を負ってまで救おうとしたその人を、他の家臣らの手によって殺められ、さらにはそなたらを処分しなければならないとわかったとき――怪我の痛みのなかで目を覚まし、これらすべての事実を知ったとき――リオネルはどのような思いを抱くか。それを想像することができるか」


 騎士らも、ディルクもオリヴィエも、ただ沈黙して書斎の床に視線を落としている。


「私は想像ができる。そして想像すると、苦しくなる。私はこれ以上、あの子を苦しませたくない」


 勢いを削がれたように、オクタヴィアンらはうなだれていた。


「今回のことは、表沙汰にはしない。動揺ゆえの行動と受け止め、明日一日かぎりの謹慎処分とする。リオネルの耳にも入れないつもりだ。これは、おまえたちのためではない。リオネルの心情を思うがゆえにだ。だが今後ベルリオーズ家とアベラール家の騎士が剣を交えるような事態が再び起きれば、そのときは厳しい処罰を覚悟しなさい。わかったな」

「公爵様、ひとつ伺いたいことがあります」


 すかさず声をあげたのは、これまでひと言も発しておらず、乱闘騒ぎのなかでも長剣を抜かなかったジェローム・ドワイヤンである。


「なんだ、ジェローム」

「リオネル様に怪我を負わせたアベルには、一切のお咎めもないのでしょうか」


 ひざまずいていない三人――クレティアンとディルク、そして執事オリヴィエの視線が、ひざまずくジェロームの上に落ちた。


「アベルがひとりで森などに入らなければ、このような事態は起こりませんでした。このままでは、我々はどうしても納得ができません」

「そなたは納得できないか。だが、階下にいる他の騎士らの考えは違うようだぞ」

「――と仰られますと?」


 問われて、クレティアンは小さく首を横に振る。


「ラザールをはじめとした騎士らの気持ちは私にもわからない。だが、アベルを助けようとしたマチアスとバルナべ、そなたらにはわかるのだろうな」


 名を呼ばれたアベラール家の騎士らは顔を上げかけたが、それより先にディルクが口を開いた。


「アベルの苦しみが、わかるからでしょう」

「苦しんでいれば、すべて赦されると?」


 顔を上げ、はっきりと反意を示したのは、ジェロームである。

 ジェロームの強い視線を見返し、ディルクは言った。


「アベルを救いたいと願ったのは、リオネルだ。森に単独で入ったアベルの行動は咎められるべきだが、リオネルが負傷したことに関しては、リオネル自身が選択した行動の結果に他ならない。この結果に、おそらくリオネルは納得し、満足さえしているはずだが、アベルは違う――自分を責め、苦しんでいる。リオネルが負傷するくらいだったら、アベルは自ら喜んで死を選んでいたはずなのに、自ら助けに行って怪我を負ったのはリオネルのほうだ。アベルが自死を選ばなければならない理由など、私には見当たらないが、おまえたちはどう思う」


 無言のままジェロームは視線を下げる。納得いっておらぬという表情だった。


 ほかの三人がどう考えているのかは判然としなかったが、ひとまず騒ぎを起こした四人の騎士、そしてアベラール家のマチアスとバルナベ、さらにヴィートは退出を命じられる。


 その際、ディルクの口からは、マチアスとバルナベにも、四人の騎士らと同様の処分が下され、一方ヴィートに対しては、ベルリオーズ公爵の口から、リオネルの窮地を救ったことについての謝意が伝えられたのだった。







 皆が出ていった書斎。

 公爵とディルクの面前にひとり残されたのはアベルである。


 他の騎士らに比べ、身体がひと回り――いやそれ以上に小さく、さらに頬や腕に暴行の痕があるアベルは、ひどく弱々しく見えた。その身体はひざまずいているのがやっとという状態だ。


 言葉をかけてやりたい衝動を抑え、ディルクは公爵の横に立っていた。


「アベル――ここにいるのは私たちだけだ。なぜ森に入ったのか話しなさい。それともあくまで話さぬつもりか」

「……申し訳ございません」


 小さな声だった。まるで感情のこもらぬ声。

 このような結果になってもなお、ライラとの約束をアベルは守り、指輪については一切口にしていない。皆がいるなかでも、やはり公爵から同じ質問を受けていたが、アベルは答えなかった。


「すべてわたしが招いたことです。どうか、わたしをベルリオーズ領の法律のもとで刑に処してください」

「アベル!」


 咄嗟に声を上げるディルクを、クレティアンはゆったりとした動作で制した。


「死ぬことは許さない。たとえ、すべてのきっかけとなったのがそなたであっても、リオネルが守ろうとした命……私には奪えない」


 アベルはなにも答えない。その沈黙のなかにあったのは、安堵でも感謝でもなく、深い絶望だった。

 この結果を償うために、アベルにはなにをすればよいのかわからない。


 ――罰が下されないなら、リオネルを負傷させた自分自身を、アベルは死ぬ瞬間まで責めつづけなければならないだろう。


「今後の身の振り方は、アベル、そなたが自ら考えなさい」


 生きて、身の振り方は自分で決める……それはなににも増して厳しい言葉だった。


「意識が戻ればリオネルは、私に刃向ってでもそなたをかばおうとするだろう。そのまえに、そなたは自らが成すべきことを自らの判断によって成すのだ。そなたの弟イシャスを引き続きここに住まわすことはかまわない。ただし死を選べば、彼も追放されると心得なさい」


 深い、深い絶望と共にアベルは頭を垂れる。

 ベルリオーズ邸を、黄金の月明かりが包む。


 ――どうか、神様……。


 切なる願い。

 それは天に届くまえに、満月の輝きに跳ね返され、音もなく散った。











 診察を終えた医師が深々と頭を下げて部屋を出ていくと、淡い茶色の髪をわずかに乱した青年が入れ違うように入室する。


「リオネルの容体はどうだ」


 寝台に駆け寄ったのはディルクだった。

 窓際の丸椅子に腰かけた長身の男が、拳を握る。


「――解熱薬が効かない。このままだと、体力の消耗が心配だ」


 顔を上げずに答えるベルトランは、いつになくうろたえた様子だった。


「出血が止まったのが、せめてもの救いだが」


 普段なら眠っていても、人の気配を感じれば必ず気がつくはずのリオネルが、今はディルクが近づいてもぴくりとも動かない。


 両目を閉ざし横たわるリオネルの姿は、幼馴染みのディルクにとっても見慣れぬものだ。この青年は、いつだって深い紫色の瞳を開き、しっかりと前を向いている。


 目をつむり、動くことさえままならないリオネルの姿は、ディルクを不安に駆りたてた。ましてや、ベルトランにとっては如何ばかり不安なことか。

 熱のせいでリオネルの頬はわずかに紅潮し、呼吸は浅かった。


「アベルはどうしている」


 不意にベルトランに問われ、ディルクは肩をすくめた。ディルクにもその質問の意図はすぐにわかる。


「部屋に戻ったはずだ。かわいそうなくらい憔悴しきっていた」

「なにか処分はあったのか」


 厩舎裏で起こった事件のために、アベルや騎士らが公爵の書斎に招集されたということを、ベルトランはすでに報告を受けて知っていた。


「いや……公爵様の意図は判然としなかった。これからどうするかは、アベル自身の選択に委ねると言っていたけど――」

「公爵様らしいご判断だな」

「オクタヴィアンやロベールはたった一日の謹慎処分だ」


 低い声でディルクはつぶやいた。


「……故意に、アベルに怪我を負わせたというのに」

「納得いかないようだな、ディルク」


 寝台に力なく横たわるリオネルをまえに、ディルクは目を細める。


「ヴィートやマチアスが駆けつけなければ、アベルは騎士らに殺されていたかもしれない――アベルにすべての責任を負わせ、よってたかって暴力を振るい、まるで苛めだ」


 ベルトランは無言で視線を伏せた。

 ディルクは意識のないリオネルへ視線を向けたまま、言葉を続ける。


「たしかに暗くなってから森に入ったアベルの行動は軽率だったかもしれない。けれど、その理由をあの子がけっして明かそうとしないのには、きっと事情があるはずだ。ただ単に軽率だったとは思えない」


 話を聞きながら、ベルトランは小さくうなずいた。


「それに、命を危険にさらしてまでアベルを守りたいと思ったのは、リオネル自身だ。その行動が、本当にアベルの気持ちを考えたものだったかといえば、おれは確信が持てない。リオネルは、自分のなかにある強い想いのためにアベルを救った。――アベルを責めるのは間違ってる」

「ジェロームたちがリオネルに対して抱く忠誠心は、並大抵のものではない。今回はそれが行きすぎたのだろう。もともと真面目で立派な騎士たちだ。謹慎処分でも充分にこたえるはずだ」

「けれどそれでは軽すぎやしないか」

「彼らが重く罰せられれば、苦しむのはアベルとリオネルだ。公爵様は、すべて理解したうえでご判断されたのだろう」


 まだなにか言いたそうな面持ちだったが、ひとまずディルクは口をつぐむ。

 苦しげなリオネルの息遣いだけが、部屋に響いていた。


 親友がこのような状態なのに、なにもしてやれない自らの非力さを、ディルクは痛感せずにはおれない。


 ディルクがベルリオーズ邸に到着したとき、すべてはすでに取り返しのつかぬことになっていた。

 駆けつけたリオネルの寝室では、医者が懸命に治療に当たっており、アベルの姿はどこにもなかった。アベルを案じ、マチアスに探しに行かせたが、戻ってこないので自ら出向けば、厩舎裏での乱闘騒動である。


 もう少し自分が早め、早めに行動していたら、違う結果を導くことができたかもしれないと考えると、ディルクは悔しくてしかたがなかった。

 今更、後悔してもしかたのないことである。

 だが――。


 怪我を負ったリオネル。

 己を責めつづけるアベル。

 心配の色を隠しきれぬベルトラン。

 ディルク自ら罰を与えなければならなかったマチアス。

 仲間たちが、皆苦しんでいる。それなのに、自分はなにをしているのか……。


 寝返りを打ったリオネルが、右手で薄いシーツを跳ね除け、ひたいに拳を押しつけた。高熱で頭が痛むのだろうか。


「気づいたのか? ――大丈夫か、リオネル」


 心配そうにのぞきこむディルクの顔を、リオネルはわずかに開いた瞳に映した。


 形のよい眉根を深く寄せながら、リオネルは室内へ視線を移す。

 ベルトランの顔の上で一瞬止まったものの、視線はそのまま流れ、探す相手が見当たらず、疲れたように再び双眸を閉じた。


「アベルは――……」


 絞り出すように発せられた声は、たしかにその名を呼んでいる。十五歳の従騎士の名を。


 ディルクとベルトランは、ほぼ同時に声を発しようとした。

 だが、言葉は出なかった。なぜなら、扉の向こうに何者かの気配が近づき、入室の許可を求めたからだ。

 ひどく慌てた声。それは、エレンのものだった。


 何事かと速足で扉を開けたベルトランの胸に、エレンが飛び込んでくる。


「アベルを止めてください……!」

「なんのことだ」


 感情が抑えきれなくなったのか、エレンの瞳からは大粒の涙があふれた。


「ここを出ていくと――アベルがベルリオーズ邸を出ていくと……」

「なんだって?」


 驚きの声を上げたのは、ディルクである。


「つい先程、アベルはわたしたちの部屋へ来ました。今夜の騒ぎでイシャスはまだ起きていて……アベルはイシャスにちゃんとお肉を食べるように――わたしを困らせないように、と――それだけ言って、部屋を出ていきました。なにか様子がおかしいと思ったのです。まるで、もう二度とイシャスに会えないかのような、寂しげな雰囲気で、それでわたし、呼びとめて問いただしました。そうしたら、あの子、ここを去るつもりだと言って――イシャスのことは、わたしから引き離すことはできないって……」


 二人の騎士は呆気にとられている。


 今後の身の振り方は、アベル自身で考えるようにと、クレティアンは言った。生きて、償う。その答えが、今になって二人にも、はっきりわかる。

 クレティアンがアベルに示唆したこと――、それはリオネルのまえから消えること。このベルリオーズ邸から立ち去ること。

 その意図を、アベルは的確に汲み取ったのだ。


「アベルはきっと二度とここへは戻らないつもりです。わたしにもイシャスにも、リオネル様にさえも、もう会わないつもりかもしれません。わたしの説得をアベルは聞き入れてくれません。ベルトラン様、お願いです、アベルを行かせないでください。このままでは、このままでは――」


 彼女が訴えることの正確な意味を理解すると同時に、エレンがリオネルの気持ちに気づいていることもベルトランは初めて知る。


 ――そのとき、背後で起こりえぬはずの気配を、ベルトランとディルクは感じた。


「なにをしている、リオネル」


 駆け寄り、リオネルの身体を押さえつけたのはベルトランである。

 寝台から半身を起こそうとしていたリオネルは、赤毛の騎士に再び寝台に戻され、顔をしかめた。


「……行かせてくれ……おれは――アベルを、失いたくない」


 浅く苦しげな呼吸の合間に、はっきりとリオネルはそう言った。


「わかった、おれが行く。必ずアベルを連れ戻す」


 だから、おまえはおとなしく待っていろ――そう言うベルトランに、リオネルはなにも答えなかった。










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